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 ここに一枚のメモがある。どうやら手帳の一頁のようだ。相当慌てていたのだろうか、勢いよく破った上に、乱れた文字で次のように書いてある。


「篠宮麻希が好き。麻希を忘れない、忘れたくない」


 芹沢雅成は、メモを手にとって、しばらくその意味を考えた。鉛筆で書かれたこれらの文字は、長年の歳月を経て、滲んでしまっている。それでもこれは自分の若い頃の筆跡である。疑う余地はない。

 問題はその内容である。雅成はこの短い文章を反芻してみた。ついには声に出して読んでみた。

 しかしこの文章が一体何を意味しているのか、さっぱり分からないのだ。

 どれだけ過去をたぐり寄せても、この篠宮麻希という人物にまるで心当たりがないのである。

 この人物は、一体誰なのか。

 文面通りに、これが自分の恋した女性の名前だとしたら、今も覚えている筈である。しかし「篠宮麻希」という四文字は、何も心に訴えかけてはこないのだ。

 ひょっとして、これは芸能人か、あるいは小説、映画の登場人物の名前ではないだろうか。そんなことをふと考えてみる。

 いや、それはあり得ないのである。雅成は即座に否定した。

 そんなものをどうして紙に残しておく必要があるというのか。

 それに、「忘れない、忘れたくない」という箇所である。ここには、何か切羽詰まった状況を感じる。やはりこれは架空の人物なんかではない。身近にいた人物と考えるのが自然である。

