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悦楽の儀式  作者: 香住景
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7.失墜

 じっとりと自らに絡みつく視線に、榎尾は明らかな嫌悪感を、その細く吊り上がった目元に表した。その相手が殺人という、人として最も犯してはならない大罪に手を染めた張本人であるために、彼の厭悪もひとしおであることが手に取るように分かる。

 殺人犯と探偵は、しばらくそうして無言で睨み合っていた。

 衛藤の娘たちも、揚野警視や七瀬警部でさえも、言葉を紡ぐのを忘れて成り行きを見守る、ただの傍観者となっていた。

 そんな場の膠着した空気を先に打ち破ったのは、鶴川のほうだった。

「全く、素晴らしい推理だな、“迷”探偵さんよ。あんまりにも上手くこじつけるもんだから、俺も思わず首を縦に振るとこだった」

「決定的な証拠を残しておいて、よくもそんなことが言えますね」

「俺は食事のあと3階に引っ込んでから1度も外に出ちゃいない」

「それを証明してくれる人はいるんですか?」

「いないな。だが、俺が部屋から出たことを証明する人間もいないはずだ。それに、佐々木は21時すぎに酒を飲むためリビングルームへ入って行ったそうじゃないか。浴室はリビングルームの奥にある。普通に考えりゃ、先生を殺すのに最も適した人物は佐々木以外にいない」

「何を言う!」

 激昂した佐々木が立ち上がって鶴川に掴みかかる。早苗が上げる、小さな悲鳴。胸倉を掴まれた鶴川は、佐々木を見据えながらも不気味な笑みを消さない。

「先生が憎かったんだろう。こいつはね、写真家として初めて開いた個展を、先生にぼろくそ言われたことがある。それも雑誌のインタビューで。赤っ恥をかかされたお前はその時から、先生に復讐してやろうと考えていたんじゃないのか?」

「ば、馬鹿なことを言うな! 確かにあの時はショックを受けたし、悔しい思いもしたが……だからって殺そうなどと思ったことはない!」

 榎尾は2人のやりとりを尻目に、壁に凭れてPeaceを口にくわえる。推理をすっかり披露して自らの役目を終えた彼は、事件にも衛藤にも興味が失せた様子で、緩慢に煙を吐き出す。

 あとは警察の仕事だ、とでも言いたげな目を揚野警視に寄越すと、彼はやっと己の職務を思い出して激しく口論する2人の男に近づいた。

「お2人とも、それ以上は署で伺いますので……」

「警察はこんな男の狂言を信じるのか!」

 今度は近寄る警視に怒鳴りつけると、佐々木は鶴川から手を離して榎尾に指を突き付けた。しかし彼とは正反対に、鶴川は諦めたように短く息を吐くと、ゆっくり立ち上がる。

「いいですよ。俺はこれっぽっちも疚しいところはありませんから。徹底的に調べてください。榎尾冬也とか言ったな。あんたの推理が的外れだってことを証明してやる」

 苦しい捨て台詞のはずなのだが、鶴川の言葉に何故か胸がざわめく。榎尾の推理が間違ったことなど私の知る限り一度もないのだから、杞憂だと分かってはいるのだけれど。

 榎尾の表情を盗み見る。彼には容疑者たちの言葉など全く耳に入っていないらしく、天井へ上っていく煙を無表情でぼんやり眺めていた。

 ああ、いつも通りだ。自信と余裕があるからこそ、榎尾は鶴川の言葉などに揺り動かされたりしない。私は安堵する。やっと悲劇に終止符が打たれたのだと。

 ただ、何かが物足りない。何か、後味の悪さが尾を引いている。この場に衛藤暁美が生きて参加していれば、きっとこんな思いはせずに済んだかもしれない。



 「もう遅いですし、今晩まで泊まっていってください」という真子の申し出に、私たちは甘えることにした。

 私はそうでもないが、榎尾のほうは相当疲れが溜まっているらしく、ふらふらと部屋へ戻ると着替えもせずにそのままベッドへ倒れ込んでしまう。彼が外でどれほど聞き込みをしたのかは知らないが、この様子だとかなりあちこちへ歩き回ったのだろう。

