15
麻希の意志は固かった。
意識は朦朧としながらも、コンサートの舞台に立つことだけは譲らなかった。
正直なところ、麻希がこんな体調でいつもの歌を唄えるとは思えなかった。
しかしそれが彼女の望みならば、止める訳にはいかない。
確かに校医が言う通り、演奏前に彼女の体調不良を表明しておけば、聴衆の理解は得られるのではないか。何しろ彼女はプロの歌手を目指す人物なのである。大目に見てもらうことは、それほど無理な注文とは思われなかった。
そうなると、むしろ問題があるとすれば、それは自分のギター演奏である。彼女の分まで頑張らなければならない。
雅成は、自分の責任の大きさを実感するにつれ、足が震え始めた。
しかし、やり遂げなければならないのだ。
「麻希、本当に大丈夫かい?」
雅成は彼女の顔をのぞき込むようにして、もう一度訊いてみた。
麻希は何も言わずに、ただ二度、三度頷いた。
「じゃあ、ちょっとここで待ってろ。教室に戻ってギターを取ってくるから」
雅成はそう言い残すと、保健室を飛び出した。
廊下に出ると、文化祭の賑やかな雰囲気が一気に押し寄せてくる。
保健室がこの校内で唯一、隔離された空間であることに気づかされた。
笑顔ではしゃぐ学生たちを縫うようにして、雅成は先を急いだ。
誰もいない教室の扉を開いて、ギターケースを担ぎ上げた。
南に面する窓から体育館が望める。エレキギターやドラムが織りなす立体的な音響が空気を伝わって耳に届けられた。どうやらコンサートは始まったらしい。
教室を出てすぐに、友人の東出と鉢合わせになった。
彼は息せき切って、ここまで辿り着いたという感じだった。
「おい、今までどこにいたんだ?」
彼はいきなりそんな言葉を浴びせ掛けた。
「もうコンサートは始まっているんだぜ」
「これから行くところさ」
「ところで篠宮さんはどうなんだ、ちゃんと来てるのか?」
どうやらクラスの誰かから彼女のことを聞いたらしい。
「ああ、ちゃんといるよ」
雅成は安心させるように大きな声を出した。
「そうか、それならいいんだ。とにかく急ごう」
二人は並んで階段を下りた。
「実は、篠宮さんが退学になる、って噂を聞いたんだが」
そんな東出の言葉に、雅成は思わず足を止めた。
「そりゃ、どういうことだ?」
「何でも、校内でタバコを吸っているところを目撃されたらしいんだ」
「そいつはデタラメだ。誰かが彼女を陥れようとしてるんだ」
雅成は強い調子で言った。その声は、実は自分に言い聞かせているのかもしれなかった。
「さらに悪いことには、お前も一緒に吸っていた、って言いふらしている奴もいるんだ」
馬鹿馬鹿しい話である。まったくもって事実無根である。反論する気にもなれない。
「友人として訊くが、本当に彼女は信用できるんだな?」
「いい加減にしろ!」
自然と怒鳴りつけていた。
周りにいた学生や父兄たちが凍りついて、遠巻きに二人を見た。
東出は小さな声になって、
「それだけ、彼女の評判はよくないってことだ」
と言って、階段を先に下り始めた。
雅成は愕然とせずにはいられなかった。
一体誰がそんなデマを流しているのか。
まさに見えない敵である。相手が人間ならば戦う術もあるだろうが、得体の知れない噂ではまるで戦いようもない。
「お前は、麻希と会っただろ? そんな悪い子に見えたか?」
雅成は東出の背中に問いかけた。
「いや」
彼は振り返ることなく答えた。
「彼女は本当に来ているんだな?」
東出は心配を隠せない様子である。
「ああ」
雅成は口を開くのも面倒だった。今は麻希のことをあれこれ話す気分にはなれなかった。
そして思い出したように、
「これを持って、先に体育館へ行ってくれないか?」
と、ギターケースを手渡した。
「分かった、その代わりすぐ来てくれよ、いいな?」
東出はそう念を押すと、小走りに階段を下りていった。
雅成は向きを変えて、保健室へ向かった。
扉を開けると、麻希はベッドに腰掛けて、校医と何かを話していた。
朝の様子と比べると、随分と元気を取り戻したように見える。何とか舞台に立てそうだ。
雅成は麻希の顔をまじまじと見た。まだ少し熱があるのか、顔がほんのり赤かった。
雅成には、麻希の姿が霞んで見えた。
なぜか、自然と涙が湧いていた。それを彼女に悟られないように顔を逸らした。
