3 逃げろ
「おいっ、何があった。大丈夫なのか」
男の声がした。
月明かりが頼りの暗闇の中、距離の離れた所に居る男には、私の変化は見えなかったらしい。
叫び声だけが聞こえていたのだろう。
「おいっ! ……っぐ」
あの猪のような獣が、男に飛びかかっていた。
男は右手の木の棒で薙ぎ払い、どうにか凌いだようだが、私はそれを見て、頭に血が上るのを感じた。
全身の毛が逆立ち、一も二もなく駆けだしていた。
人の時とは比ぶべくもない、強靭な脚力をもって距離を詰め、男を襲った獣の首に牙をたてた。
更に力を込めて、ごきりと骨を砕く。
獣の体から力が抜け、命が失われていく気配を感じると、それを森の向こうへ放り投げた。
仲間を殺されて怒ったのか、それを拍子に次々と私めがけて他の獣達が襲いかかってくる。
私から一匹でも気が逸れぬよう、一度大きく吠えてこちらに引きつける。
鋭い爪で腸をえぐり、胴体に噛みついて頭を振り木へと叩きつける。
足を喰いを千切って動けぬようにし、長く伸びる角をへし折る。
それを繰り返す内、この付近にいる獣は全て、息絶えるか、身動きがとれない状態となった。
しかし、まだまだ森中に無数の獣の気配がする。
これだけ血の匂い充満すれば、しばらくするとまた集まってくるだろう。
きりがない。
守りきれる自信もない。
自分だけが助かればいいというのとは訳が違う。
仕方ないと、男の方を見る。
男は私と視線が合うと、硬直した。
狼に似た獣の正体が私と分かっていない男には、新手の敵に見えたのだろう。
すぐに木の棒を掲げて、いつ襲ってきても良いようにと構える。
『逃げましょう』
人間の時と比べると少しこもった声で言った。
男は獣が話すことに驚愕している。
『私です。加倉雪です』
私が私であることを理解してもらえればいいと思ったのだが、はたと気付いた。
『あ、いや、そもそも、まだ名のってなかったから意味がないか。すみません、私です。あのぉ、ほら、私ですよ』
何と言っていいやらわからず、言葉を重ねるが、要領を得ないものになる。
うぅむとうなって、理解を求めるべく、更に口を開けようとした。
それを男が手のひらを向けて制す。
「いや、もういい、わかった」
呆れたような、うんざりしたような、そんな声音だ。
疑問が山積しすぎて、全て投げ出したい。
今まで培ってきた常識が、根本から覆されるような状況だ。
とりあえず、そういうものだと飲み込んだ方が、精神が健やかなままでいられる。
そんな胸中なのかもしれない。
程度の差はあれ、私も同じような事態に見舞われており、そのような考えで当座は凌いでいる。
『分かってもらえて良かったです』
ほっとした。
木の棒で殴りかかられるのはご免だ。
『そういえば、あなたの名前は何とおっしゃるんですか』
本当ならばもっと早くに名のり合うべきだったのかもしれない。
何せ、私は当初一人で逃げるつもりだった為、男の名前など知っても仕方ないと考えていた。
男が深い溜息を吐いたので、少し呑気過ぎたかもしれないと思った。
つい先刻まで男は自分の死を覚悟するような状況だったのだ。
今もそう大差はないが。
「関島圭一」
『せきしまけいいち、さん』
「いつまで覚えていられるんだろうな」
からかうように言った。
私が関島の顔を忘れていたことを言っているのだろう。
『大丈夫ですよ。関島圭一、関島圭一、もう覚えました』
それくらい覚えられる。
私は少し意地になって答えると、関島は音もなく笑った。
その顔が、ある人を思い起こさせて、私は小さくうろたえた。
『せ、関島さん、そろそろ行きましょう。さ、乗ってください』
「……乗る?」
『はい、私の背中に乗ってください。あんまりゆっくりしているとまた、さっきの猪もどきの仲間がやって来ます』
関島は私の全身をじっと見た。
私の今の体格は、大型犬をもういくらか大きくした程度だ。
大の男一人を乗せて走れるのかということを言いたいのだろう。
『大丈夫ですよ。それに、あなたがそのまま逃げたって、新幹線から三輪車で逃げるようなものです、ごめんなさい』
言葉の途中で、いらっとした気配が伝わってきて、思わず謝る。
それでも、何となくもう少し話していたい気持ちになっていたが、悠長に話している場合ではないと気付いた。
遥か向こうに獣が姿が見えていた。
私の目だからこそ確認できた距離だったが、ほん少しの間、気を抜いてしまっていたのに違いはない。
私は鼻の上に皺を寄せて、唸り声を上げる。
『早く背中に』
乗りやすいよう近寄るが、関島は動こうとしない。
私の体格から、乗っても上手く走れない可能性や、走れたとしても逃げきれない可能性、逃げている最中に関島自身が足手まといになって私が命をおとす可能性などを考えて、やはり当初どおり、私だけ逃がそうなどと考えているのだろうか。
