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<え>衛生的に問題皆無のはずの大根と油揚げの味噌汁

 病原性大腸菌O157。食中毒の原因となる有名な細菌だ。

 O157を逆から読むと751Oとなる。

 すなわち、75度で10分加熱すれば、死滅するという。


 小中高と存在した家庭科の授業で得た知識のうち、もっとも印象に残っているのはこれだ。調理実習は慣れている者が取り仕切ってくれたので、味はぼんやり覚えていても、作り方はまったく浮かばない。

 なんたることだ、と口では言ってもさほど悲観していないから向上心が生まれないのだろうか。

 そんなことを考えるともなしに考えつつも、スーパーのレジを通り過ぎ、買った食品をエコバックらしきものに詰める。

 今日は炎天下というわけではないが、まあまあ日差しが強い。だからついつい食中毒のことにも考えが及んでしまう。

 スーパーから出る覚悟を決めると、駐輪場に見覚えのあるきれいな髪を見つけた。

 それは茶色と表現していいのだけれど、「茶色」という表現の範囲でまかなわれるすべての色が彼の髪で発見できるような、不思議な髪の色だ。もう少しで昼になろうとする太陽の下で見ても、その色合いはどこか神秘的ですらある。

 

「おにーさん、お茶でもいかがですか」


 原付にキーを突っこむ後ろ姿に声を掛ける。怪訝そうに眉をひそめたイヅマくんの顔は、私を認めると苦笑に変わった。まだ十分若いのに、そういう表情をすると急に老成して見える。

「あんたさ、その呼び掛けはないだろ」

 原付から鍵を引き抜き、私の持っているのよりふた回りほど大きい丈夫そうなトートバッグを手に、イヅマくんはあっさりやってくる。

 食品が傷まないように気をつけているとは通い妻の鑑だ、と並んで歩きつつ感心する。

「だいたいここらへん喫茶店なんかあったっけ」

「お近くの公民館で。おごりはしないけど無料ですよ」

 スーパーの裏手を示す。素晴らしきかな公民館。空調も効けば給湯器も設置してある気軽なお茶飲み場所だ。

 一人暮らしに必要なのは、自立と自律である。そしてちょっとした警戒心。

 てきぱき行動するのは自立の精神、喫茶店などに入らないのは自律的金銭感覚、自分の部屋に誘わないのは警戒心のなせる業である。と、私としては思っている。

「それさ、初めから誘うなよ」

 溜息混じりにイヅマくんは言葉を吐き出す。

「いいじゃないですか」

「いいけどさ」

 ふたりで荷物を手に日陰をたどって歩きながら、公民館を目指す。


 自動ドアを通り抜けると、急に日陰に入ったときのようにすうっと涼しくなる。もうひとつ自動ドアをくぐれば、「なごみの広場」という名は体を表す典型のような場所があり、お年寄りたちが新聞を広げたり将棋を打ったりしながらくつろいでいる。

「タダ水とタダ茶とただのお湯がありますよ。どれがいいですか」

 イヅマくんに問いかける。「タダ水」「タダ茶」というのは、無料であることを強調した呼び方であり、こう呼ぶとお得な感じがよく表現できる。ちなみに、「タダ茶」には「無料だから色のついたお湯が出てきても文句は言うな」という意味もこっそりこめられている。

「水」

「了解しましたー」

 脇に置いてある紙コップを、山からふたつぱこっと取り、それぞれに「冷水」ボタンを長押しして水を注ぎ込む。

 不況下で行政サービスが低下したと嘆かれていても、こうしたところは意外と滞りなく動いている。


 イヅマくんはといえば、好奇心を隠しきれない様子で血圧計に向かっていた。

「なあ、これって勝手にやってもいいよな?」

「ご自由にどうぞとあるからいいんじゃないですかね」

 だよな、とイヅマくんはいそいそと上着を脱ぐと、小さな画面に入力を始めた。


『性別:男

 身長:178

 体重:62

 年齢:19』

 

