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25

 思い出話が尽きることはない。

 誰もが競うように口を開いている。十年の空白を埋めるには、どれだけ時間があっても足りはしない。どのテーブルにも、笑顔が咲き乱れていた。

 しかし、雅成だけは違った。彼には緊張の糸が張り詰めていた。

 ある程度心の準備はしていたものの、いざ大勢の同窓生を前にギター演奏するのは気が引けた。もう十年も触っていないのだ。果たしてうまく演奏できるだろうか。

 しかし心のどこかでは、かすかな自信もあった。

 ギターを構えた途端、知らぬ間に手がするすると動き出し、観衆を唸らせる演奏をやってのけるような気もする。

 当時、血の滲む練習をしたからだろうか。今でも手の動きは覚えている。今日ここでみんなの高校時代の思い出に花を添えることができるなら、一肌脱ぐのもやぶさかではない。

 結局のところ、人生のターニングポイントは文化祭のコンサートだったような気がする。それを機に、強い人間に生まれ変わることができたのだ。では、弱い自分をステージに立たせた原動力、すなわち最初の一歩とは一体何だったのだろうか。

「芹沢君、そろそろいけるかい?」

 谷山がすぐ傍で訊いた。

 彼の手には、他のクラスから借りてきたアコースティックギターが握られていた。

 いよいよ逃げ場はない。心臓の鼓動が高鳴る。

 同窓会も佳境に入ってきた。ここで一つ、宴を盛り上げる役目を果たすのも悪くはない。

「いつでもいいよ」

 雅成は一度深呼吸をしてから言った。

「それじゃあ、舞台裏に待機してくれるかい。僕がマイクで君を紹介するから、適当な所で表に出てくればいい」

 谷山は手際がよかった。会社勤めをするようになってからも、彼はこうやって人を上手に仕切っているのかもしれない。

 雅成はギターを受け取ると、谷山と肩を並べて歩き出した。

 十年の時を経て、また体育館のステージでギターを弾くことになってしまった。これも運命というやつか。

 舞台裏は暗かった。そして埃臭い。おそらく当時と何も変ってないのだろう。しかしあの時は極度に緊張していたせいか、何も覚えてはいない。

 木製の階段に腰を下ろして、弦を調整する。

 軽く手を添えてみた。ポジションは大丈夫か。二度三度ストロークしてみる。思った通り、身体が覚えていた。当時のように上手くは弾けないだろうが、それでも十分余興にはなるだろう。

 ステージでは、谷山が聴衆を前に盛んに話し掛けている。

 雅成の位置からは、彼の肉声とマイクの声が二重になって聞こえていた。

「まず最初の演奏は、芹沢雅成君です。どうぞ盛大な拍手を」

 谷山が舞台裏に視線を送った。いよいよ出番である。

 雅成はギターを持って、ステージに上がった。

 さっきまでの緊張感が嘘のように消えていた。

 いつから人前に立つのが怖くなくなったのだろうか。こんな度胸が備わっていることに、今更ながら驚かされる。やはりあの時のコンサートがその後の人生を変えたと言っても過言ではない。

