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保健室には運良く校医が居てくれた。麻希を一目見ると、顔色一つ変えることなく、早速自分のやるべき仕事に取りかかった。
麻希の長身を雅成から受け取ると、手際よくベッドの上に横たえた。ひょっとしてこの校医は麻希のことが心配で、ずっとここに詰めていたのかもしれない。雅成はふとそんなことを考えた。
白いシーツの中で、麻希の真っ赤な顔だけが生々しく感じられた。まるで魚のように口を動かして、身体全体を震わせえている。やはり彼女は朝からずっとここに居るべきだったのだ。雅成に後悔の念が湧いた。
校医はカーテンを閉め切ると、すっかりびしょ濡れになった服を着替えさせた。その後何度か出入りをして、適切な処置を施した。
しばらくして、校医はカーテンの隙間から身を滑らせるように出てきた。
「彼女は大丈夫ですか?」
雅成は彼女の顔を見るなり訊いた。
「大丈夫よ、安心して頂戴。しばらく寝ていればよくなるわ」
「病院に行かなくてもいいんですか?」
「そこまで大げさなものじゃないわ。ただ風邪の引き始めで、大量に熱が出たのよ。無理をして意識が朦朧としたのね」
それを聞いて雅成は胸を撫で下ろした。やっと近くの丸椅子に腰掛ける気になった。
「でも、一応ご家族に連絡しておいた方がいいわね」
校医は雅成を安心させておいてから、そう言った。
「あなた、彼女の自宅の電話番号、知ってる?」
「いいえ」
雅成は、麻希の双子の姉のことを思い出した。姉は今自宅にいるのだろうか。
「それじゃあ、職員室で電話を掛けてくるわ」
「お願いします」
校医は部屋のドアを開けてから振り返って、
「後の面倒は私が見るから、あなたは文化祭の方へ戻ってもいいのよ」
と言った。
「いいえ、ここに居ます」
「そう」
校医はそれ以上は何も言わず、保健室を出て行った。
中庭に面した窓からは、ベースやドラムの入り交じった低音がわずかに漏れ聞こえてくる。
どうやらコンサートは再開したようだ。
観客たちは、歌の途中で麻希が倒れたことや、そんな彼女を背負って舞台裏に消えた自分のことなど、今やすっかり忘れているに違いない。
二人はついさっき、本当にあの大舞台に立っていたのだろうか。静かな部屋の中で、雅成には信じられない気がした。
それは雅成の思い込みであって、実は二人は朝からずっとこうして保健室にいたのではないか、そんな気がしてくる。
いや、それはあり得ない。確かにあの瞬間、二人は大勢の観客を前にして立っていた。
全てが夢物語であってほしい、そんな気持ちが無意識に自分の精神に幻覚をもたらしているのだ。
あれほど練習したのに、二人の息はまるで合わなかった。全校生徒を前に、大失態を演じることになった。
こんな筈ではなかった。昨日、麻希を取り囲んでいた女連中の顔がちらついた。
雅成自身のことはどうでもよい。みんなから何と言われようと気にはならない。孤独でいることには慣れている。
しかし麻希は別である。彼女の歌はプロの域に達している。この先芸能界を約束された彼女の歌を、全校生徒に聴かせる筈だった。
彼らがデビュー前の彼女の歌を聴けることは、まさに身に余る光栄と言ってもよいだろう。
しかし麻希の歌はまるで響かなかった。本来の声は出せなかった。
それは「無言の歌」だ、雅成は思う。
日頃から麻希はみんなと距離をおいていた。人と交わることを避けていた。
それは彼女の性格がそうさせるのか、あるいは学校を中退するつもりで、意識的に友達を作らないようにしていたのか、いずれにせよ、彼女はいつも無言だった。
そして、いよいよ学校を去ろうという時、彼女は美しい歌声で全校生徒に語りかける。みんなはその卓越した才能に触れ、彼女の存在を認める筈だったのだ。
