<お>音響的効果抜群雨の日のきゅうり味噌付き
雨にぬれたものというのは、哀れを誘う。
そのものが自ら動けないとなればなおさらだ。
生まれてさほど日の経たぬ動物然り、道端に咲く花然り、打ち捨てられた空き缶然り。
「小さな親切大きなお世話」
自らの状況に的確な論評を下しつつ、どうしたものかむうっと唸る。
他人に迷惑をかけない範囲においては、過ちを犯すのも仕方ないとはいえなくもない。人間は間違う生き物なのだ。
しかし、今私は他人様の家に迷惑をかけている、申し訳ない状況だ。仕方ないで済ませるわけにはいかない。
左肩と首の間に傘の柄を挟み、見つめる先にあるのは他人様の家の郵便ポストだ。
左手にはきゅうり、右手にはバッグ、空からは雨。
さて、どうしたものか。
とりあえず、きゅうりをバッグに押し込むとするか。あまり長くはない指でまとめてわしづかみにしていたきゅうりを5本、ぐりぐりとバッグのファスナーの隙間から入れようとしたとき、背後から声がした。
「この家に、何かご用ですか?」
柔らかいけれど感情がにおわない、高くも低くもない男性の声だ。きゅうりをバッグに突っ込むのを諦め、振り返る。
まず目に入ったのは、紫陽花のようなぼかした濃紺色のYシャツだった。黒いチノパンツの足元には、スニーカーなのでカジュアルな印象だ。
顔を上げると静かな瞳に迎えられた。濃い色の服とは対照的に、肌はやけに白い。切れ長の目はすっきりとして、遠目からでも細いとわかる髪が眉を隠している。唇の両端はかすかに上げられていて、しかしきっと無表情でもどこか微笑んだように見える顔だな、と感じられる。
この家に住んでいる人だろうか。イヅマくん曰く、何もしない怠け者。
即断は避け、答えを返すだけにする。
「いえ」
この場合、時間稼ぎというのが適当な選択肢だ。郵便受けに背を向けるような体勢になり、きゅうりを持つ左手をバックの取っ手に通してバッグを肘にかけ、自由になった右手を背後に回す。
「あなたは河童ですか」
にこりともせずにそう問いかけられた。直角に構えられた傘の柄は微動だにしない。傘は藍色で大きく、折り畳みではない。そういえばこの人は手ぶらだな、とそのとき初めて気付く。この家の住人かはともかく、近所に住んでいることは確かだ。
「いえ、見ての通り人間です」
受け答えをしつつ、後ろに回した右手をこっそり動かす。
「僕も人間ではないのかと思っていたのですが。しかし、なぜきゅうりをそんなに持ってらっしゃるのかお聞きしても?」
とうとう核心に触れられてしまった。
「大事なのはきゅうりじゃないんです。きゅうりが入っていた袋です」
真相の一端を告げたところで、ところで、と話題を変える。時間稼ぎは終わらない。
「マンホールの蓋はなぜ丸いのか、知ってますか」
「ええ。中に落ちないように、でしょう」
「その通りです」
円の直径は最大径である。マンホールの枠がマンホールの蓋の直径以内ならば、蓋は下に落ちることはない。
それに対し、たとえば長方形は、長辺短辺対角線といろいろな長さがある。枠の対角線の部分に蓋の短辺部分がはまってしまえば、蓋はあえなく落下する。
「よくご存じですねえ」
自分から問いを投げかけたにもかかわらず、打てば響くように返された答えについ感心してしまう。目の前の人は、たいして表情も変えずに私が話を続けるのを待っている。
もはや抵抗もここまでか。
「さて、ここに回覧板があります。この家のポストに妙な角度で入っています」
体をわきにずらして、郵便ポストの姿を露わにする。
回覧板は長方形、そしてポストの投入口も長方形だ。
「ほほう。確かに妙な角度ですね」
納得したようにその人は頷く。
回覧板を片手で引っ張ってみる。取れない。何度か力を込めて引っ張ってみる。まだ取れない。
長方形のせいだ。……いや、私のせいだ。
「私がやりました。ごめんなさい」
