交渉
魔女は魔法に集中しているのか、ただじっと虚空を見つめている。
だから仕方なく剣士はダガーを突き込み続けた。いくら魔力で身体能力を強化しているとはいえ、鎧を着用した体でずっとツタにしがみつくのは困難だった。いずれ力が尽きる。
庭師も、大亀を拘束し続けるのが大変らしく、かなり消耗しているようだった。
いちおう戦う気はあるらしいゴブリンが、へっぴり腰で棒を振り回した。ただし大亀からはずいぶん遠いが。
「魔女さま! 早くしないと剣士さんが死んじゃう!」
しかし魔女はうるさそうな顔だ。
「大丈夫よ。そう簡単に死なないから。それより集中させて」
「けど……」
必死にしがみついている剣士としては、勝手に「大丈夫」などと判断され、いい気分ではなかった。自分が捨て身で挑んでいるというのに、魔女は離れた位置からやる気のない魔法を撃ち込むばかり。そんなに亀の肉が食べたくないのかと不審に思うほどだ。
ふと、野次馬がひとりやってきた。
神の御使いのアルファだ。美しい金髪をなびかせながら、ゆっくり徒歩でやってきて、魔女の横に立った。
「問題ですよ、黒の魔女」
「なんのことかしら?」
「あれは海洋神さまが連れてきた魔物。それを攻撃することは、海洋神さまへの攻撃に等しい」
「あらそうなの? だったらあの亀に壊された家財、飼い主の海洋神さまに弁償して欲しいところね」
魔女の皮肉に、アルファはやや呆れ気味に肩をすくめた。
「賢明な判断とは思えませんが」
「お互いさまよ。いきなり家を壊されて、黙っていられると思うの?」
「家? あのボロ小屋が?」
「そうよ。あのボロ小屋が家だったの。このひなびた漁村では、それでじゅうぶんなんだから」
島の住民は、雨風を凌げるだけの小屋に住み、魚をとって暮らしてきた。便利ではない。しかしそれで生きていけた。あの大亀にめちゃくちゃにされるまでは。
アルファは去らない。
「頑固ですね。ではお手並み拝見といきましょう」
「少し離れなさい。巻き込むかも」
「怖いことを言う」
魔女が本気になったのは、剣士にも分かった。これまでと魔力の集中が違う。
戦う前は「エレガントにいく」とか言っていたが、そんなことはもう忘れていることだろう。
剣士は亀の首を蹴り、大きく後退した。魔法が来る。
ズドンと砂が隆起し、亀の下顎をかちあげた。予想外の方向からの攻撃だったのであろう、亀はのけぞるような格好のまま、動かなくなってしまった。
さらにズドンと轟音とともに、まばゆい閃光が起きた。
稲妻だ。
大亀の頭部は木っ端微塵となり、辺り一面へと降り注いだ。
魔女はその肉片をバリアで防いだが、アルファもゴブリンも直撃を受けていた。
大亀は絶命した。苦しげに手足をバタつかせているが、間違いなく死んでいる。
アルファはさすがに眉をひそめ、顔に付着した緑っぽい肉を拭った。
「なるほど。海洋神さまと直々に契約しただけのことはあるようです」
「言ったはずよ、巻き込むかもって」
「このことは上へ報告させていただきます。お覚悟を」
「好きになさいな。けれども、その前に水浴びすることをオススメするわ。いまのあなた、とても生臭いもの」
「くっ……」
アルファは忌々しそうな表情のまま、足早に立ち去ってしまった。
地面ではゴブリンがのたうっている。
「くしゃいーっ!」
「ほら、ゴブリン。あなたも水浴びなさい」
「魔女さまのバカ! いじわる! 自分だけズルい!」
「腹の立つ子ね。洗えば落ちるんだからいいじゃないの」
だが同じく亀の肉片を防げなかった剣士も、庭師も、渋い表情で戻ってきた。
「これがあなたの言うエレガントなの?」
「苦情なら神の御使いへどうぞ。寄らないでね。臭いわ」
「あなたって本当に……」
剣士は溜め息をともに海へ向かった。砂浜でジタバタするゴブリンを引きずりながら。
*
水浴びといっても海で洗い流すしかない。
井戸水もあるにはあるのだが、それほど豊富ではないため、できる限り節約しているのだ。
一行はいま、火を囲み、鍋で亀の肉を煮込んでいる。
もちろんあの大亀を食い尽くすことはできないから、大部分は魚の餌とした。
鍋からは、沼のような臭気がただよっている。虫とも獣ともつかないにおいだ。見つめている誰もが、本当にこれを食べるのかといった顔になっている。言い出しっぺの剣士でさえも。
