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12

 雅成は風呂から出ると、早速ギターを構えた。

 麻希の曲を奏でてみる。

 乾いた音が部屋中に響き渡った。どうやらギターには何の問題もなさそうである。

 すぐにベッドに横たわった。

 天井を見て、篠宮麻希のことだけを考えた。

 果たして、彼女は芸能界に向いているのだろうか。

 今回の一件で、彼女は不安定な精神を露呈してしまった。他人の言動で、たやすく心が揺れ動いてしまう。そんなことで厳しい世界を乗り切っていけるのだろうか。

 芸能界は華やかでありながら、その裏、厳しい世界に違いない。毎年数え切れないほどの歌手がデビューし、瞬く間に消えていく。

 確かに麻希の歌唱力は認める。しかしそれが直ちに成功につながるといった甘い世界ではないだろう。

 麻希のことはよく分かっている。

 もし彼女に再考を促すことのできる者がいるとすれば、それは自分ではないか。

 しかし彼女に人生のアドバイスができるほど、優れた人間でもない。ひどく平凡な高校生に過ぎないのだ。

 麻希の将来は、やはり彼女自身が決めるべき、か。

 雅成は二度大きなクシャミをした。風邪を引いたら大変である。慌てて顔まで布団を被った。

 麻希は今頃どうしているだろうか。風邪を引いていなければよいのだが。


 いよいよ文化祭当日を迎えた。

 雅成は、あまりにも時が早く過ぎ去ったことを感じずにはいられなかった。あの日誰もいない海で、麻希とコンサートに出場することを約束した。それからギターの練習に追われる日々を送った。夏祭りは彼女から将来の夢を打ち明けられた。

 全てはつい数日前のことのように思い出される。

 これほど充実した生活を過ごせたのも、麻希のおかげである。本当に彼女には感謝せねばならない。

 彼女と出会う前は、まるで川を流れる木の葉のように、時に身を任せるだけの人生だった。流れに逆らって泳ごうなどと考えたことはなかった。

 しかし今は違う。知らぬうちに時の流れに逆行しようとする自分の姿があった。初めて時間の経過と真剣に向き合っている。

 ギターの練習時間がもっと欲しかった。自分の技量はまだまだ磨けるような気がする。

 麻希のことだってそうだ。彼女は初めて好きになった女性である。彼女に心を開いてもらおうと、いくら積極的になったところで、もはや時間切れである。

 強い希望を持つ人間に対して、時は何と無慈悲なものか。

 しかしそれを言ってみても始まらない。

 今、この瞬間を大切に生きよう。麻希と一緒に居られることに感謝しよう。

 そのためには、まずはコンサートを成功させることだ。

 ここで持てる力を最大限に出し切ろう。楽器の腕前はさほど問題ではない。麻希の歌声の邪魔にならなければそれでよい。

 そもそもこのコンサートは麻希のためのものだ。彼女の歌声を学校中に響かせ、そして彼女の存在を正しく認識させること、それが雅成の最大の目的である。

 コンサートが終わったら、自分の気持ちを麻希に伝えようと思う。

 彼女はどう応えてくれるか分からないが、このまま彼女と別れてしまうのは我慢できない。

 麻希の前では、彼女に負けないよう、積極的でいたいと思う。

 雅成は、まだ完全に乾き切ってないケースを担いで自宅を出た。

 日差しが眩しかった。見上げると、昨日とはうって変わって、抜けるような青空がどこまでも大地と競い合っていた。

 麻希の歌声が今日、この大空に吸い込まれていくのだ。空は遥か遠く、未来まで続いている。やはりコンサートは彼女の第一歩に相応しい。

 麻希が芸能界へ進み、ある程度名前が知れ渡ったらどうなるだろう。今日コンサートに居合わせた学生たちは、誰もがデビュー前の貴重な歌声を聴いたのだと、後に自慢することになるだろう。

 雅成はそんなことを考えて、一人笑みを漏らした。


 いつもと同じように教室の扉を開けた。ギターケースを少し持ち上げ気味に、時間を掛けて自分の席まで辿り着いた。

 今日は文化祭一色で、授業はない。教室内の生徒は皆、笑顔だった。

 しかし雅成の隣の席はぽっかりと空いたままだった。まだ麻希は来ていなかった。

 生徒が続々と座席を埋めていく。そんな中、隣の席だけ時間が止まっているかのようだった。

 春、最初に麻希と出会った日のことを思い出した。

 あの日も、この席だけが空いていた。彼女は平然と遅刻してきた。

 しかし今日はあの日とは違う。

 雅成は今朝は彼女も早目に登校するだろうと考えていた。コンサートの最終打ち合わせもある。何よりパートナーと意気投合することで、高まった緊張も解きほぐすことができる。

