<い>意図的に間違えないかぎり失敗はないだろう麦茶
この部屋に泊まるのも慣れてきたところだな、とぼんやり考えている。
「泊まる」でなく「住む」といえるようになるのは、いつになるだろう。
開いたままの本の字を目で追いつつも、いつの間にかぼうっとしていた。
春にしては強い陽射しが南の窓から差し込み、部屋が暖まってきたからだろうか。
寝転がっているベッドからは、マットを干したにも関わらずかすかに兄の匂いがする。匂いというか、かつて兄が暮らしていた雰囲気の名残りのようなものも、部屋のそこここに感じられる。
きっと、そのうち、この部屋は私の雰囲気に染まる。その日はいつになるのだろう。
本からは完全に気が逸れてしまったので、しおりをはさんで傍らに置く。
さて。
一般的に、一人暮らしにはさまざまな準備が必要である。
そもそもの家探しから始まって電気ガス水道おまけにインターネットの契約を済ませ、家電製品を一通り買い揃え、必要な荷物を引っ越し業者に頼んで運びいれ、とかなりの段階を踏む必要がある。
しかし、私の場合、実家からのアプローチがさほど困難ではなく、なおかつすぐに引っ越しを済ませねばならない理由もない。これはつまり、大学生特有の長い春休みをめいっぱい使って実家とこのアパートとを往復し、のんびり引っ越しができるということだ。
さらに、結婚するため実家に戻る兄の部屋が居抜きで使えるという好条件。家具は準備する必要がないし、食器も必要だというものを買い足せばいい。
というわけで、春休み中一週間に2回ほど、小分けにしたこつこつ荷物をアパートに運び込みつつ、どんな暮らし具合になるのか確かめている。
ときには実家に帰らずに泊ってみて、バスタオルをもってきていないことや電球が切れそうなこと、昨日の夜などは冷蔵庫の製氷機の調子が悪いことなどに気付き、ああ一人暮らしを始める前に発見できてよかった、と改善を胸に誓っている。
「一人暮らしはソフトランディングで」
ああ世の真理をまたひとつ発見してしまった、という調子でひとり頷く。ベッドから体を起こし、ぐっと伸びをする。
さて、「ソフトランディング」とはいかなるものか。
こんな宣伝を目にしたことはないだろうか。
煙草の先に禁煙パイプを取り付けると、吸っている本人ですらわからない程度だけ吸い込む煙の量を減らされる。パイプのフィルターの目をどんどん細かくしていくことで、段階的に喫煙量が減り、ついには禁煙に成功する。
私も禁煙パイプのやり方を見習ったのだ。重要なのは段階的な慣れ。
いちおう格好をつけて、禁煙パイプ方式改めソフトランディング方式と呼ぶことにする。
甘えている、といわれれば確かにそうだ。意見は甘んじて受けるし、自分でもそう思う。
でも、と心の中でしっかり反撃の準備をしておく。
いきなりなんでもひとりでやろうとしてうまくいくはずがない。私のような家事手伝いもろくにしたことのない怠け者ならなおさらだ。
初めのうちは目新しさで頑張れても、だんだん嫌気がさしてきて、それでも無理に頑張って、ついには燃え尽きる。パターンがなんとなく予想できるだけに、「ソフトランディング」を目標とした。
ソフトランディングそれすなわち柔らかな着地。……直訳ではあるが。
屋根から飛び降りる猫のしなやかさを見よ。関節が、筋肉が、衝撃を受け止め受け流し、怪我ひとつしない。
……いや、別に向かいの屋根の猫が昼寝に飽きて飛び降りるまでひたすら観察するくらい暇だ、というわけではない。本から目を上げてしばらくしたら、ちょうど猫が飛び降りるのを目撃できたというだけのこと。それだけだ。
証拠をひとつ挙げれば、先ほど見たときにはなかった洗濯物が、向かいの家のベランダに干されている。つまり、少なくとも洗濯物が干される間、私が読書に集中していたことの間接証明になる。……ならないか。
私の集中力はともかくとして。
それにしても、と息をつく。
「カヨちゃんは、仕事が早いなあ」
ちょうど見下ろす形になる、屋根の猫がいなくなった一軒家の方向に顔を向けたまま、一人暮らしになってから増えたというよりは前々からの癖だった独り言を、のんびり口に出す。
向かいの一軒家の通い妻、通称カヨちゃんは、家事がお得意のようだ。あれだけの量の洗濯物を私に目撃されないほど短時間に、しわもなくきれいに、風に飛ばされぬよう洗濯バサミも適切に配置しつつ干すのは、かなり慣れている証拠だ。
今までの観察の結果、だいたい次のようなことがわかった。
