交渉
百階の休憩所で水分を補給し、百一階へあがった。
そこは塔の最上階。特別な場所。
大きな窓から差し込む月明かりが、ほの青く室内を照らしている。
古い椅子に腰をおろしているのは黒の魔女。フリルのついた服に身を包まれた小柄な少女ではあるが、その姿には威厳に満ちている。
赤の剣士と死神は、ゆっくりと歩を進めた。
やがて魔女が片眉をつりあげた。
「あなた、客人のリストにないわね。まずは名乗ったらどう?」
死神はフッと鼻で笑う。
「自己紹介なら百年前に済ませたはずだけど」
「記憶にないわ」
「死神だよ」
言いながら、彼女はフードをとった。青黒い髪だ。それを後ろで束ねている。
すると魔女は人形のような無表情に、かすかに苦い笑みを浮かべた。
「ああ。思い出したわ。礼儀知らずな要求をしてきた下等な魔物ね」
「あらまあ、ずいぶんな物言いじゃない。強がっちゃって」
「ええ、強いわ。あなたよりはるかに。証明して見せましょうか?」
魔女が微笑を浮かべると、周囲を魔力がうずまき始めた。
危険を直感できるレベルの濃度だ。
さすがの死神も表情をこわばらせた。
「待って待って待って。軽い冗談じゃないのよ。話をしに来ただけよ。聞いてくれない?」
「手短にね。私はいまとても機嫌が悪いの。友人との再会の瞬間に、下品な女が割り込んできたんだもの」
すると死神は歯噛みしつつも、冷静をよそおって応じた。
「百年前と同じ。あたしと契約して欲しいのよ。ここじゃいっぱい人が死ぬでしょ? その魂を私に独占させて欲しいの」
「見返りは?」
この問いに、死神は下品な笑みを浮かべた。
「もちろんあるよ。あんたが許可なく勝手にそこの剣士を蘇生させてるの、上に黙っててあげる」
「ふぅん」
剣士そっちのけで、ふたりは勝手に話を進めている。
しかし話が見えない以上、会話に参加することもできなかった。
魔女は笑みを浮かべて余裕ぶっているが、ひとさし指で肘掛けをしきりに叩き、動揺を見せていた。
「私を脅してるつもりかしら?」
死神はまぎれもなく余裕の笑みだ。
「そうよ。脅してるつもり。ご理解いただけてなによりだわ。それで? 契約するの? しないの? どっち?」
「しないわ。神々はなにも言わないもの」
「知らないだけよ。知ればきっとあんたを許さない」
「分かった。じゃあ後ほどあらためて許可を取ることにする。ただし、あなたには関係のない話」
強気の交渉だ。
死神も想定外だったのか、いまや笑みを消し、切羽詰まった顔になっている。
「本気? 人の魂を集めるための塔で、この剣士だけ特別扱い? 許されると思ってんの?」
「それを決めるのはあなたじゃない」
「このクソガキ……。後悔させてやるんだから」
すると死神の足元にザンと槍が突き刺さった。
「言葉遣いには気をつけて頂戴。品性の下劣な女は嫌いよ」
「ちょっと待って! 交渉しに来ただけなんだから。暴力はナシだよ。こっちは死んだら生き返るのに何年もかかるんだから」
「しばらく顔を見なくて済むわね」
「分かった。帰るわ。けど諦めない。自分の選択が本当に正しかったのか、よくよく考えてみることね。あ、待って。すぐ出てくから。暴力はやめて」
後ずさりながら、彼女はフロアから出ていった。
剣士も魔女もしばらくその方向を見つめ、足音の遠ざかるのを聞いた。死神は不満らしくずっとブツブツ文句を言っていた。
近いうちにまた会いそうな気もするが、それは今日ではないだろう。
剣士は剣を抜き、切っ先を魔女へ向けた。
「じゃあ始めよう」
魔女はしかし動かない。
「その前に、少し話をしない?」
「……」
剣士は返事などしてやらない。
ただ魔女の出方をうかがうのみだ。いつにも増してやたら小綺麗な格好をしている。どうせ死体から回収した金で買った服であろう。討伐隊が死ねば死ぬほど彼女のふところは潤うというわけだ。
魔女は動かない。
「ねえ、剣士。かなり怪我をしているようだけど……。あなたとはフェアに戦いたいの。傷を癒やしてはどう?」
「断る」
「特別に調合した薬があるのよ。ゴブリンの売ってる安物とは違うわ。私のは、ちゃんと傷が治るの。手当てさせてくれない?」
「……」
剣士は返事をせず、つま先でじりじりと距離を詰めた。
魔女は表情を変えない。
「あなた、最近つめたいわね。以前はいろいろお話してくれたのに」
「言っても無駄って分かったの」
「そんなことないわ。あなたが構ってくれたおかげで私は変われた。なんていうか、愛という感情に芽生えたの」
「愛? だから私を生き返らせるの?」
「そうよ」
魔女はいつになく優しげな笑みを見せた。
この会話を受け入れてもいい。しかし受け入れる理由がない。
剣士はふんと鼻を鳴らした。
