世界は理不尽にできている
私室へ戻った魔女は、ゴブリンから聞いた話を幾度も反芻していた。
思えば彼女は島から出たことがない。狭い世界で暮らしているうちに、地上は大変なことになっていたようである。
ゴブリンはこう教えてくれた。
ある晩、彼女たちが森で祭りをしていると、突如として大地が裂け、どこからともなくドラゴンが現れた。オオカミが畑の野菜を食い尽くし、ウマが酒を飲んで大暴れし、人間の秩序は失われ、パンは盗み放題となり、東から来た蛮族が川を麺だらけにし、西から来たダークエルフがウサギを絶滅させ、最終的に誰もがゴブリンに助けを求めたのだという。
ありえない話ではない。
なにせこの島も、なんらの前触れもなく巨大な亀に襲われた。そして自分がきっかけとはいえ、魔力が暴走し、夜に閉ざされることとなった。
似たようなことはどこでも起こりうる。もし神々が世界への介入を始めたのだとしたら、なおのことだ。
「もっと優先すべき研究があるようね。ポテトなんて相手にしてる場合じゃなかったわ。私が世界の謎を解明しなくては……」
歴史書を手繰り寄せ、世界の始まりについて調べ始めた。
無から世界が開かれ、神々が現れ、争い始めてどうだこうだと書かれている。が、なぜそうなったのかについては説明がない。あくまで個々の現象が記録されているのみだ。
「これはとんでもない大仕事になりそう。私の剣士、ごめんなさいね。しばらくあなたの戦いを見守ることはできないみたい」
*
同刻、塔の五十一階――。
剣士たちはヒドラに立ち向かっていた。
九つの頭部を持つ大蛇だ。口内に猛毒を溜め込んでいる。先ほどその直撃を浴びて、騎士団のひとりが動かなくなった。
しかし剣士たちもやられっぱなしではない。すでに三本の首を落とした。残るは六本。あるいはすべて落とす前に絶命するかもしれない。切断面からおびただしい量の出血がある。
さいわい、敵はさほど移動しない。移動せず頭部だけで場を支配できるから厄介ではあるのだが。
剣士はいま、ヒドラの広い背に乗り、四本目の首を攻撃していた。
思い切って接近してしまえば意外と安全だ。首は密集しているから、別の頭部に襲われる心配もない。
ダガーを突き立て、力いっぱい刃を入れる。
が、首はあまりに太い。ナイフで丸太を切るようなものだ。とんでもなく体力を消耗する。しかも苦しんでうねるから、しばしば押し倒されそうになる。
ハルバードを振り回して果敢に戦っていた戦士が、横から噛みつかれて放り投げられた。落下のダメージで死ぬことはないかもしれない。しかし噛まれた傷と、そこから入り込んだ毒が、確実に彼の命を奪うだろう。
「ガラハッドがやられた!」
「クソ……」
騎士団にも余裕がなくなっていた。
ややすると、ズシンと四本目の首が落ちた。剣士の担当していた首ではない。騎士団員のひとりがしがみついていた首だ。その団員は、力を使い果たしてくたくたになっていた。
「早くしてくれ! もう持たねぇ!」
正面側で頭部と戦っている団員から切羽詰まった声がした。
剣士はとにかくダガーをねじ込み、テコの原理で激しく傷つけた。熱い血液が溢れてくる。構わずさらにダガーを入れる。
が、握力がもう限界であった。
ダガーから手を離し、代わりに剣を抜いた。刃を傷口にねじ込み、ノコギリのように切りつけるのだ。両手での作業になるから、転倒したら投げ出される。
剣士は臆することなく、全体重を使ってザクザクと刃を入れた。
やがて、ズシンと首が落ちた。五本目。切断面からはゴポゴポと小噴水のように血液が溢れてきた。
応戦していた騎士団員が、落ちたばかりの頭部へ駆け寄り、真上からメイスを叩き込んだ。さっき仲間を噛み殺した頭部だ。憎かったのだろう。
誰かが六本目を落としたところで、ヒドラはついに絶命した。
一面が血の海だ。
失血死であろう。
剣士が床へ着地すると、雨の日のようにざぱんと波が立った。
「死者の命を大地に捧げる。よきポテトとならんことを」
「ポテトを讃えよ」
「ポテトを讃えよ」
騎士団の面々は、さすがに表情が暗くなっていた。
現在、生存者は八名。
髭面はかすかに嘆息し、しいて威勢のいい声を出した。
「よし、次へ向かおう! 魔女はすぐそこだ!」
