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<き>曲芸的動作もときに必要となるポテトチップス

「ファイト・オア・フライト」


 猫と見つめあう。

 瞳は金色をしていて、全身は白く、耳だけが黒いすらりとした猫だ。黒い首輪をしているから飼い猫だということはわかる。

 なぜ私が猫とにらめっこしているかといえば、そこに猫がいたからだ。


 大学の図書館で週明けに提出予定だったレポートを仕上げてきた帰りである。郵便受けは出がけにチェックしてきたので覗かないことにして、アパートの部屋に通じる外階段を上ろうとしたら、階段の途中に猫が居座っていたのだ。階段の幅いっぱいに寝そべり、ときおりゆらりとしっぽを動かす。

 今は梅雨の晴れ間で午後の太陽がじりじりと差し、蒸し暑い。アパートの外階段は直射日光が当たらないので涼しく、かといって風が邪魔でもない絶好の昼寝場所らしい。などと考察を加える間も、猫が去る気配はない。


 ファイト・オア・フライト。すなわち、闘争か逃走か。

 交感神経の作用による闘争・逃走反応だ。

 英語だとファイト・オア・フライト・リスポンスという韻を踏んだ用語なので、その意図をくんで訳語も「トウソウ」を重ねたらしい。同音異義語があふれかえる中で、その工夫は正直わかりにくさを助長するだけだと思う。

 闘争・闘争反応というのは具体的にどんな反応かといえば、まあそのままの意味だ。

 赤ずきんちゃん風の仮想問答にしてみると、「どうしてそんなに瞳が大きいの?」「お前をしっかり見つめるためだよ」(瞳孔拡大)、「どうしてそんなに毛が逆立っているの?」「体を大きく見せるためさ」(立毛筋収縮)、「どうしてそんなにどきどきしているの?」「体中に血を行き渡らせてお前と戦うためさ!(お前から逃げるためさ!)」(心拍数増加)という感じである。


 それはともかく。

 闘争・逃走反応を起こすこともなく、猫はのんびり前足に頭を半ばうずめたまま薄目を開いてこちらを見やる。短めの毛はすっかり寝ていて、逆立つ様子もない。かなり人に慣れているらしく、余裕の様子である。ニザー・ファイト・ノア・フライトだ。


 これは。

「逃走、かな……」

 私が。

 なんというか、勝ち目がない気がしてきた。

 猫はぴくぴくと立てた耳だけを動かすも起き上がる様子もない。目をしっかり合わせたまま、じりじりと後ずさる。外階段の方が私の住む部屋には近いが、狭いエントランスの方から回ってもさほど遠回りということはない。くるりと方向転換する。

「あ、猫」

 突然上の方から聞こえてきた声にびくりとして立ち止まる。

 道路を挟んだアパートの向かいの家、そのベランダに洗濯物を抱えてイヅマくんが立っていた。


 すぐ行くからそいつ見張ってろよ、とイヅマくんに一方的に命令されて、仕方ないので逃走を諦めて猫をぼんやり視界に入れている。

 猫は嫌いではないが構うのは苦手だ。猫を見ると、ああ猫だなと思う程度である。手を伸ばしたときに、どことなくうんざりしたような反応を返されるのに困ってしまうのかもしれない。

 だから私は、いつも逃走を選ぶのだ。


「ひさしぶりだなー」

 ばたばたと慌ただしくやってきたイヅマくんは猫の頭をうりうりとなでまわし、耳の後ろをかいてやっている。くすんだ黄色のTシャツにモスグリーンのカーゴパンツといういでたちだ。さまざまな茶色が重ねられたイヅマくんの髪には、よく似合う色の組み合わせである。

 ちらりと先ほどまでイヅマくんがいたベランダを見ると洗濯物は完全に取り込まれていて、急いでいても家事をおろそかにしないとは通い妻の鑑だな、と感心する。

「この猫、飼ってるの?」

「いや、近所の誰かが飼ってる」

 近くに生えていた膝ほどの長さの草を引き抜いてぴろぴろ動かしつつ、イヅマくんは言う。ほかにやることもないし遊んでやるよ、とでもいうような物憂げな態度で、猫は左の前足だけで草の先を追いかける。

「よその猫だからえさはやらないけど、会ったときは遊び倒す」

 草の動きを次第に大きくしていきながら、イヅマくんはきっぱりと妙な宣言をする。

 猫はいつの間にか起き上がって両の前足で草を追いかけているが、ちらほらとやる気のなさがうかがえる。

 イヅマくんが猫にじゃれるのをしばらく眺めていたが、階段で遊ばれると私が部屋に戻れないではないか、とはたと気付く。帰ってもとくに用事はないが、ここにとどまる理由もない。 エントランスから入るかな、と別れを告げようとする。

 そのとき、そういえば、と声を上げてイヅマくんは手を止めてこちらに向き直った。


「もしかして河童ってあんたのこと?」


「いや、人間だけど」

 つい最近もこんな会話したな、と雨の中出会ったユウジさんを思い出す。

 あーやっぱりそうか、と納得したように頷きイヅマくんは語る。

「この前さ、あいつにきゅうりくれただろ?」

「まあ」

 否定はしない。

 しかしわざわざあげたというよりは、余計な親切心を起こしてユウジさんの家のポストに回覧板を突っ込み、抜けなくなったという間抜けな騒動のお詫びだ。

「黒くて長い髪のオンナで、河童じゃない人間」

「え?」

 笑い混じりにイヅマくんは説明を加える。

「意味不明だろ。きゅうりを誰にもらったのか聞いたときのあいつの答え」

 でもまあ確かにそうだな、河童じゃない人間だ、とやけに感じ入ったようにイヅマくんは何度も頷く。「河童じゃない人間」とはどんなものなのかわからないが、人間はみな河童ではないのだからその表現はいかがなものか。


