26(2)
雅成は願うような気持ちで顔を上げた。もしそこに彼女の姿がなければ、完全な敗北である。しかしそんなことはあり得ないのだ。絶対に彼女は居る。
階段の一番奥、闇の中で薄く浮かび上がる人物があった。それは白いブラウスを着た少女だった。
不思議なことに、彼女はあの日とまったく同じなのだった。
ここへ辿り着くまでの十年の間、時が止まっていたかのようだ。果たしてこれは現実なのか、それとも過去の回想なのか、雅成の頭は激しく混乱する。
白い半袖の少女はうつむいていた。
誰かがこうして階段を上がって来たことに気がついていないらしい。
そんな格好で寒くはないのだろうか、雅成は心配になった。
風邪でも引いて、あの日と同じように自分から消え去ってしまうのではないかと不安になる。
雅成は彼女が腰掛けている最上段までやって来た。
すぐ目の前には、長い髪を無造作に垂らし、下を向いている少女の姿があった。彼女は眠っているように見えた。
やはり彼女はここで雅成を待っていたのだ。
自然と涙が湧いた。やはり自分は正しかった。今回は神に感謝する気持ちで一杯だった。
「麻希!」
次の瞬間、思わず手を伸ばし、彼女の肩を揺り動かした。指先には確かに身体の温もりが感じられた。麻希はこの世に存在している。不思議な気分だった。
彼女はゆっくりと顔を上げた。今やっと眠りから覚めたようだった。
雅成は暗闇の中、目を凝らすようにして顔を覗き込んだ。
思った通りの顔がそこにあった。
やはり、篠宮麻希だった。あの日とまるで変っていない。
本当に眠っていたのか、麻希はうつろな眼差しで雅成の方を見た。
「ああ、やっと来てくれたのね。待ちくたびれちゃった」
あの日の声だった。
凍っていた心が、溶け始める感覚。人生の中で最も大切な人をどこかに置き忘れてきた。今やっと取り戻せたのだと感慨が湧いた。
今まで一体何をしていたのだろうか。十年という時を無駄に過ごしてしまった。自分の愚かさを悔やんだ。
麻希は長い髪をかき上げた。教室でいつも目にした仕草だった。
雅成の心臓はまだ激しく波打っていた。それで大きく一つ深呼吸をした。
「本当に、君は篠宮麻希だよね?」
「そうよ」
彼女は髪を揺らして笑った。何故今さらそんなことを訊くのかと言わんばかりだった。そして身体を脇に寄せて、雅成が座れるほどの隙間を作ってくれた。
彼女の隣に腰掛けた。鉄の階段がきしむ音を立てた。
雅成は知らず麻希を抱きしめていた。
彼女の身体はしなやかで、折れそうなほど細かった。両手で身体の温もりを確かめた。それは生身の人間そのものだった。
不思議なことに、彼女は歳を取っていない。まだ高校生のままである。雅成だけが十年先に進んでしまった。
しばらく無言で彼女を抱いた。何も言葉が思いつかなかった。
言いたいことはたくさんあるのに、今は頭の中からすっかり消えてしまっていた。
どれくらい抱いていたのだろう。
麻希は何も言わなかった。ただ雅成に身体を預けていた。
雅成は抱いていた手をほどいた。
「君に会いたかったよ」
「私も」
「今までどこに行っていたんだ? 心配したぞ」
「ごめんなさい」
麻希はうな垂れるように言った。
狭い階段で二人の身体が密着する。彼女の息遣いまで聞こえるようだ。
「本当に会いたかった」
雅成はもう一度言った。そして今度は彼女の手を握った。
麻希の小さな手は、氷のように冷たかった。
それはこんな寒い場所に、じっと一人で腰掛けていたせいだろうか。そうだとしたら、それは自分の責任である。麻希を放っておいた年月の重みを感じた。
雅成はそっと彼女の横顔を見た。夜風に髪がなびいている。
つやのある肌や流れるような美しい髪は、まさに高校生のものであった。