しかし麻希は無言の歌しか唄えなかった。
雅成はひどく自己嫌悪を感じた。全ての責任は自分にある。
麻希を無理矢理ステージに引っ張り出したのは、雅成なのである。彼女はますます校内で孤立する結果となってしまった。
雅成の耳には、女連中のあざ笑う声が渦巻いていた。
麻希に何と声を掛けたらよいだろうか、まるで見当もつかない。
彼女としても、実力を発揮できずに終わったことを不本意に感じているのではないだろうか。もし彼女が望むのなら、自分にはいつでもギターを弾く用意がある。
もう一度チャンスが訪れないだろうか。せめて一度でいいから、彼女の歌声を学校に響かせたいと思うのだ。
雅成はじっと一人で考え続けていた。
芸能界に進む彼女に、よき学校生活の思い出を残してあげたい、そんな気持ちで一杯だった。
どれだけ時間が流れたのだろう。
閉ざされたカーテンの中から、シーツがめくれて身体の動く気配があった。
「麻希?」
雅成は椅子から立ち上がって、そっと声を掛けてみた。
「雅成くん、そこに居たの?」
奥からしわがれた声が聞こえた。
「気がついたかい?」
雅成はカーテンに張りつくようにして訊いた。
「うん、もう大丈夫よ」
白い手がカーテンの重なりを器用に押し分けて、小さな隙間を作った。
雅成が思わず手を伸ばすと、彼女はその手をぎゅっと握りしめた。
雅成に言葉はなかった。なぜか涙がこぼれ落ちた。
麻希の手に自然と力が入る。
雅成はもう一方の手で、ゆっくりとカーテンを左右に割った。
麻希は半身を起こして、雅成の方を向いていた。泣いていたのか、目の周りがすっかり赤くなっている。
ベッドの上の彼女は、体操着に着替えていた。カーテンで仕切られた空間には、女性特有の強い香りが立ち込めていた。
麻希は握った手を離そうとはしなかった。むしろ引っ張るようにして、
「ごめんなさい」
とだけ言った。
「いや、謝るのは僕の方だ」
「どうして?」
麻希はゆっくりと雅成を見上げた。
「そりゃ、君をコンサートに担ぎ出したのは、この僕だからね」
麻希はくすっと笑うと、
「あなたは優しいのね」
と言った。
麻希は握りしめていた手をほどいた。
「でも、違うの。全ては私のせい」
雅成は何かを言おうとしたが、彼女は遮るように続けた。
「昔からそうなの。私って不器用で、ここ一番大事な時にいつも失敗ばかりで」
「いや、とんでもない。君は素晴らしい才能に恵まれている。僕からすれば、羨ましい限りだ。今回は身体の調子が悪かっただけだよ」
「ありがとう。でも、もう励ましてくれなくてもいいの。自分のことは自分が一番よく分かってるから」
麻希はそんな風に言った。
彼女は何もかも投げ出してしまったように感じられた。彼女の折れた心を元に戻すには、どうすればよいだろうか。雅成は頭を巡らせた。
「ねえ、身体が治ったら、もう一度みんなの前で歌を披露してくれるかい?」
「いえ、もうこれで十分よ。これまでとっても楽しかった。あなたのおかげよ」
やはり麻希は今回の失敗を機に、学校では自分の歌を封印するつもりでいるらしい。このままここを去る気なのだろうか。
「悔いはないのか?」
雅成はそんな言葉を口にした。流れ始めた彼女の心を何とか引き止めたい一心だった。
「うん、最初からこうなる運命だったのよ」
麻希は口元だけで笑った。
「これまで色々あったけど、麻希は全然悪くないんだ。これからもみんなの前で堂々としてればいい」
雅成は強い調子で言った。それは間違いないと思った。少なくとも自分は彼女の味方である。
しかし雅成には、そんな風に言葉でしか彼女を励ますことができないのだ。それを思うと自分の限界を感じて悲しくなる。
優れた才能を持ち、将来の夢に向かって歩き出した麻希に、何の取り柄もない人間が何を言おうとまるで説得力がないではないか。
