19
麻希はどこへ行ってしまったのだろうか。
とにかく今は彼女に会いたい。もしかするともう二度と会えないのではないか、雅成はそんな不安に押し潰されそうになる。負けじと廊下を疾走した。
しかしどこへ行けば麻希に会えるというのか。当てのないまま足だけが忙しく動いた。
保健室で無駄に時間を過ごしたことが悔やまれた。
校医と話している間にも、麻希は雅成から遠ざかっていたのだ。今頃は校外にいるのかもしれない。
しかしあの校医は一体どうしたのだろう。
彼女は麻希のことを知らないと言った。それどころか、ステージで倒れたのは雅成だと言い張った。
そんな筈はない。
ステージで倒れたのは麻希である。雅成はそんな彼女を保健室まで運んだのである。目撃者だって大勢いるではないか。
あんな戯言に関わっていた時間が勿体なく感じられた。校医に構わず、さっさと麻希を追いかければよかった。
これからどうしようか。
麻希が学校の外へ出ていったのなら、これ以上校舎を探しても無駄である。しかし果たしてそう決めつけていいものだろうか。
「おい、芹沢!」
背後から誰かが名前を呼んだ。雅成は転びそうな勢いで急停止をした。
振り向くと、友人の東出だった。驚きを隠せない表情がそこにあった。
「お前、もう大丈夫なのか?」
「何のことだ?」
雅成は悪い予感を抱かずにはいられなかった。
「さっきステージでぶっ倒れた時には、さすがに驚いたよ。これから保健室へ行こうと思ってたところなんだ」
不可解なことに、彼も校医と同じことを言う。反論するのが面倒に思われて、その言葉には答えず、
「麻希を見なかったか?」
と訊いた。
「マキ? 誰のことだい、そりゃ?」
やはり悪い予感は的中した。東出も校医と寸分違わぬことを言う。明らかにこれはもう偶然とは言えなかった。
「俺と一緒にコンサートに出場した、篠宮麻希だよ」
「はあ?」
東出は狐につままれたような顔をした。
またしても「麻希」という名は響かないようだった。
しかしそんな筈はないのだ。彼には麻希を紹介して、歌声まで聞かせている。あの時彼女を絶賛していたではないか。
その点を質すと、東出は訳が分からないという複雑な表情を浮かべて、
「最初からお前は、一人でギターを弾くって言い出したんだぞ」
と言った。
「篠宮麻希という名前に心当たりがない、そう言うんだな?」
雅成は強い調子で確認した。
東出は怪訝そうに頷いた。
やはり校医と同じである。これ以上議論を続けても時間の無駄だ。
麻希の身に何か大変なことが起きている、雅成はそう直感した。何故か分からないが、自分に残された時間はさほどないような気がした。
行動を起こすなら今しかない、雅成は自分自身に言い聞かせた。
どうやら麻希の存在は人々の記憶から消えてしまっている。彼女がこの学校にいたという事実がすっかり失われている!
そうだ、教室だ。雅成は思いついた。
麻希は隣の席に座っていた。あの場所に何か証拠が残っていてもおかしくはない。
とにかく教室へ急ごう。
雅成は東出を突き飛ばすようにして、教室への階段を駆け上がった。
肩で大きく息をしながら、教室の扉を開いた。中には誰もいなかった。
自分の座席に駆けつける。
この隣に春からずっと麻希が座っていた。机の中を覗いてみたが何も残されていなかった。
雅成は突然ひらめいて、教室の後ろへ向かった。誰かの机の角で足を打ちつけた。しかし痛みを感じている暇はない。
生徒名簿である。
それはいつも教室の後ろに貼ってあった。提出物を管理するための一覧表である。
震える指を滑らせて麻希の名前を探した。
驚くべきことに、何度見直しても篠宮麻希という名は存在しなかった。
雅成は戦慄した。
自分がここに立っていることすら信じられない。麻希の存在がないのであれば、自分の存在はどう説明するのだ。
雅成だって彼女同様、葬り去られてもおかしくはない。しかしどうやらそうなってはいないらしい。
これは一体どういうことだろう。
麻希の存在だけが、跡形もなく消え去っている。この調子では、おそらく担任や同級生、あるいは麻希をいじめていた連中でさえ、彼女を知らないと言い張るに違いない。
疑問はもう一つある。
どうして自分だけが、彼女のことを記憶しているのだろうか。
しかしそれも時間の問題かもしれない。
とにかく今すぐ行動を起こさなければならない。もたもたしている余裕などないのだ。
そうだ、麻希の自宅に行ってみよう。
彼女から暑中見舞いを貰っていた。それは机の上に立て掛けてある。そこに彼女の住所が記されていた筈だ。
黒い霧が背後から迫ってくる恐怖。
それは次々とあらゆるものを飲み込んでいく。この先、自分だって例外ではない。
もう一刻の猶予もない。
雅成は自宅に向かって学校を飛び出した。
20
麻希、君はどこへ行ってしまったんだ? 俺を置いていかないでくれ!
