23
どれだけ時間が経ったのだろう。
雅成は涙を拭って、ソファーを立った。
麗奈ももう泣いてはいなかった。
「それじゃ、そろそろ帰ります」
「そうですか、せっかく来て頂いたのに、何のお構いもできなくて」
麗奈の目は赤く腫れ上がっていた。それを見られたくないのか、顔を少し逸らすようにして言った。
今日、久しぶりに麻希のことを思い出して、昔のように泣いたのかもしれない。麗奈は妹がいなくても、しっかりと生きている。深い悲しみはすでに乗り越えているのだろう。
「お姉さん、どうか気を落とさないでください。僕も麻希さんはどこかで無事に生きているような気がします」
雅成はそう言っておいて、それはあながち嘘ではないのかもしれないな、と思った。現実世界にあれほど鮮明な姿を見せることができるなら、いつかひょっこり姉に会いに来ても不思議ではない。
「今日はありがとう。麻希のことを聞けて嬉しかったです」
「こちらこそ、ありがとうございました。麻希さんには大変お世話になりました。彼女がお帰りになったら、同級生の芹沢雅成が感謝していたとお伝え下さい」
そう口にしながら、雅成は不思議な気分にとらわれた。麻希と年齢のかけ離れた自分が、一緒に高校生活を送っていたという話に、麗奈は何の疑問も感じないのだろうか。
いや、長い間妹を待ち続けた麗奈にとっては、麻希の身に何が起きようとも、全てを受け止める心の準備があるのかもしれない。
雅成は玄関のドアを開けた。
外はすっかり夜のとばりが下りていた。
ひどく足取りが重い。ここまで何をしに来たのだろうか。姿なき麻希を追ってきた。彼女はこの世に存在しないのだった。
月明かりを頼りに山坂道を下っていった。見上げると、大きな満月が輝いていた。
駅まで時間を掛けて歩いた。駅にはすっかり人気はない。薄暗い待合所で一人列車を待った。雅成の他には誰もいなかった。
ついに麻希とは会うことができなかった。
おそらく彼女は二度と姿を現すことはないだろう。雅成はそう自分に言い聞かせながらも、諦め切れない気持ちだった。
待合所には扉がないので、容赦なく虫の音が入ってくる。人がいないと知ってか、我が物顔で大合唱をしている。いつの間にか、雅成はその鳴き声にすっかり包囲されてしまっていた。
麻希のことを考えてみる。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
意味もなく、雅成は狭い待合所をぐるりと見回した。ここで強く念じれば、ひょっとすると麻希が現れるのではないか、そんな気になった。雅成の口元は自然と緩んだ。
彼女と再会したら、何と言ってやろうか。
まずは、文句の一つでも言ってやらねばなるまい。姉を心配させるだけでは飽き足らず、自分までも心配させやがった。
でもそれ以上に、麻希には謝るべきだろう。
もっと楽しい高校生活を演出してやりたかった。それには雅成の力は遠く及ばなかった。隣の席に座る自分には荷が重すぎたのだ。
どこか遠くで汽笛が鳴った。
いや、待てよ。
突然、雅成の頭に閃光が走った。
自分は何か考え違いをしていないか。ずっと違和感を感じていたことがある。今までそれが何であるか分からなかった。
そもそも新学期に、どうして隣の席が一つ空いていたのだろうか。この点がどうもしっくりこなかった。
偶然空いていたその席に、篠宮麻希が滑り込んできた。それがきっかけで彼女と出会うことができた。そう信じて疑わなかった。
しかし思えば、それは変ではないか。
なぜなら、麻希がその姿を自由に出現させられる存在なのだとしたら、何もわざわざ空いている席を探す必要はない。我々人間とは違って、彼女は偶然を超越できる世界にいるからだ。とすれば、教室の誰の横に座ろうと、それは彼女の自由ではないのか。
麻希の立場からすれば、出会う相手は意図的に選べたことになる。
座席は偶然に空いていたのではない。麻希が自ら用意したのだ。彼女は数ある生徒の中から、雅成を選んだ。
それには、一体どんな意味が込められていたのだろうか。
雅成は春を思い出していた。
時が流れるまま、無気力に生きていた。心に自由のない、まるで奴隷のような高校生活を送っていた。それは人を愛することも、また愛されることもない日々だった。
そんな雅成の前に、篠宮麻希は現れた。
彼女との出会いが、希望と勇気を与えてくれた。彼女の存在が、毎日の生活に活力を与えていた。ギターの特訓をして、彼女の才能に少しでも追いついたと実感した時、自信がみなぎった。
そこで初めて、麻希を心から愛することができた。同時にそれは生まれて初めて人を愛した瞬間だった。たちまち彼女はかけがえのない存在となった。
そうか、麻希は自分の生き方を変えるためにこの世に来てくれた。学校で最も駄目な後輩に目をつけてくれたのか。
雅成の頬を涙が伝った。
(麻希、ありがとう。君のおかげで僕は変わった。もう大丈夫だ。心から礼を言うよ)
ホームに列車が入って来た。この駅の最終列車である。
雅成は足取りも軽く、飛び乗った。
時刻はもうすぐ午前零時を迎えようとしていた。長かった一日もどうやら終わりを告げていた。
雅成は列車に揺られていた。