どこかに幼さを残しつつも、正面を見据える瞳、真一文字に結んだ口元は、すっかり大人の女性を感じさせる。と同時にどこか危なっかしい雰囲気が漂っている。
早く大人の仲間入りがしたくて、背伸びをする時期でもある。そのため心と身体の均衡がとれず、地に足がつかない感じなのだ。
雅成だって、今こそ落ち着いてしまったが、当時は似たようなものだった。
自分がすっかり失ってしまったものを、麻希の身体から感じる。彼女はまるで歳を取っていないことが、正直羨ましくなった。
麻希に会ったら、訊きたいことが山ほどあった筈なのに、うまく言葉が出てこない。
横に座って眺めていると、やはり彼女は手の届かない存在であることを思い知らされる。彼女とは住む世界が違うのだ。
再会できたことは確かに嬉しいのだが、それと同時に、二人を隔てる深い溝を感じるのだ。
無言のまま二人は寄り添っていた。夜風が階段を吹き抜けていく。気温は低いが、麻希とならこのまま夜を明かせそうな気がする。
「君はずっとここに居たの?」
やっとのことで、雅成は訊いた。
「そうね、私にもよく分からない」
そう言うと麻希は小さく笑った。しかし雅成の方は、彼女以上に理解できないことだらけなのである。
「でも、今日でおしまいね」
「体育館が取り壊されるから?」
「そう、ここはあなたとの思い出が一杯詰まった場所なのにね」
「お姉さんの所へ帰ったらどうなんだい?」
雅成は麻希の姉を思い出した。
「姉と会ったのね?」
「うん、君とよく似た姉さんだった。あそこへ帰ればいいじゃないか?」
それならこの体育館がなくなった後でも、麻希と会えるのではないか。そんなことを漠然と考えた。
「それは駄目よ。だって姉に会わせる顔がないもの」
「いや、そんなことはないと思う。麗奈さんは君がいなくて寂しがっていたよ」
「今もそうかしら?」
「きっとそうだよ。もし麻希が一人で帰りにくいのなら、俺が一緒についていってやる。俺の車で送っていくよ」
麻希は無邪気に笑った。
「雅成君、免許を取ったのね」
「ああ、もう随分前にね。麻希は?」
そう言ってから愚問であることに気がついた。彼女はまだ高校二年生なのである。
「私は持ってない」
彼女はため息をついて、
「みんなが羨ましいわ」
と言った。
「免許なんて、別に大したものじゃない。それより君の歌の才能の方が、よっぽど羨ましいけどな」
「いいえ、私にとっては、そういう普通のことが大事なの。みんなが当たり前に経験することをすっ飛ばして、大人になってしまったから。今になって後悔してる」
「そう言えば、無事に芸能界に入ったんだってね」
「ええ。おかげでまともに高校へ通えなかった。だからもう一度、学校生活がどんなものか、体験したいと思ってた」
「それで、俺たちと一緒にやり直したってわけか?」
「もし当時、芸能界へ進まず、普通の高校生をしていたら、一体どんな人生を歩むことになったのか、っていつも考えてた。そうしたらある日、桜の木の下に立っていたの」
それは新学期初日、麻希と初めて出会った日のことか。
「君は何度でも人生をやり直せるのか? それともあの一回だけなのか?」
「あの時だけ、だと思う」
「それじゃ訊くが、俺の隣の席に来たのは、あれは偶然なのか、それとも君が仕組んだのか?」
「私には偶然だけど、もしかしたら必然だったのかも。神様が気を利かせて、あなたと巡り合うようにしたのかもしれない」
「どうして俺が選ばれたのだろう?」
麻希は雅成を正面に見据えて、
「そりゃそうよ、私が好きになる人だったから」
と笑った。
神の采配で、彼女の人生に雅成を加えてくれたのだとしたら、それは感謝の言葉もない。おかげで彼女を愛することができた。そして自分を大きく変えられた。
