1 出会い
初投稿です。
宜しくお願いします。
生まれてくる場所を間違った。
私は考えに沈んだ時、最後にいつも、そう思う。
私と他人との間には深い隔たりがある。
それは私以外の人間同士に横たわるものとは、比べようのないものだった。
人と相対するたび、頭の中で、彼らは私とは異質な生き物であると、警鐘が鳴る。
それを聞こえないふりをして、迎合し、うやむやにし、人に溶け込んだように振る舞う。
しかし、本心と違う行動をすれば、違和感が残る。
その行動や表情にはもちろん、私自身の心にも。
私の擬態は、上手くいくこともあったが、失敗することも多かった。
小さな失敗は積み重なり、他人は私を変人、と評価した。
努力して歩み寄るが、その結果は完璧とは言い難い。
腫れものを触るような扱いに、息が詰まる。
結局はそう努力しなくても、変わりないのではないか。
全て投げ出して本心のまま生きても、今と大差ないのではないか。
努力する必要がない分、いくらか私の心は、そのストレスから救われるのではないか。
何かした相応の分、報われないというのは、辛い。
いっそ、何もしない方が、諦めがつく。
私と人との差異は挙げればきりがない。
それをどうにか誤魔化して、溝を埋めよう努力する、そのことに意味を見いだせなくなっていた。
私は、人と関わることに、随分と前から、うんざりするほど飽いていた。
私のその日の行動は、異常事態と評していい程、有り得ないものだった。
それはいつもと変わらないある日の放課後のこと。
「加倉」
校舎を出てすぐ、私は呼び止められた。
またか、と思う。
一拍おいてから呼ばれた方を向く。
姿を確認する前から、むせ返るような整髪料の匂いのせいで、近付いている人間が誰かは分かっていた。
生活指導担当の梶原だった。
小太りで、背の低い男性教師の姿が、私の左手、少し向こうに見える。
新校舎の方から出て来たようで、まだいくらかあった距離を縮めて私の目の前で立ち止まった。
それも、梶原は立つ位置は私の風上だった。
「はい、何ですか」
私は自己防衛の為、口で呼吸をしながら答えた。
鼻声になってしまったが、背に腹は変えられない。
しかし梶原は何も気付かない様子で、言葉を続けた。
「ボタンを留めろ。リボンも」
梶原は自分自身のネクタイの辺りを指でトントンと叩いて見せた。
私の首元は、カッターシャツの第一ボタンが外されており、細い紐状のリボンは落ちないようにゆるく一度、結んでいるだけの状態だった。
ホームルームが終わって、担任教師が教室を出て行ったのを見届けてすぐ、きっちりリボン結びしていたものをほどき、第一ボタンを外したのだが、早すぎたようだ。
校門を出るまで我慢すべきだった。
首を絞めつけられているという状態が苦痛だった。
何かに抑えつけられているような、そんな感覚に陥る。
ペットが首輪をつけられているような、そんな気分になるのだ。
「……すみません」
私は小さく謝って、すぐにボタンとリボンを直した。
それを見届けて、梶原は一つ頷くと、何か言葉を続けようとした。
呼び止めた理由は他にあったのだと思う。
服装の方は、近付いた時に気付いて注意したに過ぎないのだろう。
私はその本題は何か、見当が付いていた。
今までに何度か、それが原因で呼び止められている。
「あのな、加倉……」
続けた言葉は途切れ、本題に入ることはなかった。
私がそれどころではなくなったからだ。
私は、梶原のいる方角とは正反対を向いて、目を見開いていた。
視界の中に何か特別がものがあるわけではない。
上手く表現できない。
強いて言えば、匂いだろうか。
風向きを無視して、強烈な匂いが私の鼻に届く。
私を、誰かが、呼んでいる。
強烈で、強引な、逆うことを許さない意志を持って。
声が聞こえるわけではない、文字が見えるわけでもない。
嗅いだことのない匂いが、私にそれを伝えてくる。
吐き気がする程に陰湿で、眩暈がするほど甘ったるく、絡み付き捉えて離さない、濃い匂い。
それに酔って微かにふらついた私の肩を、梶原がおいと、掴んだ。
「うるさいっっ!」
掴まれた瞬間、私はその手を振り払った。
ぎりりと歯を食い縛り、唸り声を上げながら、梶原を射殺すつもりで睨みつけた。
