3.獣と共に生き、野を駆ける人。
草木でさえも眠りにつく闇の中を、巨大な十字型の影が一つ切った。
月夜の光があるとはいえ、闇が支配する中をそれは飛んでいた。闇の中でなければ、それを鳥と見間違えたであろう。それほどに、よく似ていたのだ。
風の合間を縫い、謎の影は二、三回同じ場所を旋回する。
人気がないことを充分に確認している様である。
人に見つかれば、命は無いのだ。
慎重に、慎重に、それは地上に降り立った。
――ソウライは、日向で乾燥中の藁の上で目を覚ました。
地上の水溜りに映し出された白雲は、風と共に流れていく。太陽の光は眩しく、雨の後の大気は澄んでいる。春の優しい日差しに照らされて、身体が温まってきたのだろうか、眠気に襲われ眠ってしまったらしい。このところ夜を徹して作業をしていたので、そのせいもあるだろう。
ソウライは起き上り背伸びをする。彼が起き出すと同時に、1匹の小さな鳥が藁山に舞い降りた。
「疾風、おはよう」
この鳥は卵の頃から育てたもので、今ではすっかり家族同然だ。いや、もう、家族と呼べるのは、この鳥しかいないのだ。
彼は家族のことを思い出し胸が苦しくなる。
今はもう遥か遠くにある、家族たちの幻影。もう一度、会いたい。無意識にこぶしを握り締める。
彼の故郷はなくなってしまった。
帝国が行う「ヤ人狩り」によって。
帝国に住むマ人は、ヤ人を恐れていた。ヤ人たちが、世界の破壊を考えていると噂している。
”ヤ人の瞳は、闇の中で満月のように輝き、暗闇と共に行動する。空をも飛び交い、時として化け物にさえ変化する”
その噂は真実ではない。単なる噂に過ぎない。しかし、帝国の者はだれも疑問にも思わず、その噂を信じる。国に対する漠然とした不満から目をそらすため、目に見える形の敵をつくり、矛先をそらすためにだ。
マ人から逃れるために、森に住みついて数年。ソウライは他の村から逃げ延びたものたちと暮らしていた。
家族を失ったことは悲しいが、今が不幸かといえば、それは違うと言える。家族はなくとも仲間は多くいるのだ。
疾風は草で編んだ小さな筒をくわえていた。どうやら、眠っている間に、誰かが来て、これを疾風に託したらしい。ソウライは、筒の中にある紙を取り出し目を通した。
『親愛なるソウライへ。
時は来た。お前は残れ。
トウカ』
「うん、彼女らしい分かりやすい手紙だ」
彼女とは、情報のやりとりに何回か手紙をやりとりすることがあったが、いつもこうなのだ。
(それにしても、こんなに字を大きくはっきりと書かなくても分かるのに)
ソウライは苦笑いを浮かべた。
「確かに僕は集団行動には向かないけれども」
正々堂々、面と向かって剣を振るうのは得意ではない。どちらかといえば潜入調査や暗殺といった、影の活動を得意としていた。
ソウライはある特殊技能を持つがゆえに、帝都に侵入し、そこを根城にする仲間と情報を交換する役割を持っていたのだ。
「……でも、文句の一つも言ってこよう。疾風、ちょっと散歩に行こうか」
ソウライがそう言うと、疾風は空高く飛び立つ。彼はそれを見上げ、地上から後を追う。
かつては疾風と共に、野を駆けていた。今は森木々に邪魔され、好きに駆け回ることは叶わないが、それでも大地を踏みしめ駆けるのは悪くは無い、と彼は、思う。
そして、この平和な日々がいつまでも続いて欲しいとも願うのだった。
「でも、この幸せはいつまでも続くわけじゃない。残念なことにね。このところ、帝国の動きが活発だし……それに」
ソウライの声はちいさくなっていき、語尾はもう消えてしまっていた。その瞳は空にある白い星を捕らえていた。
「あれは、きっとこの星に間違いなく落ちる。帝国が儀式をしようと、しなかろうと……」
森に住む民たちはあの星を観測し、その軌道を計算した。あの空の異変はこの大地に滅びを迎えいれる。それはこの森に住む者たちの常識であった。
「大いなる大地が滅びの運命を選ぶなら、我ら大地の子はそれを受け入れるまで」
そう一人で呟き、そして、軽く微笑む。
「とはいうものの、誰かが死ぬのはもう見たくない」
彼には故郷も血のつながりのある者たちもいなかった。だから、もう誰も失いたくなかった。
地上の水溜りに映し出された白雲は、風と共に流れていく、平和な日々。青い空は、どこまでも続いている。
「お、やっぱり来たな」
隠れ家に続く道にて見張りをしている者が言った。