 雅成は会場を見回した。

 だだっ広い体育館には白いテーブルが整列し、それを囲むようにしてあの日の学生たちが、ステージに視線を向けていた。

 当時この会場はもっと多くの人で賑わっていた。今の何倍もの聴衆がいた。

 雅成は当時が懐かしく思えた。すっかり心は落ち着いていた。

 仮に演奏が上手くいかなくても、どうということはない。過去を共有した同窓生たちは、失敗も大目に見てくれるだろう。

「当時コンサートで弾いた、僕の大好きだった曲です。どうか聴いてください」

 そう言って、雅成はギターを肩に掛けた。そして力強く弦を震わせた。

 アコースティックギターの乾いた音色が体育館にこだました。

 自分の奏でるサウンドが、みんなの耳に届いている。雅成の腕に力がこもった。

 あの夏が蘇ってくる。

 寝ても覚めても、この曲ばかりを弾いていた。ここに高校時代の思い出が凝縮されている。今、自分の記憶が饒舌に語り始める。

 何て爽やかなメロディーだろう。

 誰の歌かは知らないが、この曲は心を軽くしてくれる。弾いていて、自分が励まされるような気がする。勇気が湧いてくる。

 旋律は川の流れのように淀みなく流れていく。久しぶりの演奏にもかかわらず、全ては身体が覚えているのだった。

 会場からは歓声が聞こえる。身体が宙に浮く感覚。

 孤独で無気力に過ごしていた学生時代。

 自分にはこれほど夢中になれるものがあったのか。今まですっかり忘れていた。

 しかし、一体誰のためにこの旋律を奏でているのだろうか。自分を突き上げる、この見えない衝動は何なのだろう?

 雅成はその答えを探すために会場に目を遣った。広い体育館を見渡した。

 気をとられたのか、それとも油断したからか、正しいコードが押さえられなかった。一瞬、曲の流れに逆らってしまった。慌てて視線を手元に落とす。

 その時である。

 移動した視線の先で、若い女性の姿をかすめ取ったような気がした。反射的に会場に視線を戻した。

 気のせいだったか。特に変った様子はない。

 一瞬目に映ったのは現役の女子高生のようだった。

 ここに集まった女性とは明らかに異質な存在だった。すらりと背が高く、白いブラウスに紺のスカートを穿いていた。

 目の錯覚だったか。

 気づけば、ステージには数人の男性が上がっていた。酔っているのか、お互い肩を組んで、身体を左右に大きく揺らして何かを歌っている。

 雅成は演奏を続けた。

 爽やかなメロディーが、次第に力強くなっていく。もうすぐサビの部分が訪れる。

 ここはどうしても女性の声が必要だ。

 それもレベルの高い歌唱力が条件だ。誰かこの力強い旋律を、見事に昇華させてくれる歌手はいないだろうか。

 いや、いる訳がない。

 彼女にしか無理なんだ。だってこれは、彼女の曲なのだから。

 でも、それは誰なんだ?

 曲はまもなく終わろうとしていた。このままずっと弾いていたい気分になる。

 何故だろう。演奏を続けていれば、そのうち彼女の声が合流してくるような予感がする。

 自分は待っているんだ、その声の主を。

 いよいよ、演奏は最高潮を迎えた。雅成は激しくギターに魂を送り込んだ。

 その時である。淡い声がどこからか聞こえてきた。

 もっとはっきり歌ってくれないか、見えない相手に向かって雅成は叫んだ。

 君は、誰なんだ?

