敵の名は世界
剣士はじゅうぶんに距離を詰めた。
手を伸ばせば、すぐにでも魔女へ届く。まるで玉座にくつろぐ女王のような娘に。
「いつでもいいわ」
魔女はすました顔でそんなことを言った。
足がそわそわと動いている。
「なでたら教えてくれるの?」
「なでるだけじゃダメ。ちゃんと親友にならなくちゃ」
「分かった」
手を伸ばすと、魔女はすっとよけた。不快そうな顔をしている。
剣士も顔をしかめた。
「なんなの?」
「手よ」
「ええ、手よ」
「そうじゃなくて、その硬いの取りなさいよ。そんなゴツゴツした手でなでる気なの?」
面倒な注文だとは思ったが、しかし魔女の言うことにも一理ある。ガントレットでなでればイヌだって嫌がるだろう。
指示通りにガントレットを外すと、魔女が両手で包み込んできた。
「火傷してる……」
「どこかの誰かが危ない魔物を放し飼いにしてるから」
「ひどい話ね」
まるで他人事だ。
剣士は構わず、ヘッドドレスに飾られた丸い頭へ手を伸ばした。
艶々でやわらかな黒髪だ。そっと触れると、魔女は心地よさそうに目を細めた。足までバタバタさせている。
「なに? イヤなの?」
「イヤじゃないわ。続けなさい」
「けど足……」
「気にしないで。クセなの」
「変なの」
そうは言ったものの、剣士も不快ではなかった。
あれだけ遠かった黒の魔女が、いまは手の中にいる。耳をなでると、くすぐったそうに身をよじる。あれだけ一方的に人を殺していた女とは思えない。
「あなた、可愛いわね」
「いまごろ気づいたの? じゃあついでに、この服についても感想を言いなさい」
「高そうな服」
「どこが可愛いか言いなさい」
やはり魔女は服従を求めているのかもしれない。
剣士は警戒しつつも、頭をポンポン叩いた。
「ぜんぶ可愛いわ」
「知ってる。けど、細部まで褒めなさい」
「なによ細部って? ぜんぶなんだからいいでしょ? いいから早く親友になって」
このオーダーには、魔女が顔をしかめた。
拳をぎゅっと握りしめ、ドタドタと足踏みする。
「ダメよ。あなた雑なのよ。頭にポテトでも詰まってるの?」
「詰まってるのかも」
「そのカッコ悪い前掛けもどうかと思うわ」
「やめて。彼らは勇敢に戦った。バカにしないで」
「勇敢なのは認めるけど、デザインが……」
「……」
剣士も自分の前掛けを見直した。ポテトだ。たしかにカッコよくはない。
職人が仕立てた服みたいに洗練されていない。
だが、神聖ポテト騎士団にふさわしいエンブレムだ。彼らの勇姿を思い返すと、まだかすかに残っている剣士の心が熱くなる。
魔女も観念したようだ。
「そんな顔しないで。彼らを悪く言うべきじゃなかったわ。ごめんなさい」
「感心した。ちゃんと謝れるのね」
「許してくれる?」
「もちろん。じゃあ親友になれたところで、さっきの話教えて。死者の魂は、その後どこへ行くの?」
「……」
結論を急いでいる自覚は剣士にもある。
しかしどうしても気になるのだ。魔女の言動には謎が多い。あの世からわざわざ死神まで出てきた。自分だってこの塔で死ぬ。決して他人事ではない。
黒の魔女はうんざりと嘆息したものの、こう教えてくれた。
「行き着く先は神々の世界よ。そこで神の戦士として戦いに参加するの」
「天国? 地獄?」
「どちらでもないわ。いえ、どちらでもあると言うべきかしら」
「なんで戦うの?」
「知らないわ。きっと戦うのが好きなんでしょ」
「バカみたい」
剣士の率直な感想に、魔女もふっと笑った。
「そうね。愚かね。けれど人間も同じようなものでしょう? あなたたちの世界だって、いま大変なことになっているのでは?」
「大変って?」
「大地が裂けてドラゴンが出てきたって聞いたわ」
「いつ?」
「さあ。ゴブリンに聞いてみないと。あなたは知らないの?」
「知らない……」
いったいどこの大地がどれだけ裂けたというのか。ドラゴンの噂だって聞いたことがない。ゴブリンの作り話だろう。
剣士がガントレットをつけていると、魔女が見咎めた。