雅成はそれを口にしようとして止めた。
今は麻希の話をできるだけたくさん聞きたかった。おそらく今夜も別れの時間が来る筈だ。
「それじゃあ、コンサートの前に君が風邪を引いたのは、どうなんだ? あれは君の意図したことなのか、それとも神がもたらした結果なのか?」
「もちろん私にはどうすることもできない。現実の世界にいる以上、時の流れや神の意志に逆らうことはできないと思う。
私は生身の人間ではないけれど、全知全能という訳ではないもの。むしろ、現実世界の隅っこでひっそりと生きていくのが精一杯。人より目立っては生きられない。だからあれは、偶然」
「ということは、あの日、もしかしたら風邪を引かずに、舞台で大成功を収める可能性もあったわけだ?」
「うーん、それはどうかしら?」
麻希はあごに手を当てて、言葉を探すようにしながら、
「おそらく何があろうとなかろうと、成功しなかったような気がするな」
「つまり、最初から結果は決まっていたってこと?」
「そうね、たぶん。どう転んでも、私は運のない人生を歩むことになっているのよ」
麻希は自嘲気味に言った。
雅成は次第に分かってきた。
もし二度目の人生がうまくいかないように定められていたのだとしたら、雅成が麻希のパートナーに選ばれたのには十分理由があるではないか。
当時雅成は無気力で人に関心を示さなかった。
麻希の生活を平凡なものにするには、まさにうってつけの人物だったのである。彼女に力を与えるほど強くもなければ、そんな意志もない。これ以上の人間は他にはいなかったのだ。
しかし予想に反して、雅成は麻希を愛し、情熱的な生き方へと進路を変えた。
もはや彼女の足を引っ張る存在ではなかった。そこで急遽、麻希本人に失敗の種を押しつけたのではないだろうか。
麻希の話は続いている。
「昔からそうなの。いつだって自分が思い描いている結果にはならない。せっかく友達ができても、誤解やすれ違いですぐに別れてしまうし、自信のある歌だって、大事な時には失敗してしまう。だから何度人生をやり直したって、結果は一緒。私は成功できない人間なのよ」
いや、それは違うと思う。
確かに人生は、ある程度までは神の予定調和で動いているのかもしれない。
しかし様々な人と出会い、愛情をもらったり、与えたり、また努力によって多少の融通は利かせられる。麻希と出会った雅成がそうであったように。
しかし雅成はそれ以上反論はしなかった。まだ訊きたいことが残っていた。
暗闇の中、突然腕時計の電子音が鳴った。
雅成は飛び上がるほど驚いた。鋭い刃物で心臓がえぐられるようだった。麻希の手を一段と力強く握りしめた。
大丈夫だ、麻希はまだここにいる。
こうしている間にも、着実に時間は経過しているのだ。
この世の終わりが近づいてくる恐怖。慌てて腕時計を確認する。時計の針は午後十一時を指していた。
「麻希、今夜も日付が変ったら、帰ってしまうのか?」
雅成は最大の不安を口にした。もしそうなら一緒に居られる時間はあとわずかである。
「たぶん、そうなると思う」
「どこへ帰るんだ?」
「よく分からない。はっきりしているのは、いつまでも現実世界には居られない、ってこと」
「どうして?」
雅成はすかさず訊いた。
「だって、あなたにはあなたの人生があるもの。私にはそれを邪魔する権利はない」
「邪魔なんて、そんなことあるものか。俺は君と一緒に居たいんだ」
「それは無理。実体のない私が、あなたの心の中に住み続けてはいけないもの」
「十年前、突然消えたのも、そのためか?」
雅成は思い出していた。
コンサートが失敗に終わって、泣くことしかできない麻希が哀れに思えた。しかしどうやって彼女を慰めてやればいいのか分からなかった。心に秘めた想いを打ち明けて、彼女を抱きしめることが精一杯だった。