事の起こりはこの雨だ。
折り畳み傘を持っていてよかったと、梅雨にはまだ少し早いから夕立とも呼ぶべき雨の中、のんびり帰宅していた。あともう少しで私のアパートに着くというとき、イヅマくんが毎週通い妻をしている家の門の前で、回覧板に出会った。門扉に立てかけられた回覧板は、雨に打たれていた。
雨にぬれたものというのは哀れを誘うのだ。自分で動けないものはなおさら。回覧板もまた然り。
とりあえず応急処置として持っていたタオルで水気を拭き取り、さてどうしようと考え始めたところでポストが目に入った。そこに入れればいいではないか、と思ったのが運のつき。入れたのはいいが出せるのか、とふと不安になって確かめたときには手遅れだった。
門扉に立てかけてあった回覧板は、確かに立てかけられるだけの理由があったのだ。大きさが合わないという理由が。
「起こってしまったことは仕方ないとして、きゅうりについてお聞きしたいのですが」
私の謝罪をさらりと受け流し、その人は問う。よほどきゅうりについて聞きたかったのだろうか、とちらりと考え、すぐに打ち消す。柔らかな無表情に覆われたその人は、好奇心のきらめきを瞳に宿さない。
「あの、ポストから出したら回覧板がぬれてしまうので、きゅうりの袋に回覧板を入れてみようかと」
「そもそもポストから出ていませんが」
「ええ、ちょっと順番を間違いました」
そう、最善なのは回覧板をポストに入れる前にきゅうりの袋に入れること、次善は回覧板を無事救出してからきゅうりを袋から出すこと(きゅうりを持っていると片手がふさがってしまう)。
「もしかしてこのポストは小さすぎますか」
僕は今までこれで不都合がないと思っていたのですが、新聞も入りますし、とその人は言って、やっとこの家に住む人だと確認する。
「いえ、普段支障がなければこれでいいんじゃないかと思います」
回覧板を押しこむような大きなお世話をする者がいなかったら、この大きさで十分事足りるだろう。
それなら付け替えさせなくていいでしょうね、と小さな声で呟いたのを聞き、ああ、自分の家なのに「付け替え『させる』」ということは、やはりイヅマくんにやらせるということか、と目の前の人についての認識を再確認する。同時に、うかつに小さすぎると答えてイヅマくんの仕事を増やすことにならなくてよかった、とちょっとばかり安心する。
私に代わってがこがこと回覧板を押したり引いたりしつつ、その人は会話を再開する。
「河童といえば、あの生き物は哺乳類なのでしょうか」
「どうでしょうねえ」
初めから首で傘を挟む体勢に固定しているので、改めて首をかしげるという動作ができないのがもどかしい。私が原因でこの事態に陥っているのだから、手持無沙汰でも立ち去るわけにはいかない。
「個人的には、カモノハシに近いのではないかという持論を温めているのですが、いかがですか。くちばしと、水かきが似ていませんか」
「カモノハシには、毛皮がありますよ」
「確かに河童には毛皮がありませんね」
雨の中で河童談義をするというのは、健全なご近所付き合いに当てはまるのだろうか。
しばし考え、そういえば母も井戸端会談でツチノコの話をした経験があるというのを記憶の底から掘り起こす。いや、それは訛っている奥さんが「うちの子」を「ツチノコ」を同じように発音したせいだったという笑い話だ。根本的なところを勘違いしたまま話を聞き続けていたうちの母にも責任がある。
相手の顔を見つめ、この人の言う「カッパ」とは「河童」のことで、「合羽」(今日は雨だから可能性は捨てきれない)や「κ」(実はギリシャ文字だったという可能性)も考慮に入れてみるが、やはり話題になっているのは緑色で頭の上に皿、背中に甲羅をもつ相撲が得意できゅうりが好物だという生き物だろうな、という結論に至る。
