刻
八十一階に到達した曲芸団は、ワームに遭遇した。
鱗のない白ワニのような、つるりとした生き物だ。かつてこのフロアで神聖ポテト騎士団は全滅した。
「またワニかよ」
男のひとりがぼやいた。
このワームは、しかしバジリスクと違って毒を持ってはいない。
ジャンが前へ出て、機械の腕部から矢弾を発射した。それはワームの分厚い脂肪に突き刺さり、油を飛散させた。これがのちになにをもたらすのか、彼らはまだ知らない。
ワームは痛みにのたうつこともなく、ただ一瞬身をちぢこめただけで、じっと曲芸団の動きを見ていた。
ジャンは無表情で振り返った。
「効いていないようです」
「妙だね。不用意に近づくんじゃないよ」
老婆は目を細めた。
契約により魔法の素質を得ることができたが、魔物の知識まで与えられたわけではなかった。そのときなにが必要となるかは、勘と経験で判断するしかない。
ワームの体内から流れ出しているのが普通の血液でないことは、老婆にも分かる。それがただの水ではなく、油のように見えることも。
ロブも老婆を真似て目を細めた。
「あれ、油じゃないかな」
「お前にもそう見えるかい?」
「きっと火をつけたらよく燃えるよ」
「そうだろうね。けどあいつが自分で撒いた油だ。火がつくことは想定内だろうさ」
のみならず、自分で火を付ける方法さえ有しているであろう。
老婆はつぶやいた。
「ジャン、目を潰しな」
「はい」
スパパパパと矢弾が飛翔し、ワームの両目を集中的に潰した。するとワームはさすがに痛みを感じたらしく、苦しそうに大口を開いた。その口から、ごっと火焔が巻き起こった。バルバラが魔法のシールドを展開する。床の油に引火するも、それは老婆たちへは届かなかった。
ワームは力を使い果たし、うずくまっている。
「なるほど、こういうことかい。ジャン、まだ矢は残ってるかい? 隙を見て顔面に撃ち込みな。バルバラ、次にあいつが口を開けたら、目の前にシールドを展開しておやり。あいつは勝手にくたばるよ。もし死ななかったら、そのときはあたしが殺る」
ジャンはうなずき、バルバラはのけぞるように身を揺すった。
作戦通り、まずはジャンが矢弾を放った。すでに矢だらけの顔面へ、さらに矢が突き刺さる。口を開いた瞬間、バルバラがシールドを展開。ワームの目の前で火災が発生し、ワームは自分の顔を焼いた。
苦しそうではあるが、まだ生きている。
老婆は苦々しく思ったが、やむを得ず魔法を使うことにした。魔力を冷気に変換し、空気中の水分を凍らせて刃と成した。それをスピンさせながら、ワームの眉間へ叩き込む。ドッと鈍い音がして、ワームは床を滑った。
老婆は何度も深く呼吸をし、朦朧とする意識を紛らわせた。近ごろは少し魔法を使うとすぐこうだった。もう歳だ。契約によっては、若いままでいることもできた。しかし自分だけ若いままでいることに耐えられず、老いることを選んだ。さほど後悔はしていない。人はいつか死ぬものだ。永遠に生きるにはつらすぎる。もし仮に娘が生きていたら、自分のほうが若いなどということも。
とはいえ、こうして体にガタが来ると、壮齢のままであったほうがよかったと思うこともなくはない。手下が役に立たない場合は特に。
「ママ、大丈夫?」
ロブが突き出してきた革袋を、老婆は突き返した。
「平気さ。お前も、人の心配なんかじゃなく、自分の心配をしな」
「うん」
*
八十六階。部屋には巨大サソリがうずくまっていた。が、曲芸団の接近に気づくや、足を広げてカサカサと左右に動き出した。警戒し、戦闘態勢に入っている。