確かに彼女の言う通り、このままでは現実と幻想の狭間で自分の居場所が分からなくなる。やはり麻希と自分は結ばれないのか、そう薄々感じ始めた。
「最初から分かっていたの。私の存在が誰かの心に深く入り込んでしまったら、それで終わりなんだろうなって」
雅成は麻希を愛してしまった。その結果、彼女は学校生活を続けられなくなってしまった。
何というジレンマだろう。麻希と深く関われば、それだけ彼女の滞在時間は短くなっていく。
やはり人生をやり直すことは制約が多すぎる。しかもほとんど得るものなどないではないか。
「だから私はなるべく人と交わらないようにしていたの。教室の隅っこで小さくなっていた。なるべく人と接点を持たないようにね。だって、もし友達ができれば、いつかお互い不幸になるでしょ」
麻希と初めて出会った時、どこか取っつきにくいと思ったのはそのせいか。確かに彼女はクラスの誰とも打ち解けようとはしなかった。今になって納得した。
「今夜も時間が来たら、俺は君のことをすっかり忘れてしまうのか?」
雅成は怖くなった。このまま別れるのは嫌だ。
「完全に記憶からなくなるの。でもそうでもしないと、その人の人生に傷を残してしまうから」
十年前のあの日、麻希に関わった人間は彼女を忘却の彼方へと消し去った。
「でも、俺は麻希のことを最後の最後まで忘れなかった」
「それは、あなたの気持ちがそれだけ強かったからだと思う。あの時は私も辛かったのよ。でも仕方ないでしょ」
麻希はいつしか涙混じりになっていた。
「でも、いつかまた会えるんだろ?」
「今夜は本当にお別れ」
「どうして?」
「だって、この体育館が取り壊されたら、もう他に会える場所はないもの」
「場所なんてどこだっていい。例えば、夏一緒に行った海岸だっていいじゃないか?」
雅成は声を荒げて、彼女の手を揺すった。
「これ以上私が現れたら、あなたに迷惑が掛かるじゃない」
「俺は全然迷惑じゃない。むしろ君に居てほしいんだ」
雅成は懇願するように叫んだ。
「そうだ、こうやって手を繋いでいよう。俺も一緒に君の世界へ連れて行ってくれ」
「わがまま言わないで。私だって辛いんだから」
麻希は怒ったように言った。手をふりほどくと、細い指で涙を拭うようにした。
27
体育館の屋根が突風に煽られてばたばたと揺れた。どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。
麻希はこの世に存在しない。
彼女とは住む世界が違う。今夜こうして密会できるのが不思議なくらいだ。そんな二人がいつまでも一緒に居られる筈がない。
しかし、それならば、どうして神様は二人を引き合わせたのだろう。何か考えがあってのことではないのか。それは一体何なのだろうか。雅成は考える。
強風が階段を駆け上がってくる。
冷気が身体を包み込んだ。思わずくしゃみが出た。麻希との再会を果たして、さっきまでの緊張感がどこかに消えていた。途端に寒さを感じた。
「あら、雅成くん、靴を履いてない」
麻希は驚いたように言った。
その言葉につられて、足元に目を遣った。黒い鉄板の上に靴下の白さだけが際立っていた。道理で寒い筈である。
「君に会うために、慌てて走ってきたからね」
麻希はくすっと笑った。
「君は寒くないのか?」
「私は平気よ」
そうか、この世界では彼女は感覚を持っていないのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
「でも、今にして思うと不思議なの」
「何が?」
「あなたと一緒に過ごした毎日は、ボールが当たると痛いし、雨に濡れると冷たいの。どうしてかしら、妙に現実感があった」
