5.密事
いやに静かだ。壁掛け時計が秒針を刻む音以外には、物音一つしない。
暗い夕食を終えると皆は部屋に退散していった。佐々木と鶴川は3階奥の部屋(私たちの部屋の隣とその向かいの空き部屋だ)を宛がわれている。
榎尾に容疑者たちの見張り役を仰せつかった私は(榎尾としては私を追い払うための口実にすぎなかっただろうが)、とりあえず食堂に待機していた。階段を降りるか上がる者があれば、此処なら足音が響くからよく分かる。
すぐまた殺人が起こるとは考え難いが、しかし起こらないとも限らない。しかも犯人は男だということが分かっているし、今此処には衛藤家と最も深い繋がりのある人間が2人もいる。 榎尾は彼らの前では無能な探偵を演じていた。確かな証拠は見つかっていないと。
もし自分が犯人なら、と考えてみる。女性の腹を切り刻み、その行為に性的な興奮を覚えるような嗜好は私には理解できないが、警察も探偵も何ら証拠を掴んでいないのなら、更なる殺人を犯すことはせずに逃亡を謀るだろう。いや、逃げたりすればその時点で自らを犯人だと知らせてしまうことになるか。
それなら探偵が失脚するのを待って、ほとぼりが冷めてから職を変え別の街へ引っ越すか。 どちらにせよ、この街にはいつまでもいられない。私なら。
と、そこまで考えてみてから無謀なことだったと一人自嘲する。私のような小心者に、大胆不敵な殺人鬼の思考など慮ることはできないのだ。
二度も衛藤の娘が殺害され、凶器は未だ見つかっていない(刃物だろうとは推測できるが)。さすがに警察も屋敷の隅々まで調べ尽くしているはずだから、キッチンの包丁などではないだろう。とするとうまいこと隠しているのか、もう既に破棄してしまったか。
凶器がまだ犯人の手の届くところにあるとすれば、3度目の殺人は行われるだろうか。次は一体誰が犠牲になる? なぜ犯人は衛藤の娘を狙うのか?
考えれば考えるほど分からなくなる。思考の糸ががんじがらめに絡まって、何を考えているかも不明瞭になる。
気晴らしに屋敷内を見回ろうか。
時刻は9時40分。榎尾が屋敷を出てから2時間経っていた。
2階へ上がると、3階から降りて来る暁美と遭遇した。ふらふらと覚束ない足取りが危なっかしい。私に気付くと彼女は弱々しく微笑する。
「お部屋に戻られるんですか?」
「あ、いえ……由加里さんの部屋へ行こうかと」
探偵の無能な付き人とは思われたくない、というちんけなプライドが頭を擡げた。由加里の部屋へなど入る気もなかったが、一応探偵の助手として仕事をしているふうを装う。
「暁美さんは、何処へ?」
私が尋ね返すと彼女は表情を隠すかのように俯く。耳にかかっていた髪が、さらりと落ちた。
「少し……外の空気を吸いたくて。家の中は、なんだか息苦しいので……」
喘ぎ喘ぎ答える暁美は本当に呼吸がしづらそうだ。
「でも、外に出るのはお勧めしません」
「……いいんです」
何もかも全てを諦めたような声音だった。2人も娘が殺されて自棄になっているのか。この様子では自殺でもしかねない。
私は、よろめきながら階段を降りる暁美の背後に「僕もついて行きます」とつい声をかけてしまう。言ったあとで拒絶されるのでは、と後悔したが彼女は拒絶もせず誘いもせず、ただ一度こちらを振り向いただけで何も言わなかった。
私は少し躊躇ったが、来るなと言われたわけではないので、そそくさと暁美のあとを追った。
いつ誰が狙われるか分からないのだから、女性1人は危ないから、と心の中で言い訳を呟きながら。
庭に佇む暁美を、数歩後ろから見守っている。何か近寄りがたい雰囲気を醸し出しているようで、それ以上は近づくことができないでいた。
4月とはいえ夜風はまだ肌寒い。何も羽織らず薄手のワンピースだけを身に纏う暁美は、先ほどから何度も腕を摩っている。私の上着を貸してやれたらいいのだが、生憎今は私もカジュアルシャツ1枚で何も羽織ってはいない。出てくる前に上着くらい取って来ればよかった。つくづく自分の鈍さを認識させられる。
「成沢さんは……」
不意に名前を呼ばれて、咄嗟に身を固くした。しかし暁美のほうは背を向けたまま続ける。
「成沢さんは、誰が犯人だと思いますか」
「え? いや、僕には……」
分からない、とは直接口にできずに喉の奥に押し込めた。
暁美としては何気なく尋ねたつもりだったかもしれないが、私には自らの無能が露見したんじゃないかとしか思えなかった。酷い被害妄想だ。
「なんだかもう、止まらない気がしているんです。きっと、誰にも止められない」
静かだ。虫の声すらしない。ただ静かな闇の中に、暁美の言葉だけが浸透していく。それはやがて屋敷を覆い、蝕んで、真実となってしまうのだろうか。
いや、そうならないために榎尾が呼ばれているのだ。彼ならきっと救ってくれる。衛藤を。暁美を。
彼女は自暴自棄からそんなことを口走っているのか。それとも。
「暁美さん。貴女は、何か知っているんじゃないですか? もしくは何かを隠しているのでは?」
なぜそんなことを口走ったのかは自分でもよく分からなかった。ただ直感的にそう思った。
暁美は警察や探偵にも話していない、重大な何かを握っているのではないかと。衛藤に隠された秘密。それがこの夫人をより神秘的に見せている原因なのかもしれない。
私の読みは当たったのだろうか。しばらく何も言わずに黙ったままでいたが、やがて暁美はゆっくりとこちらに向き直った。
屋敷から漏れ出る微かな光に照らされてはいるが、表情はよく見えない。また泣いているだろうか。私は暁美が昼間に食堂で見せた笑顔を思い出した。彼女が私の前で本当に楽しそうに笑ったのは、あれきりだった。
あとは泣き顔か、悲しげな表情しか思い出せない。
また暁美の笑顔を見たい。自分に探偵の才能があれば、と凡庸な己を呪った。
「お母様!」
暁美の厚い唇がまさに開かれようとしたとき、頭上から溌剌な声がした。
振り向き、見上げると2階の開け放たれた窓から桜が…いや、楓か?
