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雅成の目の前には、中年の女性が立っていた。狭い廊下で行く手を阻むように立ちはだかっていた。照明がやや逆光になっていて、顔の表情がはっきりと読み取れない。
明らかに自分よりも一回りは上の年齢である。それでも品性の感じられる顔立ちに思える。生きる世代の違う者同士が今、玄関で睨み合っているのだった。
たった今彼女は双子の姉だと名乗った。少なくとも雅成にはそう聞こえた。これは聞き違いだろうか。
「どうぞ、お上がりください」
思考が停止してしまった雅成を揺り動かす声だった。校医や東出と同じように、まさかこの麗奈という女性も麻希のことを葬り去るつもりだろうか。この世の中で、自分一人だけが騙されている、そんな気分になった。自然と身体が硬くなった。
身内であるはずのこの女性までも、麻希の存在を隠そうとしたら、どう反論すればよいだろうか、雅成は靴を脱ぎながら考えた。
しかし今、雅成に打つ手がないのだった。まずは一刻も早く麻希と再会したい。そのためにはこの女性の言葉に素直に従うしかない。
「こちらへ」
雅成は姉に導かれるまま、中へと進んだ。
そこは暖色の照明が充満する応接間だった。雅成はソファーに腰を掛けた。
周りを見回す。ここに麻希が住んでいる筈だ。きっと彼女が暮している証しがある。
「ちょうど今コーヒーを淹れるところだったの。あなたもいかがですか?」
麗奈は雅成のただならぬ緊張に気づいたのか、わざとのんびりした調子で訊いた。
雅成はそれには何も答えず、麗奈の顔をまじまじと見た。
彼女の顔に麻希の面影が感じ取れる。麻希が歳を重ねていくと、ちょうどこの女性のような顔になりそうだった。麗奈が麻希と血の繋がった家族であることは、どうやら間違いなさそうだった。
しかし二人が双子というのは、まるで納得できない。歳の差という問題がある。もしも麗奈が自分を騙そうとしているつもりならば、まんまとその策略に乗ってはならない。雅成は拳を握りしめた。
「麻希さんはどちらに?」
どんな答えが返ってきても驚かないという心の準備はできている。
麗奈は笑みを浮かべて、
「残念ながら、妹はここへはもう何年も帰ってきていないのですよ」
と言った。
やはり嘘である。それでは麻希は一体どこに暮しているというのか。毎日どこから学校へ通っているというのか。
なぜ家族である筈の麗奈までも、麻希のことを隠そうとする?
みんなで口裏を合わせて、自分を欺こうとしている。それは一体何のために?
自分は悪い夢を見ている。頭の中が濃い霧に包まれているようだった。もはや自分の居る場所も、そして自分がどこへ向かおうとしているのかも分からない。とにかく今は、麻希本人と会うことしか考えられなかった。
「それにしても麻希という名前は、久しぶりに聞いたわ」
麗奈は感慨深げに言った。雅成にはその言葉の意味が分からなかった。
彼女の目には、雅成の顔は映っていないようだった。どこか遠くを見るような目で、懐かしさに身を委ねているふうだった。
「茶化さないで正直に答えて下さい」
雅成はもどかしくなって、ぴしゃりと言った。
麗奈はふと我に返ったように視線を戻すと、静かに答えた。
「もう随分前に、妹は死にました」
麗奈は無感動にそう告げた。それは無責任とも取れる口調だった。
雅成は再び言葉を失った。どうして誰も彼も自分と麻希を引き離そうとするのだろうか。二人の再会がそれほど難しいことなのか。つい数時間前までは、麻希とは同じ空間を共有していたではないか。彼女は優しく声を掛けてくれた。手を伸ばせば彼女の頬に触れることだってできた。
雅成は今や絶望の縁に追いやられていた。どうもがいても自分に逃げ場がないように感じられた。もはや返す言葉が見つからない。世界中に麻希の存在を否定されては、どうすることもできない。目の前のこの女性に、自分が望む真実を語らせる方法は何かないものだろうか、雅成は弱り切った身体でただそれだけを考える。
奥のキッチンからポットの沸騰を知らせるメロディーが聞こえてきた。その音に急かされるように雅成は反撃に出た。このままでは心の居場所がない。早く落ち着く先を見つけたかった。
「そんなの嘘だ」
雅成は麗奈にではなく、ほとんど自分に言い聞かせるように叫んだ。麻希の存在を必死に隠すあまり、彼女を死んだことにするなんて、いくらなんでも酷すぎる。例え姉でも許せなかった。
「僕は今日の昼まで、麻希さんと一緒に居たんです。彼女は死んじゃいない。毎日同じ教室で、隣同士、机を並べていたのです」
そうは言ってみたものの、まるで心に晴れ間が見えてこなかった。何故だろう。もはや自分に自信が持てなくなっていた。しかし麻希は確かに自分の目の前に居たのだ。自分はそんな彼女を愛していた。
麗奈は顔の表情を少しも変えることなく、黙って雅成の言葉に耳を傾けていた。
「もう少し詳しく聞かせて」
麗奈は静かにそう促した。
雅成は思い出すように語り始めた。
「今年の春、桜並木の下で麻希さんと出会いました。最初、彼女は僕を避けていたようです。いや、僕だけではなく、クラスの誰とも交わろうとしなかった。彼女は教室でいつも孤独でした。そんな彼女を見ていると、どこか自分と同じ境遇のように思えてきて、いつしか彼女のことが気になり始めたんです」
麗奈は一切口を挟まず、頷くように聞いている。
「夏休み前、彼女の歌の才能を知って、文化祭のコンサートに一緒に出場しないかと誘いました。学校中に彼女の本当の実力を見せてやりたいと思ったからです。彼女は承諾してくれました。それで自分も不慣れなギターを一生懸命練習しました。
夏休みに入って、彼女の口から、実は歌手デビューするかもしれない、と告げられました。どうやら麻希さん自身は、芸能界に進むかどうか迷っているみたいでした。家族にも相談した、って言ってました」
雅成はそこまで言うと、麗奈の顔を見た。
「私が何て言ってるか、あなたに話しましたか?」
彼女は強い視線を投げ返してきた。
「両親は賛成しているのに、姉は反対しているって」
それを聞いて、彼女は肩を揺らすようにして笑った。
「それで?」
「それで今日がコンサートの日だったのです」
「なるほど、結果はどうだったの?」
麗奈は食い入るように訊いた。
「実は昨日色々とあって、麻希さんは風邪を引いてしまったのです。だから、思わしくない結果になりました」
雅成は慎重に言葉を選んだ。麻希が一部の女子から虐められていたこと、タバコを吸っていたこと、今日のステージで倒れたことなどは言わなかった。
「なるほど」
麗奈は短く言ってから、ソファーを立った。
「ちょっと待っててね」
そう言い残して、彼女は隣の部屋へと消えていった。
そしてしばらくして戻って来た。
「これをどうぞ」
雅成は分厚いアルバムを手渡された。両手で受け取ったが、それはずっしりと重かった。
「コーヒーを淹れてきますので、どうぞごゆっくり」
麗奈がその場を離れると、雅成は手にしたアルバムをそっと開いてみた。