 程なくして規則的な寝息が聞こえてくる。部屋の電気を消して私もベッドへ潜り込むが、まだ興奮しているのか、なかなか寝つくことができない。

 目を閉じる。なるべく何も考えないように。そう思っても、やはり暁美の記憶が次から次へと思い起こされて、息がしづらくなる。

 変わり果ててしまった暁美の姿は、きっと当分忘れることなどできない。

 そこでふと、私の中である疑念が浮かび上がってきた。

 その疑念は考えれば考るほどに大きく、重く、己にのしかかってくる。肌寒い夜のはずなのに、背中が徐々に汗で湿る。恐怖が、音もなく闇に溶けて部屋に充満し始める。


 犯人は一体、何を使って暁美の首を絞めたのか?


 鶴川が佐々木と共に連行される前、警部が2人の持ち物を調べていたが、彼らは特別凶器になりそうなものは持っていなかった。

 とすると、暁美はこの家にあるもので絞殺されたことになる。死斑の様子から信敏と同様、暁美も死後1時間以内には発見されたようだから、犯人が凶器を破棄した可能性は極めて低い。

 暁美の首についていた跡は意外と細いものだった。それでいてくっきりと赤く、肉に食い込んだ跡。縄なんてものはこの家にはない。タオルやカーテンなどの布製のものでもないだろう。

 細く、それでいて頑丈なもの。

 私の頭には、あるものが浮かんでいた。しかしそれを使ったとなると、犯人は男では有り得ないことになってしまう。

 だが、由加里に付着していた精液は犯人を男だと決定づける確固たる証拠だ。

 何かを何処かで間違えているような、もどかしさ。

 あの時、暁美が私に伝えようとしていたこと。それこそが、事件の真相を暴くのに重大な鍵である気がしてならない。

 桜によって遮られなければ……。そういえば、あの時桜は何故、庭にいる私と暁美に気がついたのだろう。昼間ならまだしも、暗がりで懐中電灯も使わず立っていた私たちを認めるには、じっと目を凝らして庭を見なければならないはずだ。ふと庭に目がいって私たちに気がついた、なんてことはまず有り得ない。とすると、桜は私たちが庭にいることを始めから知っていた、ということか。

 どうやって? 記憶を手繰ると、案外簡単に答えは出る。

 私はあの時、2階で3階から降りてくる暁美と会った。外の空気を吸いたいという暁美に私はついて行ったが、庭に出るまでに私たちは誰ともすれ違ったりしなかった。

 しかし、2階には双子の部屋がある。廊下での会話を桜に聞かれていたとしたら。

 では何故、桜はあのタイミングで私たちに声をかけてきたのか。あの時は何とも思わなかったが、今思い返してみるとどうも気にかかって仕方ない。あれは本当に偶然だったのか?

 と、その時。

 きい、と扉の蝶番が軋む音。それから微かな衣擦れの音。それは段々とこちらに近づいている。私は咄嗟に目を閉じた。

 私と榎尾以外の息遣い。ノックも無しに、誰かがこの部屋へ侵入している。

 薄く目を開けると、闇に慣れた視界に一際濃い影が映り込む。それは榎尾のベッドの前で止まると、しばらく彼をじっと見つめていた。

 榎尾が危ない。

 そう思うのに、声が出せない。恐怖で体が小刻みに震える。耳に届く息遣いが、徐々に荒くなる。

 と、影がおもむろに両手を頭上へ振り上げた。窓から淡く差し込む月明かりに、それが一瞬煌めく。その瞬間、呪縛が解けた私はベッドから勢いよく飛び出して、影に自らの体を力の限り当てつけた。

「榎尾!」

 床に2つの体が転がる。したたかに肩を打ち付けながらも探偵を呼ぶと、彼はやっとのそのそ起き上がる。なんて悠長なやつだろう!

