<か>観念的恋愛論を肴にした自家製梅酒二年物
「人を好きになったら、どうしますか」
ユウジさんは、梅酒のグラスを傾けつつ尋ねた。
こんな質問が出てくるところをみると、まあまあ酔っているらしい。先ほど空にハート形の花火が上がったから、それからの連想だろうか。
秋の気配が感じられる夏の終わり、ユウジさんの住む一軒家の2階ベランダ、夕涼み兼酒盛りである。
なぜこの残暑の時期にわざわざベランダかといえば、近くの河原で行われる花火がここからよく見えるからだ。
この家に上がりこむのも最近ではめずらしくなくなってきたが、ベランダに出るのは初めてだ。
なぜか物置にしまわれていたベンチに似た長椅子をイヅマくんと私とで引っ張り出して、ベランダに据えた。イヅマくん、私、ユウジさんの順に並んで腰かけているが、それでも人と人の間は十分にあいていて、暑さを感じさせない。
ユウジさんと私の間には梅酒の酒瓶が、イヅマくんと私の間には梅酒の梅の詰められた小瓶が置かれている。梅尽くしだ、といえば聞こえがいいが、単に用意が面倒だっただけでもある。
足元には螺旋を描く蚊取り線香が煙をくゆらせていて、ほんのかすかに懐かしいような薫りがする。
舌の上に梅酒を転がし、こくりと飲み下してから答える。
「まず自分が正気か確かめます」
「慎重ですね」
「次に自分が本気か考えます」
「賢明ですね」
「そしてしばらく熟成させますが、たいてい熟成に失敗します」
「なるほど」
いちいち相槌を打つユウジさんは結構まめまめしい。
「思いの純度が高ければ、うまく熟成できるってわけでもないでしょうけどね。ほら、梅酒のアルコール度数なんて高くてせいぜい30でしょう。細菌を死滅させるのに最適なのは70%のアルコール。それでもこんなにおいしく熟成できる」
再び梅酒を口に運ぶと、くぴりとのどに流し込む。梅の香りと甘みとアルコールの熱が溶け合って、口に広がる。
「こら、人が作った梅酒をたとえに使うな」
「だって砂糖加えて密閉状態だよ。そういうの好きな細菌結構いるんだから」
私の大学での専門は微生物学だ。微生物といっても、細菌や真菌、ウイルスが中心となっている。
それにしても、梅酒に使う氷砂糖は何でできているのだろう。単糖か二糖か、単糖だとしたらグルコースかフルクトースか。それによって条件が異なるから奥が深い。
「アルコールも、純度が高すぎると飲む人を選ぶでしょう。純粋すぎる恋は扱いを間違うと恐ろしいですよ」
しかしこの梅酒は良い具合ですね、恋もこのように熟成できれば良いのでしょうが、とユウジさんはグラスに手酌で梅酒を注ぎつつ言う。
それ梅酒関係ねえだろ、と文句を言ってから、イヅマくんは誰に告げるともなくそっと呟く。
「恋愛なんか正気じゃできねえよ」
ふっと息をついたイヅマくんは、小瓶に詰めてある梅をひとつ、口に放り込んだ。どうやら私の答えへの反論らしい。
「恋愛をしてる自分に酔って、恋愛の相手に酔って、恋愛っていう状況に酔う。ゆるやかに酔いがさめれば情になって、急にさめると恋もさめて終わる」
つまらなそうな口調で淡々と、イヅマくんは言葉を重ねていった。これはこれで酔っているのかもしれないが、酒に漬けられた梅を食べるだけで酔うとは相当弱いのではないか。
「異常な状況においては異常な反応が正常な行動である、ということですか」
どこかで聞いたような言葉を引用して、ユウジさんはさらりと感想を述べた。
「不健康な考えですね」
「あんただけには言われたくねえ!」
ほとんど毎日外にも出ないあんたに不健康だって言われたらおしまいだ、と間髪をいれずイヅマくんは反駁する。
しかし、とユウジさんは首をひねる。
「どうしてこんな話になったのでしょうか?」
「あんたが聞いたんだろ!」
「あの花火のせいじゃないですか?」
赤く、青く、橙に、空に浮かぶハート形の花火は、最初にユウジさんが問いを投げかけてからまだ続いている。
「そういえばあの花火の下で結婚披露宴をやっているそうですよ」
