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だから私は生きていく。  作者: 魅紅
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1.思えばそれは。

「―――さて、何から話そうかしら?」


そう言って若い女は可愛らしく首を傾げた。彼女の目の前には若い男が一人、黙ってティーカップに口をつけている。

彼は、黙してなにも言わない。彼女の話をじっくり聞こうというように、ただ黙って静かに落ち着いた雰囲気をもって彼女に先をそっと促した。


「・・・そうね・・・やっぱり、ここは順を追って話す方がいいわね」


彼女たちが居るのは、秋の紅葉を背景が一番の売りだとしているとある喫茶店の一角で、喫茶店には珍しい個室形式の一区画だ。

店の雰囲気に合うピアノ楽曲がBGMで静かに流れている中で、彼女は訥々と話始めた。


「・・・昔、いいなぁって思ってたことが一つあった。決して叶うことじゃなくて、それでも、手が届きそうなくらい身近にあることで、きっと他の人たちにとっては息をするくらい簡単で当たり前のことだったと思う。

―――でも、私にとっては空を流れいく雲のように遠くて、見えているのに掴めない高い望みだった。

ただ、遊びたいって思っていただけなのだと思う。普通に外ではしゃいで、公園でたまたま一緒になった子と友達になったりして・・・本当にただそれだけだった。

けど、私は、物心が付かない頃から英才教育とは名ばかりの幼子には不必要な知識ばかりを毎日毎日学び続けて、遊ぶことがどういうことなのかを理解できなくて・・・同年代の子とどうやって関わればいいのかと幼心に戸惑いと不安と悩みがいつもあった」


そっとテーブルの上のティーカップに手を伸ばす彼女。湯気を温かに立ち昇らせているそれを彼女はそっと両手で包み込むように触れた。微かに震える両手―――遠い記憶を思い返し恐怖しているのだろうか、伏し目がちにティーカップを見つめる彼女はどこか儚げで美しい。

胸まである黒猫のような色の髪がさらりと落ちる。

―――どれほどの時間が過ぎただろうか。時間にすればきっと僅かに過ぎない。長く感じられた沈黙は、彼女がティーカップから手を離すと同時に終わる。

彼は、そんな彼女をただ何も言わず見守る。あくまでも彼女の意志によって話してもらうという姿勢なのだろう。

彼女が口を開くと同時に彼は開いていたノートにペンを走らせ始めた。


「・・・私が記憶している中で、一番古いものは何かって言われたら・・・真っ暗な部屋の中でひたすら泣きながら母親に謝っているところだと思う。今となっては、何が原因でその結果をもたらしていたのかはわからないけど。

たぶん・・・あれは、クローゼットだったと思うわ・・・記憶はかなり曖昧なものなのだけど・・・それでも証拠になるのかしら・・・?」


そっと顔を上げ、対面に座る彼に不安げな眼差しを投げる彼女。

目を落としていたノートから顔を上げ、彼女を真っ直ぐに見返す彼。

少しの間のあと、彼は口を開いた。


「えぇ、十分ですとも。証拠能力としては、記憶というものはいささか信憑性にかけることとなるでしょうが、それでも、こうやって思い出していただいて、第三者たる私が嘉嶋さんの言葉をこうして記録することであやふやな実態のないものから明確な形のあるものへと変わるのですから、証拠能力としては十分に発揮します。ですから、少しずつで構いません、焦らず、ゆっくりと私を信頼して話していただければそれでいいのです」


ふっと微笑んだ彼の表情は、とても柔らかく温かみのあるものだった。

彼女―――嘉嶋弓弦は、安心したのか表情からも安心した様子が伺えた。


「あぁ・・・私、夜霧やぎりさんに会うことが出来て本当によかったと心の底からそう思っているわ・・・。ありがとう、私を信じてくれて」


弓弦は、優しく柔らかに微笑んだ。

彼―――夜霧遙やぎりはるかは、少し困ったような照れくさそうな表情を作った後、再びティーカップを手にして中身を一口含んだ。

遙は弓弦に目線で彼女の前に置かれたティーカップの中身を飲むよう勧める。

勧められるまま再びティーカップを両手で包み込んだ彼女はしかしそれを口にはしなかった。


「・・・ハーブティーはお嫌いでしたか?」

「いえ・・・ただ・・・あまり口にしたものではないから・・・」


そういうと、弓弦はゆっくりとカップを口元へ持って行き、香りを楽しむようにして一口含んだ。


「・・・おいしい」

「でしょう、ここのハーブティーはなかなかに絶品なのですよ。それに、香りを楽しむことで落ち着くことも出来ますしね。―――今の我々には、まさにぴったりのものと言えるでしょう」