だがそうでもしないと、彼女は自信を取り戻せないように思えた。このままでは彼女は暗い過去を背負って生きていくことになる。
「ごめんね、雅成くんには余計な心配ばかりかけて」
麻希は静かに言った。
「もう芸能界に進むことは決めているんだろ?」
「ええ、そうよ」
「いつまでこの学校に居られるの?」
「本当はもっと早くに出て行くつもりだったんだけど、何だか居心地がよくて、決心が鈍ったみたい」
麻希は思い出すようにそう言った。
「僕にはこんなことを言う権利はないけれど、できればあと一年半、いや半年でもいいから、麻希にはこの学校に残ってほしい」
「一年半?」
「そう、できたら一緒に卒業したいと思う。少しでも長く君の傍に居たいんだ」
「ああ、もうそれ以上は言わないで」
麻希が両手を前に突っ張るようにして言った。
「だって、悲しくなるでしょう?」
「いや、でも言わせてくれ」
雅成はその両手を左右から包み込むようにした。
「いつからか分からないけど、麻希のことが好きになっていたんだ。いつも君のことを意識していたけど、それがどんな気持ちかよく分からなかった。でも今日、舞台に立ってはっきりしたよ。自分のことより、君のことばかりが心配だった。だからはっきりと言えるんだ、麻希のことが好き、ってね」
麻希はうつむいて雅成の言葉を黙って聞いていた。そして最後に顔を上げた。
「あーあ、言っちゃった」
「えっ?」
「ううん、何でもない。でもとっても嬉しい。私もあなたのことが好きだったの、きっと」
雅成は突き上げてくる衝動を抑えることができなかった。自然と麻希の唇に自分の唇を重ねていた。
彼女の顔は火照っていた。それは猛烈な羞恥心からなのか、それとも風邪の症状なのか雅成には分らなかった。
唇をほどくと、雅成は、
「麻希のこと、大好きだよ」
と言った。
麻希は顔を真っ赤にしたまま、
「できることなら、あなたとはもっと早く出会っていればよかったわ」
と笑顔で言った。
それは雅成が初めて見る美しい顔だった。彼女にもこんな表情があるのかと驚いた。
確かに入学してすぐ彼女と知り合っていれば、お互い学校生活も違ったものになったかもしれない。
「でもその言葉だけは、もう少し取っておいてほしかったわ」
麻希はちょっと不満そうな調子で言った。
「どうして?」
「だってその方が、長く一緒に居られたもの」
麻希はおかしな事を言った。
「それ、どういう意味?」
「ううん、それはこっちの話」
麻希は笑った。
「さて、そろそろ私は戻らなきゃ」
「戻るって、家に?」
雅成はどうもさっきから麻希の様子がおかしいことに気づいていた。彼女は今にも自分の元から離れていってしまいそうだった。せっかくお互いが告白し合ったというのに。
麻希はベッドから両足を降ろした。
そして雅成の目の前をすり抜けて、ドアのところまで歩いていった。
彼女は自宅に帰るのだろうか。もしそうなら自分が送ってやらなければならない。
そんなことを考えて、麻希に何か言おうとしたその瞬間だった。
麻希は雅成の方を突然振り返り、
「今までありがとう。でも、さようなら」
そう明るい言葉を残して、ドアを開いて廊下に出ていった。
「麻希!」
反射的に声を上げると、彼女の後を追った。今すぐドアを開けば、そこには彼女の背中がある筈だった。
ドアを開けた。
しかし麻希は居なかった。
慌ただしく廊下の左右を見回しても、彼女の姿はどこにも見当たらない。
あるのは、文化祭の飾り付けと、歓声を上げて行き交う生徒たちの姿だけであった。
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それは不思議な光景だった。