 突然、雅成の頭の中で、ガラスが一斉に割れる音がした。

 ぼやけていた世界が、一瞬にして輪郭を取り戻した。そこには鮮やかな視界が開けていた。

 全てのことが手に取るように分かる。やはりこの世に理解できないことなど一つもないのだ。

 篠宮麻希だった。

 彼女がひっそりと立っていた。体育館の入口から半身を出すようにこちらを見ていた。長い髪が斜めに垂れている。小さく口を開いて、リズムよく肩を揺らして歌っていた。

 そうなんだ、雅成は今やっと理解できた。この演奏は彼女を招くためにあるんだ。

 麻希、そんなところにいないで、ステージに上がって歌ってくれ。

 ここからでも君の澄んだ声は僕の耳に届いている。さあ、もっと大きな声で歌ってくれ。

 やはりメモの女性は実在した。自分は間違っていなかった。笑いがこみ上げてくる。

 雅成はギターの演奏を続けていた。途中で止めたら、それこそ麻希が消えてしまいそうだ。

 ステージの上からもう一度麻希を見た。今度ははっきりと見える。白いブラウス姿は当時とまるで変らなかった。自分の目は正しかった。

 麻希の歌のパートは終了した。後は伴奏だけが残されている。

 雅成は全てを思い出していた。

 あの月夜の晩、麻希と会うことができなかった。彼女のいる場所は知っていたのだ。ただ、約束の時間にちょっと遅れただけなんだ。

 今夜は大丈夫だ。

 きっと間に合う。決して君を逃さない。絶対抱きしめてやる。

 雅成はステージの上から飛び降りた。手に持ったギターのどこかが床に衝突した。一瞬手が痺れる。しかしそんなことはすぐに忘れた。

 麻希が待っている。

 もたもたしている暇はない。あの日の二の舞は演じたくない。

 雅成は猛然と入口に向かって駆け出した。

 あの日の麻希を迎えるために…。



     26


 雅成は体育館の端から端まで駆け抜けた。呆気にとられている同級生らをかき分けて先を急いだ。

 ついさっきまで、入口に篠宮麻希が立っていた。舞台に立つ雅成を応援するように、じっと見守っていた。彼女はギターの邪魔にならないような、控えめな声で歌っていた。

 そうだった、この曲は麻希の芸能界デビューの曲だった。

 雅成の心は晴れ渡っていた。今は全てが手に取るように見える。

 十年前、教室の隣の席で過ごした女性、彼女の名は篠宮麻希。彼女を心から愛していた。

 悪い夢から覚めたようだ。これまで錆び付いて動かなかった記憶の歯車が、怒濤の勢いで回り始めた。麻希の澄んだ歌声が潤滑油となって、頭が働き始めた。自分が正しい方向へ歩み始めた手応えを感じる。止まっていた人生がやっと先へ進み始めた。

 同級生たちは、一体何が起きたのか理解できなかった。雅成がまるで取り憑かれたように、突然走り出したのだ。みんなは少しも身体を動かせずに、彼の行方を追うのに精一杯だった。

 麻希の姿はとっくに消えていた。それでも雅成は走るのを止めなかった。

 入口を突破すると、勢い余って体育館の外へと転げ落ちた。痛みなど感じなかった。今は麻希を追いかけることで必死だった。

 闇夜に人影はなかった。月明かりがぼんやりと校舎の壁面を照らしていた。

 肩で息をしながら、周りを見回す。が、麻希はそこにはいなかった。

 しかし雅成は慌てなかった。彼女の居る場所は分かっている。そこに行けば、今夜こそ必ず会える。

 雅成は急に向きを変えて、体育館の裏へと突き進んだ。彼は靴を履いていなかった。しかしそんなことはまるで気にならなかった。

 月明かりを頼りに腕時計を見た。午後十時を回っている。まだ大丈夫だ。日付が変わるまでには時間がある。

 麻希を見失った十年前の悪夢が蘇る。しかし今回は勝算がある。きっと彼女に会える。

 体育館の裏側に出た。ここは建物の陰になっていて、月明かりの届かない場所である。暗くてよく分からないが、おそらく当時のままだろう。麻希と会うために、いつもこの場所へやって来た。

 少し先に鉄の階段がシルエットを作って待っていた。心の中に安堵感が広がる。ひょっとしてこの階段が取り払われているのではないかと、一抹の不安があった。もしそうだとしたら、麻希の居場所はない。一からやり直しだ。他の場所を探さねばならなくなる。どうやらセーフだ。

 階段を上がる直前に立ち止まった。息を整える。今にも心臓が飛び出しそうだった。暗闇の中で胸の鼓動だけが響いていた。

 雅成は持っていたギターをそっと階段に立てかけた。

 そして階段に足を載せた。

 階段を上がる度、金属の乾いた音が冬の冷たい夜空に吸い込まれていく。さっきから動悸が収まらない。年甲斐もなく思い切り走ってきたからだろうか、それとも麻希に再会する前の緊張からなのか、雅成には分からなかった。

 階段は中央部分で折れ曲がっている。よって先まで視界は届かない。これは当時もそうだった。

 階段を上がる足が震え始めた。果たして麻希は待っているだろうか。さっきまで自信があった筈なのに、いざとなると不安感に支配される。

 雅成は一歩、一歩踏みしめるように上っていった。

 麻希に会ったら、まずはどうしようか。訊きたいことは山ほどある。いや、その前に文句の一つも言わねばなるまい。今の今まで、よくも自分の記憶から消えていたものだ。十年前、彼女と別れた時どれだけ心配したことか。とても言葉では言い尽くせそうもない。

 階段の折り返し部分に達した。この先は頂上まで見通しが利く。もし麻希が居るのなら、ここではっきりと分かる筈だ。

 本当に麻希は居てくれるだろうか。

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