 しかしいつまで経っても、麻希は現れなかった。

 雅成は途端に心配になった。まさか彼女が来ないということがあるだろうか。

 思い当たるのは、昨日の一件である。学校に嫌気がさしたということは考えられないか。

 麻希は芸能界の扉を叩こうとするほどの大物である。そんな価値ある歌声を、この学校の生徒に聴かせる義理はない、そう思ったのではないか。

 いや、そんな筈はないと思う。

 麻希一人が舞台に上がるわけではない。パートナーがいるのだ。そのことを忘れてしまう筈がない。

 昨日、彼女は別れ際に、「頑張ろう」と言った。作り笑顔ではあったが、確かにそう言った。

 もし彼女が来ない気でいるのなら、それは雅成に対する裏切り行為になるのではないだろうか。

 しかし、これまで考えてもみなかったが、その可能性がないとは言い切れない。

 麻希が雅成を特別な存在ではなく、単なる学校の生徒の一員として考えているのであれば、おかしいことではない。

 もとより友達のいない彼女が、文化祭を休んでも何ら不思議はないのだ。

 雅成は、隣の座席を見ながらそんなことを考えた。

 心が締めつけられるように苦しく、もはや居ても立ってもいられなくなってきた。



     13


 チャイムが鳴って、担任が教室に入ってきた。

 教師は今日の予定を話すのだが、それを真面目に聞く者は誰もいなかった。今日は特別な日である。気の合う仲間同士、すぐにでも教室を飛び出したい衝動を抑えるのに一生懸命といった様子である。