 ……年下か。

「あ、こら見てんじゃねーよ」

 はいはい、と受け流して近くのテーブルにイヅマくんの分の紙コップを置き、自分の分の水を飲み干して再び汲みに行く。冷たい水がおいしい季節だ。


 給湯器の前でもう一度飲み干してから、今度は少なめに汲んでイヅマくんのもとへ戻る。

 血圧計をやけに凝視していると思ったら、小画面に結果が表示されていた。


『最高血圧:116

 最低血圧:72

 脈拍:64

 BMI:19.6

 健康です。このままの状態を維持できるよう頑張りましょう』


「ほら、健康だって」

 イヅマくんは得意げに結果を示す。

 無料測定血圧計ごときで喜べるとは、よほど娯楽の少ない生活を送っているらしいと憐れめばいいのか、無邪気でかわいらしいとほほえめばいいのか、はたまた血圧測って笑っていられるのは今のうちだけさ高血圧の恐怖を知らないワカモノめ、と冷笑的になればいいのか。

 あー印刷はできないか無料だし仕方ねえな、と綾なす茶色の髪の青年は左腕を機械に突っこんだままぶつぶつ言って、座った姿勢でこちらを振り仰ぐ。目が合って、あんたもやりたいの、とでもいうようにイヅマくんは小首をかしげる。

 うむ、かなりかわいいからこれはこれでいいか。


「私はやらないけど、ほらタダ水。血税の味がするから、心して飲みなよ」

 公共サービスの給湯器は、血税の味がするという。怪談ではなく、今作った大嘘だ。

「何でいきなりタメ口?」

 ども、と紙コップを受け取ってイヅマくんは問う。

「理由は簡単、年上だからさ」

 私は早生まれなので、初夏に差し掛かる今頃にはすでに誕生日を終えているのだ。

「うっそ」

「ほんと」

「ほんとに?」

「ほんとにほんと」

「ま、いいか」

「まあいいけどね」

 年齢を気にするほどの付き合いはないので、私もイヅマくんもあっさりその話題を終える。変わったのは私の口調だけだ。


「あーあいつの血圧も測りてえ」

 血圧計の前に座ったままタダ水をあおってイヅマくんはぽろりとこぼし、あ、あいつって菜の花摘みもしねえ怠け者のこと、と付け足される。

 なるほど、あの家の住人か。

「測ればいいのに。タダなんだし」

「あいつなかなか家から出なくてさあ」

 不健康だよな、それにマジで怠け者なんだよ、家にいるなら家事くらいやれっつうの、使い終わった皿とかわざわざ冷蔵庫に入れやがってさ、最近は暑くなりましたからねとかほざくのがむかつく、だったらてめえが洗えっつうんだよ、とまくし立ててからイヅマくんは急に言葉を止めた。

「悪い。愚痴った」

「いや、別にいいよ」

「よくないって。なんか話があったんだろ、俺を誘ったってことは」

 そう改めて言われると困るものがある。

 家事を教えてほしいわけでもなく(そもそも向学心があったらもっと前から始めている)、我が家にも通い妻に来てほしいと頼むわけでもない(来てくれたら嬉しいとは思うが、さすがにそこまで厚かましくはなれない)。

