1話:姉と弟
「姉さんは馬鹿だよ」
「うう……」
冷静な弟の声に、リコはタオルを顔に押し当てながら呻いた。
この瞬間にも涙はとめどなく溢れている。
それはリコ自身が自分でも驚いてしまう程だった。
顔に押し付けるタオルは絞れてしまいそうな程ぐっしょりと濡れてしまっている。
……ううう。い、いい加減泣き止まなきゃ司くんに心配をかけちゃう……。
そう思い泣き止もうとするのだが、やはり両の目から涙はだらだらと流れてくる。
そんなリコの頭上に、さらに淡々とした声が振ってきた。
「失恋するってわかっていたんだろ。なのにチョコまで作って、わざわざ告白しにいくなんて姉さんの気が知れない。……22歳にもなってさ」
「うううう……」
リコはぐずぐずと鼻をすすりあげた。
そうして廊下に立っている弟の姿を見上げる。
高校生の弟は学生鞄を片手に持ったまま、いつものような冷静な目で自分を見下ろしていた。
「……で、そのおっさんは姉さんのこっ恥ずかしい告白を聞いてなんて言ったんだよ」
「お、おっさんじゃないもん。まだ30歳だもん」
「立派なおっさんじゃないか」
「う、お、おっさんでもいいもん」
リコは口ではこの冷静沈着な弟には敵わない。
結局「30歳=おっさん」ということを認めてしまうことになりながらも、リコはみっともないほど涙でべたべたになっている顔をタオルに押し付けた。
目を閉じると脳裏に浮かぶのは笑顔だった。
リコの大好きな、大好きな太陽のように明るい笑顔。
一方的だったリコの恋は、やはり一方的のまま終わりを迎えた。
5年間その相手のことだけを見てきたリコには実のところその展開は予想できていた。
ぐずぐずとリコは鼻をかむ。
「わたしはそれでも」
結果はなんとなくわかっていたけれど。
「す、好きだったんだもん……」
「……」
ほんの数時間前、リコは失恋してしまった。
リコはその相手に恋をしていた。
くわえていうなら初恋だった。
さらに付け加えるなら5年もの間ずっと片想いだった。
ありがとう。
でも、ごめんなリコちゃん。俺な……。
リコの瞳からさらに新たな涙が溢れ出る。
悲しいし切ない。
想いはちゃんと伝わった。けれども実らなかった。それは淋しいし、辛い。
けれども泣けてくるのはそのような感情だけではないことをリコは知っていた。
「……司くん」
「なに」
リコは別に慰めるわけでもなく、それでもそこから立ち去ろうとしない弟を見上げた。
「恋ってのはいいものだよ」
「……いきなり何言ってるんだよ。たった今振られたばかりのくせに。」
うん、とリコは頷いた。
「だから言っているの」
「……はあ?」
「わたし良かった。好きになって良かった。本当にそう思うの」
「……」
「負け惜しみとかじゃあないんだよ? 悲しいけど、違うの。ええと、わたしは馬鹿だから上手くいえないけど……」
涙とはげてしまった化粧でべたべたの顔のままリコはふんにゃりと笑った。
「とにかく司くんも恋はするべきだよ。冷血人間サイボーグだなんて言われてる場合じゃないよ」
「誰が言ってるんだよそんなこと」
「神崎くんに聞いたの。司くん、女の子にもてるんだってね。それなのに興味がないとか言ってほとんど振っちゃうからもったいないって、俺に回せって叫んでたよ」
「あの馬鹿……」
弟はかすかに呆れたように息を吐いた。
リコは笑い、そうしてさらに続けた。
「恋はいいよ。わたしは振られちゃったけど、後悔なんてしていないもの。だからね、司くんもわたしの面倒はいいから自分のことを……」
「あのさ。何を勘違いしているか知らないけど」
リコの言葉をさえぎって放たれた言葉はひどく冷たく聞こえた。
リコはきょとんと弟を見上げる。
17歳の弟はあくまで端正な顔を崩すことなくリコを見下ろしていた。
そうしてリコと目が合うと、何故だか自嘲めいた笑みを浮かべて見せる。
「俺、ちゃんと好きな女居るから」
司は足を止めた。
この家の部屋は2つ。
それは自分の部屋と居間のふたつきりで、居間はリコが寝室として兼用で使っていた。
だからこそ姉の姿は司からよく見える。
風呂に行く時も、トイレに行く時も。
今日だけではない。
いつも、いつもだ。
だから司が風呂からあがり自室に帰ろうとするその時も、姉の姿が目に飛び込んできた。
「……」
司は泣き疲れて眠ってしまった姉を見ながら小さく息をついた。
失恋、か。
姉の寝顔はひどいものだった。
慣れない化粧を一生懸命して、一張羅を着て出かけていったのが今朝のこと。
昼前、司が帰ってきたときにはすでに居間兼リコの部屋であるこの場所で大泣きしていた。
化粧は涙でべたべたに流れているし、整えていたはずの髪も、服も完全に崩れてしまっている。
タオルを握り締めたまま机の上につっぷして眠っている姉の姿は、まるで迷子の子供のようにも見えた。
……姉さんは馬鹿だ。
胸中でつぶやき、もう一度息を吐く。
姉の失恋した相手はリコが17歳の頃から片想いをしていた相手だった。
つまり5年もの間、姉は片想いをし続けていたということになる。
実のところ、司は相手のことを良く知っていた。
会ったことは年に数回ほどしかなかったが、リコとの日常の会話の中で出てくるこの男の名前の回数は決して少なくはなかったのだ。
リコは司に自分の想いを打ち明けたわけではない。
ただ言葉の端々から、何気ない会話の中から、それを汲み取ることは充分に可能だった。
少しづつリコがその男に惹かれていくのも感じることができた。
姉さんは馬鹿だ。
司は屈みこんだ。
再会したあのころからあまり変わっていないように見える姉の顔は幼い。
今となっては、あの頃の姉と同じ年になってしまった自分の方が年上に見られるほどだった。
「……ん」
リコはふいにふにゃふにゃと幸せそうな笑顔を浮かべた。
あいつの夢でも見ているのだろうか。
そう思い、司は姉に伸ばしかけた手を静かに止める。
「……」
そうして近くにあった毛布を掴むと姉の肩に乱暴にかけ、その表情をいっそう険しくした。
……姉さんはやっぱり馬鹿だ。