「そうだったの?」
雅成は一瞬どう応えてよいか分からず、そんな返事をした。
「でもそのおかげで、私も人の心に触れることができた。虐められれば悲しくなるし、優しくされると心が温かくなるの。そうやって人の心はいつも揺れてるものなのね」
「人を好きになったりもできるの?」
雅成は問い掛けた。
「もちろんよ」
麻希は自信ありげに言った。
「そうだ、芸能界へ行くかどうか迷ってるって、いつか話してくれたよね?」
「ええ」
「あれは、どうして?」
「私に友達がいたら、どんな反応をするのか知りたかった。ごめんね、別にあなたを試したつもりはないのだけど」
「君としては、止めてほしかった?」
「そうね、そんな気もした。と言うより、私が芸能界に向いているのかどうかを、あなたに判断してもらいたかった」
「俺は止めなかった」
「そう、ちょっと意外だったな。結局、私は芸能界に進む運命なのか、って思った。あなたはきっと全力で止めるんじゃないかと勝手に思い込んでた」
「いや、俺には止められなかったんだよ」
「どうして?」
麻希は不思議そうな眼差しで、雅成を見つめた。
「君に対して、ひどくコンプレックスを持っていたんだ。君には歌の才能があるけれど、自分には人に誇れる物が何一つない。そんな俺が君と対等に話せる訳がないだろう」
麻希は黙って聞いていた。
「だからあの時は、ただ君を見守るしかなかった。本当は行くなって言いたかった。ずっと一緒に居てくれって心の中では叫んでた」
雅成がそう言い終えても、麻希はすぐには口を開かなかった。何かをぐっと堪えているように見えた。
「あなたは素敵な人だった。もっと自信を持っていいと思う」
雅成は黙って聞いていた。
「こんな風変わりな私に、温かい手を差し伸べてくれたじゃない。正直、最初は戸惑ったわ。私はいつも身勝手で、そのくせ人の評価や噂ばかりを気にしてる。あなたと一緒に居ると、そんな自分が恥ずかしく思えたわ。
日々心が洗われるようだった。あなたの優しさが私を変えてくれたの」
麻希は雅成の手を、柔らかな両手で包み込んだ。
「あなたが傍に居たから、楽しい高校生活を送ることができた。だからとっても感謝してる」
「でも俺は身体も強くないし、勉強も大してできなかった。だから麻希のことを羨ましく思っていたんだよ。もし自分に自信があったら、きっと君のことを引き留めたと思う。君が好きだからずっと一緒に居たかったんだ」
「ああ、人生ってうまく行かないものね。二人はもっと早くに出会うべきだったわ」
麻希は夜空を見上げるようにして言った。
「最後に一つだけ聞かせてくれ」
雅成は意を決して口を開いた。
「紀美山紫乃について教えてほしい」
その名前は麻希の眠っていた心を呼び覚ましたようだった。途端に顔色が変わった。雅成を鋭い眼光で睨みつけた。
「紀美山紫乃」とは麻希の芸名である。
姉の話によれば、反対を押し切って芸能界に入ったものの、彼女は売れなかったという。
芸能界には楽しい思い出がないのかもしれない。それは彼女にとって、忘れたい過去なのかもしれない。
実際、彼女は命を絶つという形で自ら幕を下ろした。
「紀美山紫乃の何が知りたいの? 彼女は自殺したのよ」
麻希はぶっきらぼうに言った。
「君の姉さんから写真を見せてもらったよ。鮮やかに輝く世界がそこにあった。写真の中に君の笑顔を見つけた時、何というか複雑な気分になったんだ。
俺は所詮、篠宮麻希しか知らないからね。その後、君がどんな人生を歩んだのかが気に掛かるんだ」
「だから、紀美山紫乃は自殺したって言っているじゃない。それで十分よ」
麻希は怒ったように言った。
