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一般向けのエッセイ

『面白い』を客観的に定める方法  (中谷宇吉郎を手がかりに)  

 

 

 『面白い』という事について少し書いたが、それでは言い足りない部分があるので続きを書く事にする。これに関しては、科学者・中谷宇吉郎が批評家・小林秀雄について書いた文章『小林秀雄と美』を下敷きにする。中谷宇吉郎の言っている事は僕が漠然と感じていた事を理系らしく極めて明快に言ってくれているので、この文章を紹介するだけでも十分だと思っている。この文章は「小林秀雄全集 別巻2 批評への道」に所収されている。


 さて、まず中谷宇吉郎は「美の客観的基準を定める事は可能か」という問いから始める。今の場合、「美」を「面白さ」と読み替えてもらえればいい。中谷はこんな風に始める。


 「今日のような民主主義の世の中になると、藝術の世界でも、大衆性ということを、重視しなければならない。その点では、小林秀雄のようなことを言うのは甚だよろしくない。しかし藝術と民主主義の調和は、なかなかむずかしい」


 この後、フランス革命の際に一番喜んだのはセーヌの道端で絵を売っていた画家だったという話が出てくる。「自由」「平等」を基調とするフランス革命の後は、「俺の絵だってルーベンスと同じ値段で売れるんだ!」というわけである。もちろん、現実はそうは行かなかった。


 さて、ここから中谷は二つの基準を、芸術と科学を比較しながら提出する。科学者らしく、極めて明快な方法を二つ、中谷は教えてくれる。


 まず、無条件に大衆の評価を信じる事は間違いであるが、かといって大衆を完全に無視する事はできない、という事である。ベストセラー作品が一番価値ある作品とは言えないが、そうかといって、誰も認めない作品を優れた作品と言う事はできない。それが優れた作品であると考える為には、最初は少数者であろうと、その作品を高く評価する人間が必要になっている。


 還元すれば、これは「質」と「量」の組み合わせの問題である。中谷は科学の観測の話題を出す。


 科学は一般に正確と思われているが、実はそうではない。「観測」というものには必ず誤差がつきまとう。誤差というのは必ず出てくるので、科学においては最初に、「これくらいならまあいい」という範囲を決めておく。その範囲ならば誤差が出ても、「正確である」「妥当である」という事にする。つまり、科学の観測というのも、完全な値を用いているのではなく、トータルで考えて妥当と思われている線で進んでいくという事だ。


 例をあげると、地球というのは円形で表されるが、実際には表面は山脈で凸凹している。しかしこの凸凹は地球というトータルの大きさから比べれば極めて小さな凸凹なので、この凸凹は気にせず、円を描いて「地球だ」という事にしておけばいい。大体、そのような、場面に合わせたアバウトさで僕らは問題を処理する。


 さて、中谷は観測の問題ついて更に細かく考えていく。観測には誤差があると言ったが、その場合、測定値は観測者によってそれぞれ違う。つまり、それぞれに誤差を持っている。ではそれをどう調節するかと言うと、各測定値の平均点を取る。つまり、民主主義的な方針を取る。こうして誤差の範囲を狭めにかかる。


 これを僕らは通常、次のように言い換えている。「あの作品が面白いと言っているが、それはお前の主観だろう」 こういう事を訳知り顔で言う人間がいるが、そう言う人間はもちろん、「客観的基準」が何かは知らない。中谷の考えを用いれば、そもそも科学においてすら完全な正確性は存在しない。それで、ある程度、妥当なラインを考えていく。したがって、「それがお前の主観」であるというのはそもそも否定にはならない。誰しもの主観を統合して客観を作るからだ。


 しかし、この民主主義的やり方とは違う方法論がもうひとつある。こちらも、民主主義的なやり方と同じくらい重要だ。こちらの方は君主制と言えばいいかもしれない。小林秀雄は、君主制の君主に該当する。


 というのは、科学において「重みをつけた平均」という平均の取り方がある。これは信用度のある測定値ならば、その分だけ、そこに重みを持たせるという事だ。中谷はこれを「特定の人に二票なり、三票なりを与えて、投票させるようなもの」と説明している。この「特定の人」というのは、何らかの理由で、普通の人より信頼のおける人となっている。


 さて、ここで、民主主義的だけではない方法論が出てきた。つまり、評価の基準に重みをつけるというものだ。これを極端にすると、小林秀雄のように美に打ち込んでいる人の評価に関しては普通の百倍の価値を認めてやる。普通の人百人分の評価価値が、小林秀雄のように心底、芸術に打ち込んでいる人には与えられる。一方、普通の平均人は小林秀雄の百分の一の評価能力しか持たない。


 こうなると、当然、不平が出てくる。「どうして小林秀雄にそんな権利が与えられるのか!」と。これは平等論に傾き、最後にはセーヌ川の絵描きに行き着く。


 中谷はここでもうまい比喩を用いている。例えば、雪舟の絵と、風呂場のペンキ絵(凡庸な富士山の絵)、どちらがいいかと問うと、一般的にはペンキ絵の方に軍配が上がるだろうと言っている。民主主義で言えば、ペンキ絵が勝つわけである。だが、ここに重みというものを考えてみよう。つまり……