麻希にとって、このコンサートに出ることは本当に意味のあることなのだろうか。
このまま二人で逃げ出せたら、どれだけ気が楽だろう。
「ちょっと強い薬を飲んだから、眠気が襲ってくるかもしれないけど、頑張って」
校医はそんな風に麻希を送り出した。
「体育館まで歩けるかい?」
「大丈夫よ」
雅成は彼女に寄り添うように、賑やかな廊下へと踏み出した。
二人は赤や黄色で彩られた廊下をゆっくりと歩いていった。
麻希の手や顔から、異常な熱気を感じる。ブラウスがしっとりと濡れていた。まるで滝のように全身から発汗しているようだった。
麻希の足取りは重く、時に長い足が絡み合ってはバランスを失う。その度に雅成が身体を支えてやらなければならなかった。
文化祭に沸く校内の生徒たちから見れば、今の二人はひどく不可解な動きをしているに違いなかった。
その証拠に、好奇に満ちた視線が何度も二人に向けられた。
しかし雅成は少しも動じることはなかった。
今はただ麻希の傍で、彼女の力になってやりたいという気持ちだけだった。
校舎を出て、渡り廊下を行くと、頭上には大空が広がっていた。青い空が白々しく感じられた。どうして空はこんなに澄みきっているのだろうか。
雅成はそれが憎らしくてたまらなかった。
もう会場の近くまで来ている筈なのに、なかなか辿り着くことができなかった。
ちょうど楽曲が終わって、観客の声援や拍手が響き渡っていた。
ここへ来るまでに雅成は何度歩くのを止めようとしたことか。コンサートを辞退できるなら、どれほど幸せだろうと考えた。
しかし麻希は必死だった。自分から身体を引きずって、少しでも前に進もうとした。決して立ち止まらなかった。そんな彼女の強い意志が雅成をここまで引っ張ってきたのだ。
体育館の外では、東出が待っていた。
麻希の異変に気がついたのか、すぐに駆け寄ってきた。
「篠宮さん、大丈夫かい?」
東出は訳が分からないといった顔で、雅成の方を見た。
「ひどい風邪なんだ。俺は止めたんだけど、彼女がどうしても出場したい、って」
「でも、これじゃ無理だろう」
「私、歌います」
麻希の声は震えていた。
保健室からここへ来るだけで、相当体力を消耗したのかもしれない。
東出は麻希の気迫に圧倒されたようだった。それ以上、何も言わなかった。
「まだ、間に合うのか?」
雅成は東出に訊いた。
もし自分たちが出演時間に遅れたのであれば、それでもいいと思っていた。麻希には申し訳ないが、これで彼女を舞台に立たせなくて済む。彼女の醜態を全校生徒の前で晒したくはなかった。
「ぎりぎりセーフだよ、君たちはこの次だ」
東出は無情にもそう答えた。
どうやらこれが、篠宮麻希に与えられた試練らしい。
最悪のコンディションになってしまった。こんなことになるなら、コンサートの話を持ち掛けるのではなかった。雅成は彼女に謝罪する気持ちで一杯だった。
二人は舞台裏へ回った。
何人かの生徒が楽器を傍らに置いて、出番を待っている。
スタッフが二人の姿を見つけると、
「どこに行ってたんだ、遅刻だぞ!」
と叫んだ。
彼の片手のストップウォッチが、薄暗い蛍光灯の明かりでチラチラと反射した。
雅成はその無遠慮な言葉が我慢ならなかった。こちらにも事情があるのだ。一言返そうと口を開こうとした途端、麻希の身体が割り込んできた。
「何も言わないで、お願いだから」
そして、
「どうもすみませんでした」
と、スタッフに頭を下げた。
「次の出演者の準備があるんだ、しっかりやってくれよ」
怒号が飛ぶ。
この舞台裏では、少々声を張り上げても何の問題もなかった。舞台の演奏が大きな音の壁を作っているからである。
「二分前!」
舞台の袖から別のスタッフの声が響く。
「二年生の芹沢君と篠宮さん、スタンバイしてください」
雅成は麻希の小さな手をぎゅっと握りしめた。
16
雅成と麻希は舞台裏でひっそり並んで座っていた。
舞台からは、エレキギターが生み出す激しい音とボーカル、そして観客の歓声が入り交じって聞こえてくる。
雅成は意味もなく、天井を見上げた。
こんな薄暗い空間にも、天窓から光が差し込んでいる。その白い光の中で、細かいほこりが舞い上がっていくのを、雅成は見た。
自分たちは天に召されるのだ、と思う。いや、その前に裁きを受けなければならない。