するとバルバラが前へ出て、衝撃波でひっくり返した。起き上がろうともがいているところへ、上から真空波を叩き込み、一刀両断。サソリは黒っぽい体液を撒き散らしながら絶命した。
「よしよし。やっぱりこうでなけりゃね。こんなザコに手間取ってる場合じゃないよ」
老婆の言葉に、バルバラは声もなく身を震わせた。
*
九十一階、ヒッポカムポス。
ウマの頭部、アザラシの前足、魚の下半身をもつ魔物だ。これもジャンが矢を浴びせて仕留めた。
*
九十六階、フェニックス。
灼熱を帯びた赤き霊鳥。ジャンが矢を撃ち込む前に、火焔を吐き出してきた。バルバラがシールドで受ける。間隙を縫い、ジャンが射撃。側面からの攻撃は、頭部ではなく頑丈な翼に命中した。あまり効いていない。
フェニックスは一足飛びにやってきて、男のひとりをクチバシで突き殺した。飛散した血液を、老婆は鬱陶しげに魔法で防ぐ。防ぐ手段のないロブはまともに顔に浴びた。
ジャンはさらに射撃。また翼に命中。火焔をバルバラがガード。
このあとは、髑髏の兵さえ蹴散らせば、もう魔女との対決だ。だから老婆は力を温存しておきたい。なのだが、ジャンの攻撃はいまいち決め手に欠けていた。かといってバルバラが攻撃に転じれば、防御がおろそかになり、仲間が炎に焼かれてしまう。
などと迷っているうちに、また男たちが食い散らかされた。
老婆も腹を決めるしかなかった。
両手を突き出し、また氷の矢を精製する。そこまでは順調だった。なのだが、放った魔法はフェニックスではなく、塔の石壁に炸裂してしまった。もちろん若い頃から百発百中というわけではなかったし、外すこともあった。しかしいまのは、確実に衰えのせいだ。狙いが定まらなかった。
さいわい、冷気に驚いたフェニックスが身をすくめ、その隙にジャンが急所へ矢を撃ち込んだ。フェニックスは切り裂くような悲鳴とともに、灼熱の炎を吐いた。その炎は誰を焼くこともなく、ただ空振りに終わり、仰向けになったフェニックス自身に降り掛かった。
戦いは終わった。
生き延びたのは、老婆、バルバラ、ジャン、そしてロブだけ。この四名が魔女へ挑むことになる。
*
同刻、塔の最上階――。
「来るわね」
魔女は椅子へ腰をおろし、水晶を覗いていた。いまは黒い衣服を身に着け、正装している。
このあと曲芸団は百階で休憩をとるはずだが、それが終わればここへ来る。
剣士は魔女の背後に回り、櫛で髪をすいていた。
「いま、お姫さまを守る騎士みたいな気持ちになってる」
「いいわね。とても高揚するわ」
「私が前に出て戦うから、あなたは魔法でサポートしてね」
「ええ。でもあなたの戦いぶりに見とれて、なにもできないかも」
「なにもしなかったら怒るから」
「冗談よ」
その冗談に対する報復として、剣士は頭をぽんぽん叩いた。
「はい、おしまい」
「もうなの? ちゃんと可愛くなった?」
「安心して。最初から可愛いから」
「女心が分からないのね。もっと可愛くして欲しいの」
「私も女なんだけど」
「そうね。あなたも可愛いわ」
「……」
心のこもっていないジョークに、剣士はもう返事さえしてやらなかった。
床のガントレットを手に取り、戦いに備える。この赤い鎧には、これまで幾度も命を救われた。そしてこのあとも救われる予定だ。
鎧の上には、焦げた前掛けもつけている。神聖ポテト騎士団の遺品だ。彼らは魔女と共闘することを望まないかもしれない。しかしこうして戦場に立ち会って欲しかった。
死神からは音沙汰がない。
だから契約を履行する気があるのかないのかさえ不明だ。
自分たちの力で打ち勝つしかない。
まもなく敵がやってくる。
(続く)