「彼女も分かっていて手紙を出したのだろうよ」
あのような手紙を出せば、すぐにこの場所へ足を運ぶことが。
「ほらほら、中に入りな。トウカ隊長がお待ちだ。今日は特に忙しいから、あまり隊長を困らせるんじゃないぞ」
ソウライは見張りに礼をし、森に隠された入り口をくぐった。
くぐった先は木々あふれる森とは違い、人工的に整備されていた。切りそろえられた樹々の壁、ところどころに様々な花の咲き乱れる鉢植えが並んでいた。
「よ、ソウライ」
背後から声がかかる。
ソウライの肩に止まっていた疾風は、突然の登場に驚き、「ヒョッ」と威嚇の声を挙げる。
「私の顔はまだ疾風に覚えられてないのか」
ソウライの唯一の友人であるトウカが尋ねてきた。「気配を消して、背後から近づくからだ」と思いつつも口には出さず、彼女に軽くあいさつをした。
「で、決行はいつだ?」
その日のためにソウライは帝都に忍びこみ情報を集めていた。その情報を森の仲間の元に届け、機会を伺っていた。帝国に捕らえられた同胞を救うため、殺された者たちの敵をとるため。
「明後日、夜明け前だ」
その日、帝都で過去最大の大規模な儀式が行われる。これはソウライが帝都で仕入れた情報である。その時に合わせて、森に隠れ住んでいたヤ人たちは暴動を起こすのだ。そのために数年にわたる下準備もしてあるのだ。
「しかし、潜むが上手いだけのお前には戦闘は無理だ。ここに残れ」
トウカは特別な友人であるソウライだけは、生きて欲しかった。しかし、ソウライは首を振った。
「いや、僕は残らない。僕も戦うよ。でも前線でわらわら戦うと足手まといにしかならないのはわかっている。僕はみんなが少しでも楽に退路確保できるよう、離れたところにいる単体の障害物を地道に排除でもしているよ。そんなに心配するなって。あの街は路地裏でさえ知り尽くしているし、逃げる事と不意打ちだけは得意なのを君も知っているだろう? 他人のことより自分の心配をしろよ、隊長!」
ソウライはトウカの肩を軽く叩く。
「ああ、無理はするなよ。それじゃあ、な」
もう二度と会えないかもしれない友人との僅かばかりの会話ののち、いつもと変わらぬ挨拶をし二人は別れた。
トウカに別れを告げ、ソウライが向かったのは隠れ家の奥、倉庫に隠していた道具を取りに行くのだ。そして、慣れた手つきで組み立てている。それは滑空器械というもの。一見すると巨大な鳥の模型のようにも見えるそれが上空を飛べば本物の鳥と区別がつかないだろう。
昔、ソウライの故郷では、この器械で移動をしていた。空は障害となる森や河などの地形に影響されない、最高の交通手段だった。
しかしもう自由に飛ぶことはできない。隠れ住むように、ひっそりと暮らしている。見つかれば殺されるか、奴隷になるかなのだ。
しかし、ソウライはこれを利用する。帝国を囲う城壁を難なく乗り越えるために。仲間を救う計画を成功させるために。
ソウライは軽く一歩踏み出し、跳び上がる。それと同時に、疾風も飛び立った。先導するのは相棒の疾風、鳥は人よりも風を読むのがうまい。
滑空器械の翼を調節し上昇気流に乗せ、一気に空に飛び上がった。上空の大気は安定していることを、彼らは知っていた。一度、大空に舞い上がってしまえば、何時間でも滞空することが出来るほどに。
ソウライは滑空器械を操り、帝都の方角へと進路を定めた。決行の時間までまだあるが、状況というのは日々移り変わる。何かあったらすぐに報告できるよう、早めに潜む方がよいのである。
「空が、世界が、赤い。世界はこんなにも、広く、美しいのに」
森も草原も、すべてが燃えているように赤い。かつて家族を焼いた火事のように、世界は夕焼けの色に覆われている。
朱に染まる空を飛び、赤に沈んだ野を眺め、ソウライはいつしか過去を思い出していた。
故郷が火に包まれた日。彼の周りから、全てが消えたのだ。
炎は全てを焼き尽くす勢いだった。夜になっても赤の色は大地を染めていた。血のように染まっていた。炎に滴る生暖かい水溜りはまだ新しく、全てが等しく赤い闇に飲み込まれていた。
風の中に聞こえた助けを呼ぶ声。悲鳴とともに、赤に飲まれていく映像。
そして、黒い影が炎の中から現れる。目が合うそれは死神か、悪魔か――
「僕は生き残った。僕は生かされた。僕は……」
いつしか日が沈み、空から赤みが消え去ろうとしている。
運命の時は近い。