これまで学園で目立たぬように暮らしてきた二人が、今大舞台に立ち、生徒達の心に語りかけようとしている。果たして、そんなことが許されるのだろうか。
自分を落ち着かせようとすればするほど、むしろ心は高ぶってくる。今まで経験したことのない緊張が、雅成を押しつぶそうとする。
手のつながった麻希にそれを悟られないようにするのに、雅成は一生懸命だった。わざと胸を張り、堂々たる姿を崩さずにいた。しかし見えない震えが常に足元から這い上がっていた。
舞台に立つこと、人前に出て歌を唄うこと、それは何と度胸のいることなのか。さらに観客を沸かせるなど、自分には思いも寄らない。
しかし隣のこの少女は、これからそんな世界を生きていくというのだ。
この際、自分のことはどうでもよい。麻希がしっかり評価されれば、それでいい。
雅成は麻希の顔を窺った。薬が効いてきたのか、眠い目をわざと見開くようにしている。顔の火照りはどうやら引いているようだった。
「麻希、大丈夫か?」
そんな言葉を何度掛けたことか。
「はい」
麻希が小さく頷いた。何とか、行けそうだ。
今舞台では、前の組の演奏が終わったところだった。まだエレキギターの余韻も冷めやらぬ体育館は、観客の拍手、歓声で満たされていた。
いよいよ、自分たちの出番である。
楽器を抱えたメンバー達が、舞台裏に引き揚げてきた。どの顔もみな興奮している。誰もが自分に陶酔しているようだった。
「芹沢さん、篠宮さん、ステージへ出てください」
スタッフの声が轟く。
「はい」
雅成は返事をすると、麻希の手を引いてステージへと歩み出した。
麻希は足がもつれそうになりながらも、雅成の後に続く。
目の前には何百という観客の姿が広がっていた。
体育館の端から端までぎっしりと埋められた彼らの視線は、今や自分たちだけに向けられている。
もう後戻りはできない。やれるだけのことをやるだけだ。
不思議と場内は水を打ったように静まりかえっていた。先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。
雅成は麻希の手を離すと、アコースティックギターを構えた。マイクの高さを調整する。
麻希の方をちらっと見た。彼女はマイクにもたれかかるような姿勢で、何とか一人で立っている。
彼女は最後まで立っていられるだろうか、雅成の脳裏に不安がよぎる。
雅成はマイクに手を掛けて、番号と名前を告げた。極度の緊張が声を震えさせる。会場の一部から笑い声が漏れた。
続いて麻希も名前を口にした。
どこかで心ない者の罵声が上がった。
「すみませんが、今日は篠宮さんは風邪を引いていて、本調子ではありません。どうかよろしくお願いします」
雅成の声に会場がざわつき始めた。
そんな淀んだ空気を一掃するかのように、雅成はさっさとギターを弾き始めた。
マイクを通して、ギターの乾いた音色が体育館に拡声する。目の前の小さな楽器が、自分の手の動きに合わせて、身体を震わせるほどの大きな音で鳴っていた。
それは会場を埋め尽くす観客の耳へと届いている。彼らの感覚を揺り動かしているのは、他でもない自分の演奏なのだ。
それは恐れ多くも、神の領域へ足を踏み入れたように思われた。これは自分の仕事ではない。途端に恐怖感が生まれる。そして身体の自由を奪い去るのだ。
雅成は演奏をしながら、違和感を覚えた。何かがいつもと違うのだ。これまで幾度となく同じ曲を弾いてきたが、これほど満足できないことはなかった。
果たして、麻希の方はどうだろうか。こんな酷い伴奏に、うまく歌声を重ね合わせることができるのだろうか。
身体が硬直して、麻希の様子を窺い知ることができない。心のゆとりがまるで消えていた。今このギターを弾いているのは、誰かも分からなくなってくる。
いよいよ、麻希の歌声が合流した。
いつもとはまるで違う音色だった。雅成には別人の声に聞こえる。あの透き通る爽やかさが少しも感じられない。
口先から不明瞭な言葉が流れて来る。声量は一定ではなく、時に途切れ途切れになった。
もうこれは麻希の声ではなかった。川で溺れた子供が、必死に助けを求めているようだった。
雅成は絶望的な気分に襲われた。やはり麻希をこの舞台に立たせたのは間違いだった。後悔の念が一気に押し寄せた。
すぐにでもギターを弾く手を止めたい衝動にかられた。しかしそれでも麻希は一生懸命に歌っている。伴奏を止める訳にはいかない。