 「雪舟にもペンキ画にも、どっちにも実はあまり興味はないが、どっちかといわれれば、まあペンキ画の方という一票と、もし家屋敷があったら、それを売ってもこの絵を買いたいという人の一票とには、違った重みをつける方がむしろ自然である。」


 これはわかりやすい比喩だ。この時、「家屋敷を売っても買いたい絵」というのはおそらく、富士山の凡庸な絵ではなく、雪舟の絵の方であろう。そしてそんな事を言い出しかねないのは、小林秀雄のように、芸術に打ち込んだ人間に決まってくる。


 ここまで来て、「美」あるいは作品の「面白さ」を決める基準がはっきりしてくる。簡単にしていくと


 ① そもそも、芸術においても科学においても完全に客観的な評価というのは無理だ。だから、その次の妥当なラインを探す事が求められる。


 ② 妥当を探す一つの方法は、多くの測定を用いて、その平均を取るものだ。これを作品評価に当てはめると、時代と人の波、様々な異なる文化をくぐってもなお評価されたきた作品というものには、ある程度の妥当性が認められるだろう。


 ③ また、もう一方の方法は、小林秀雄のように作品評価に自分の全身全霊を傾けて打ち込む人の評価を信頼するという事だ。

 中谷はこれを「けっきょく小林秀雄のような男の言うことを聞いているのが、一番の早道ということになってしまう」と、極めて的確に現している。小林秀雄は信頼できる測定装置であるが、完全な装置ではないという微妙なニュアンスを一文でうまく言い表している。



 さて、ここまで考えてくると、中谷宇吉郎は極めて穏当かつ常識的な事を言っているのが分かるように思う。熱狂するわけでも、軽蔑するわけでもなく、科学的な考え方で芸術の価値基準というものを、僕らの普通の感覚と合致するようにわかりやすく説明してくれている。


 ここまで説明すれば、僕が付け加える事はもう何もない。自分の言わんとしていた事を明快に説明してくれてありがたというばかりである。ただし、こういう考え方が「普通」とは思われない時代もあって、現在もそんな時代かもしれない。というのも、文芸評論家が、批評家の先輩であり、批判するにせよ丁重に扱うべき小林秀雄を「ドーダの人」という雑駁な論理で否定(批判でもない)してみせたり、ベストセラー作家が「『罪と罰』を読まない」という本を出したりする。信頼できる測定装置、「重みをつけた平均」の方はバカにされて、どんな事を言おうが売れればいいという時代だ。量で質を足蹴にできると信じている時代だ。


 こうした時代にあっても、中谷宇吉郎の言っている事は妥当であると思う。しかし、中谷も注意しているが、難しいのはここからだったりする。つまり、誰が信頼できる測定装置なのか、それを探るにも、また別の測定装置が必要なのである。芸術が科学よりも面倒なのはここいら辺りにあるのだろう。科学であれば、僕らが皆、持っている感覚器官に訴えかけるわけだが、芸術を感受する器官は僕らが「重さ」「軽さ」、「運動」等を計る器官より、精妙でわかりにくいものとなっている。中谷はそれを意識していてこう書いている。

 

 「こういうことをいっても、実は言葉の遊戯に過ぎないので、そういうウェイトをつけるとなったら、抽象的なものしかない。美を求める精神力の全精神力対する割合というようなものしか考えられない。」


 つまる所、芸術、作品の客観的評価というのは難しく、それぞれが価値評価を磨いていくか、それとも、小林秀雄のような達人の言う事を一応、信頼していくというのが妥当な線となってくる。「美」「面白さ」の客観的評価というのは中谷宇吉郎の言っている事に尽きていると思う。つまり、全体の多様な評価の平均を重んじるか、小林秀雄のような達人の言う事を疑いつつも、尊重して聞いていくか。どっちにせよ、この二つの価値基準、質と量を駆使してこれからもやっていく他ないように思う。ベストセラー作家が一時、平均点を高めても、「時」という要素が加算されると彼らの点数はどんどん減っていく。作品は評価というものと闘わなければならないのであって、作品は評価に屈従するものではない。また、評価者の方でも、自分の評価基準を磨いていくのが、妥当な努力という事になるだろう。


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[一言] ヤマダヒフミ様  はじめまして。  前回のエッセイに引き続き今回のエッセイも興味深く読ませていただきました。  なぜ興味深かったかと言えば、エッセイ(前回分を含みます)を読み進むにつれ、…
[一言] 面白かったです。前回、言いたかった事が、ゆっくり横たわっているような感じでした。 感覚的に近しいと思っています。もちろん、綺麗に同じでは無いのですが。 好きな物だけ基準、という物があると思…
[気になる点] >作品は評価というものと闘わなければならないのであって、作品は評価に屈従するものではない。また、評価者の方でも、自分の評価基準を磨いていくのが、妥当な努力という事になるだろう。 まさ…
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