3話:弟の苛立ち
『今日のラッキー星座はふたご座の方!カバディをしながら横断歩道を渡るといいことがあるかも!。ラッキーカラーは黄色!ラッキーメニューは特盛り牛丼です!』
「カバディ……」
リコはつぶやきながら目を開けた。
何度となくまばたきをしているとぼやけた視界が鮮明になってくる。
開けた視界に飛び込んできたのは、いつも見ている朝のテレビ番組と、トーストを無表情に齧っている弟の姿だった。
「……あれ……」
「相変わらず変な占いだな……ああ、起きた?」
慌てて身を起こすと肩から毛布がずり落ちた。
「……あ、あれ……。司くん、今何時? 」
「七時」
「う、わ、ご、ごめんね司くんっっ!今、朝食作るからね……っ! 」
「別にいいよ」
司はさらりというと再びトーストに齧りついた。よく見ると弟のトーストにはバターさえ塗っていない。
「だ、駄目だよ。司くんは育ち盛りなんだから」
「本当にいい。それより姉さんこそ風呂に入れば?顔がすごいことになってる」
「……う……」
リコは側にあった鏡を覗き込んだ。
映し出された顔は確かにひどいものだった。
髪は乱れきっているし顔は化粧と涙のあとでべたべたしているし、テーブルに突っ伏して眠っていたからか頬には赤い圧痕がくっきりと残っている。
「う、うわあ」
思わず絶句していると、弟が立ち上がる気配がした。
「……コーヒー淹れるけど姉さんも飲む」
「ああっいいよ!わたしが淹れ……」
「いいよたまには。姉さんは傷心なんだから存分に落ち込んでればいい」
淡々とそういうと司は台所に向かった。
励ましているのか馬鹿にしているのかよくわからない台詞である。
しかしこれがこの弟の特徴だった。
子供の頃からもともと落ち着いた性質だったが、このごろはそれに磨きがかかってきたような気がする。
自分からあまり話さなくなってきたのは中学を卒業する頃からだろうか。
背が伸びるに従って、声が低くなるに従って、司はリコとなんとなく一定の距離を取るようになってきた。
「リコちゃん、それは弟君の成長や」
そういえばそのことに悩んでいたリコの相談に乗ってくれたのも「あの人」だった。
「淋しいかも知れんけど、そういう子供の成長を見守るのも俺たちの役目やって俺は思うで」
「赤谷さんも淋しいんですか? 」
そう問い返すと、目の前の茶髪の青年は悪戯っ子の様な笑みを浮かべた。
「もちろんや。あ、でもここだけの話にしといてな?オーナーや先輩にばれると無茶苦茶いじられるさかい」
「はい」
リコは思わず笑みを零す。それを見て青年もいっそう笑顔を浮かべ、そうして続けた。
「リコちゃんも俺も、あいつらにとっては親代わりみたいなもんやもんなあ。せやからわかる。親離れってのは淋しいもんやで。でもなあ、それって子供の自立の一歩やって俺は思うんや。いつまでも子離れできないなんて、それは親の甘えや。頑張って自立しようとしとる子供の成長を、親が妨げてどないすんねん」
「……はい」
リコは素直に頷いた。確かにそれはそうだ、と思った。
亡くなった司の両親の変わりになるなんて大層なことはいえないが、それでも司は大切なの家族だった。
だからこそ、リコだって我慢しなければならないことも沢山あるのだろう。
リコが司の「家族」でいるために。
「……でも、なんか淋しいですねえ……」
思わずぽろりと洩らすと、目の前の青年は今までの笑顔の中にふいに優しいものを混ぜた。
「……確かになあ」
リコと青年は目を合わせると小さく笑った。
偶然であったが、ふたりの境遇は実によく似ていた。
おそらくその所為だろう。
青年はいつもリコの相談に乗ってくれた。
そして優しかった。
よくよく考えると青年はリコにだけ優しかったわけではなかったが、それでもリコにとってはそれは特別なことだったのだ。
「……なんでまた泣いてるんだよ」
「へ? 」
気がつくと司がコーヒーを手にしたまま呆れたように見下ろしていた。
慌てて手の甲で頬を拭うといつの間にかそこは涙で濡れていた。
ああ困ったなあ、とリコは思った。
弟に心配をかけるなんて「姉」として失格だ。
なんとか泣き止もうとしていると、司が小さく息を吐いたのが聞こえた。
「……あのさ、姉さん。こんな時になんだけど」
「う、うん、何? 」
さすがの司も呆れきったに違いない。
そう思いながら問い返すと、弟は思いもよらないことを口にした。
「……いい加減に部屋、交換してくれないかな」
「司くんに部屋をひとつあげるからね。」
入院中に宣言したとおり、リコはアパートを借りていた。
当時リコは17歳。司は12歳だった。
17歳は世間一般で言えば子供だ。よく借りれたね、と言うとリコは嬉しそうに笑った。
「とってもいい人に会ってね……保障人というものになってくれたの」
「ホショウニン? 」
初めて聴く言葉だった。不思議そうな顔をする自分に、リコはいっそう嬉しそうな表情をする。
「うん。ええと、要するにわたしの後ろだてになってくれて……うーん、うまくいえないなあ。とにかくその人のおかげで部屋を借りることができたの」
「よくわからないけどいい人がいたんだね」
「うん。それって本当に凄いことなんだよ。……わたしも赤谷さんみたいになりたいなあ」
リコの口から「その名前」が出たのはこの時が始めてだった。
司はそう、記憶している。
リコに連れられてやってきたアパートは、今まで住んでいたところとは比べ物にならないほどの小さかった。
けれども中には部屋が2つあり、小さいがきちんとした台所に繋がっていた。
その奥にはユニットバスがひとつ。
「あっちを司くんの部屋にしようね。このテーブルがあるところが居間だよ」
「……でも、お姉ちゃんの部屋は? 」
もっともなことを問うと、姉はにこにこしながら首を横に振った。
「……お姉ちゃんはどこで寝るの? 」
「うん?居間で寝てるよ。あ、大丈夫。わたしね、どんなにうるさくても眠れるから、ここで司くんがテレビ見たりしてても大丈夫だからね」
「…………」
何か違うだろう、と司は思ったがリコは当たり前のようににこにこ笑っている。
「……お姉ちゃんのほうがトシゴロノムスメって奴なんだから部屋があったほうがいいんじゃないの? 」
「え?どうして? 」
「どうしてって……。着替えとか……」
リコは17歳だ。着替えひとつにしたって困るはずだった。
するとリコは心底不思議そうに首を傾げた。
「……?だって、家族でしょう? 」
その言葉は12歳の、あの頃の自分にとっては本当に嬉しい言葉だった。
家族を亡くした自分に、リコは「本当の家族」であろうとしてくれた。
……だが今の「17歳の自分」にとっては。
「部屋? 」
姉は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔できょとんとしている。
「え?どうして? 」
「……」
司は息を吐いた。
あの頃と同じ答え。
それが今の自分にとって無性に苛立ちを覚えるものであることを、リコは知らない。
「姉さんってさ」
「う、うん」
「本当に馬鹿だ。……苛々する」