弱肉強食
剣士はかすかな物音で跳ね起きた。
少し寝ていた。
夢は見なかった。
床に散った骨が少し揺れている。おそらくは寝ている間に蹴飛ばしてしまったのだろう。自分で出した音に驚いて目を醒ましたのだ。剣士はあまりにバカらしくなり、少し笑った。
左腕はまだ痛むが、戦えないほどではない。
兜をかぶり、身を起こした。
塔の内部に誰かひとりでも生存者が残っている場合、倒した魔物は復活しない。
だから髑髏の兵が蘇って剣士を殺すことはない。
ただ、神経が高ぶっているせいで、眠りが浅くなっていた。すべてが終われば、ぐっすり眠ることもできるはずだ。藁を敷き詰めたふかふかのベッドで、子供のように。
*
二十一階へ足を踏み入れると、部屋の中央に八本足のトカゲがうずくまっていた。
バジリスクだ。
胴体はまるまると太く、鼻先から尻尾までは大人ふたり分ほどの長さもある。口から垂れ流しているのは毒液。噛まれれば神経がおかされ、遠からず死ぬ。
牙はまたガントレットで受けてもいい。しかし火傷のあとに毒を受ければ、いくらか身体に取り込んでしまうだろう。鎧は密閉されているわけではない。
実際、睨み合っているだけで左腕がヒリヒリする。毒液が気化して部屋に満ちているのだ。呼吸をするたび背筋がゾクリとする。
トカゲの足は速くもないが、遅くもない。鎧がなければ逃げ切ることも可能だろう。が、剣士の重装では戦うしかない。
バジリスクはチロチロと舌を出し、八本の足で微妙に角度を調整しだした。側面に回り込ませないつもりだ。
正面から仕掛けるしかない。
剣士は意を決し、ダンと強く踏み込んだ。直線的な突き。が、切っ先はバジリスクの眉間を貫通できず、表面を滑った。かと思うと、そいつは大口を開けて一気に身を乗り出してきた。噛まれはしなかったものの、突進を腹に受けて剣士は押し倒された。
凄まじい衝撃だ。
起き上がれずにいると、バジリスクは抑え込むようによじ登ってきた。
なんとかダガーで反撃するも、やはり鱗の表面を滑るのみ。硬すぎる。もちろん分かっていた。しかし前回は、少しはダメージを与えられたはず。敵が強くなっている。
完全に抑え込まれ、兜の上から舌で舐められた。じゃれているのではない。こうしていれば剣士が毒で死ぬと分かっているのだ。完全に動かなくなってから喰うつもりだ。
トカゲは鎧の上で何度も足踏みし、身じろぎすることさえ許さない。
バジリスクの口から発する濃い毒のにおいが、息をするたび体を蝕んだ。おかげで目はかすみ、全身はじんじんと痺れ、呼吸もさらに荒くなった。
バジリスクは無表情だ。どこを見ているのか分からないような顔で、ひたすら兜を舐めている。
だが剣士は、死の覚悟などしない。覚悟しようがするまいが、そのときがくれば死ぬ。だから考えない。
代わりに、できることをする。
まずは全身の力を抜き、ぐったりと無防備になって見せた。
バジリスクはなお足踏みを繰り返す。とてつもなく重たい。手足が関節からもげそうなほどだ。しかし足が八本あるおかげで、その体重も分散されているらしい。
死んだフリを続けていると、やがてトカゲは足踏みをやめた。どこから齧ってやろうかと、鎧の隙間を探りだした。
そうして物色しているうちに、一瞬、手足が自由になった。
剣士はダガーを、今度は真下から突き上げた。やわい腹に刃がズブリと突き刺さる。トカゲはなにが起きたのか分からないといった顔で、巨体をビクリと痙攣させた。
さらにえぐり込むと、やがてそいつは手足をばたつかせ始めた。
剣士はめちゃくちゃに手を動かし、バジリスクの内臓をとにかく傷つけた。敵はパニックになって這い回り、ついに剣士の上からどいた。
が、剣士は追撃できない。
呼吸を繰り返すのがやっとだ。
全身が棒で叩かれたように痛い。鎧の中で身体が二倍に膨れ上がったような気さえする。上から圧迫されたせいだけではない。毒を吸い込みすぎた。
バジリスクは致命傷を負ってはいない。暴れていればすぐにダガーが抜け落ち、凶暴化したバジリスクは鎧の上からでも剣士を噛み殺そうとするだろう。
手探りで剣を拾い、前後不覚のまま立ち上がった。