「バカにしないで。魔女が愛を語るなんて」
「おかしい?」
「おかしいわね。人を殺して、その魂を死神に売ってるような魔女が……」
これにはさすがの魔女も眉をひそめた。
「待って。誤解よ。私はそんなことしてない。たしかに死者の魂はあの世へ行くわ。ただし、その後どうなるかまでは私の管轄外よ」
「じゃあさっきの会話は?」
「死神同士が勝手に魂を奪い合ってるだけ。あの女は、それを独り占めしたくて来たの。けど、聞いたでしょ? ちゃんと断った」
たしかに断っていた。
だが、もしこの話が事実であれば、騎士団の面々も自分勝手な死神につかまっていることになる。
「死んだ人間の魂は、死神のものになるの?」
「一時的にね。けど、ずっと彼女たちのものってわけじゃないわ。死神は集めた魂を、別の場所に持っていくの。いっぱい集めていっぱい持っていけば、それだけ稼ぎになるの。だから争ってる」
「別の場所って?」
「それは言えないわ。世界の禁忌に触れるから」
剣士は文字が読めない。まともな教育も受けていない。だから、難しいことは分からない。しかしそれでも、人の魂を玩弄すべきでないことは知っている。
剣士はちらと魔女を見た。
「あなたさっき、私のこと友人って言った?」
「ええ、友人よ。あなたもそう思ってるでしょ?」
「友人なら秘密はナシにして」
「ごもっともね。けれども、人に剣を向けながら言うことじゃないわ」
「……」
悔しいが魔女の言う通りだ。
剣士はやむをえず武器を納めた。
「これでいい?」
「上出来よ」
「じゃあ教えて。死者の魂は、最後はどこへ行くの」
この問いに、魔女は愉快そうに目を細めた。
「この話、そんなに興味があるの? けど、さっきも言った通り、世界の禁忌に触れるわ。重大な秘密なの。親友にしか教えられないわ」
「じゃあ親友になりましょう」
「そういう軽いのはイヤ。もし親友だって言うなら、あなたの愛を示してみせて」
「愛?」
剣士は思わず顔をしかめた。
ずっと殺そうと思っていた相手に愛を示すなど、どうすればいいのか分からない。
魔女はニヤニヤしている。
「赤の剣士は、私にどんな愛を示してくれるのかしら。楽しみで胸がドキドキしてきたわ」
「愛って……。なによ。キスでもすればいいわけ?」
「そうね。まずは私の指にキスしなさい」
「それが愛なの? 服従しろということ?」
剣士の皮肉に、魔女は複雑そうな顔を見せた。
「違う。ぜんぜん違う。服従させたいわけじゃないの。そんなこと言うならキスなんてしなくていいわ。代わりに、あなたの考える方法で愛を示して」
「その前に、愛ってなんなの?」
「そこから説明させる気? お断りよ。あれこれ考えなくていいわ。内から湧き上がる感情に身を委ねてみて。あなたは私に対してどうしたいの?」
「まず剣を抜きたい」
「ダメ。それは殺意よ。ネガティブな感情は忘れて。もっと私に対して友好的な感情があるでしょう? まさかないなんてことはないわよね? 友人だものね? ね?」
見るからに魔女が困惑している。
この表情を見ると、さすがに胸が痛くなってくる。
「なんだか可哀相に見えてきた」
「ひどいわね。いじめられてる気分よ」
「待って。これがいちばん愛に近い気がするの。むかし農場で飼ってたイヌが落ち込んでいたとき、同じ気持ちになったから」
「イヌ……」
しかしバカにしているわけではない。いたずらをして飼い主に叱られていたイヌを見て、剣士は心の底から同情したのだ。慰めてやると、イヌはとても嬉しそうになついてきた。
「あのときイヌをなでたら喜んでくれたし、私も嬉しかった。とても仲良くなれた気がしたの」
「なるほど。では私をなでてみなさい。許可するわ」
言葉は偉そうだが、魔女が立ち上がりかけたのを剣士は見逃さなかった。なぜかとても乗り気のようだ。
「けど、待って。黒の魔女をなでる? 話がおかしな方向に行ってる気がする」
「抵抗があるの? 余興だとでも思って付き合いなさい。同じことの繰り返しじゃつまらないでしょう? それに、頭をなでるくらいなによ。もっと凄いことだってしてるのに」
「凄いこと?」
「いえ、だからその……。私たち、殺し合いをする仲なのよ? いまさらでしょう」
たしかにそうだ。これまで何度も命をやり取りしてきた。頭をなでるくらい、たいしたことじゃない。
「分かった。じゃあなでる」
「念のため武器は置きなさいね。あなたのことは信用してるけど、万が一ということもあるから。あ、ダメよ。小さいほうも置きなさい。お互いのためよ」
「……」
やむをえず、剣とダガーを床へ置いた。
剣士はしかし思うのだ。
いったい自分は、ここへなにをしに来たのだろうかと。
(続く)