少し茶目っ気を含ませた遙の言葉に弓弦はくすりと笑う。

カップをソーサーに戻し、再び遙を真っ直ぐに見つめる。


「・・・クローゼットに閉じ込められていた記憶は、原因はわからなかったけれど、閉じ込められた瞬間は覚えているの。たぶん・・・廊下が電気ついていたのね、クローゼットがある部屋は真っ暗だったもの。記憶の中の視界の左側は明るくて、右側は暗かったのを今でもおぼろげではあるけれど思い出せる・・・そして、私は明るい左側を向いているの。そこには、ぼんやりとしたシルエット・・・姿から母親で、何かを言われているの。私は、悪いことをしたって思ってなくて、母親が投げつけてくる言葉の意味がわからなかったけれど、とても悲しくて苦しい気持ちになったのは今でもはっきりと思い出せるわ。

やがて一通り言葉を投げつけた母親は、あまり物が入っていないクローゼットの中に私を押しこんで扉を閉めたわ。その時に本能的に理解したのね・・・慌てて外に出ようとしたらまた押し込められて、指を詰めたような痛みを覚えた。

娘を閉じ込めたことに満足したのか、母親はその部屋から出ていった。遠ざかる足音で、出してもらえないことがわかった私は、しばらく泣いていたけれど、泣きつかれて寝てしまった。

気がつけば、クローゼットの扉が開いていて、そこにまた母親が立っていて・・・それに気がついた私は出してもらえると思って出ようとしたけど・・・また押し込められたの。それが二回くらい繰り返されたのかな・・・当時の私は、幼かったこともあって、その、えぇと、と、トイレが近かったの」


口にしたことが恥ずかしかったからか、頬を少し染めて弓弦は遙から視線を逸らした。

だが、遙は気づかぬ様子で広げたノートにペンを走らせ続けている。

遙が何も言葉を発さないのを感じ取った弓弦は、少しずつまた話始める。

すっかりと冷め切ってしまったティーカップを両手で慈しむように包み込みながら。


「・・・気が付けば、泣きながらクローゼットの中を掃除している自分がいた。臭いが充満して息もろくにできないそんな中で、ひたすら泣きながら、謝りながら掃除だけをして出してもらうことをただただ望んでた。

・・・やっと出してもらえた時には、うれしかった。

親に何を言われたのかはもう覚えていないけれど、たぶん、もう我儘を言わないか逆らうなとかだったと思う。そして・・・くさいと言われたんだと思う。

・・・これが、私の記憶の中にある一番初めの記憶。忘れたくても忘れられない記憶。

夜霧さん・・・私は、真実だけを話すわ。覚えている限りの、私があの親から受けてきたことの数々、それによって私が思ったこと、抱いた感情・・・そのすべてを、夜霧さん、貴方を信頼してすべてお話します。だから・・・」


弓弦は、そこまでいうと言葉に詰まってうつむいた。

ティーカップを包んでいる両手がカタカタとかすかに震えている。

思い出した記憶に怯えているのだろう。どこへ行っても逃げられない恐怖、親と血が繋がっているという理由だけで彼女のことを理解しようともしない人々。

彼女が受けてきた恐怖は、どれほどのものなのか・・・想像にしがたい。

だが、それでも。


「―――それでも、私は、弁護士で、貴方の味方なのですよ。嘉嶋さん、顔を上げてください」


身を乗り出して、そっと弓弦の肩に触れる遙。

ただそれだけの動作なのに、弓弦の肩がびくっと跳ね上がる。そろそろと顔を上げる。

ふっと柔らかく微笑んでいる遙をまっすぐにしかし怯えながら見つめる弓弦。


「私は、貴方を裏切りません。たとえ、貴方がどれほどの人に裏切られてきたとしても、私は貴方を信じます。それが私の仕事であり私の誠意なのです。

・・・今すぐに信じてほしい、なんて無茶なことはいいません。少しずつでいい。私に話してもいいと思ったら話してほしい。私は、いつまでも待っていますから」


そう言って、遙は弓弦の固く握りしめられていた手をそっと取り上げて両手で包み込みながら席についた。

弓弦は、自然と顔を上げる形となり、遙と視線を交わすこととなる。

しばらく探るように遙の顔を見つめた後、静かに口を開いた。


「・・・・はい、よろしく、お願いします」



―――こうして、彼女、嘉嶋弓弦は実の両親と離縁するために法的手段を取るに至ったのである。

これから語ることは、彼女の記憶に基づく23年にも及ぶ、実の両親から受けてきた“イジメ”である。





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