この時間、車内に乗客の姿はほとんどない。つり革だけが一斉に同じ方向へ揺れて、その存在を主張していた。
それにしても今日は大変な一日だった。昨夜はよく眠れなかったせいもある。今になって疲労感が身体中を包み込んでいた。
ちょっと気を許せば、すぐさま深い眠りに落ちそうだ。雅成は小刻みに頭を振った。
それにしても、今日のコンサートは失敗だった。もしこれが成功を収めていたら、麻希はこんなふうに学校生活に終止符を打たなくて済んだのだろうか。
彼女は前日に風邪を引いたことが原因で、実力が発揮できなかった。体調さえ崩さなければ、全てはうまくいったのだろうか。
雅成は考えを先へ進めようとした。しかし霧の中を歩いているような感覚しか得られない。先へ進んでいるのか、それとも同じ場所を巡っているのか、それさえ分からなくなる。
どこか妙な具合である。自分も風邪を引いたのだろうか。列車に乗った辺りから、ひどく体調が悪くなったように思える。
もう一度真剣に考えてみようと、身体に力をこめる。
麻希はこの世の存在ではなかった。人間を超越した彼女が、失敗をやらかすことなんてあるのだろうか。
いや、そうではなく、彼女は最初からコンサートで失敗する運命だったとは考えられないか。どう転んでも、別の人生を歩むことなどできなかった。
例え風邪を引かなくても、何らかの違う要因が彼女の成功を阻んだことは十分に考えられる。いずれにせよ、彼女には再び学校を去る運命だけが用意されていたのだ。
麻希はそうなることを知らなかったのだろうか。それとも最初からそれを承知していたのだろうか。
駄目だ、頭の中で霧がますます深くなってきた。もう立ち止まるしかない。自分がどちらの方向を向いているのかも分からない。下手に動けば、思考の縁から転落してしまいそうだ。
早く眠りにつきたいと思う。そうすれば、この不安感から一気に解放されるだろうか。
そうしている間にも、雅成の頭の中には、次々と疑問が湧いてきた。答えを見つけるより先に、新たな疑問が幾重にも重なる。
どうして自分は列車に乗っているのだろうか。この騒音が安眠を妨害する元凶なのだ。早く列車を降りてしまいたい。
さっきまで誰かと話をしていた気がする。もう遠い昔のように思える。相手は誰だったのか、さっぱり思い出せない。とても大事な内容だった気がする。
そうだ、麻希だ。
雅成はやっとのことで思い出した。
彼女の姿が遙か遠くになっている。どれだけ目を凝らしても、顔の輪郭さえ滲んでいる。
いや、そんなことよりも今は眠りたい。とにかく身体を休めたい。
雅成は薄目を開けて腕時計を見た。もう数分で午前零時だ。
ああ、そうか。
時間だ、時間のせいだと気がついた。
麻希の存在が消えかかっているのだ。先生や同級生の記憶から出ていったように、彼女は今、雅成の中からも立ち去ろうとしている。
このままでは忘却の勢いに流されてしまいそうだ。何とかしないと。
雅成は学生服の胸ポケットから、生徒手帳を取り出すのももどかしく、真っ白なページを一枚はぎ取った。
もう時間がない。
揺れる車内で、鉛筆を走らせた。
「篠宮麻希が好き。麻希を忘れない、忘れたくない」
目を見開くと、窓から漆黒の海が見える。
そうだ、いつか彼女と一緒に来た海だ。
まもなく列車はあの海に停まる。
もう一度しっかりと海を見た。彼女があの波の中でくるくる踊っている。
駄目だ、強く意識を持たないと、自分が消滅してしまう予感がする。大切な宝物を、誰かに取られるのではないかという恐怖感に襲われた。
列車は海の見えるホームに滑り込んだ。
雅成はふらふらと座席を立った。ここで降りなければならない。
列車を降りて、駅舎を出ると海まで向かった。一度来た道である。足が覚えていた。
誰もいない砂浜が開けた。波が寄せては返す音だけが耳に突き刺さる。
なぜ、ここに来た?
確か、誰かに会うためだった。それは誰だったのか?
その人はここで待っているような気がした。しかしそれは思い違いだったか。
頭が朦朧とする。許されるのなら、このまま砂浜に倒れてしまいたい。
海辺には誰もいない。
会うべき人もここにはいない。そもそも誰に会おうとしていたのか、それさえ思い出せない。どうやら場所を間違えたらしい。待ち合わせ場所はここではなかった。
ああ、今思い出した。
約束の場所は学校の体育館ではなかったか?
確か体育館の裏手に階段があった。下からは見えない所に、その人はいつも座っていた。
きっとそうだ。どうしてそんな所に座っているのか、いつも不思議に思っていた。もっと早く思い出すべきだった。
これから学校の体育館まではどうやって行けばいいのか。それはこの砂漠から、何千里も離れた場所のように感じる。
しかも今降りたのが最終列車なのである。こんな場所でタクシーが捕まるとも思えない。
時間切れだ。今度ばかりはしくじった。
その人はきっと今も、そこで待っている筈なんだ。でも、もう間に合わない。
雅成は忌々しげに時計を覗き込んだ。
時計の針は午前零時ちょうどを指していた。
霧が晴れてくる。身体が楽になる予感。もうこれで何も悩まなくても済むのか。
全てを忘れて…。