雅成の魂が叫ぶ。
このまま離ればなれになるのは嫌だ。
どうしてもっと早く自分の気持ちに気づかなかったのだろうか。
麻希のことが大好きだったのに、その感情を抑えていた。本当の気持ちを素直に伝えられなかった。歌の才能を生かし、芸能界へ進む彼女が、自分とはあまりにもかけ離れた存在に思えたからなのだ。
でも、今は違う。
二人がどれだけ不釣り合いであろうと構わない。
この世で誰よりも麻希が好きだ。ただずっと傍に居たい、そんな気持ちが雅成の魂を揺さぶる。
雅成は自宅の玄関を乱暴に開くと、靴を脱ぐのももどかしく、階段を駆け上がった。途中足がもつれて転びそうになった。
勉強部屋になだれ込んだ。息を切らしながら、机の上を見た。
あった。麻希からの暑中見舞いは、確かに存在していた。
雅成は救われた気持ちになった。もしかすると、この葉書も消滅したのではないかと一抹の不安があったのだ。
彼女の住所が確かに書いてある。とにかくここへ急ごう。そして麻希に会おう。
住所は電車で数駅先のようだった。いつか麻希と一緒に海へ行ったことがあった。その先に彼女の自宅があるらしい。
雅成はタクシーを呼び、駅まで走らせた。
どうしても心が焦る。見えない敵と戦っているようだ。
今日中に麻希に会っておかなければ、このまま二度と会えないような気がする。
夕方の駅前は学生や会社帰りの人たちでごった返していた。その人波をかき分けるようにして、ホームへ上がった。
そう言えば、初夏に麻希の後を追って、このホームに来たことを思い出した。あの時、確かに麻希はここに立っていた。雅成にはひどく昔の出来事のように感じられた。
混雑した列車に乗り込む。
つり革に掴まり、揺れる車両に身を任せて、車窓を眺めた。
街を出て、しばらくすると視界一面に海が広がった。夕日が水面を赤く染めている。砂浜に打ち寄せる波が、白いカーテンのようにひらひら舞った。
麻希と一緒に砂浜を歩いたことを思い出す。
彼女は波とたわむれて、楽しそうにくるくる踊っていた。
あの姿は、もう見ることができないのだろうか。
雅成は列車を降りた。
思ったよりも、はるかに小さな駅だった。それでもこの時間、降りる人は意外に多かった。
駅舎を出ると、すぐ目の前にタクシーが停まっていた。雅成は吸い込まれるように乗り込んだ。葉書の住所を読み上げると、運転手はすぐさま車をスタートさせた。
心臓の鼓動が高鳴る。
麻希には、顔のそっくりな双子の姉がいるという。自宅にその姉と一緒に住んでいるのだろうか。
そうだった、今思い出した。
麻希から双子の姉の存在を聞いた時、彼女から発散される不思議な雰囲気は、それで全て説明できるような気がしたのだ。
顔の見分けがつかないほどよく似た姉が、実は一緒に学校に通っていて、二人が要所要所で交代して自分の前に現れるのではないかと考えた。
今回の麻希が消えてしまったのも、それでうまく説明ができるのではないだろうか。
案外自宅に行けば、姉妹二人が自分を迎えてくれそうな気もする。
ふと気づくと、エンジンが悲鳴を上げていた。タクシーは今、人気のない坂道を登っているのだった。
車が停まったのは、山の斜面を切り開いて立つマンションの前だった。
雅成はエントランスに入った。
部屋番号を押すと、ブザーが鳴って、インターホン越しに喋れるようになる。
「どなたですか?」
麻希ではない声がした。母親かもしれない。
「芹沢雅成と申します。麻希さんの同級生です」
「えっ?」
一瞬不穏な空気が流れた。麻希につきまとう不審者と疑われたか。
しかしおそらく自分の姿は室内からモニターされている筈である。学生服を着た雅成は決して怪しい人物には映らないだろう。
「麻希さんは帰っていますか?」
わざと落ち着いた声で訊いた。
「麻希ですか?」
応対する声の主は、一層怪訝さを増したようだった。感嘆とも絶望ともつかぬ複雑な抑揚がそこには感じられた。
それでもしばらく沈黙した後、
「分かりました。とりあえずどうぞお上がりください」
エントランスのロックを解錠する音がロビーに響き渡った。
雅成はエレベーターで目的の階まで上がった。
ドアの前に立つ。緊張が一気にピークに達した。麻希は帰っているのだろうか。
呼び鈴を押すと、ドアがゆっくりと開かれた。
そこには中年と思われる女性が優しい物腰で立っていた。これが麻希の母親だろうか。
「初めまして、芹沢雅成です。麻希さんにお会いしたいのですが」
それを聞いた女性の顔は、一瞬歪んだように見えた。
いや、それよりも次に彼女の発した言葉が、雅成を放心させた。
この世のあらゆる道理が、一瞬に音を立てて崩れ始める予感。
これまで自分は一体何を根拠に生きてきたのか、激しく頭が混乱した。
その中年女性は、
「初めまして、私が麻希の双子の姉の麗奈です」
と言った。