 そんなホームルームもあっさりと終わってしまった。

 生徒たちはそれぞれ弾かれたように教室を出ていく。

 ついに麻希は姿を現さなかった。

 彼女はどうしてしまったのだろう。雅成の心配はピークに達していた。

 もしかすると、昨日の激しい雨に打たれて、体調を崩してしまったのではないだろうか。

 彼女が自宅で寝込んでいるとしたら、コンサートどころではない。出場を辞退して、今すぐにでも彼女の所へ飛んでいかなければならない。

「あいつ、人前で歌うのが怖くなったんじゃないか?」

「それで逃げ出したのか」

 教室を立ち去る男子生徒の中から、そんな声が聞こえた。

 雅成は反射的に声のした方を睨みつけた。が、生徒たちは笑い声を残して、さっさと出ていってしまった。

 誰もいなくなった教室で、雅成は椅子に座っていた。

 窓からは、派手な立て看板や、その中を忙しく動き回る制服が見えた。

 すでに校門付近は、外部からの来訪者でごったがえしている。

 それは文化祭の始まりを告げていた。

 誰もがこの非日常的な瞬間に、心弾ませているにちがいない。今、校内で不安を抱えているのは、きっと雅成ただ一人であろう。

 さて、これからどうしたらよいだろうか。とにかく麻希に電話をしてみようか。

 その時である。

 教室の扉が控え目に動き出した。

 扉が半分ほど開くと、そこには麻希の姿があった。

 身体をくの字に折り曲げるようにして、やっと立っていた。どうやら自立するのも辛いのか、扉にもたれ掛かるようにして身体を支えている。

 まるで砂漠の中を命からがら歩き続けてきた旅人を思わせた。

 いつもの麻希ではないことは明らかだった。

「麻希!」

 雅成は慌てて駆け寄った。周りの机がガタガタと音を立てた。

「遅くなって、ごめんなさい」

 麻希は喉の奥からひねり出すような声で言った。

 そんなことはどうでもよかった。彼女の身体は正常ではない。

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫」

 蚊の泣くような声。よく聞き取れない。

 目の前の顔は紅潮していた。目がうつろだった。

「熱があるんじゃないか?」

 雅成は思わず麻希の額に手を当てた。

 異常なほどの熱を感じた。

「とりあえず、保健室へ行こう」

 この提案に麻希は何も言わなかった。

 雅成は彼女の肩を抱えるようにして、廊下を歩き出した。

 廊下の賑わいも、今の雅成の目にはまるで映っていなかった。ゴムまりのように弾む生徒らの横をすり抜けていく。

 相当な時間を掛けて、保健室まで辿り着いた。

 幸いにも校医が居てくれて、麻希に必要な処置をしてくれた。

「ベッドにしばらく横になっているといいわ」

 麻希にそう言い残すと、校医はカーテンを閉めた。

 そして雅成と向き合った。

「先生、彼女は大丈夫ですか?」

「心配は要らないわ、ただの風邪だから。無理をしたから、熱が出ただけ」

 若い校医は安心させるように、口元に笑みを浮かべて言った。

 それを聞いて、心の重荷がゆっくりと解けていく感じがあった。

「もう行っていいわよ。後は私に任せて頂戴」

「いや、彼女の傍に居てやりたいので」

 雅成は慌ててそう言った。

「あら、でも今日は文化祭よ。あなたも色々と見て廻りたいでしょう?」

「特に予定はないですから」

「そう?」

 校医は少し驚いたようだった。

 雅成は今日のコンサートの出場を辞退するつもりでいた。麻希がステージに上がれない以上、参加する意味はない。

 二人は笑い者になるかもしれないが、そんなことはまるで気にならなかった。

 それより心配なのは、麻希の容態である。

 雅成は麻希と同じ部屋で、カーテン一つ隔てて静かに座った。



     14


 麻希は軽い寝息を立てて、カーテンの向こうで眠っていた。

 雅成はその場から離れることなく、彼女のことだけを考えていた。

 篠宮麻希、つくづく不思議な少女だと思う。

 彼女自身、真面目に生きている。自分の才能を生かすべく、この歳にして将来のことを真剣に考えている。

 彼女には夢がある。それに向かって突き進んでいる。

 しかし不幸なことに、彼女を取り巻く環境は、そんな彼女を暖かく見守ってはくれない。ただ一生懸命に生きようとする彼女に構わなければよいものを、その才能に嫉妬するのか、はたまた性格が気に入らないのか、足を引っ張ろうとする。

 雅成はそんな悲運な少女に共感できる部分がある。

 どうして学校は、人を型に嵌めようとするのか。彼女のような生き方があってもいいではないか。

 麻希には強く生きてほしい。彼女には歌という武器がある。芸能界でその力を最大に発揮するには、今以上に強靱な体力、そして精神力が必要となるだろう。

 他人からの中傷や嫌がらせに精神が揺さぶられるようでは、アーチストとして成功するには程遠い。

 どのくらい時が経過したのだろうか。突然カーテンの奥から人の動く気配がした。

 どうやら彼女は目を覚ましたらしい。

 カーテンが細目に開いた。

 そのわずかな隙間から、麻希はこちらを窺っているようだった。

 麻希の視線が、雅成の視線を掴んだ。

 すぐさまカーテンが力強く開かれた。

「雅成くん!」

 かすれた声がそう呼んだ。

「麻希、まだ寝てればいいよ」

「コンサートはどうなったの?」

 言葉がもつれるようだった。ベッドから降りようとする。

 雅成はそれを制止しながら、

「またの機会にしよう」

 口ではそんなことを言っておきながら、それは真実味のない話だった。まもなく学校を去っていく麻希に、果たしてそんな時間があるだろうか。

 でも彼女を安心させるには、そういう言い方しか思いつかなかった。

「まだ間に合うんでしょ?」

 麻希はなおも続ける。

「ああ、まだ始まってないからね」

「だったら出ましょうよ」

「その身体じゃ、無理だ」

 雅成は叱りつけるように言った。そうでもしないと、彼女が諦めそうもなかったからである。

「お願い、私はあなたと舞台に立ちたいの」

 麻希の声は上ずっていた。しかも涙混じりだった。

「いや、今回は辞退しよう。君のその身体じゃ無理だ」

「少し横になったら、随分と楽になったわ。だから大丈夫」

 麻希は背中を丸めるようにして懇願した。その姿はまるで無力な愛玩動物を思わせた。雅成の心は揺らいだ。

「私は歌いたいのよ!」

 麻希は一段と大きな声を上げた。

 雅成の心の迷いは大きくなった。

 今の調子では、とてもじゃないがいつもの歌が唄える雰囲気ではない。おそらく舞台に立っているのがやっとではないだろうか。

 麻希の真意が計りかねた。

 どうしてそこまで学校のコンサートに拘るのか。これはオーディションでもなければ、仕事でもない。単なる余興に過ぎない。身体を犠牲にしてまで、やらなければならない種類のものではない。

 保健室は、静寂に包まれていた。

 さっきから二人のやり取りを見ていた校医も、麻希の激しい様子に圧倒されたようだった。少し離れた場所から傍観している。

「君には悪いけど、今の状態じゃ、まともに歌は唄えないよ」

 雅成はわざと落ち着いた声で言った。

 麻希は途端に顔を両手で覆って泣き出した。時に嗚咽を漏らした。

 雅成はどうすればよいか分からなくなった。泣きたいのは自分の方である。

「分かった、分かったよ」

 麻希の肩に手を掛けて、軽く揺すった。

 彼女がこれほど取り乱しているのを初めて見た。

 人前で、いやこの学校の学生を前にして歌うことは、それほど大事なことだったのか。それが歌手の卵である、麻希の意地というわけか。

 彼女は肩を上下に動かして泣きじゃくっている。

 もはや雅成の声も聞こえてはいないようだった。

「麻希、もう泣くなよ」

 そう言いながらも、辛い気分になった。

 麻希の身体を思って決めたことが、彼女は気に食わないらしい。互いの気持ちがすれ違うことにもどかしさを感じる。

 雅成は助けを求めるように、校医を見た。

「演奏時間は?」

 彼女は冷静に訊いた。

「四分ほどです」

「それじゃあ、一応舞台に椅子を持って上がりなさい」

「彼女は大丈夫でしょうか?」

「声がまともに出るかどうかは分からないけど、どうしても、って言うなら仕方がないわ」

「はい」

「それから、歌う前に観客に一言、断りを入れておいた方がいいわね。彼女が風邪にかかって、今日は本調子ではありません、って」

 校医は呆れた顔をしながらも、心配をしてくれているのだった。

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