6.推理執行
「……おい、成沢くん!」
突然、後頭部に鈍い痛みが走る。訳が分からず上体を起こすと、ぼやけた視界の中に頭から爪先まで黒ずくめの男が立っていた。
覚醒していくにつれて、意識を手放す前の事柄が少しずつ思い出されてくる。桜と食堂で雑談をしていて、彼女が退席したあとすぐに眠ってしまったのだ。
ズキズキと痛む頭を摩りながら、もう一度男を見る。やっとはっきりし始めた視界は、腕を組んでやたら不機嫌な探偵を映した。
「何をしているんだい、君は」
「……そっちこそ、いつの間に帰ってきたんだ?」
「今だよ、たった今。そうしたら君、呑気に寝ているじゃないか。どうやら僕の言いつけは守れなかったみたいだね」
「……」
「11時40分だよ」
時間を確認しようと顔を上げると、すかさず榎尾の険を含んだ声が飛んでくる。
「何故そんなに不機嫌なんだ。起きて君を出迎えなかったことに怒っているのか?」
そういえば昼間もこんなことがあったな。あのときは今と立場が逆だったが、やはり理由も分からず非難されるのはいい気がしない。
そんな私の様子に呆れたように首を左右に振ると、榎尾は私の隣に腰掛ける。体はこちらに向けて、やけに真剣な面持ちで対峙した。
怒りよりも、切羽詰まったような焦りの色が切れ長の目に濃く表れている。どんな難事件に遭遇しても余裕の態度を崩さない榎尾が、こんな表情をすることは滅多にない。
嫌な予感がした。
聞きたくない、聞いてはいけない事実が、今まさに彼の口から放たれようとしている。そんな予感。思わず耳を塞ぎたくなるのを、僅かな理性で押し止めた。
「暁美が殺された」
殺された?
一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
日本語だということは分かるのに、一語一語の意味を理解できない。認めてしまえば自分の中の何かが崩壊し、自我を保てる自信がない。
そんな私の心情を知らない榎尾は、まるで死刑執行を言い渡すかのように無機質な低い声で続ける。
「さっき玄関から、庭に誰かが倒れているのが見えてね。確認したが、あれは間違いなく暁美だった。ざっと見たところ目立った外傷はなかったが、首に紐のようなもので絞められた跡があったから、絞殺で間違いない。今までは刺殺だったのに、何故今回は絞殺なのだろう。華織と由加里の殺害時に使った凶器は、もう処分してしまったということなのか……ということは、暁美殺しは犯人の計画に組み込まれていなかったということになるな。成沢くん、何処へ行くんだ」
最初の一言以外、私にはもう榎尾の言葉は届いていなかった。
とにかく庭へ行かなければ。
私は夢遊病者のように、力無く立ち上がる。だが背後の榎尾にすかさずそれを阻まれてしまった。肩を掴む手は力強く、この細い腕の何処からこんな力が出てくるのかと思われるほどであった。
「見に行くのはあまりお勧めしないな。じきに揚野警視らがやってくるから、それまで此処にいたほうがいい。僕は皆を呼んでくるから」
そう言って榎尾は足を踏み鳴らしながら食堂を出、階段を駆け上がって行った。
2階で何やら騒いでいる声を聞きながら、私は榎尾の忠告に反して再び玄関へと足を向ける。
冷たくなった暁美を見て自分がどうなってしまうかとか、そういうことまで考えは及ばなかった。彼女に一目会いたい。その願望だけにただ、突き動かされていた。
もはや靴を履くのも忘れて、数時間前まで暁美と2人きりでいた場所まで向かおうとする。
しかしその場所へたどり着く前、玄関から門へと続く石畳を右へ逸れて程なくして、彼女は見つかった。こちらに脚を向けて仰向けに倒れている。
見てはいけない。頭で警鐘が鳴る。しかし体は意に従わず歩を進める。一度釘付けになった視線は、もう離すことができない。じわじわと背中に額に、嫌な汗が滲み出してきた。
榎尾の言っていた通り、暁美の体には首をぐるりと囲う紫色の紐の跡以外には、何処にも外傷は見当たらなかった。
しかし彼女の美しかった顔は鬱血して腫れ上がり、両の目は大きく見開かれ眼球が上向いていた。もがき苦しんだためか、シフォンのワンピースの裾が大きく捲れている。あらわになった白い太股には死斑が表れ始めていて、その上をジグモがのそのそと這っていた。