「おう!」
*
そして五十六階――。
一見、無人である。
しかして部屋の中央には、不自然にも樹木がそびえていた。おかげでシャンデリアが持ち上げられてしまい、やや傾いている。その炎は、かろうじて枝葉にかかっていない。
「奇妙だな。なぜこんなところに木が」
困惑する騎士団員に、剣士はこう教えた。
「ドライアドだよ。近づくと絡め取られる。注意して」
木の周囲に根が伸びている。そこへ足を踏み入れれば、すぐさま捉えられてしまうだろう。
剣士はひとつ呼吸をし、彼らに告げた。
「無視して通り過ぎることもできるけど?」
騎士団はかなり数を減らした。
無用な戦闘は避けたいはずである。
が、髭面のリーダーはメイスを構えた。
「植物の魔物とは面白い! 我ら、神聖ポテト騎士団である! いざ勝負!」
「臆したか! なにか答えよ!」
だがドライアドは、どちらかというと受動的な「待ち」の魔物だ。自分から動いたりはしない。
おかげで騎士団から「所詮はポテトも実らぬ無用の植物よ」「貴様など雑草以下だ」と一方的に罵倒される始末。
結局、このフロアは素通りとなった。
*
六十一階へ到達。
フロアの番人はユニコーン。ひたいにツノを持つウマである。たてがみは立派で、毛並みもつやつやと美しい。
一行が現れると優雅な動きで立ち上がったものの、いななきもせずじっと警戒していた。つぶらな瞳のおとなしい魔物だ。挑発しなければ戦わずに済む。
が、剣士はもう、その可能性はあきらめている。騎士団の判断に委ねるしかない。
騎士団員はしかし困惑していた。
「まさかウマとはな……」
「こいつは農耕の役に立つ。ポテトの友人だ」
「行こう。戦う必要はない」
戦闘狂の彼らであるが、ポテトに関係しているとなればおとなしいようだ。
敵意がないことが分かると、ユニコーンもぷいと向こうを向いてしゃがみ込んだ。見ていない間に行ってくれということだ。
*
フロアを出た一行は、揃って階段をあがった。
また髑髏の兵を蹴散らしつつ、今度は六十六階を目指す。
剣士の記憶によれば、そこには厄介な敵がいる。
無視してもいいのだが、騎士団はそうするまい。
どうせ死に別れることになるのは分かっているから、普段、剣士はできるだけ仲間と会話をしないようにしている。なのだが、つい気になってこう尋ねた。
「なぜすべての敵と戦おうとするの?」
すると騎士団の面々は、まずはきょとんとした顔を見せた。
「なぜ? そこに倒すべき敵がいるからだ。ほかに理由が要るのか?」
「戦いを回避することもできるのに」
すると髭面のリーダーは、やや照れくさそうに応じた。
「ま、言いたいことは分かる。所詮は金のための戦いだからな。どれもこれも無益な殺生だ。だがな、俺たちにとっては名誉の問題でもある。これから魔女を殺すんだ。騎士団の活躍は歴史に刻まれる。そのとき、もし敵から逃げ回ってたなんてことが知れ渡ればどうなる? あとで歴史書を読み返したとき、恥ずかしい気持ちになるだろ?」
「……」
剣士は閉口した。
背後からでも容赦なく武器を飛ばしてくる魔女を見たら、彼らはどう思うのだろうか。いや、そもそも考える時間さえ与えられない。魔女に遭遇すれば即座に命を奪われる。誰も勝てない。
どんなに気のいい連中だろうが、結末は同じだ。
過去には、もしやと思わせる挑戦者たちもいた。
異国の暗殺者や武人、それに魔術師が居合わせたことがあった。彼らは強いだけでなく、賢く、独自の技を持っていた。そういう連中が揃って百一階まで到達した。
魔女が焦っている姿を、剣士はそのとき初めて見た。
よく分からない術で魔女の動きを封じ、飛来してくる刃をことごとく叩き落とし、かつてないほど魔女を追い詰めた。呪われた島の伝説もついにここまでかと思われた。が、刃を突き立てようと踏み込んだ武人が肉片となり、背後に回り込んだ暗殺者も同じ末路をたどった。
なにかを悟ったらしい魔術師は、顔面蒼白になり戦意を喪失。飛来してきた刃に八つ裂きにされてしまった。
魔法の素質を持たぬ剣士でさえ、魔女の身体から強力な力が溢れているのを感じた。
並の力では勝てぬのだ。
魔女の用意した魔物に苦戦しているようでは。
(続く)