今、保健室を出ていったばかりの麻希の姿がどこにもないのだ。あれから三秒と経っていない。雅成は扉の向こうに彼女の姿を捉えることができると信じて疑わなかった。
しかし彼女の姿はどこにもない。何とも受け入れがたい現実だった。まさか、人間が煙のように一瞬で消える筈もない。
雅成には、背筋が凍るような恐怖感だけが湧いてきた。
麻希は一体どこへ行ってしまったのか。
確信のないまま、廊下を駆け出した。こうでもしないと、心を落ち着けることができない。このままでは不可解な現象を認めることになる。
体育館へ向かって猛然と走る。さっき麻希を背負って歩いた道である。彼女の温もりが思い出された。
校内は文化祭一色である。
しかし雅成にとって、それは何の意味も持っていなかった。
一刻も早く麻希を見つけたい。もしこのまま見つからなければ、何かとんでもないことになるような気がする。
のんびり廊下を歩く学生らを縫うように走った。
もしかすると、麻希はどこか教室に逃げ込んだのかもしれない。そう思って、廊下の左右に目を遣ることは忘れなかった。しかし彼女が隠れるような場所はなかった。
いよいよ校舎の端まで到達してしまった。
中庭を通り抜ければ、その先は体育館である。しかし麻希の姿はどこにもない。
しまった、反対方向を探すべきだったか。
雅成は慌てて保健室の方へ引き返した。途中、階段を下りてきた女生徒二人とぶつかった。
「ごめん」
雅成は、悪態をつきながら体勢を立て直す二人を尻目に走り続けた。足がもつれて転びそうになる。
保健室の前を通過して、その先を急いだ。
廊下は直角に折れて、その先は体育教官室や武道館で終りである。この辺りは文化祭の飾り付けもなく、麻希どころか人の気配さえ感じられなかった。
静まりかえった廊下に雅成の靴音だけが響き渡る。
突き当たりの武道館まで来てしまった。扉に手を掛けてみたが、びくともしなかった。ここは元々鍵が掛かっている。この中に麻希がいるとは考えられなかった。
雅成は肩を落として今来た道を戻った。
麻希は一体どこへ消えてしまったというのか。
ほんの数秒の出来事なのである。彼女がその間に進める距離など、たかが知れている。絶対に遠くへは行っていない。
保健室が見えてきた。
案外、今頃はあの部屋に戻っているのではないだろうか。それが正解のような気がする。いや、そうとしか考えられない。雅成にはかすかな自信が湧いてきた。
保健室まで戻ってきた。
扉を開こうとしたが、何かに引っかかった。鍵が掛かっているのだ。
やはり麻希は中にいる。鍵を掛けて閉じこもっているのだ。
「麻希!」
雅成は扉を叩いた。
「おい、開けてくれよ」
しかし扉は固く閉ざされたままであった。
麻希はどうしたと言うのか。何か気に障ることでもあったのだろうか。雅成の行動が彼女を怒らせたと言うのだろうか。
雅成のしたことと言えば、彼女に告白をして、口づけをしたことである。やはりそれが彼女を傷つけ、心を閉ざす原因になったのか。
「麻希、そこにいるんだろ?」
雅成は扉を叩き続けた。
「一体、どうしたの?」
あらぬ方向から女性の厳しい声がした。振り返ると校医の先生だった。
雅成は一気に救われた気持ちになった。彼女なら鍵を持っている筈である。
「先生!」
「あら、あなただったの?」
校医は呆れたように言った。
「先生、鍵が掛かっているんです。開けてもらえませんか?」
雅成は勢い込んで言った。
「ああ、それは私が閉めたのよ」
「えっ?」
「戻ってみたら誰もいなかったから」
「麻希は、篠宮さんはいませんでしたか?」
「シノミヤさん? 誰のこと?」
校医は怪訝そうな顔で訊いた。
この非常時に何を言っているのだ。雅成はもどかしくなった。
「さっき僕がここへ連れてきた子、篠宮さんっていうんです」
雅成は説明する。
「コンサート中に倒れたんでしょ?」
「そうですよ」