もともと薄暗い上、朦朧としていてほとんど状況がつかめない。が、トカゲのドタドタ暴れる音で方向は分かった。そちらへ目を凝らすと、ぼんやりではあるが姿を確認できた。
剣士は武器を振り上げ、力任せに振り下ろした。手応えあり。トカゲは嫌がってずるずる後退した。それを追いかけて、さらに上から叩き伏せる。
もはや刃で切りつけているのではない。金属の棒で頭を殴りつけている。必要なのは鋭さではなく、勢いだ。さらに剣を持ち上げ、剣士は全体重を乗せて叩きつけた。鉄の棒で石を殴りつけるような感覚だ。直撃するたび、肘や肩にそのまま衝撃が来た。
が、やめるわけにはいかない。
確実に効いている。トカゲの動きはあきらかに鈍くなり、もう後退できないのに壁に向かって進み続けている。
剣士は容赦なく追撃。
もう自分がなにをしているかも忘れそうだが、とにかく行動を繰り返した。
*
次に剣士が気づいたときには、階段の手前で昏倒していた。
バジリスクの頭部をメチャクチャにしたあと、ふらふらと次のフロアを目指し、そのまま倒れ込んでしまったらしい。
ともあれ、生きている。
杖代わりにしていた剣はひしゃげてしまい、刃も欠けてボロボロだ。折れなかったのが奇跡である。かといって代わりになりそうなものも手近にないから、捨てるわけにもいかない。
いずれにせよ、次のフロアへ行けば髑髏の兵から手に入るだろう。
だが剣士は立ち上がる気にもなれず、仰向けになって呼吸を繰り返した。
左腕がとんでもなく痛む。傷口から毒を吸収したのだ。ずっとビリビリしている。もし次があるのなら、盾を使えるようにしておくべきかもしれない。
フロアでは、トカゲが悲惨な姿で死んでいた。
いったい誰がこんなことを、などと思う。
無我夢中だった。
兜を外し、呼吸を繰り返す。
もはや毒は薄れているらしく、嫌な空気ではなくなっていた。血のにおいはするものの、そんなのは気分が悪くなるだけである。死ぬわけではない。
剣士はフロアへ戻り、トカゲの脇腹からダガーを抜いた。しかし鞘には納めない。露出した肉へ突き立て、ザクザクと切り取った。白身の肉だ。それを口に放り込む。かなり水っぽいが、噛んでいると旨味が出た。臭みはない。飲み込んで、さらにダガーを入れる。
こんなことをせずとも、二十五階には休憩室があり、パンと水が用意されている。五十階にも、七十五階にも、百階にもある。
だが剣士は、トカゲの肉を貪り続けた。
もし負けていれば、喰われていたのは自分だ。勝ったのだから、逆にこいつを喰ったっていい。そういう獣のような心持ちだった。
腹を満たし、しばらくぼうっとシャンデリアを見上げた。
尽きることのない炎が、ゆらめきながら室内を照らしている。おそらくはこれも魔法だろう。
塔のあらゆる施設は、どれもが魔法で駆動している。魔女が用意したものだろう。剣士には、彼女が挑戦者を歓迎しているように思えてならなかった。
ふと、石壁に、かすかに声が響いているのを聞き取った。
野太い男たちの会話だ。ガチャガチャと鎧の鳴る音と、重たい足音もする。新たな討伐隊が乗り込んで来たらしい。
「なんだこれ……」
「デカいトカゲだ。死んでやがる」
「おい、あそこに人が倒れてるぞ!」
死体だと思われては困るので、剣士はダガーを振って応じた。
男たちはほうと溜め息。
「生きてる」
「ありゃ女か?」
するとリーダーらしき髭面が近づいてきた。
「可哀相に。置き去りにされたんだな。仲間はどこだ? 上か?」
彼も、まさかトカゲやキメラを剣士がやったとは思えなかったのだろう。きっと仲間が大勢いて、彼女だけこのフロアに残されたと判断したのだ。
剣士は笑った。
「誰もいない。私ひとりだよ」
「えっ?」
すると別の男が、怯えたような表情でこうつぶやいた。
「なあ、あの赤い鎧、もしかして……」
「まさか? 半年も前の噂だろ?」
「けどよ……」
半年前がどれくらい前のことなのか、もう剣士には分からない。しかし出会った人間はこれが初めてではないのだ。街に噂が伝わっていても不思議ではない。
少女はふっと笑った。
「きっと別人だよ」
(続く)