 私はすかさず態勢を整えるが、影はくるりと背を向けて去っていく。ばたばたと階段を降りていく音。

「2階だ!」

 部屋の電気をつけながら振り向かず榎尾に告げて、影のあとを追う。この時私は、先程までぼんやり考えていた憶測が当たってしまったことを確信していた。

 2階へ下り廊下の明かりをつけると、床には点々と赤い染みが双子の部屋と華織の部屋を繋いでいた。私は一呼吸置いてから、迷わず華織の部屋へ続く扉を開く。やっと切迫した事態を把握して私に追いついた榎尾は、部屋の中を見て絶句した。

「桜……さん?」

 まず目に飛び込んできたのは、ピアノの上に横たわる双子の片割れ。何度も切り裂かれたであろう腹部は真っ赤に染まり、華織の時とは違ってピアノまで血に塗れている。

 そしてピアノの側には、真の殺人鬼がこちらに背を向け静かに佇んでいた。右手にはバタフライナイフを握り締め、両手とも肘の辺りまで真っ赤に濡れている。

「結局、最後まで見分けられなかったね、成沢さん」

 彼女……いや、彼はそう言うとゆっくりこちらに向き直る。姿形はピアノの上の人物と全く同じだ。しかしその唇から発せられた声は、今まで聞いたことのない男の声だった。

「な、なんだ、これは……ど、どういう……なんで……」

 榎尾は明らかに混乱していた。桜と楓の間で目を行ったり来たりさせながら、左手で自身の髪を強く掴む。「なんで……なんで……」とまるで譫言のように何度も繰り返す彼が、今に狂いださないかと気が気ではない。

「楓さん……全ては君が」

「そう。華織姉様も由加里姉様もお父様もお母様も。皆僕が1人で殺しました」

「どうして……」

 私が問うと、楓は天井を仰いだ。うっとりと恍惚の表情を浮かべて。

「僕は、華織姉様を愛していました。5年前から、僕たちは愛し合っていました。小さい頃から女として育ってきた僕を、華織姉様だけは男として見てくれた」

「その格好は……君の意志でしていたことじゃないのか?」

「僕の意志なんて、この家に生まれた時から剥奪されています。小学校に上がるまでは母親の気まぐれで女の格好をさせられ、小学校に上がってからは桜に脅されて今まで……」

 楓の視線はゆっくりと桜へ移動する。その瞳には憎しみの色など微塵もなく、慈愛に満ち溢れた優しさを宿していた。

「男の格好をしようとする僕に、桜は度々こう言いました。『双子なんだから全部一緒じゃなきゃ嫌よ。楓が男になったら私は死ぬわ』と。けれど僕は一度だけ桜の言いつけに背いて、長く伸ばした髪を切り、男子制服を着て学校へ行ったことがあります。そうしたらこの子は、自殺未遂を謀ったんです。手首を切って風呂場で倒れているところを吉野さんに発見されました。大事には至らなかったけれど、見舞いに来た僕に桜は笑顔で、次は確実に死ぬからと告げました。恐ろしかった。

 当時は意味も分からず桜を恐れていたけれど、歳を重ねるにつれて僕にも桜の心が分かるようになってきました。だからと言って、僕も同じように桜を愛することはできなかったけれど」

 始めは強い独占欲だったのだろう。それが少しずつ歪んだ愛情へと変わっていき、楓をずっと苦しめてきた。

 想像するのは簡単だが、私には桜の気持ちにも華織を愛した楓の気持ちにも、共感することはできない。

「その一方で、僕は華織姉様以外の家族から忌み嫌われる存在となっていました。母も父も、真子姉様も由加里姉様も、僕が男で女装していることを隠そうとする。僕の心など無視して、皆が女扱いをする。苦痛でしたよ。本当の僕なんて誰も見てくれやしない。でも、華織姉様だけは違った。華織姉様だけは、男である僕を受け入れてくれた。それなのに……」

 ナイフを持つ手に力が篭っているのか、腕が小刻みに震えている。やがて楓は膝を折りその場にうずくまると、床に何度も何度もナイフを突き立てた。

「去年の12月から、急に華織姉様の態度が変わりました。僕を冷たくあしらうようになったんです。原因は、榎尾さんが突き止めた通り、父兄との不倫でした。僕は早い段階でそれに気づき、やめさせようとしました。