記憶に引っ掛かっていた情報を告げてみる。市の広報紙に書かれていた内容を思い出したのだ。この市に在住のカップル5組を特別に花火の下の披露宴に、という公募が載っていた。
「なんでまたこの蒸し暑い時期にそんな騒がしいところで」
「さあ。町おこしの一環だとか」
ハート形の花火がやたらめったら上がったのもそのせいだろう。
しかし、あんなにすぐ消える花火に愛の象徴たるハートのマークを託していいんだろうか。まあ当人たちが満足ならいいんだろう。
「八月に結婚すると、必ず変化を迎える」
不意にユウジさんがそう口にした。
「なんですか、それ」
「マザーグースですよ」
少し時間をいただけますか、とユウジさんはベランダからどこかへ消えた。こういうときだけ腰が軽いんだよな、とぶつぶつ言うイヅマくんに心底同意を示す。
ベランダがつながっている部屋の明かりがついて、背後が明るくなる。あー虫が入る、と言いながらイヅマくんが立ち上がって網戸を閉めると、すぐ戻るから開けておいてくれてもかまわなかったのに、と少し不満げな顔をしながらユウジさんが小ぶりの本を抱えて戻ってきた。
部屋の電気はつけたままなので、さっきよりは明るく、本も読めるくらいだ。
ユウジさんの声が、ぽつりぽつりとその詩を紡いでいく。どうやら英語の本を訳しながら音読してくれているらしい。ユウジさんはたまに翻訳の仕事もするので、英語は苦手ではないようだ。
一月の年の初めに結婚すれば、彼は愛情深く優しく誠実だ。
二月の小鳥もつがうとき、結婚しなければ恐ろしい運命になる。
三月の風吹く中婚礼を挙げれば、喜びも悲しみも知ることになる。
四月に結婚すればいい、女にも男にも喜びがあるように。
五月に婚姻を結ぶなら、その日を後悔することになる。
六月の薔薇の中結婚すれば、国も海も飛び越えて行くだろう。
七月に結婚した者は、日々のパンのために働かなくてはならない。
八月に結婚する者には、たくさんの変化がきっと訪れるだろう。
九月の神殿で式を挙げるがいい、富んで健やかな人生になるだろう。
十月に結婚をするならば、愛はやってくるが富は逃げていく。
十一月の冬枯れの中婚礼を執り行えば、喜びしか訪れない。
十二月の雪降る中結婚すれば、愛は永遠に続くだろう。
初めて聞く詩だ。
「それさあ、別に何月だっていいってことかよ」
でも5月は却下、と瓶の中の梅に楊枝を刺しながらながらイヅマくんは感想を述べる。
「なんでうちの姉貴はあんなに6月にこだわったんだよ。無駄じゃん」
ユウジさんの兄とイヅマくんの姉が結婚したのは一昨年の6月だという。
「ジューンブライドというものでしょう。しかし実際、『国も海も飛び越えて』海外に行ってしまいました」
マザーグースの予言も馬鹿にできませんね、とユウジさんはほのかに笑う。
「だいたい、それいつ見つけたんだよ」
「結婚が決まった直後ですよ。思いついてサムシングブルーについての詩を探していたら偶然見つけました」
ああ、これですね、とぱらりとページを繰って、ユウジさんはそこに並んだ文字をそっとなでる。並んだ英語の下に、たぶんユウジさんによるものだろう、日本語訳が書き入れられている。
新しいものをひとつ、古いものをひとつ、
借りたものをひとつ、青いものをひとつ、
そして靴の中には6ペンス銀貨を。
こちらはどこかで耳にしたことのある詩だ。マザーグースにはナンセンスのイメージしかなかったので、この詩もそうだったのか、と少し驚く。
「それって式の日取り決めるずっと前じゃん。なんで早く教えねえんだよ。もっと楽に選べたかもしれないのに」
あれはきつかった、やたら6月にこだわってほんと大変だった、とげんなりした表情でイヅマくんは遠い眼をする。
「選択肢が少ないほど自由度が上がるという逆説を知らないのですか? いつでもいいとなると選べないものですよ」
しゃあしゃあとユウジさんは言い捨てた。
それにしても、とユウジさんの手元を覗き込んで疑問を口にする。
「どうしてサムシングブルーの詩は一般的なのに、こっちの詩はあまり知られていないんでしょうかねえ」