「いや、君は自分の人生から目を背けようとしている。さっき君は、自分のことを成功できない人間だって言ったけど、本気でそう思っているのか? 自己否定をするのは止めろよ」
「今更そんなこと言ってどうなるの? 失敗だったのは事実じゃない!」
「何をもって成功、失敗なんて言うんだ。どんな人生だって、君が生きた証じゃないか。どうしてそんなに自分を悪く言うんだ?」
麻希は黙りこんだ。雅成の言葉の意味を深く考えているようだった。
「あなたには私の苦しみは分からないのよ。確かに歌手になったばかりの頃は、何をするのも楽しかった。毎日が初めて体験することの連続で、精神が充実してた。脇目も振らず仕事をこなすだけで精一杯だった。周りの目や声は一切気にならなかったわよ」
雅成は口を挟まずに聞いていた。
「でもあの世界では、自分を変えないと駄目なの。私ぐらいの歌唱力を持った人なんて掃いて捨てるほどいる。ちやほやされるのは、最初のうちだけ。物珍しいからだわ。そのうち年とともに忘れ去られてしまう。才能、才能って言うけど、その程度の扱いなのよ。
芸能界で成功するには、もっと自分に嘘をつかなきゃいけない。有力者にすり寄ったり、あるいは過度な自己主張をすることが必要。私にはそれができなかった。プロダクションからは、社交性に欠けるって怒られたけど、私はそんなことをするために、芸能界へ入った訳じゃない。
でも、実際彼らの言う通りだった。同期の子たちはうまく立ち回って、どんどん上へ昇っていく。ただ歌のレッスンをして、実力を磨いているだけではダメだった。周りからはどんどん置いて行かれたの。結局、私は精神が幼すぎたのね。世間知らずだった」
「麻希には、友達がいなかったのか?」
「えっ?」
「そういう愚痴の一つでも聞いてくれる仲間はいなかったのか?」
麻希は苦笑して、
「芸能人になったばかりの頃は、中学の同級生が一杯手紙や電話をくれた。でもそれは本当の友達じゃない。その証拠に、私が売れなくなった途端、誰も声を掛けなくなったから」
「業界に友達は?」
「ほとんどいなかった。同い年の子はみんなライバルだから、みんな本音を隠して、上辺だけで付き合ってるもの」
「でも、麻希には好きな人がいたんだろう?」
確か彼女は若手の芸能人と駆け落ちしたと聞いている。そいつは麻希の心の支えになれなかったのだろうか。
「ああ、彼のことを姉から聞いたのね」
麻希は納得するように頷いて、
「彼は何でもないの。ただ一緒に芸能界を逃げ出しただけ。おそらく彼はまだ生きていると思う」
「それじゃあ、麻希は自分の意志で命を絶ったんだな?」
「そうよ」
雅成は複雑な気持ちになった。
麻希はその男にそそのかされて自殺したのではなかった。麻希の心が弱かっただけなのだ。彼女はやはり若すぎた。
「君は、芸能界は恐ろしい世界だったなんて、考えているんじゃないか?」
「どういう意味か分からない」
「麻希の居た世界が特別ではないってことだよ。俺は芸能界のことはまったく知らない。平凡な企業に勤めているサラリーマンに過ぎない。
学校を出て、入社したばかりの頃は会社を背負って立つ人間になれる気がした。でも実際はそんなことはないんだ。すぐに自分の限界が見えてくる。俺より能力のある者はごまんといて、気づけば、すっかり埋没してるんだ。
でもね、例え下の方でくすぶっていても、同僚から信頼されたり、顧客から感謝されたりすると、とても嬉しくなるんだ。ああ、この人たちは俺を見てくれている。俺のファンなんだ、って」
「ファン?」
「そう、俺が勝手にそう呼んでいるんだけど。君だってファンがいたはずだ。どうしてそういう人のことを大切にしてやらなかったんだ?」
麻希は放心しているようだった。