愕然とする梶原を見れば、普段ならしまったと理性を取り戻していたに違いない。
しかし、私にはその余裕がなかった。
呼ばれている、行かなければ。
行かなければ。
私はただ、その思いに支配されて、正常な思考力を失くしていた。
気付けば、何事か怒鳴る梶原を無視して、駆け出していた。
全速力で。
制服のスカートが翻り、悲惨な状態になっている。
ハーフパンツを下に履いているが、腹の辺りに裏返しに貼り付いたスカートは、その用を成していなかった。
ぱらぱらと歩いている下校途中の生徒は、走り抜ける私を振り返り茫然としている。
全力で走る私の姿だけが、注目を集めている原因ではないことを、私は知っていた。
しかし、それもやはり意識の外に追いやられてしまっていた。
匂いを追わねばならない。
行かねばならない。
何をおいても。
校門を出て、匂いを追って右に曲がり、更に駆けてどこかの路地に入る。
すぐに別の道路に出たが、見渡す限り歩行者はいない。
焦りを抑えながら、息を整えつつ、匂いの元を探す。
この辺りで間違いないのだ。
確実に匂いの元は近くなっている。
見落とさないように辺りに注意を配り、再び走り出そうとした時、別の小道から出てくる人影が見えた。
それは男性のようだった。
私は一瞬息をするのも忘れて、凍りついた。
それでもなんとか、ふっと息を吐いて、ぎくしゃくと歩き出した。
その男を凝視しながら、近付く。
男もこちらに向かって歩いて来る。
距離が狭まるにつれ、期待が確信に変わる。
匂いの正体はこの男だ。
私は、獲物を狙う獣のような心境で、欠片も男から視線を外さずに距離を詰めた。
男の方は、恐らく意図的に、私の方を見ようとはしなかった。
これだけ視線を浴びせられれば、気付いているだろうに。
しかし、あまりにも凝視し続ける私に、終に折れて、男が私と目を合わせた。
私の容姿を上から下まで眺めて、微かな嘲りの表情を浮かべたようだった。
友人と会話をする距離に近づいた頃、すれ違う前に男の方から声をかけてきた。
「何か?」
冷たい声だ。
私は息を止めた。
声を出して会話を交わすという事を、忘れてしまっていた。
その選択肢を思い浮かべていなかった。
私は自分の頭に、大して期待をしていなかったが、これほどポンコツだとも思っていなかった。
期待もしていないのに、裏切られるというはどういうかと、憤りさえ感じる。
逃避していく思考に、歯止めをかけた。悪い癖だ。
何か答えなければと思う。
思うのだが、何を言えばいいか分からない。
ただ無言のまま、男を見上げ続ける。
男は細身で、背丈は170cm前半くらいだった。
やっと150cmにも満たない私は、見上げる他ない。
髪は染めている様子もなく、真っ黒だった。
何を返していいか分からず、私は黙し続けていた。
男は興味を失くしたようにすいっと視線を外し、歩き出そうとした。
私は慌てて、男の腕を掴んだ。
咄嗟の事だったので、逃がすまいと、力の限り。
男はぎょっと目を見開き、反射的に手を引くが、私の手の力が上回ったようで、逃げることは叶わなかった。
しばらく私達はそのまま見詰め合った。
男は諦めて、溜息をついた。
それから、にこりと笑いかけてきた。
ここまでの様子は打って変わって、友好的で好意的で偽善的な表情だった。
「話があるなら聞くよ。とりあえず、この手を離してくれれば」
それはそうだろうと思った。
男の言葉に従おうと、手を離そうとした時のことだった。
あの匂いが、また私の頭に入り込んできたのだ。
最初に気付いた時よりも酷い。
私の中に浸透し、私を別の何か塗り替えて、跡形もなくしてしまいそうな、それほど凶悪で、甘美な。
視界が歪み、吐き気がする。
私は立っていられず、しゃがみ込むが、男を掴む手だけはどうしても離せずにいた。
「おい、大丈夫か?」
男の心配する声に頷こうとすると、吐き気が込み上げる。
「おいっ! ……っ! ……」
男が何か言っている。
私も必死に何か言葉を返そうとするが、声が出せたのかも認識できない。
気持ちが悪い。
嫌だ。
嫌だ。
行かなければ、行かなければ。
「……、……」
嫌だ。
行かなければ。
早く、早く
私は、匂いに、支配されて、意識を失った。