「あなた、なにしてるの?」
「戦いの準備」
「えっ? 準備? なぜ?」
「あなたと戦うのよ」
「待って。待ちなさい。親友になったのではないの?」
「うん」
生返事をし、防具がズレないことを確認する。何度もやった作業だ。慣れたものである。
魔女は椅子から立ち上がった。
「親友に剣を向けるの?」
「そうよ。あなただって、そんなの構わず殺すでしょ?」
「そんなことないわ。今日は記念すべき百回目の出会いなのよ?」
「記念すべき戦いになるわね」
「それはポテトよ! 頭がポテト!」
「褒め言葉だわ」
すると魔女は、そこらの子供のように全力で地団駄を踏んだ。
「待って待って待って! ぜんぜん違う! 私が考えてたのと違う!」
「怒ったの?」
「哀しいの! もし続けるなら泣くから!」
「どうせウソ泣きでしょ」
「けどあなた、ウソでも戦うのやめてくれるもの!」
「ぐっ……」
事実だ。
魔女が泣いていると、どうしても剣を振れない。
剣士は貧しい境遇で育った。泣いている少女はそこら中にいた。なのに、まったくなにもしてやれなかった。自分が生きるだけで精一杯だったのだ。それでも、剣士には活発で面倒見のいい兄がいたからまだよかった。もしひとりだったら、おそらくとっくに行き倒れていただろう。
本気で泣き出しそうな顔の魔女に見つめられ、剣士は躊躇した。
「戦うのがイヤなの?」
「イヤよ」
「じゃあなんでこんな場所で魔女なんてやってるの?」
「好きでやってるわけじゃない」
「えっ?」
これまでそんな話をしたことはなかった。
強大な力を持てあまし、人間の命をもてあそぶため塔に君臨しているのだと思っていた。それが、自分の意志ではないと言った。
魔女は長いまつげの奥に涙を溜めていた。
「あなたになら話してもいい。親友になら」
「聞かせて」
かつて島は小さな漁村であった。
平和だった。
ところがある嵐の夜、大亀が襲ってきた。人々は一方的に蹂躙され、塔へ逃げ延びた。
かくしてこの最上階で、魔女は声を聞いたのだ。
「力が欲しくば、我を受け入れよ」
受け入れた。
そして力が溢れ、魔女の意思に反し、すべての命を奪うこととなった。
みんなを生き返らせたくて、必死になって魔術書を読んだ。死霊術を極める必要があったのだ。なのに、時間が経つにつれ、みんな腐敗していった。魂も手の届かないところへ行ってしまった。
どうしようもなかった。
少女はスコップで穴を掘り、やむをえず遺体を埋めた。
もう二度とこんなことは繰り返すまいと心に決めた。
誰の命も失いたくないと。
なのに、漂流者を助けたばかりに船が来た。
すべてが裏切られた。
魔女として、戦いを続けるしかなかった。
そう過去を振り返った魔女は、すでに涙を浮かべてはいなかった。これは彼女にとって感傷的な思い出ではなく、気分のさめるような話なのだ。
世界のつまらなさの凝縮された話だ。
「だから私は魔女なの。分かった?」
「分かった」
理解した。ハッキリと。やはり戦いをやめるべきではない。
剣士は彼女に背を向け、武器を拾った。
魔女は寂しそうに笑う。
「それでも戦うのね」
「戦う。けどあなたとじゃない」
「えっ?」
「あなたを苦しめるヤツと戦う。そいつの名前を教えて」
勝てるかどうかはどうだっていい。無茶な戦いなら少なくとも九十九回はやってきた。
魔女はしかしぐったりと椅子へもたれかかり、力なくこう応じた。
「ムリよ。この世界のすべてと戦うことになる」
「だからなに? あなた、黒の魔女でしょ? 私が手伝ってあげる」
死神だろうが神だろうが構わない。
剣士も薄々気づいていた。魔女は殺戮を楽しんではいない。助けを求めていたのだ。だから見捨てることができなかった。
魔女は自分の指を噛んでいた。
「あなたって、本当になにも考えてないのね」
声が震えている。
剣士はできるだけ優しく声をかけた。
「泣かないで。あなたも戦うのよ。まさか私ひとりにやらせる気じゃないでしょ?」
「もちろんよ、私の剣士」
(続く)