 僕だって、いつかは華織姉様にもちゃんと好きな人ができて、この家を去ってしまうことくらい分かっていました。僕たちの関係にもいつかは終わりが来るって。だけど、不倫なんて……」

 興奮からか、口調が早く、荒々しくなる。ナイフを突き立てたまま、じっと床を見つめて独白は続いた。声はより一層低く、憎悪の篭ったそれに変わる。

「許せなかった。そんな形で僕から離れようとする華織姉様が。右京の元へ嬉しそうに会いに行く華織姉様を見るたび、僕の中である感情が芽生えた。それはもう理性で押さえつけられないくらいに育ってしまって……それで」

「殺したのか」

 楓はゆっくりと顔を上げて、私を見た。下ろした髪が汗で頬に張りついている。私でなく、更に遠く、過去へ見据えられた瞳は、厭らしく濡れていた。桜に似た、暁美の面影を残した風貌は女にしか見えない、のに。

 込み上がる吐き気を無理に堪える。

「あの夜、僕は華織姉様を説得しようと、帰ってくるのを待っていました。もう不倫なんてやめてくれとか、僕がどれだけ華織姉様を愛しているかとか、とにかく必死に思いのたけを伝えました。

 けれど華織姉様は僕の話を聞こうともしない。無言で浴室へ向かう華織姉様の後ろ姿を見て、僕は兼ねてから考えていた計画を実行する決意をしたのです。桜も他の家族も眠っている今なら、誰にも知られず事を成し遂げられると思いました。僕は一旦部屋に戻り、通販で買っておいたナイフを持って浴室へ行きました。浴室の扉を開けて、振り向いた華織姉様の腹に、迷わずナイフを刺し込みました。それからはもう無我夢中で、よく覚えていません。気がついたら浴室は真っ赤に染まっていて、醜く顔を歪めた華織姉様が床に倒れていました。僕はその瞬間、何だかすごく嬉しくなった。あんなに優しくてあんなに美しかった華織姉様が、血まみれで、あられもない姿で、目の前に転がっている。ずっと、ずっと、自分だけのものにしたいと思っていた華織姉様が。血はとめどなく流れ続けて、体温も徐々に失くなっていく。生きていた華織姉様も綺麗だったけど、あの夜ほど美しいと、愛しいと思ったことはない。

 成沢さん。貴方に分かりますか? 人の内臓に触れた時の感動が! それも生涯で最も愛した女性の内臓。暖かくて、柔らかくて、心地好いぬめり。充満する血液と撒き散らした汚物の匂い。あんなに、あんなに強いエクスタシーは、普通に生きていたんじゃ決して味わえない。い、今思い出しても体が疼く。眩暈がする。僕は、僕はあの瞬間ほど、生きていて良かったと思ったことは、ない」

 楓は自らの肩を抱き、体を小刻みに震わせた。感情が高ぶってうまく言葉が紡げないらしく、何度も吃る。

 聞きたくもない悍ましい言葉の羅列は、私と榎尾を十分不快にさせた。

「落ち着いた僕は、華織姉様の体を拭ってあげてから、服を着せて靴も履かせて、部屋に担いで行きました。浴室も丹念に掃除しました。浴室で殺されているのが見つかれば、身内が一番に怪しまれると思ったんです。僕と華織姉様の関係は家族の誰にも知られていませんでしたけど、身内が疑われれば僕の秘密もすぐに暴かれてしまいます。だからできるだけ、外部の人間による犯行に仕立て上げようとしました。右京にアリバイがなければ完璧だったんですが」

「家族から君の秘密が暴露されるとは考えなかったのか?」

「それはまずないと思っていました。それを言うことは、衛藤の恥を世に晒すことになりますから。それに皆、身内に犯人がいるなんて露ほども思っていませんでしたし。でも、お母様は違ったかもしれません。昨夜、成沢さんとお母様が一緒に庭にいるのを見て、僕は焦りました。お母様は何だか思い詰めた顔をしていたし、僕のことを話してしまうんじゃないかって。だからあの時、お母様に声をかけたんです」