 渡したいものがあるんだけど時間あるか、とイヅマくんに問われたので頷く。

「じゃあな、猫」

 イヅマくんは猫を最後にひとなでしてから歩き去るのでついていく。

 ここらへんで待ってろ、とアパートの向かいの家の門の前で言い置いて、イヅマくんは玄関から入っていく。

 することもないので、その家を見るともなしに見る。門の右手には、何も植えられていないように見える広めの花壇がある。以前は菜の花が生えていた花壇だ。

 今度は何を育てるのだろう、とぼんやり眺めていると、玄関の扉が内側から開く。

 この季節には暑苦しいような暗い色の服を涼しげに着こなして、ユウジさんが出てきた。後ろ手に扉を閉めて、一段高くなった玄関の前に立ったまま、ユウジさんはこちらに顔を向ける。

 どうしてイヅマくんでなくユウジさんが来たのだろう、と内心首をひねっているうちに、ユウジさんは口を開いた。

「先日はきゅうりをありがとうございました」

 おいしくいただきました、と軽く頭を下げられる。どうやらお礼を言いに来てくれたらしい。

「こちらこそお手数をおかけして」

 慌てて会釈を返す。

 顔を上げると目がかちりと合う。

 ユウジさんと私との間には、開いたままの門と、小道というには短すぎる玄関へと続く舗装されたスペースがある。ユウジさんは玄関の前を動かないし、私も門の内側に入るわけにはいかないのでその場に立ったままだ。

 ファイト・オア・フライト、とふと頭に浮かぶ。やはり選ぶのは逃走で、先に目を逸らしたのは私だ。


 それからさほど待つこともなく、小ぶりのビニール袋を手にイヅマくんが玄関から現われて、ユウジさんの横を通り過ぎて私の方にやってくる。

「はい、新じゃが」

 きゅうりのお返し、芽が出てないのを見繕っといた、と開いたままの門越しに10個ほどじゃがいもの入った袋を手渡された。

「ありがとう」

 ああこれがご近所付き合いの醍醐味「おすそわけ」というものか、としばし感慨に浸る。

 もらったのは、菜の花1束とじゃがいも10個。あげたのはきゅうり1本。

 こうして並べてみると私の取り分の方が明らかに多いが、まあその辺の不均衡はこれからご近所付き合いを続けていくうちに是正されてくるだろう。

 イヅマくんとユウジさんに礼を言い、その場を辞す。


 道路を渡ってアパートの前に戻ると、先ほどの猫はいなくなっていた。心おきなく外階段を上ることにする。

 規則的に足を動かしていると、つい物思いに沈んでしまう。

 闘争か、逃走か。

 相手が猫でも人間でも、逃走を選んでしまう自分が好きではなかった。けれど、戦うのも逃げるのも敵に対する積極的な行動だ。そう開き直るようになったのは、いつからだろうか。

 あの猫は、どちらも選ばなかった。

 ニザー・ファイト・ノア・フライト。

 どちらでもないから、ノア、とでも呼ぼうか。

 闘争も、逃走も。どちらも選ばないという選択肢もまた、選ぶことができる。まあ、選ばないままで生き残れるほど、世の中は甘いものではないのだが。

 闘争・逃走反応は動物のストレス反応だという。ストレスとはすなわち身の危険のことだ。私に危険を感じなかったというだけかもしれないけれど、あんなに悠然としていてノアは野生でもやっていけるのだろうか、などと飼い猫に対して無用の心配をしているうちにアパートの3階にある部屋にまで辿りつく。

 

 さて、せっかく新じゃがももらったことだし、ポテトチップスでも作ろうか。

 部屋の窓を順に開け放ちながら考える。

 新じゃがはいい。何がいいって、皮をむかなくて済むのが楽でいい。

 ポテトチップスは、じゃがいもを私の能力でできうる限り薄く切り、塩胡椒を振って揚げるだけという非常に単純なやり方でできるから重宝している。

 作るのも食べるのも自分なので、揚げたそばから口に運べるのは一人暮らしの特権だ。

 スライスしたじゃがいもをキッチンペーパーの上に並べ、水気を吸い取らせると油が跳ねない。いや、跳ねないというより跳ねにくいと表現した方が正しいか。

 切ってから揚げるまでの時間がかかればかかるほど、新たに水分が出てきて油が跳ねる。改めてキッチンペーパーを替えるのも面倒なので、最後の方はなるべく体を揚げもの鍋から離し、油にじゃがいものスライスを入れた瞬間に素早く手を引っ込めるといういささかアクロバティックな動作をすることになる。

 さほど危険はないとわかってはいるのだが、怖いのだから仕方ない。

 初めのころはむやみに鍋の遠くからじゃがいもを入れ、入れた瞬間に飛び退くという現在よりもさらにアクロバティックなことをしていた。そのときのことを振り返ると、私も料理に慣れたものだな、と自分の成長にしみじみしてしまう。


 闘争も、逃走も、ひとまず置いて。

 とりあえずは、腹ごしらえだ。


近隣在住猫ノア登場しました。

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