生前の面影など微塵も消え去ってしまった屍は、もはや暁美ではなかった。
「ああ……」
これは悲しみだろうか。暁美の死を悔やみ涙するほど、私は彼女と時間を共にしていない。何か大事なものを壊してしまったときのような、漠然とした喪失感に似ている。
それと、後悔。あのとき暁美は、私に何事かを告白しようとしていたはずだ。僅かに見せた意を決した表情は、忘れることができない。
あのとき無理にでも聞き出していれば。暁美を庭に1人残さなければ。こんな事態にはならなかったはずなのに。
「ああ」
再度漏らした嘆息は音にならなかった。濁り澱んだ空気を体外へ吐き出したいのに、それは腹の底へ底へと重く溜まっていく。
止まらない。彼女の言わんとしていたことが、今やっと解った気がした。
「お母様!」
「お母様!」
静かだった闇夜を切り裂く二重の金切り声。視線を上げると、玄関からの光を背に双子がこちらに駆け寄って来る。しかし後から飛び出して来た榎尾が、すぐに2人の前に立ちはだかった。
「どうして……どうしてお母様が……」
双子の片割れが顔を覆ってその場に膝を折る。もう片方も、寄り添って頭を垂れる。榎尾が立たせようと彼女らの肩に触れるが、2人はしばらくそこから動こうとはしなかった。
ああ、あの双子でも泣くことがあるのか。姉達の死にも全く動じず感情の欠落した人形かと思っていたが、皮肉にも暁美の死によって双子はやっと人間らしい姿を取り戻していた。
放心から回復できないまま榎尾に促されてリビングルームへ入ると、真子と早苗、佐々木、鶴川が既に集まっていた。微かに漂うアルコールの匂いは佐々木から発せられている。カウンターにはワインの瓶が一本、空になって置かれている。突っ伏した佐々木はすっかり正体を無くしていた。
榎尾から事情を聞かされたのだろう。真子は俯いて啜り泣きを響かせている。幼いけれど聡明な早苗は事態を正確に把握しているようで、母の姿を見つめながらも表情に陰を落としていた。
そんな中で鶴川は、相変わらず陰気な雰囲気を纏ってソファーの隅に座していた。少しは衝撃を受けているのか、目が落ち着きなく泳いでいる。
「信敏さんと吉野さんは」
榎尾が言いかけると、今しがた私たちが入ってきた扉からキクが不安げな様子でやってきた。
「あの、旦那様がいらっしゃらないんです」
「何処にも?」
「今、3階の書斎と寝室を見てきたんですけど……」
そこまで聞くと、榎尾はさっと身を翻してリビングルームを出ていった。私とキクも後に続く。
探偵は一気に3階まで上がると、片っ端から部屋を調べていった。次に2階。しかしどの部屋にも信敏はいない。1階の食堂と客間にも。
「まさか屋敷の外へ?」
「私も……そう考えて靴を見てみたのですが、旦那様のものは全て揃っていました」
「トイレと風呂場は」
「ああ、そういえばまだ確認していなかったな」
「それなら、リビングルームの奥の扉から……」
ここまでくると、最悪の可能性が頭をよぎる。キクと榎尾も同様のようで、狼狽と焦燥が2人の態度にも如実に表れていた。
「どうしたんですか?」
リビングルームを突っ切り、奥の扉へと慌ただしく移動する私たちに真子が震える声で問い掛けるが、それには誰も答えない。
不穏な空気を察知したのか、ドアノブに手をかける頃には、真子と双子も榎尾の後に続いていた。
扉の先には細く短い廊下が伸びていた。左右に1つずつ扉がある。傍らに取り付けられたスイッチを入れると、間接照明が頼りない光を放つ。
榎尾はまず、左の扉を引き開けた。白い壁に囲まれたトイレであったが、明かりをつけずとも異常のないことは分かる。すぐに扉を閉めると、次は向かいの扉を。
「……信敏さん?」
扉の先は広い脱衣所だった。その奥の3枚引き戸式の浴室扉は固く閉ざされている。シャワーから流れ出る水音がやけに大きく響く。曇りガラスの向こうには一瞬誰もいないように見えたが、よく見ると床に黒い固まりのような影。それは微動だにせず鎮座している。榎尾の呼び掛けにもまるで応えることなく。