 そうなると、どうしてそんな大切な人を忘れてしまっているのか、それが分からない。

 結局、謎は堂々巡りするだけで、答えに辿り着けそうもなかった。


 雅成は、明日に高校の同窓会を控えていた。

 それで押し入れの中から卒業アルバムを引っ張り出してみた。十年ぶりに再会する仲間の顔と名前を確認しておこうと思ったのである。

 アルバムの表紙を開いた途端、ひらひらと木の葉のように落ちたのが、このメモだった。

 高校のアルバムに挟んであったからには、やはり高校時代の知り合いの名前だろうか。

 そう考えて、アルバムを最初から最後まで、穴が開くほど見返した。

 しかし、ついに篠宮麻希という名前は発見できなかった。彼女はどうやら公式のアルバムにさえ、見放されたらしい。

 それとも先輩か後輩の名前だろうか。それは今、ここでは調べようがない。明日、同窓会の出席者に、心当たりがないか訊いてみようか。

 それにしても、考えれば考えるほど、気持ち悪くなってきた。名前も忘れてしまう女性を好きだと言っている自分が、ひどくいい加減で、腹立たしく感じられるのだ。


 突然、部屋の電話が鳴り響いた。

 両手から卒業アルバムを解放すると、受話器を取った。

「もしもし、高校のクラス委員だった、谷山です」

 電話の向こうから、やや控えめな声がした。

「ああ、どうも、こんばんは」

「お久しぶり、芹沢君。懐かしいね」

 谷山は急に馴れ馴れしい口調に切り替わった。それは彼らしい演出のように思われた。

 谷山は、成績優秀でずっとクラス代表を務め上げ、スポーツも万能だった記憶がある。そのため女子からは常に人気があった。今もその面影を残しているのだろうか。

「確認のため電話したんだ。明日は、芹沢君は来てくれるんだろ?」

 谷山は早速そんな話を切り出した。

「はい、もちろん行きますよ。夕方六時に高校だったよね?」

「そう、グランドが駐車場になっているから、車はそっちに入れてくれ」

 今回の同窓会は母校の体育館で行われる。

 実は来年、この体育館が老朽化を理由に、建て替えられることになっていた。そのため、消えゆく体育館を会場にしようという案が持ち上がったのである。

 体育館に生徒、恩師が一同に会し、料理もそこへ運ばれる手筈になっているらしい。

「それじゃ、明日は遅れずに頼むよ」

 谷山は最後にそう付け加えて、電話を切りそうになった。

 雅成は間髪いれずに、

「あ、ちょっと待って、聞きたいことがあるんだけど」

と踏みとどまらせた。

「うん? どうした? 二次会のことかい?」

「いや、違うんだ。谷山君は、篠宮麻希って名前に聞き覚えがあるかい?」

「シノミヤ?」

 怪訝そうな声が、受話器から伝わる。

「二宮じゃなくて?」

「いや、篠宮麻希っていうんだけど」

 お互いが受話器を手にしたまま、無言になった。谷山はしばらく考えているようだった。

「そんな名前は名簿にはないけど」

「転校生とか、そういう子は?」

 雅成はなおも食い下がった。

「いや、そういうのも全部名簿には入っているから、間違いないよ」

「そうか」

 雅成には、さほど失望感はなかった。こちらも卒業アルバムで確認済みである。あくまで念のため、という程度だった。

「上級生か下級生なら、どうだろう? 知らないかい?」

「いや、僕の知る範囲では、そんな名前はいなかったと思うんだが」

 人脈が広かった谷山が言うのだから、間違いはないだろう。

 それでは篠宮麻希というのは一体、どこの誰なのか。謎は謎のままである。

「その篠宮ってのは、どういう子なんだい?」

 今度は谷山が逆襲してきた。雅成は返答に窮した。まさか例のメモの話をする訳にもいかない。

「いや、いいんだ、こっちの勘違いだな、多分」

「そうか、じゃ、明日楽しみに待ってるから」

 そこで谷山は急に思い出したように、

「ところで、まだギターは弾いているのかい?」

と訊いた。

「ギター?」

 一瞬、何の話か分からなくて聞き返した。

「ギターだよ、ほら、文化祭で弾き語りしただろ?」

「ああ、あれか」

 雅成は今、やっと思い出した。確かにそんなことがあった。

「今もやっているのかい?」

「いや、全然」

「そうか、残念だな。もし今もやっているなら、明日体育館で弾いてもらおうと思ってさ」

「いや、あれからまったくやってないから無理だよ」

 雅成はきっぱりと言った。

 谷山は、快活に笑うと、

「それじゃ、明日はよろしくな」

と言って、電話を切った。

 文化祭でギターを弾いたことなど、今の今まで忘れていた。体育館に特設ステージを設けて、学生コンサートが開かれた。歌や楽器に自信のある連中が、次から次へとステージに上がって楽曲を披露した。

 自分もギターを片手に、そのコンサートに参加したのだ。そう言えば、それほどうまくもないギターを、どうして人前で弾こうと思ったのだろうか。今にしてみれば、不思議である。

 当時、確かにギターに興味を持って、独学で練習を始めた記憶がある。しかし、それをコンサートという大舞台で披露するほど、うまくなかった筈である。それに、そもそも自分はそんな活発な性格でもない。

 一体どういう経緯で、コンサートに参加することになったのだろうか。

 今となっては、これも謎である。

 しかし谷山は、本人ですらとっくに忘れていることを、よく覚えていると感心する。いや、いくら彼でもそれは不可能か。おそらく、同窓会での話題作りのために、当時のイベントのプログラムや写真を掘り返して見たに違いない。

 もしそうなら、明日はそのギターの話がみんなの前で持ち出されそうだ。それはそれで少々恥ずかしいな、と思った。

 それにしても、谷山は大変である。確かに彼とは同じクラスだったが、そんなに深い付き合いがあったわけではない。それでも彼は幹事である以上、当時目立たなかった自分を持ち上げるような演出をせねばならない。

 ふと壁の時計に目をやった。夜の十時を回ったところである。谷山はおそらくこの後も、一人ひとりにそういった電話を掛け続けるのだろう。とても自分には務まる仕事ではない。

 さて、どうやら明日の同窓会には、篠宮麻希が現れないことだけは確かである。名簿に載ってないのだから、それも当然である。

 明日クラスメートの何人かに篠宮麻希という名前を訊いてみようと思う。谷山ほどの人物が知らないようでは、おそらく期待薄ではあるが、ひょっとすると何か分かるかもしれない。

 篠宮麻希のことはともかく、雅成は、明日の同窓会が楽しみになってきた。

 自分は、決して人から注目される存在ではなかったが、それでも今、高校時代の懐かしい日々が蘇ってくる。

 そんな思い出に身を委ねていると、いつしかその不思議なメモの存在を忘れてしまっていた。



     2


 季節は春を迎えていた。学校に続く坂道には、桜の花びらが無数に乱れ飛んでいる。それは無事入学を果たした新入生に、拍手を送っているかのようであった。

 時折吹く風は少々冷たいが、空は抜けるように青く、新たな出会いを演出するに相応しい風景だった。

 高校二年の芹沢雅成は、そんな坂道を無感動に登っていた。目の前には去年と同じ光景が広がっている。

 彼の周りには、慣れない制服を身にまとった後輩たちが、どこか緊張した面持ちで学校を目指している。自分も去年はこんなふうだったのか、と考えた。

 新入生らは脇目も振らず、ただまっすぐに歩いていく。希望の中にも、不安が大きく影を落としているのか、心にゆとりが感じられない。彼らは、ただゴールまで突き進む競歩の選手のようである。