「あれは君だったのか!」

 気づかなかった。髪を纏めたシュシュの色で判別していたが、あれは楓が桜のものをつけていただけだったのだ。

「僕があの時“楓”で声をかけていれば、お母様は不審がって貴方に告白していたかもしれません。だから僕は“桜”に成り済ました。暗がりだったせいもあってか、お母様も僕を“桜”だと思っていたみたいでしたけど。そしてあの瞬間、僕は家族全員を殺そうと決めたのです。僕のことを明かされる前に。お母様はストッキングで首を絞めて、お父様は榎尾さんが言っていたように、スコップで。殺害方法を変えたのは、鶴川さんに罪を着せるためです。別に彼が憎かったわけではありません。ただ、たまたま鶴川さんのボタンを手に入れたから。食堂に落ちてたのを偶然見つけたんです。だけど、まさかあれだけで本当にごまかし通せるとは思っていませんでした。警察も、よく調べれば鶴川さんが犯人でないことくらい分かるでしょう。でも、いいんです。僕は家族と、探偵の2人を始末する時間が欲しかっただけですから。……まあ、それも失敗に終わりましたけど」

「由加里さんを殺したのは……」

 私が由加里の名を出すと、楓は、ああ、と実につまらなさそうな声を漏らした。

「あの人を殺したことに、特に理由はありませんよ。強いて言うなら、華織姉様を殺した時に味わったあの快楽を、もう一度体感したかっただけです。桜に睡眠薬入りの飲み物を飲ませてから由加里姉様の部屋へ忍び込んで、後ろから腕を回して首を絞めながら、腹目掛けてナイフを、こう」

 楓は自らの両腕を動かしてジェスチャーしてみせる。悪びれもせず、むしろ愉しそうに犯行を暴露する楓を見ていると背筋を冷たいものが走る。

 どうして、こうなってしまったのか。

 彼がこの家に生を受けたその瞬間から、こうなる運命だったとでもいうのか。

 くだらない。運命なんて一番嫌いな言葉だ。

「ああ、だから、佐々木さんが無実だってのもすぐ分かることだったんだ。決定的な証拠であるあの精液は、僕のなんだから!」

 無気味な笑い声が、屋敷中に響き渡る。哄笑を続ける彼は、しかし目からとめどなく涙を流していた。己の所業を悔いて泣き、それをごまかすために笑っているのか。それとも本当に狂ってしまったのか。

 やがてそれも止むと、楓はゆっくりと立ち上がり、再び優しい瞳で桜を見つめた。

「家族全員を殺すなんて言いましたけどね、桜を殺した時点で、もうどうでもよくなっちゃいました。僕の人生を縛りつけて歪めてくれたこの子を、僕は一番憎んでいた。でも、何故だろう。桜が息絶えた瞬間、僕の中には喪失感しか残らなかった。真子姉様や早苗ちゃんを手に掛ける気も失せてしまって……」

 話しながら、一歩、一歩、後退り、彼は窓のすぐ前で立ち止まった。右手にはバタフライナイフを持ったまま。

 今まで気がつかなかったが、どうやら窓は片側だけ全開になっているらしく、そこから冷たい夜風が吹き込んでいた。

 さらさらと横に流れる赤茶の髪。四角で囲まれた闇を背にして、俯き気味に佇む儚げな姿を、私は彼の母と重ねた。

「僕は、救われたのかな。桜に対する恐怖も、家族に対する憎悪も、今の僕にはない。そういう負の感情から解き放たれて、今はすごく、穏やかなんです。僕は……」

「しまった!」

 突然叫んだ榎尾に、僕は一瞬気を取られた。榎尾が窓へ駆け寄るのを目で追ったときには、もう楓はそこにいなかった。

 榎尾は開いた窓から上半身を乗り出して下を確認すると、そのまま床に膝をつく。

 私は、探偵の敗北をこの時、始めて目の当たりにした。

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