「俺は、紀美山紫乃っていう歌手は知らない。けど篠宮麻希の大ファンなんだ。そう、いつもドジばかりして泣いたり怒ったりで、一緒に居てやらないと心配になるんだ」
麻希の頬に涙が伝った。
「だから自分のことを悪く言わないでほしい。君が生きていたのは事実なんだ。君が存在していたことには、きっと意味がある。
例え君がそれに気づかなくとも、誰かが意味を感じてる。だから人生をやり直したいなんて考えなくてもいいんだ」
果たして麻希は雅成の話をどれだけ理解してくれただろうか。何しろ精神年齢が止まったままなのである。彼女よりも年下だった自分も、気がつけば彼女を追い越している。
麻希は肩を震わせて泣いていた。
雅成はそんな彼女を抱き寄せた。
麻希の心の叫びを聞いてやることができて満足だった。これで彼女もこの世に未練を残すことはないだろう。天国で悠々と人間の営みを眺めていればよい。
しばらく肩を寄せ合って座った。何も言葉は交わさなかった。
雅成の心の中では、麻希と別れる決心がついていた。
麻希に身体を預けながら、いつしか夢を見ていた。
教室の中だった。
先生の話も聞かずに、麻希の横顔だけを見ていた。朝からこうして穴の開くほど彼女を見つめているのに、彼女はぴくりとも動かない。どうやってもこちらに振り向いてくれないのだ。
何か彼女の興味を惹く方法はないものか。
雅成はいきなり立ち上がると、音楽室からギターを持ってきた。まだ授業中だというのに、雅成は麻希の隣でギターを弾き始めた。曲はもちろん彼女のお気に入りである。
授業が淡々と進む中、ギターの音色がこだまする。
さすがの彼女も雅成のことを無視できなくなったようだ。さっきから笑いをこらえているのが分かる。視線は黒板に向けながらも、明らかに雅成に心奪われている様子である。
クラスの視線を一身に浴びながら、雅成はギターを奏でる。
そのうち麻希は根負けした表情で、笑顔を向けた。長い髪がふわりと舞った。
ギターの伴奏に合わせて、彼女は歌い始めた。
雅成の心は大きく揺さぶられた。
28
「ねえ、雅成くん、起きて頂戴」
誰かが隣で身体を揺すっていた。
いつの間にか眠っていた。目を開けても、今自分がどこに居るのかすぐには分からなかった。慌てて隣に目を遣ると、少女が座っていた。篠宮麻希だった。
慌てて腕時計を見る。
もう十分足らずで、日付が変わる。どうやら別れの時がきたようだ。
麻希のことを忘れ始めていた。確か十年前の海でもそうだった。きっかり午前零時に、麻希は雅成の中から出ていってしまう。
幸いまだ時間はある。
何かすることがなかったか。そうだ、雅成は思い出した。
「麻希、最後にお願いがあるんだ」
先に立ち上がって、彼女の顔を見下ろした。
大きな瞳が先を促している。
「一緒にあの歌を唄ってくれないか?」
「いいわよ」
麻希は満面の笑みを浮かべた。
差し伸べた手をしっかり握ると、彼女は起き上がった。
並んで階段を下りた。
鉄の階段が和音を奏でている。もうこうやって二人して歩くこともないのだ、雅成はそう思った。
最後の段を降りると、足下にタバコの吸い殻が落ちていた。さっき来た時は慌てていて気づかなかった。
麻希も気がついたようだった。
「それ、私のじゃないわよ」
そうか、あの時麻希は一度成人していたのだ。タバコを吸っても何の問題もなかったのだ。
雅成は一人で笑い出した。
訳が分からないという顔の麻希に、
「さあ、行こう」
と言って、立て掛けてあるギターを手に取った。
麻希の手を引いて、小走りにグランドまで出た。
今夜は車が何台も駐車してある。まだ体育館の中は明るく、人のざわめきが聞こえる。
二人はグランドの中央に立った。
雅成は麻希の隣でギターを構えた。