しばらく私の前で静止していた榎尾だったが、やがてゆっくりと歩みを進めると、カラカラと軽い音を立てさせながら、その引き戸を開けた。
壁に掛けられたシャワーからは大量の湯が、床と横たわる死体に降り注いでいる。全裸のまま俯せになった死体の後頭部には、まるで失敗したスイカ割りのようにぱっくりと縦長の深い傷ができていた。湯と混ざった鮮血が排水溝へ吸い込まれていく。
「姉様!」
背後の声に振り向くと、楓が真子の体を支えていた。真子は立て続けに起きた惨劇にショックを受けたようで、気を失っている。
「吉野さん、姉様をお部屋に連れて行くから手伝って」
口を両手で覆い狼狽している様子のキクは、数度頷いてから楓と共に真子を両脇から支えながらその場を後にした。桜のほうも目一杯に涙を溜めて、両手を胸で固く握り締めたまま立ち去っていく。
私はもう一度、信敏の亡きがらに目を落とす。と、榎尾が自前である花柄の悪趣味な手袋を嵌めて、自らが濡れるのも構わず浴室へ入って行くところだった。
「まだ死後硬直が始まっていないな。死斑も点で表れているから、殺されて1時間と経っていないだろう」
信敏の体を淡々と調べ始める榎尾から、私は思わず目を逸らす。暁美にもこんなふうに触れたのかと思うと、軽い嫌悪感を覚える。そしてそんな自分に更に嫌悪した。彼としては仕事を遂行しているだけなのだから、仕方ないとは分かっているのだけれど。やり場のない苛立ちを、つい彼にぶつけてしまいそうになる。
「昨日から外で何をしていたのか知らないが、また殺されてしまった。此処へ来て3人もだ。……大丈夫なのか? ちゃんと解決できるのか?」
「ああ、安心してくれ」
浴室にしゃがみ込んでいた榎尾は、場にそぐわない明朗な声でそう言い放つと急に立ち上がり、くるりとこちらに向き直る。その顔には自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「もうすっかり分かってしまったよ。この僕の目を欺き、3度も殺人をやってのけた犯人が一体誰なのか」
「本当か?!」
私の反応に、榎尾は誇らしげに大きく頷く。その偉そうな態度も今だけは頼もしく映った。一見ふざけた男だが、やはり彼が持つ探偵の才覚は確かなものだったのだ。
「警察が到着したら全て話そう。もうこれ以上、愚劣な殺人鬼に好き勝手にはさせないさ」
やっと終止符が打たれる。これで暁美も浮かばれることだろう。そう思うと、さっきまでの投げやりだった気持ちが消え失せ、探偵への期待と尊敬の念が芽生え始めた。
「さて、お集まりの皆さん。僕は今日……いや、もう日付が変わっているから昨日か。昨日の時点では、まだ犯人の特定には至っておりませんでした。犯人を絞るにはあと少しだけ、情報が足りなかったのです。犯人特定に足る情報を得るため、昨夜僕がこの屋敷を出ている間、残念なことに更なる犠牲者を2人も出してしまいましたが……しかし皮肉にも彼らの死によって、僕はついに残虐非道な殺人犯の尻尾を掴んだのです! 勝利を得たのです! この手に!」
警察が屋敷へ到着すると、榎尾は揚野警視と七瀬警部を皆の集まるリビングルームへ迎え入れ、今まさに自身の推理を披露しようとしていた。気を取り戻した真子は未だ疲労困憊の様子で、部屋へ来てからずっと俯いている。他の面々も精神的に相当参っているようで、榎尾のふざけているとしか思えない演説にも何の文句も言わず、ただ黙りこくっていた。
「御託はいいから話を進めろ」
そんな部屋の空気に痺れを切らした七瀬警部が野次を飛ばす。榎尾から一瞬逸れた警部の視線は、隣の揚野警視に向けられた。警視はこれ以上ないほどの不機嫌顔で、榎尾を凝視している。少しでも探偵の推理に穴があったら突いてやろう、とでも考えているのだろうか。どうもこの警視からは、隙あらば榎尾を失脚させてやろうという魂胆が見え隠れする。今はそんなことをしている場合ではないのに。
「全く、せっかちですねえ。警察という人種は皆こんななのかな。慌てると大事なものまで見落としてしまいますよ」
挑発的な物言いに警部がまた何か言いかけたが、探偵はそれを目で制すると大仰に両手を広げて言葉を続ける。