「煮えたよ……」
ゴブリンが空気も読まずにそんなことを言った。
煮えてしまえば、食べなければならない。
しかし見て見ぬフリもまたできない。
一同の視線が剣士へ集中した。まずは言い出した自分が食えということだ。
剣士は意を決し、自分の椀によそった。茹だって白く変色した亀肉が、白濁した汁に浮いている。これなら生のまま貪ったほうがまだマシだったかもしれない。などと思いつつ、剣士は匙を入れた。戦闘で疲弊した体がどうしようもなく食事を欲している。
汁をすすると、コクと旨味が思いのほか強い。調理中に警戒していたほどの臭みもない。味もうるさくない。塩気もちょうどいい。これはじゅうぶんご馳走と呼べる。
剣士がひとりでガツガツ食っていると、興味を抱いたらしいゴブリンもあとに続いた。バルバラも、自分にもよこせとばかりに震える手で椀を突き出してきた。
手を付けなかったのは、顔をしかめている魔女だけだ。
ジャンも顔をしかめてはいたのだが、バルバラの献身的な介護によって強制的に口内へ流し込まれた。
「ぷはーっ! うまいっ!」
剣士は大の字になった。
なにも心配はいらなかった。なんなら海へ行って肉片を回収し、もう一杯作りたいくらいだ。きっといまごろ魚たちも大喜びであろう。
「ちょっと剣士。はしたないわ」
「なによ、魔女。あなたも食べたらよかったのに」
「お断りよ。あとでお腹こわしても知らないんだから」
魔女はそう言うが、剣士としては「火を通せばだいたい大丈夫」という経験則があった。今回、だいぶ火にかけた。毒さえなければ死ぬこともあるまい。
*
問題は、しかし腹の具合ではなかった。
さして時間を置かずに伝令がやってきて、魔女は塔へ呼び出された。
月明り差す石の広間。
魚の兜の巨体を前に、魔女はふてくされた顔で立っていた。
「こちらは家を壊されたの。亀の一匹で済んだことを感謝して欲しいくらいだわ」
「あれをこっちに連れてくるのに、どれだけアストラル結晶がいるのか、お前さんも分からんワケではあるまい」
「では海洋神さま、家を建てるのがどれだけ大変かご存知? それだけじゃないわ。イグサを編んで家具を作り、飾り付けもしていたの。貧しいながらもみんなで住みやすくしていった。そういう思い出まで踏みにじったのよ」
これに海洋神はうるさそうな表情だ。そんな思い出など知ったことではないといった態度も露骨だ。
「作業がムダになったことには同情する。だが生活に必要なものがあるなら、言ってくれればこちらで手配する」
「ご自身がなにをなさったのか、ひとつも反省なさらないおつもり?」
「だから弁償すると言っているだろう」
「では白くてキレイなおうちを建てて頂戴な。竈があって、みんなのお部屋があって、窓があって、お庭にはブランコも欲しいわね。用意できるの?」
「ブランコはいるまい」
「いるの! けど花壇はいらないわ。うちには歩く花壇がいるから」
魔女の言葉に、海洋神は頭を抱えた。
「あの庭師か。ふらふら出歩いていたと思ったが、まさか魔女に調略されていたとはな」
「調略したつもりはないけれど、なぜだか居座っているわね」
「あれの甘言には乗るな。毒婦だぞ。まんまと乗せられて、壊滅した部隊もある」
「そんな危ない女をなぜ連れてきたの?」
「毒と薬は表裏一体だ。それに、ほかに適材もなかったしな。あれに頼るほかない」
普段から戦士ばかりを優遇しているせいで、それ以外の人材が育たないのであろう。神界の存在は、だいたい魔力だけは強いのに、まるで魔法が得意ではない。理論を学ばないから、膨大なエネルギーを筋肉の代わりにしか使えないのだ。
魔女は溜め息をついた。
「まあいいわ。それで、おうちはいつ建てていただけるの?」
「残念だが、その時間はない。代わりと言ってはなんだが、お前さんたちがこの塔に住むことを許す。前に使っていた私室を使え。なにせ狭すぎて、俺では入ることさえできぬからな」
「……」
ひとりで爆笑しなかったところを見ると、ジョークではないのであろう。声を殺して笑っていた剣士は、魔女から睨まれてしまった。
魔女は軽く膝を曲げ、辞儀をした。
「では遠慮なく」
しかしこうなると、なにかにつけて塔を動かせという要求が出てくるはずだ。魔女の私室は、海洋神の居座る広間のすぐ脇にある。
(続く)