「麻希、おそらく歌の途中で、午前零時を迎えそうだ。俺は最後まで演奏を続けるから、時間になったら俺に構わず行ってくれ」
「うん、分かった」
月明かりを一杯に浴びて、白いブラウスの少女は頷いた。
「それから、いろいろとありがとう。今の俺があるのは君のおかげだ。本当に感謝してるよ」
彼女はもう一度大きく頷いた。
「それじゃ、いいかい?」
「ちょっと待って。最後に私にも言わせて」
今にも振りかぶろうとした雅成の手を制して、麻希が言った。
「短い人生だったけど、今は後悔してないよ。ありがとう、雅成くん」
雅成は何も言わずに、ギターを構え直した。
「ごめんなさい。あと、もう一つだけ」
麻希は続けざまに言った。
「やっぱり、いいわ」
「何だよ、気になるじゃないか? 最後まで言ってくれよ」
雅成は笑って言った。
「あなたには今、好きな人はいるの?」
彼女はやや口ごもって言った。
「いや、いないよ。麻希のような子といつか出会えるのを楽しみにしてる」
麻希は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「それじゃ、いくよ」
雅成は構えたギターに腕を振り下ろした。
伴奏が始まる。
ギターの音色が寒空を揺らしていた。二人寄り添って暖を取っているようだ。
さっき予行演習をしたおかげで手応えを感じる。ストロークは全て腕が思い出していた。今度は上手く弾けそうだ。
整列した車のボンネットが、月光を受けてきらきら反射していた。まるで波のようだ。いつか二人で行った海もそんな風に光っていた。
麻希の声が重なる。
透き通る声はやはり健在だ。漆黒の空にどんどん吸い込まれていく。
テンポは上がっていく。彼女の歌声はまるで伴奏に吸いつくように融合する。
雅成は麻希に目をやった。
高校生の彼女がそこにいた。長い髪を左右に揺らして、身体でリズムを取っている。
視線に気がついたのか、彼女も頬を緩めた。
いつの間にか、体育館の外に黒い影が一つ、また一つと現れた。みんな一斉にこちらに向かって駆けてくる。
二重、三重に人垣が作られた。
雅成はキャンプファイヤーを連想した。麻希の歌は燃える炎のようだ。めらめらと天を駆け昇っていく。みんなは輪になって、その炎を見守っているのだ。
さあ、彼女を送り出してやろう。
みんな、聞こえているか。
これが篠宮麻希の実力だ。あの日聞かせられなかった歌を存分に聴いてくれ。
遠くに近くに手拍子が聞こえる。
確実に時間は経っていく。
雅成は手を忙しく動かしながら、何か大切なことを忘れている気分になった。
曲に夢中で、意識が遠くなる。集まった同級生の顔が幾重にもぼやけて見えた。
なぜ今自分はギターを演奏しているのだろうか。
頭はすっきりしないが、これは自分にしかできない大切な仕事のような気がしてならない。
さっき近くに誰かがいたような感覚。確かめようと、慌てて視線を左右に振った。
しかし誰もいない。
確かに白い人影が視界で揺れていたような記憶。遠い昔、こんな経験をしたような気がする。
なぜこれほど力強く演奏ができるのだろうか。そこには何の躊躇もない。
雅成のギターの音色は、夜空を赤く染め抜いているようだった。
演奏が終わると、周りから大きな拍手が沸き起こった。
雅成は放心していた。
至る所で雅成を褒めているらしい声が聞こえる。
しかし今は充足感よりも喪失感の方が大きかった。もう一度、辺りを見回してみた。しかし仲間の顔しか見えなかった。
拍手は鳴り止まなかった。もう一度聞かせてくれ、と叫ぶ声。
雅成はふと何かに取り憑かれたように、両手を上着のポケットに差し込んだ。すると指に触れた物があった。
それは、あの不思議な紙切れだった。
「篠宮麻希が好き。麻希を忘れない、忘れたくない」
完