それは私にとって、大変都合がよく、諸手を上げて賛成したい考えだが、謎の匂いの力によって、この人を置いて逃げるという事ができない今、そんな考えは屑かごに捨ててしまえと言いたい気分だ。
猪似の獣が近づいてくる程、私はまたあの匂いを強く感じ始める。
平静ではいられなくなる。
関島を危険にさらすわけにはいかないと、そればかりが頭を占めるようになる。
早く、早く、男を安全な場所へ。
急げ、急げ、男を守れ。
獣の姿が、関島の目にも分かるようになった時、私の我慢の限界がきた。
力の限りで威嚇の声を上げて、獣が怯んだのと同時に、怒鳴る。
『さっさと、乗れっっ!!』
目に見えて切羽詰まった状況に、関島は決断を下した。
そこからの行動は早かった。
私と共に逃げることを決めた関島は、すぐに私の背に乗る。
ただそれは、馬に乗るような格好良いものではなく、まさしくへばりつくような体勢だ。
申し訳ないが、我慢してもらうしかない。
私が小さいのが悪く、この人が大きいのが悪い。両成敗だ。
体勢が整ったのが分かると、私は猛スピードで駆け出した。
たとえ人間を背負っていたとしても、早さで負けるつもりはない。
ただ、どこまで走ればいいのか、どこまでいけば安全なのかが分からない。
相手は数が多く、森のあちこちにいる。
走れば物音で気付かれやすくなるし、匂いは獣の血にまみれたせいで余計に目立つ。
体力が持ってくれればいいが。
私は不安を抑え付けるように、駆ける足に力を込めた。
獣が追ってくる気配がしたが、しばらくして振り払うことができた。
しかし、少しするとまた別方向から獣がこちらに向かってくる気配を感じる。
それを避けて方角を変え、また時間をかけて振り払う。
それは最初にここで目覚めた時から予期していたことだった。
こうやって、私は一人で逃げるつもりだったのだ。
現実は違う。
男一人を背負って、走り続けている。
辺りの気配に神経を走らせ、足場の悪い森の道を駆ける。
関島を振り落とさないように、けれど獣に追い付かれないように。
獣の気配を頼りに危険な方向を避け、方向転換し安全な道を模索する。
何度も何度もそれを繰り返し、出口の見えぬ森を彷徨う。
もうどれ程、走ったのだろうか。
私の体力は、限界を迎えつつあった。
思考力が落ちてきていたのだ。
前方から感じる獣の気配に、急な方向転換をしたのが悪かった。
関島は長いこと、振り落とされないよう、私の背にしがみ付いていた。
手の力に限界がきていたのだろう。
意に背中の重みが消えて、身が軽くなる。
「うぁっっ……!」
地面に男が転がる音と、呻き声が聞こえた。
私は慌てて急制動をかけ、男の元に駆け寄る。
『す、すみません。はぁっはぁっ……、ご……ごめんなさい、ごめん、なさい。はぁっ、痛いですかっ……大丈夫ですかっ』
息が荒く、上手く言葉がつむげない。
しんどいが、それよりも男が心配でならない。
私はおろおろと男に体に鼻先を寄せた。
男は折れた右足を地面の打ち付けた痛みに、悶絶している。
あまりの痛みに声も出ないようだった。
『……どうしよう』
前方から足音が迫ってきている。
今すぐにでもここを離れたいが、この状態では関島が私の背中に乗ったところで、しがみ付いてはいられないだろう。
「……っっ、大丈夫だ。こっちに来いっ」
酷く掠れた聞き取り辛い声。
関島は私の鼻先を押しのけ私と自分の体を平行にし、首に手をまわして横たわった体を私の背に乗せようとする。
しかし、足の痛みや疲労で手が震え、力が入らないようだった。
私が馬ほど大きい体を持っていれば、関島がしがみ付かなくとも、上手く乗せて逃げる事が出来ただろう。
これ以上、関島を背中に乗せて逃げる事は出来ない。
ならば、出来る事は一つだ。
数が多いからと言って、獣の数が無限であるわけはない。
戦い続ければいつか全て倒すことは出来るはずだ。
私が倒れなければ、必ず。
力の入らない男の腕からするりと抜けて、鼻先だけを、ちょん、と男の鎖骨辺りに触れさせた。
あの匂いがする。
匂いが男を守れと奮い立たせる。
私の意志をねじ伏せる嫌な臭いだが、逃げられない以上、仕方がない。
この窮状を切り抜けるため、利用する。
私は何が何でも男を守らねばならないのだ。
私が途中で息絶えても、男は死ぬに違いない。
ならば、私は生き残らなければならない。
男を守るために。
「乗せるのが無理なら……お前、一人で逃げろ。無駄なことはするな」
関島は私の決意を察したようだった。
私は思わず笑ってしまった。
全く、同意見だ。
でも……
『どうしても、貴方を置いて、逃げられないみたいなんですよね。だから、人間、諦めが肝心です』
まぁ今は人間ではないんですが。
と付け加える。
男は人間だから諦めて、守られていろ。
私は人間ではないから、諦めない。
男を守って生き抜くのだ。
そんなやりとりをしている間に、獣がすぐ近くまでやって来ていた。
私は獣を倒すことに集中し、関島はもう何も言わなかった。