「今此処で犯人の名をずばり言ってしまうより、まず最初から順を追って事件の内容を整理していきましょうか。最初の事件は4月16日。衛藤華織さんが腹部をめった刺しにされ死亡しているのを16日午前9時頃、吉野さんが発見しました。死亡推定時刻は16日の午前0時から1時の間。華織さんは15日夜に暁美さんに出掛ける旨を伝えて屋敷を出ていたのに、いつの間にか自室へ戻って来ていた。亡きがらとして。この最初の事件を犯人はいとも周到にやってのけていたために、現場には犯人に直接的に繋がる物証は何一つ残されていませんでした。第一発見者である吉野さんの証言と華織さんの遺体写真を見て分かったことは、華織さんは自室でなく別の場所で殺されたということだけでした。ここで最も疑わしいのが、華織さんが夜に逢瀬を交わしていた人物です。僕は華織さんの交遊関係を色々と当たってみましたがね、この人物を探すのにはなかなか骨が折れましたよ」
「ということは、それが誰か分かったのか」
昼間の榎尾の様子から、華織が会っていた人物の特定は諦めたものだと思っていたが、意外にも彼は根気よく聞き込みを続けていたらしい。
探偵は軽快に指を鳴らすと「その通り!」と声を張り上げて実に嬉しそうに笑った。どうやら大袈裟じゃなく本当に苦労したようだ。
けれど榎尾はすぐに表情を暗くして(といってもこの変貌は随分芝居がかっていたが)盛大に溜め息をついた。
「しかしその人物は、この一連の事件の真犯人ではなかったのです。私は彼に話を聞くために自宅を訪問までしたんですがね」
「それは誰なんだ」
いつまでも勿体振って明言しない探偵に揚野警視が低く問う。口調は落ち着いているが、怒り心頭なのが表情からよく分かる。私は昨日の尋問時のようにまた肝を冷やす羽目になった。
榎尾もさっさと言ってしまえばいいものを、顎に手を当てて何やら思案するそぶりを見せる。警視の眉がぴくりと痙攣した。
「これは特に言う必要はないと思っていたのですがね。警視に機嫌を損ねられたら敵わないので、教えて差し上げましょう。華織さんは15日の夜、彼女の勤めている幼稚園へ通う、あるお子さんの父親と会っていたのですよ。しかし彼には夜11時以降確実なアリバイがあった。奥さんに直接話を伺ったので間違いありません。嘘だと思うのならどうぞ調べてください。右京誠、30歳。自宅は幼稚園のすぐ脇に建っている高級マンションの12階です。尤も、奥さんのほうがまだ家にいる保証はありませんが。僕が事情を説明すると彼女は実家に帰るとか何とか、ひどく喚いていましたから」
榎尾の話から察するに、華織はある父兄と不倫関係にあったようだ。外部犯説を取るなら、華織の会っていた人物イコール由加里の訪問者イコール犯人とばかり考えていたために、この真実には少しばかり拍子抜けする。まさかその父兄が由加里とも関係を持っていたわけではあるまい。
「さて、それでは次に由加里さんの件です。彼女は3時から3時30分の間に自室で華織さんと同様に刃物で腹部を切り刻まれ殺害されていた。この時もあざとい殺人鬼は、証拠を1つも残さず巧妙に事を成し遂げてくれました。傷口には佐々木さんと由加里さんの写った写真が数枚捩込まれていましたが、指紋は検出されませんでした。そして由加里さんの時にもまた、怪しい第三者の介入がありましたね。その何者かが由加里さんを訪ねた時刻こそが、ちょうど彼女の死亡推定時刻と一致します。由加里さんが殺される前、佐々木さんが屋敷へやってくることをほのめかしていたため、成沢くんや他の屋敷にいた方々はそれを佐々木さんだと思い込んでいたようですが……」
「僕じゃないぞ!」
テーブルを強く叩いて佐々木が叫ぶ。酒が入っているため呂律が回っていない。彼は虚ろな目で探偵を睨みつけた。
榎尾はそんな佐々木の様子に露骨に顔を歪めると、蔑むような視線を返した。榎尾だけでなく双子と真子、早苗も汚らわしいものでも見るような目を、彼に向けている。
佐々木は衛藤家にとって家族同然であったはずなのに、この一件で彼に対する衛藤家の人々の評価は地に落ちてしまったようだ。