①その一軒家は明らかに新築らしい家族向けのもので、二階建てである。
②しかし、そこにひとり以上の人間が住んでいる形跡はない。
③洗濯は週に一度、土曜日にのみ。しかも干されるのは男物だけ。布団もまた週末に干される。(週末が雨の場合は部屋干しでもしているのだろうか)
④毎週土曜日にだけ原付がその家の庭に停まっている。日曜日には原付は消えている。
結論。カヨちゃんは、原付を乗りこなすアクティブな通い妻で、一戸建てにひとりで住む男性の世話をしている。
……いや、向いの謎の家の観察に精を出すほど、私の春休みが暇だというわけではない。
ただ、私が望むのは。
「カヨちゃんと、お近づきになりたいなあ」
知り合いに家事が得意だと言い切れる人間が少ないため、できれば身近に頼れる人がほしいのだ。
実家を出る前、母に「家事のこつってある?」とさりげなく尋ねたら、「結婚するまで箱入り娘だったあたしが今じゃ立派な専業主婦よ。家事なんてちょろいちょろい」という励みになるかもしれないが頼りにはならない言葉だけで終わり、一人暮らしの先輩である兄に訊くと「ネット見ろ」で済まされた。父に視線を投げると優しい微笑みを向けられた。
肝心なときに頼りにならない家族である。
しかも、しょちゅう言われるのだが、私は一番役に立たない父によく似ているらしい。将来が不安である。
それはともかく。
今はカヨちゃんに憧れている場合ではない、とふと思い出す。もちろん本を読んでいる場合でもない。
目下の問題は昨日発見した製氷機の不調である。製氷機がうまく動かないとなると、今までのように茶を淹れるのがめんどくさいからと水道水を飲み続けるのも限度がある。
飲用水はミネラルウォーターでなくては、というほど好みはうるさくないし、このあたりの水道水は結構おいしいが、水はせめて冷えていてほしい。
というわけで、麦茶を作ることにした。
実家近くの安売りスーパーで、いつか使うだろうと麦茶ティーバッグを買っておいたのは運がいい。その袋を、もってきたままになっていたビニールバッグから取り出す。
袋の説明書きを読むと、やかんに湯を1リットルほど沸かしてティーバッグを放りこみ、5分経ったら火を止めてティーバッグを取り出せとのことだ。簡単簡単。
やかんは小さいものしかなかったので、鍋いっぱいに湯を沸かす。まあだいたい1リットルだろう。沸騰したところでティーバッグを放り込む。まあ5分だろう、というところで火を止める。ただ、かなり色が薄いので、ティーバッグはしばらく入れたままにしておくことにする。まあいいか。
ほぼ説明書き通りではないか。
私もなかなかやるな、とちょっとばかり悦に入る。麦茶と呼ぶにはまだ色が薄すぎるシロモノだが、まあ大丈夫だろう。
色のついたお湯であろうと白湯よりは風味がある。
これについては実家での出がらしのお茶や、学生食堂の給湯器でボタンを押すと出てくる「茶」を飲んでいる経験からわかっているので、開き直る。
しばらく放っておけば粗熱が取れるだろう、と鍋は放置する。
問題も解決したことだし、再び本を開くことにした。本は寝転がって読むのが一番だ。
だいぶ経った気がする。
陽射しの差し込む方向が変わっている。
ふう、と息をついてきりのいいところで本を閉じ、麦茶を覗きにいく。
鍋の麦茶は、ちゃんと麦茶らしい明るい褐色になり、麦茶らしい香ばしいにおいすらしている。鍋に触れると、室温と同じくらいの温度で、熱は取れている。たぶん成功だ。菜箸でティーバッグを引き上げ、コンロの横に放り投げておく。
ただ、いまさら気づくのもなんだが、麦茶を入れておく容器がない。実家から何かもってこないとな、と心の片隅に刻む。
今回は、鍋のまま冷蔵庫に入れることにした。冷蔵庫はまだがら空きだ。飲みたいときには500mlの計量カップですくい、グラスに注いで飲むことにする。
一杯飲んでみると、しっかり麦茶の味がした。成功。
一仕事しちゃったな、と頷きつつ、麦茶を味わう。
麦茶なら私でも失敗せず作れる、と先行き不透明な一人暮らしに少し自信をもった。
まあ、結論からいえば、麦茶といえども失敗しないわけではなかった。
隣で炒めものをして油がはね、麦茶の上に浮いてしまったり(蓋のできるやかんで作れと書いてあったのはこういう事態を想定してのことかと納得)、火を止め忘れて水が蒸発してしまったり(改めて水を加えればいいだけではあるが)という失敗があるのを知ったのは、私がもっと経験を積んでからの話である。
主人公にとって麦茶は料理です。