 一方、上級生はこんな風景を目の前にしても、気分が高揚することなどない。あるのは、日々の惰性と適度な怠惰だけである。

 友人と並んで登校する生徒は、どうしても歩くのが遅くなるようだ。楽しい時間を少しでも長く共有しようと考えるのだろう。

 雅成は、そんな彼らを縫うように先を急いだ。特に慌てる理由もないが、孤独であることが彼の歩みに速度を与える。

 何も自分に限ったことではない。一人寂しく登校する者は、その場を早く去りたいのか、どんどん歩いていく。その歩き方は、どこか新入生と共通するものがある。

 すぐ目の前に、女生徒の後ろ姿が現れた。長い髪を後ろで束ねている。

 彼女は一人でいるにもかかわらず、歩くのが遅かった。まるで周囲を確かめるように、ゆっくり進んでいく。

 不思議な少女だった。

 明らかに新入生だと思われた。坂道を埋め尽すほどの桜に、圧倒されているのだろうか。

 それにしても彼女の歩みは遅すぎる。まるで小学生が、通学路で目にする物に心を奪われて、立ち止まっては進む、そんな感じなのである。

 雅成はそんな彼女をあっさりと追い越した。同じ高校生でありながら、まるで勝負にならなかった。

 少し先に進んでから、何気なく後ろを振り返った。慌ただしい朝に、ふらふら歩いている新入生の顔を、ちょっと拝んでやろうという気持ちだった。

 彼女の姿は遥か後方になっていた。

 意外にも大人びた、整った顔つきをしていた。自分よりも年上に見える。背はやや高く、すらりと伸びた足がもつれるような動きをしている。

 彼女は、舞い降りてくる桜の花びらに、一々気を取られているようだった。次の瞬間、その姿は制服の波にすっかり飲み込まれてしまっていた。


 雅成は新しい教室に入った。今日が新学期の初日である。残念なことに、数少ない友人は誰一人として同じクラスになれなかった。

 この日の教室は、一年で最も騒がしい朝を迎える。

 同じ組になれた喜びを、身体全体で表現する女子や、隣の教室から激しく出入りする男子らで賑わっている。

 そんな教室に収まりきらぬ騒音の中で、雅成だけは静かに指定の座席に腰掛けた。窓に近いこの席からは校庭が見下ろせた。学校を取り囲む桜の木々が見える。

 しばらくして、新しい担任が姿を現した。すると、それまでの喧騒が嘘のように消え去る。こうやって学年最初のホームルームが始まるのだ。

 ふと隣の席に目をやると、そこはまだ、ぽっかりと空間が陣取っていた。教室を見回しても、空席はまさにここだけである。

 この席には誰が座るのだろうか。まさか、初日早々遅刻してくるのだろうか。

 担任もその異変に気づいたようだった。名簿に目を落として、早速出席を取り始めた。

 十人ほどの名前が流れた後、突然教室のドアが開け放たれた。その大げさな音は、クラス中の視線を集めるのに十分であった。

 女生徒が立っていた。

 足が長く、背の高い彼女は、顔立ちがはっきりしていて、大人の女性を思わせた。口を真一文字に結び、教室の奥を睨むような目をしている。いや、それは窓から差し込む光が眩しくて、目を細めているだけなのかもしれなかった。

 雅成は驚いた。まぎれもなく、今朝、出会った少女だった。まさか自分と同じ二年生だったとは思いも寄らなかった。

 教室は水を打ったように静かだった。彼女の出現に誰もが呆気に取られているのだ。

 担任が座席を指示すると、彼女は歩き始めた。明らかに雅成の隣の席へと向かってくる。そんな彼女の動きを見守っていたら、とうとう最後には、視線がぶつかってしまった。

 彼女の目はひどく挑戦的に映った。雅成は慌てて目を逸らした。

 彼女は初日から遅刻したことを、まるで詫びる様子もなく、憮然とした態度で席に着いた。教室のどこかで彼女への悪口ともとれる、囁くような声が漏れた。

 机の上に置いた学生鞄には、金属製の可愛らしいネームタグが付いていた。

 そこには「篠宮麻希」という文字が刻印されていた。

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