「異論は話が全て終わってからにしていただけますか。言い忘れましたが、由加里さんの遺体には精液が付着していました。このことから犯人が男性であることが確定したわけです。因みに血液型はA。この中にいる男性でA型なのは鶴川さんと佐々木さんですが、まだこの時点では謎の訪問者が犯人である可能性も生きている。由加里さんを訪ねたのは一体誰だったのか。その答えは意外にすぐ出てきました。彼女が自室へ容易に招くくらいに親しい人物と言えば、それはもう限られてきます。佐々木さんかご友人か、仕事の関係者、それも特に由加里さんと親しくしていたごく一部。僕はまず由加里さんの上司にあたる、写真家の矢城憲太郎氏に話を聞きに行きました。すると彼は正直に申し出てくれましたよ。3時近く、確かに由加里さんを訪ねにこの屋敷へやってきたとね。しかし矢城さんは届け物をしただけで、すぐに屋敷を後にしたそうです。因みに矢城さんの血液型はOでした」
これで訪問者の疑惑は解けた。同時に佐々木への疑いが濃くなる。しかし榎尾はここでも犯人を名指しせず、次いで暁美と信敏の事件に話を移す。
「そして最後に、昨夜の10時頃から11時40分にかけて暁美さんが庭で首を絞め殺され、信敏さんが浴室で頭を刺されて死亡していました。今回は今までと明らかに殺害方法が違う。このことから僕はまずこう考えました。おそらく華織さん、由加里さんの件は、前々から入念に計画を立てて実行に移した殺人だった。すなわち犯人は、それだけ確実にこの2人を殺したかった。もっと言ってしまえば、この2人だけを殺せればよかった。そのため犯人は由加里さんを殺害した時点で、早々に凶器を破棄してしまったのです。けれどどうしたわけか、犯人は暁美さんと信敏さんも殺さなければならなくなる。どんな理由からかは知りませんが、2人が生きていると何か不都合があったのでしょう。例えば、暁美さんと信敏さんが犯人の正体に気づいてしまった、とかね。しかし皆さん、よく思い出してください。由加里さんが殺されたとき、暁美さんも信敏さんも、ひどく悲しみに暮れていました。そんな2人が犯人の正体に気づいたなら、真っ先に通報したはずです。しかしこの2人から警察への通報はありませんでしたし、信敏さんに至っては入浴中に殺害されたものと思われる。犯人に気づいていたなら、悠長に風呂など入っていられるでしょうか? ……このことから、僕は一連の事件の犯人を1人に絞ることをやめたのです」
「ということは?」
一呼吸置いた榎尾に七瀬警部が先を促す。彼はすっかり榎尾の推理に聞き入っていた。いや、七瀬警部だけでなく、この部屋にいる誰もが真剣に探偵の言葉に耳を傾けている。揚野警視ですら、途中で口を挟むことをしない。それだけ榎尾の推理には隙がないということだろう。
「要するに、犯人は2人いるということなのです。華織さんと由加里さんを殺害した者と、暁美さんと信敏さんを殺害した者のね。ところで佐々木さん、貴方は華織さんが殺害された時間、何処にいらっしゃいました?」
「どういうことですか」
佐々木の声が震えている。左足が忙しなく上下し、何度も瞬きを繰り返す。酔いとは違う、明らかな狼狽。しかし榎尾は追及をやめない。弱り果てた害虫に留めを刺すように、佐々木の答えを待たずして容赦なく言葉を畳み掛ける。
「ご近所の方でね、偶然にも貴方を見ている人がいたんですよ。16日の夜0時頃、物影に隠れて屋敷の様子を伺っている貴方をね。貴方がよくこの屋敷を出入りしていたから、顔を覚えていたんだそうですよ。佐々木さん、そんな夜遅くに貴方、屋敷の外で何をしていたんですか?」
「それは……」
「華織さんの交遊関係を当たっているとき、僕はある事実を知ることになりました。佐々木さんが由加里さんと交際する前、それから交際し始めてからも、貴方は度々華織さんに言い寄っていたようですね。そのことを華織さんは、数人の友人に漏らしていました」
「まあ……」
真子が口に手を当てて小さく声を上げた。佐々木はまるで金魚のように口を開閉させるが、言い返す言葉が出てこない。酒で赤かった顔も今では血の気が引いて蒼白になっている。