今、麻希の声が一瞬裏返った。もはや彼女に表現力などなかった。操縦不能に陥った飛行機が、ただ力任せに空を行くようだった。自分の意志で声を調整することすら困難に思われた。
サビの部分で、麻希は咳き込んだ。雅成の伴奏に雑音が交じった。これはもう歌とは言えなかった。それでも彼女は歌うのを止めなかった。
会場は騒然となっていた。どうやら嘲笑や野次が飛び交い、講堂は揺れているのだった。いつからそんなことになっていたのか、麻希の様子に気を取られ、まったく気づかなかった。
ギターの伴奏からは徐々にリズム感が失われていく。まるで今にも消えてしまいそうなロウソクの炎が、最後のあがきで揺らめくように、メロディが浮ついていた。
雅成は麻希のことだけが心配だった。やはり彼女をこの舞台に立たせるのではなかった。完敗だと思った。
もう会場は怒号だけに支配されていた。もはや静かに歌を聴く者は誰もいなかった。まるで生徒らは暴徒と化したようだった。
一人ひとりの叫び声が、何を言っているのかはっきりと聞き取れない。しかし体育館を支配するほどに膨れ上がったうなり声は、容赦なく雅成に牙をむいた。身の危険すら感じる。
そんな中、突然麻希の身体がぐにゃりと折れ曲がり、ステージの上を転げ落ちた。会場の喧騒のせいで、彼女が倒れる音がまるで聞こえなかった。
いつの間にか彼女の声が聞こえなくなっていて、気がつくと、麻希の身体がだらしなく倒れていた。
会場は予期せぬ出来事に静まりかえった。一体何が起きたのか、誰にも分からないようだった。観客は唖然として、ステージを見守るしかなかった。
雅成はギターを放り出して、彼女の傍に膝をついた。
「麻希、しっかりしろ!」
彼女から返事はなかった。意識がないように見える。
舞台裏からスタッフが飛び出してきた。
麻希の身体は異常なほどの熱を帯びていた。彼女の傍に寄るだけで、その熱気は雅成の身体にまとわりつくほどだった。
麻希は薄目を開いて雅成の顔を確認すると、口元をゆっくりと動かした。しかし声はまるで出ていなかった。
それでも口の動きからは、「ごめんなさい」と読み取れた。
(どうして君が謝るんだ?)
彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。むしろ謝るべきは自分である。こんなことになるなら、彼女をコンサートに誘わなければよかった。
二人を取り囲んだスタッフらは、互いに顔を見合わせていた。予想もしなかった事態に戸惑っているのだ。
「とにかく保健室に運ぶんだ」
舞台の上で主催者の声が飛んだ。
「そうしよう」
その声に促されるように、スタッフの作る円陣は小さくなった。
輪の中心にいた雅成は、麻希を抱きかかえるようして立たせた。しかし彼女の足はおぼつかなかった。
一度彼女を肩に担ぐようにしてから、背中に負ぶった。麻希の手が雅成の首にしっかりと巻きついた。
「一人で大丈夫かい?」
すぐ横でスタッフが訊いた。
「手伝おうか?」
続いて周りからも声が上がる。
「結構です、この方が楽ですから」
雅成は身体をまっすぐ伸ばしてそう言った。それから二、三歩しっかりした足取りを見せた。
人垣が一カ所だけ開いた。そこから舞台裏へと向かう。不思議と雅成の心は落ち着いていた。
観客席を背にして歩き出すと、体育館がざわめいていることに思い至った。
彼らは去りゆく二人の姿を見て、笑っているのだろうか、それとも驚いているのだろうか。
しかし雅成にとって、そんなことはどちらでもよかった。今は麻希の身体を落とさないように歩くことで精一杯だった。
耳元で麻希が喘ぐように呼吸をしているのが分かる。彼女と接触している背中が汗ばんでくる。
「麻希、もう少しの辛抱だ。頑張れよ」
雅成は前を見据えたまま、声を掛けた。その声が果たして彼女に届いているのか自信がなかった。
しかし雅成は構わず、何度も言葉を掛け続けた。むしろそれは自分自身に言い聞かせているのかもしれなかった。
体育館から保健室までは、かなり距離がある筈だった。しかし雅成は無我夢中で、一体どうやって歩いてきたのか、まるで記憶がなかった。途中廊下で、人々の好奇の視線が向けられていた筈だが、それもまったく気がつかなかった。
気がつけば、雅成は保健室の前に立っていた。