雅成は憮然として言った。
すると校医は驚くべきことを口にした。
「倒れて運ばれてきたのは、あなたじゃないの」
雅成は言葉を失った。しばらく校医と睨み合う格好になった。
彼女の言葉が頭の中を渦巻いていた。
必死にその意味を考える。が、壊れたカメラのように、いつもまで経ってもピントが合わない。今、互いの認識に大きな隔たりが生まれている。これでは、この先会話が成立しない。
「僕が倒れた、って言いました?」
訳が分からない雅成にはそんな反芻がやっとだった。
「ええ、でももうすっかり元気になって、保健室を出ていったのだと思ってたわ」
「とにかく、開けてくれませんか」
雅成は理解するより先にそう言った。
「分ったわ」
この中には麻希がいる筈である。彼女に会うことが何よりも先決である。
校医は口を尖らせるような表情で鍵を差し込んだ。
ドアが開くと、飛び込むように入った。
しかし静まりかえった部屋の中には誰もいなかった。雅成の大げさな息遣いだけが響いていた。
何度も部屋の中を見回した。狭い部屋である。人が隠れるような場所もない。さっき麻希が寝ていたベッドのカーテンは全開になっていて、そのベッドももちろん空だった。
雅成は助けを求めるように、後ろを振り返った。
「さっき、ここに篠宮さんが寝てましたよね?」
腰に両手を当てて立っている校医に確認した。これ以上簡単な問題はない筈だった。麻希の看病をしたのは、彼女に他ならない。
「いいえ、寝てたのはあなたよ」
彼女のしっかりした口調は、雅成の期待をいとも簡単に裏切った。
そんな筈があるものか。何を勘違いしているのか。
「先生、しっかりしてください。ここには背の高い女子が寝ていたんです。彼女を手当したのは、先生ですよ」
「いいえ、私はあなたの手当をしたんです。女の子なんてここには来てないわ」
校医はきっぱりと言い放った。その顔は冗談を言っているようには見えない。彼女は本当に麻希を忘れてしまったというのか。
そうだ、麻希の着替えた制服はどうしたのだろう。ベッド脇に置いてないだろうか。彼女はここを出る時、体操服姿だった。それなら最初に着ていた服がそのまま残っていることにならないか。
雅成はベッドに駆け寄って、その辺りを見回した。しかし彼女の服は見当たらなかった。ベッドの下を覗き込んだり、カーテンを何度か開け閉めして確認したが、麻希が寝ていた証拠はなかった。
雅成の目の前には、自信に満ち溢れた校医の顔があった。
「何かの勘違いでしょう。この部屋にはあなたと私しかいなかった。それに、そもそもシノミヤって子、私は知らないのよ」
何か悪い夢でも見ているようだ。どうして校医は麻希のことを隠すのか。
いや事実、麻希はこの部屋にいたのである。なぜかは分らないが、校医は明らかに嘘をついている。
彼女に全てを白状させる確固たる証拠はないものか。
雅成はなおも食い下がった。
「先生は今までどこへ行っていたのですか? 職員室で篠宮さんの家に電話を掛けていたのではないですか?」
すっかり思い出した。雅成と麻希を部屋に残したまま、彼女は電話を掛けてくると言って出ていったのである。この点をどう説明するのか。
「だから、あなたの家に連絡しましたよ」
「えっ?」
「でもお留守だったから、担任の先生と相談したのよ。そうしたら、お昼までこのまま様子を見ようということになって。ここへ戻ってきてみたら、あなたの姿がなかったと言う訳」
雅成には、もう反論する言葉は残っていなかった。
校医は構わず続けている。
「でも、もう身体の方は大丈夫よね。それだけピンピンしているんだから」
そう言うと彼女は笑顔を作った。
雅成は怖くなって、この場を逃げ出したくなった。そのうち自分まで記憶から消されそうだ。
何より麻希のことが心配である。
雅成は無言で保健室を飛び出した。