「由加里さんのときも、おかしいと思ったんだ。貴方は合鍵を所持していた理由を尤もらしく述べていたけれど、いくら恋人だからって自室の合鍵なんて渡しますかね。しかも交際が始まってからまだ間もないのに。それに貴方には由加里さんが殺害された時間のアリバイがない。2時にご友人宅を出た後は、一体何をしていたんですか? 矢城さんが去るのを外で待ってからすぐ入れ違いで此処へ来て、部屋で由加里さんを殺害したんじゃないですか? 反論は無駄ですよ。由加里さんに付着していた精液と貴方のDNAを調べれば全てが露見するのですから」
「ちょっと……ちょっと待ってください! 確かに由加里が殺された日の2時以降、僕の行動を裏付けてくれる人はいません。でも僕はただ、まっすぐ此処へは来ずに本屋に立ち寄ったりちょっとその辺をぶらついていただけで……3時から3時30分までに此処へは来ていませんよ!」
「佐々木さん」
佐々木の喚きを遮って、揚野警視が固く、諌めるような声で名を呼ぶ。瞬間、佐々木は助けを求めるような表情を見せたが、警視の鋭い眼力に気圧されて全身を凍りつかせた。
「お話は署で伺いましょう」
「そんな……!」
怒り、驚愕、憐れみ、侮蔑。負の感情全てを皆から浴びせかけられている佐々木は、頭を抱えてうずくまる。そんな彼に目もくれず、榎尾は次なる断罪へと取り掛かった。
「暁美さんと信敏さん殺しの犯人は、おそらく先の殺人犯に罪をなすりつけるつもりだったのでしょう。でなければ探偵と警察がこの屋敷を警戒している今、わざわざ殺人を行う必要性がありません。しかし夫婦は今までと全く異なる方法で殺されていた。このことから犯人は、華織さんと由加里さんが腹部を切り刻まれて殺されたという重要な共通点を知らなかったと考えられる。仮に知っていたとしても、適当な凶器を調達できず、やむなく今までとは違う方法で2人を殺害したか。どちらにせよ暁美さんと信敏さんを殺害した犯人は、この中にいるということになります。これを見てください」
探偵はおもむろにポケットから丸められた白いハンカチを取り出すと、皆が取り囲むテーブルの中央にそれを置き丁寧に開いた。中に包まれていたものは、樹脂でできたグレーの練りボタンだった。
「これは?」
「暁美さんの遺体のそばに落ちていました。おそらく暁美さんと揉み合った拍子にでも落ちたんでしょう。これと同じボタンがついたジャケットを着ているのは、鶴川さん、貴方だけなんですよ」
鶴川は榎尾の言葉にも特に動じた様子もなく、俯けていた顔をゆっくりと上げた。自身が犯人だと指摘されたにも関わらず、彼は少しも表情を変えない。その態度は諦めとも取れるし、全く見当違いのことを言われて呆れているふうにも見える。
「俺が、先生の奥さんを殺す動機がない」
「動機なんてどうだっていいんです。このボタンが庭に落ちていたことが、何よりも有力な証拠だ」
「じゃああんたは、俺が先生をどう殺したって言うんだ」
「そんなのは簡単なことです。暁美さんを庭で殺害した貴方は、その足で浴室へ行き、入浴中の信敏さんを背後から殺した。信敏さんの後頭部には深く長細い傷痕がありましたが、あれは庭の花壇に放置されたスコップで作られた傷です。脱衣所に少量の土が落ちていたので、すぐに分かりましたよ。僕は庭の花壇も調べてみましたがね、暁美さんの遺体があった場所付近の花壇に、凶器に使ったと思われるスコップがありました。先端に血がべったりついていたので、間違いありません」
榎尾が話終えると、場は時が止まったかのように静まり返った。揚野警視の文句も飛んで来なければ、鶴川の弁明も聞こえてこない。
不気味な静寂。
ただ皆揃って鶴川に視線を向けている。当の鶴川は、延びた前髪の隙間から湿っぽい目を探偵にだけ注いでいた。
と、不意に彼はさっと下を向くと、微かに肩を震わせ始めた。くっくっと堪えたような声は、徐々に低く呻くような音となってリビングルームに充満する。
早苗が母の腕にしがみつき、息を呑んで鶴川を凝視した。双子や真子も怯えきった様子で彼に注目する。
うす気味悪い笑い声はすぐに止んだ。しかし顔を上げた鶴川は、乾燥した唇を吊り上げ、グロテスクな笑みを張り付けていた。