魔女の災厄
近隣との戦争では快進撃を続けてきた王国であったが、戦後の民衆の動向には手を焼いていた。
戦争という大義名分がなくなると、民衆たちは、やがて国内へと目を向け始めた。すると議会の癒着や、教会の腐敗、貴族たちの横領などが次々と明らかになったのである。おかげで予算は縮小されることとなり、魔女の討伐計画は今回をもってしばし凍結となったのであった。
話を聞かされた魔女は、神妙な表情でうなずいた。
大地は裂けていないし、ドラゴンも出てきてはいない。ただ人間同士が揉めているだけという、いつものありさまだ。
「なるほど。しばらく討伐隊は来ないのね」
「ええ、ほとぼりが冷めるまでは」
これに慌てたのは死神だ。
「え、なにそれ? じゃあ塔へは誰も来なくなるってこと? なんでよ! もっと死になさいよ!」
魔女はうるさそうに顔をしかめた。
「あなた、もう帰りなさいな」
「言われなくてもそうさせてもらうわ。まったく、とんだ無駄骨よ」
死神はぷりぷりしながら本当に行ってしまった。
ジャンはキョトンとした顔だ。
「ところで、彼女はいったい……」
「下等な魔物よ。気にしなくていいわ」
*
迎えの船が来るまで、ジャンとバルバラには浜辺の小屋で暮らしてもらうこととなった。当面の食料は、魔女が与える。
かくして両名を部屋から追い出しておいて、魔女はいま、半裸になって剣士に薬を塗らせていた。彼女自身が作った傷薬だ。
「その調子よ。そっと。優しくね」
「うん」
魔女はソファにうつぶせになり、足をパタパタさせながらくつろいでいた。
その背に剣士は薬を塗りたくる。ハーブのにおいがキツい、半透明なぬめぬめの薬品だ。
「優しくよ? 私、とっても敏感なんだから」
「分かってる」
「傷口に沿って、すーっと塗るのよ」
「うん」
すでにかなりの量を塗っている。なのに魔女はまだ塗れという。瓶にたっぷりとあった薬が、半分近くまで減っている。
「もういいんじゃない?」
「ダメよ。いいかどうかは私が決めるの。あなたは黙って塗り続けなさい」
「こんなに塗ってたら私の手がどうにかなっちゃう」
「どうにもならないから安心なさい」
傷口は痛々しく背骨に沿って残っている。が、これもやがてふさがるのだという。
剣士はうんざりしながらも、魔女の背に薬を塗り続けた。傷のないところは、ハリのある健康的な肌をしていた。じっと見ていると噛りつきたくなるほどぷりぷりしている。
「あ、ちょっと。そこはお尻よ。あなたってそういうことするのね」
「ごめん、ぼうっとしてた」
「いいわ。許してあげる。だってあなたは、私を救ってくれた騎士さまだもの。私の体を好きにしていいの」
好きにしていい――。
その言葉を聞いた剣士は、ハッとひらめいた。
「ホントに? 好きにしていいの?」
「ええ。あなたが望むなら。ちょっとくらいなら痛くしても構わないわ。さて、なにをされてしまうのかしら。ドキドキするわね」
「たいしたことじゃないよ。もう塗るのヤメていいかなーって」
「それはダメ! あなたの大事な魔女が傷を受けたのよ? 治療したいとは思わないの?」
魔女は首を動かして剣士を睨みつけてきた。
なにがなんでも塗り続けて欲しいらしい。
「ほっといても治るんでしょ?」
「ほっとかれたら寂しさで死んじゃうかも」
「あなたがその程度で死ぬわけないでしょ」
「ふぅん」
すると魔女はニヤニヤし始めた。
「なによ」
「なんでも。ただ、あなたは寂しいと死んじゃいそうだなーって思って」
「はっ? 私が? 死ぬわけないでしょ。ずっとひとりでやってきたのに」
しかし魔女はいっそう愉快そうに笑った。ひときわ足をバタつかせながら。
「えーっ。でも私がぐったりしてたとき、あなた泣いてたでしょ? 私の魔女が死んじゃうーって」
「泣いてない」
「でも泣きそうになってた」
「なってたけど、泣いてない。泣く前に死神が来たし」
あのときは、たしかに魔女が死んでしまうと思い込み、頭が空っぽになっていた。死という事実を受けれたら、あるいは号泣していたかもしれない。だが死神がすべてを説明してしまった。
魔女はうんざりと溜め息をつき、自慢の黒髪を指先でいじり始めた。
「あの下等な魔物には心底うんざりするわね。あなたが私の体にしがみついて号泣する姿が見たかったのに」
「あなたってそういうところあるよね」
「なに? どういうところ?」
「人が苦しんでるのを見て、楽しむようなところよ。そんなことしてたら、いつか友達なくすから」
「嫌いになった?」
「なってないけど、そのうちなるかも」
「じゃあ直すわ。あなたには嫌われたくないもの」