横から手を伸ばしてページを戻す。
「すべての月に幸せになれるという詩ではありませんからね」
ユウジさんは皮肉げに言う。
「3月には喜びだけでなく悲しみも、5月は後悔、7月と10月は貧乏、というわけですか」
「だいたい2月なんて脅しだよな」
「不吉な予言は受け入れられないものですよ」
だいたい一年のうち4カ月も結婚できないなんて不経済でしょう、結婚式場が潰れます、という身も蓋もないユウジさんの意見で、結婚式談義は締めくくられた。
あー暑い、とイヅマくんはTシャツをぱたぱた動かし、風を起こす。
残暑とはいえもうすっかり日も暮れているので、動かなければ蒸し暑さもそこまでではない。暑さを訴えるのはイヅマくんだけだ。
そっと手を伸ばしてイヅマくんの手の甲に触れてみる。確かに熱い。でもこの熱さの原因ははっきりしている。
「イヅマくんさ、お酒弱いなら無理して飲まなくてもいいんじゃ」
飲むというか、主に梅をつまんでいるだけのイヅマくんにお節介とは思いつつも助言してみる。
「飲みたいんだよ。李白に憧れる気持ちが知りたいから」
「李白?」
いきなり出てきた名前に少しばかり驚く。
「ほら、池に映った月を取ろうとして溺れ死んだ詩人。酒を飲まない奴は酒に呑まれたしに方だと言い、酒飲みはあの死に方に憧れるんだって。李白のように死にたいか死にたくないかで人間は分かれる、らしい」
「極論だね」
世の中に人間分類法は多々あるが、その分け方は初めて聞いた。
「どうせ師匠の受け売りでしょう」
受け売りで悪いか、あんただっていつもどっかの本の引用だろ、とイヅマくんは絡む。
イヅマくんはガラス職人のもとに弟子入りしている。「師匠」というのはそのガラス職人のことで、なんでもまださほどの年でないのに仙人のような風貌らしい。イヅマくんは高校卒業後に弟子入りしたためまだ日は浅く、今は下働きだという。
しかし、こんなことを教えているとはなかなか不思議な人だ。仙人というのもあながち的外れではない。
師匠といえば、おもしろいものを見せましょうか、とユウジさんは自分のグラスに梅酒を注ぐ。
「あなたに月を捧げましょう」
芝居がかった台詞を気負いのない口調で言って、ユウジさんはグラスを私に渡す。
「え? ……つき?」
そこには確かに月が、しかも満月が映っていて、でも花火を行うのは月が明るくない夜のはずで、戸惑う。
空を見上げてみる。目に入るのは花火と、花火を上げた名残りの煙だけで、月どころか星すらよく見えない。
再びグラスに目を戻す。
ふるりとその甘露の面を揺らし、けれども月は揺らがなくて、ようやく気付く。
ああ、このグラスには。
「月が閉じこめられているんですね」
グラスの底に満月の模様があるといえば単純だが、見た目はそう単純ではない。液体の屈折をうまく利用したのか、まさに満月が酒の表面に浮かんでいるように見えるのだ。
うちの師匠が作ったやつだ、と嬉しそうにイヅマくんはグラスを見つめる。
「空に月がないときに使うように、という説明書きが付いているのですよ。今晩は、月がないでしょう?」
「イヅマくんの師匠さんは、風流ですねえ」
そしてその説明書きを忠実に守っているユウジさんもなかなか風流だ。
「ただの風流ってだけじゃないんだよな」
イヅマくんは苦笑する。
「これはちょっとした謎かけです。空に月がないのはどのようなときでしょう?」
「新月、雨、曇り」
思いつく状況を挙げていく。
「正解はもっとたくさんあるのですよ。『空』とはありますが『夜空』ではありません」
「つまり、風流にかこつけて昼酒の言い訳になるってわけ」
師匠も悪知恵回るよな、とイヅマくんは呆れたように溜息をつく。
花火が立て続けに上がる。月がない空に、大輪の華はよく映える。
空には月がないけれど、私は月を持っているのだ。花火が散っていく空に向けて、月が閉じ込められたグラスを掲げ、世界にそっと自慢する。
職業紹介などを少し。
遅まきながら登場人物総天然警報を発動しました。突っ込み役がいません。