 まあこんなところか、という理由を教えておく。


「私と付き合ってほしい」


「はあ!?」

 イヅマくんの反応から自分が言葉を間違ったことを知る。

 周りのお年寄りからこちらに迷惑と興味とが入り混じった視線を投げられたので、この子がすみませんねと目で謝っておく。

 そして大事な情報を付け加える。

「ご近所として」

 つまりは「ご近所付き合いの申し込み」である。

 お近付きになりたいのだが、だからといってどう近付けばいいのかわからない。「近所付き合い」というのが一番ふさわしい気がする。

「びびったー。まさかの公民館でナンパかと思った」

 イヅマくんは大きく息をついて背もたれに寄りかかる。

「それはない。いくらなんでも身長と体重と血圧と年齢しか知らない人をナンパはしない」

 あと髪がきれいなことも知ってるけどね、と告げると、普通のナンパは見た目しかわからない状態でやるもんだから、と返された。

「それはともかく、俺はあんたの身長も体重も血圧も年齢も知らないんだけど」

「ご近所付き合いに個人情報はいらないよ」

 それもそうか、とイヅマくんは頷く。

「俺土曜しかここらへん来ないけど」

 そんなことは百も承知、というのは黙っておこう。個人情報を知らないことにこそ、ご近所付き合いのご近所付き合いたる所以がある。

「まあ細かいことは気にしないで。実際隣近所に住んでいたって、毎日会うとは限らないし。気楽に始めましょうか」

 よろしく、とイヅマくんの前に立ったまま頭を下げると、こっちこそ、と血圧計の前に座った状態で礼を返された。ふむ、なかなか良い始まりだ。


 席を立ち、「紙コップ専用」と書いてあるゴミ箱にふたり分のコップを重ねて捨てる。スーパーで買った食品を持つと、出口に向かう。

「あ、さっきびっくりしたときに血圧測っときゃよかった」

 至極残念そうに血圧計の方を見やるイヅマくんに、7分の1本気で言ってみる。

「今度はプロポーズでもしてみようか」

 一週間のうち1日でいいから、冷蔵庫の中に洗っていない食器が詰まっていても許してくれる、髪がきれいな通い妻が来てくれたらいいな、という願望は否定できない。厚かましいからはっきりとは口にはしないけれど。

「そういうのはさ、血圧測り始めてから言えよ」

 イヅマくんに文句を言われてしまったので、これからはそうします、と答えておく。

 しばらく公民館で休憩してから出た外は、日が高くなっていて、やけに暑く感じられた。



 イヅマくんと会えるとは運がいいなあ、と家に帰ってすぐに昼食兼夕食の準備を始める。ちなみに、昼時に外出したのに外食しないのは、自律的金銭感覚のたまものである。

 米を炊飯器にセットして、あとはスイッチを入れるだけ、というところで別の作業に取り掛かる。

 大根を適当な長さに切り、残りは冷蔵庫にしまう。皮を桂剥きにして、剥いた皮はかごの上に置いておく。というのは、将来切干大根ができるかもしれないし、最低でも乾燥させることでごみの容積が減るからだ。

 大根を薄く輪切りにし、重ねて今度は千切りにする。その間に鍋に湯を沸かしておいて、沸騰したところに鰹節をひとつかみ投入、ついでに切り終えた大根も入れてしまう。

 火災報知機を信用して火の元から目を離し、シャワーを浴びに行く。

 シャワーから戻ると、鍋の火を止め着替えてごろごろする。シャワーにゆうに10分はかけているので、O157も死滅したな、と自己満足に浸る。


 炊飯器が鳴いたので、とりあえずアジでも焼くか、と冷蔵庫のアジの干物をグリルに乗せることにした。

 大根の入った鍋にもう一度火をつけて小さく切った油揚げを放り込み、味噌で味を調える。

 油揚げの油抜きというものはなかなかに面倒だ。なんでも余分な油を抜くというのが目的で、油揚げに熱湯をかけキッチンペーパーで叩くという方法が一般的らしい。私は油揚げをフライパンで焼き、紙パック入り日本酒を入れてアルコールが飛ぶまで火にかける、という原理的には正しい(と個人的に思っている)方法を用いている。


 グリルのアジの干物を覗き込みつつイヅマくんとの会話を反芻する。

 そうか、すぐに洗えない食器は冷蔵庫か。

 いいこと聞いたな、さすがイヅマくん、と呟く。いや、正確にはイヅマくんの呼ぶところの「あいつ」か。

 私も洗いものはまめにする方ではないので、O157のみならずいろいろ繁殖しそうなこれからの季節は実践してみようか、などと自分の怠惰を助長するようなことを真剣に考えてみる。

 アジが焼けたら、ご飯にしよう。

 今日の食事は、白米と大根と油揚げの味噌汁、アジの干物だ。栄養的にはわからないが(いや、緑黄色野菜がないからよろしくないな)、衛生的には問題がなさそうだ。

 食べ終わったら食器洗いをさぼって食器を冷蔵庫に放置してみようか、と考えるのも退廃的魅力に満ちている。

 こんな土曜日は結構好きだ。


たまには楽しい血圧計。


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