「……」
こういうときだけ素直なのだ。
剣士は返事もできなくなり、魔女の背に集中した。
魔女は愉快そうに鼻歌などを歌っている。
「あ、待って。もしかすると、お尻も裂けてるかもしれないわ。ね、剣士。お尻にも塗って。優しくよ? そっとね。たっぷりと薬をつけて。あ、痛い」
「わがまま言わない」
剣士がピシャリと叩くと、魔女はさらに足をバタバタさせた。
「なによ、ただの冗談なのに。ケチ」
「ケチで結構」
*
半月もすると、ゴブリンも自分で歩けるようになった。
「魔女さま、本当にありがとう! でも私、なにもお返しできなくて……」
尖っていた耳は先のほうが千切れているし、歯も数本欠けている。頭にも包帯を巻いたままではあるが、なんとか元気に会話できるようになった。
「いいのよ。あのまま死なれても困るしね。あなたはしばらくここにいなさい。もうあんな商売はやめて、私の専属メイドとして働くのよ」
「ここで? いいの?」
「しばらくは討伐隊も来ないみたいだし、商売だって成立しないでしょ?」
「そうだね! じゃあここにいる! 魔女さま、大好き!」
勢いよく抱きつかれ、魔女は倒れそうになった。
「ちょっと危ないわ。それに、剣士が見てるときはあんまり抱きつかないで。あの子、すぐ嫉妬しちゃうんだから」
近くで聞いているのを知っていて、魔女はそんなことを言う。
剣士は椅子で読書中。そこへゴブリンはパタパタと駆け寄ってきた。
「剣士さんもありがと! 魔女さまを守ってくれたんでしょ?」
「別に。流れでそうなっただけよ」
「でも嬉しい! キノコが欲しくなったら言ってね! いっぱい集めてくるから!」
「うん」
キノコなど、剣士にとっては使い道もないのだが、むげに断ることもできなかった。これがゴブリンなりの善意なのだ。
「ところで剣士さん、その本、逆さまじゃない?」
「気づいた? わざとこうしてるの。私の場合、こうしたほうがはかどるから」
「へーっ! なんか深いね!」
「うん……」
文字が読めないから、ひっくり返して眺めていただけだ。
深い意味はない。
*
同刻、王都――。
宮殿の会議室では、貴族たちが難しい顔で「非公式な雑談」をしていた。
重要な決定はすでに済んでいるから、王は退席している。教会の代表も、平民の代表も、すでに帰った。だからこれは国を動かすような会談ではない。表向きは。
「それで? 今度はいったいなんなのだ? 神の軍勢とやらが、この地上へ攻め込んで来ると? 教会はまた新しい商売を思いついたのか? いったい誰のせいで国が混乱していると思っている」
もじゃもじゃの髭をはやした恰幅のいい大臣は、疲れ切った顔をさらにゆがませた。
話題を提供した貴族は、遠慮がちながらこう応じた。
「しかし我が国の腐敗した教会だけでなく、他国の教会からも同じような話が出ているのだとか……。話がすべて事実でないにしても、なにかあるのでは?」
「占星術師からはなんの報告もないが」
「占星術師? はて、明日の天気を予測する以外に、なにかしておりましたでしょうか」
「まあそうだ。しかし神の軍勢とは……。神話の時代でもあるまいし」
すると別の貴族が神妙な表情でつぶやいた。
「やはり例の魔女が災いをもたらしたのでは?」
「魔女の災い? なにを言っているのだ。そんなものは、古人がでっちあげたウソだ。いまのところ魔女はなにもしとらんし、する気配もない」
「えっ?」
「治世には、恐怖と緊張が必要なのだ。外部に存在する、分かりやすい『巨悪』がな。本来であれば、こういう混乱時にこそ使いたいところだが……。国の予算に厳しい目が向けられている昨今、うかつに使えなくてな」
「はぁ」
この新参の貴族は、魔女の災厄を本気で信じ込んでいたらしい。
大臣はやれやれと溜め息をついた。
「戦争の費用は戦争で稼ぐ。そういうバカげた時代がようやく終わったかと思えばこれだ。また商人どもに金を借りることになるのかと思うと、頭が痛くなるよ」
議会と教会を名指しした民衆の怒りは、いまだおさまっていなかった。
しかし口で罵ってくるだけまだいいほうだ。議会には平民の代表も招いているから、いちおうは議会で決着をつけようということになっている。それ以前の時代は、即座に王の首を取りに来たものだ。
中には「平民など議会から締め出してしまえ」という若い貴族もいるのだが、そういう手合をなだめるのも大臣の仕事だった。
大臣はついつい本音をぼやいた。
「もし『神の軍勢』なる『巨悪』が来るのなら、いっそそのほうが楽ではあるのだがな」
これには貴族たちも苦い笑みだ。
(続く)