その後、鮎はきゅうりのにおいがするから河童を釣るのに良い、しかしそもそも河童は釣れるのか、いや釣るとしたら相撲がいいだろう、でも相手が見えないのにいきなり相撲を吹っ掛けるのはどうか、確かに相撲勝負は危険かもしれない、河童は相撲がとても強いというし、と話が進んだところですぽんと回覧板は抜けた。
「よかった。では、お詫びのしるしに」
左手に持っていたきゅうりを、右手で1本抜き取り、差しだす。
「これは、きゅうりですか」
「はい、きゅうりです。いちおう洗って、塩か味噌をつけて召し上がるといいと思います」
イヅマくんから、この人は「家事を何もしない」と聞いている。そんな人でも大丈夫なのは、きゅうりだ。洗いさえすれば切らなくても大丈夫、もっと言えば調味料をつけなくても食べられないことはない。
「私の大学の園芸部が育てたものです。ハウスものですが、品質は悪くないですよ」
ハウスものうんぬんは園芸部の人から聞いたことの受け売りだ。きゅうりの良し悪しを判断できるほど、自炊生活に慣れていない。
雨が降るという予報は知っていたが、帰るまでは降らないだろうと高をくくって荷物を増やしてしまった。それになんといっても安かったのが、私の自律的金銭感覚に強く訴えかけた。
「なにはともあれありがとうございます」
きゅうりを受け取ったその人に軽い会釈をされて、恐縮してしまう。
「こちらこそ。ご迷惑をおかけして申し訳なく思っています」
深く頭を下げると、では、とだけ言ってその人は回覧板を持ったまま門を開け、入っていく。
どうにか事態に収拾がついて、よかったといってもいいだろう。
家に帰ると、折り畳み傘を玄関に放置して、うっすら湿った靴下を脱ぎ去る。七分丈のジーンズを履いていたのは運がよかったとみえて、服は上も下もほとんどぬれていない。
きゅうりを1本流しで洗い、端のかたい部分を切り落とす。冷蔵庫から出した味噌をスプーンですくって直接きゅうりになすりつけつつ端から丸かじりする。
あの人もきゅうりを食べているだろうか、と窓を叩く雨の音に負けぬようぽりぽりかじりながら考える。窓からは、先ほどまで私がいた門と、あの人が入っていった家が見える。
あの人は、どんな隣人だろうか。
イヅマくんの話からすると怠けものだというが、私の目にはひとりを楽しんでいるように映った。私が河童だろうと人間だろうとどうでもいい、と考えるくらいには。
通りすがりの人にきゅうりを渡されようと、あの人の世界は波立たない。雨が世界をぬらし、回覧板すらぬらしても、あの人はそれすらどうでもいいのだ。
若隠居、といったところだろうか。すべてを誰かに譲り渡して、与えられた日々を楽しむ。自分のこれからの人生を余生と呼んで抵抗がない。そんな余裕と諦めが混ざり合った生き方がほのかに感じ取れる。
悠々自適でおうらやましいこって、となるべく気楽に構えて、ユウジさん、と呼ぶことにしよう。
私は丸い人間ではない。精神は円熟とは程遠いし、直径が一定の円とは違って価値の基準も定まってはいない。だから、落ちるのがこわいのだ。
深入りすると、抜け出せなくなる。それだけならまだいいが、中途半端なところで、行くも戻るもにっちもさっちもいかなくなる。まるでポストに挟まった回覧板のように。
「困ったなあ」
咀嚼し終えたきゅうりを飲み込み、溜息とともに呟きを漏らす。
イヅマくんはいいけれど、ユウジさんは危うい。どうしたものか。
冥界の食べ物を口にしたら、もう生の世界には戻れないという。河童の話をしたのに影響されたのか、そんな神話のようなものを不意に思い起こす。
はてさて、きゅうりはどの世界の食べ物か。
どうやら私は、ユウジさんが苦手らしい。しかし、苦手だからといって避けて通れぬご近所付き合い。
きゅうりに適当に味噌をつけ、かじりながら窓の外を眺めやる。
ご近所付き合いというものは、前途多難だ。
隣人ユウジさん登場しました。
調味料を使えば主人公にとって料理です。