「そんなところで何をしているの? あら、成沢さんもいらっしゃるのね。……え、あ! もしかして!」
後半は随分と演技の入った口調だった。思わせぶりに言葉を切ると、双子の片割れは俗っぽい笑みをこちらに向ける。
「何を……」
「ねえ、成沢さん! 食堂でお話しましょうよ。私、退屈で仕方ないの」
弁解しようと言葉を紡ぐが、大声に掻き消されそれも叶わない。仕方なく「ああ」とだけ返すと再び暁美に視線を戻すが、彼女はまたこちらに背を向けてしまっていた。
「暁美さん」
「行ってあげてください。私はもう少し、此処にいます。姉を2人も失って、あの子たちも落ち込んでいるでしょうから」
双子は落ち込んでいるのだろうか。確かに事情聴取のときは、まるで人形のように感情を殺していたが、今はあれが嘘みたいに元気そうだ。
しかし母親である暁美がそう言うのなら、そうなのかもしれない。悲しみを隠すための空元気……か。あまりしっくりこなかった。
しかしこのまま此処にいても、きっと暁美はもう先ほどの問いに答えてはくれないだろう。
何か大切なことを聞きそびれたように思ったが、私はその思いを振り払うように、気まずい沈黙が流れ始めた庭を後にした。
玄関へ向かって一歩芝を踏みしめると、何処に潜んでいたのか、クビキリギリスが耳障りな声で鳴き始めた。
再び屋敷に戻ると、ちょうど佐々木と桜(庭では判別できなかったが、ベージュのシュシュをつけていた)が階段を降りてくるところだった。
佐々木は私に目もくれず、さっさとリビングルームへ行ってしまう。
「佐々木さん、精神的にかなり参ってるみたいね」
「彼は?」
「酒でも飲まないとやってられないって、さっき2階で会ったとき言ってらしたわ。お父様にちゃんと許可をもらったのかしら」
佐々木のあとから1階に降りてきた桜は、固く閉ざされたリビングルームへ同情の眼差しを向けた。その他人事のような言い方、態度は、やはり落ち込んでいるようには見えない。心の底から悲しんでいるなら、たとえ演技をしていても、少しは表情に悲壮感が滲み出るものだが。
「さ、紅茶でも飲みながらお話しましょ。あ、成沢さんは紅茶、大丈夫だったかしら」
「ああ、紅茶も飲めるよ」
「華織姉様が紅茶党でしたから、うちには種類が沢山あるの。ダージリン、アッサム、オレンジペコー、プリンス・オブ・ウェールズ、ニルギリ、ウバ、バイカル、カラメル、カルチェラタン……」
桜は私の前を歩きながら紅茶の名前をスラスラと並べる。途中からは聞いたことのないものばかりで、まるで呪文を聞かされているようだ。
「君と同じでいいよ」
私はどちらかというとコーヒーを好んで飲むため、紅茶のどの茶葉がどういう味だとか、そういうことには全く疎い。
桜は手を打って「それならグランボアシェリにしましょ」と言うとスキップでもしそうな軽快な足取りでキッチンへと姿を消した。
桜の異様なテンションの高さに少々面食らってしまい、私はしばらくその場にぼんやりと突っ立っていた。
思い違いだろうか。元から明るい娘だとは感じていたが、今のこの状況下では少し異様だ。 早苗は華織や由加里とはあまり親しくなかったようだが、ひょっとすると双子も姉達との関係は良好でなかったのかもしれない。
そう勝手に結論づけるが、根づいた違和感はそう簡単に拭い去ることはできなかった。
「おまちどおさま」
目の前に置かれた純白のティーカップから、バニラの優しい香りが漂う。ミルクが加えられており見た目からも甘そうだ。
「榎尾さんがPeaceを吸ってらしたでしょう。華織姉様もあれをよく吸っていまして、この紅茶が煙草によく合うって言っていたのを思い出したの。どちらもバニラの味がするからって。私、煙草は吸わないしよく分からなかったけれど」
彼女なりに姉を偲んでいるのか。私はいっそ、先刻考えていた姉妹間の関係について聞いてみた。
「私達、姉様方の誰と関係が悪いってことはなかったわ。だけど華織姉様とは特に仲が良かったかもしれません。真子姉様とは早苗ちゃんができてから、よく話すようになりました。由加里姉様には、昔からあまり親しくはしてもらえなかったけれど。双子だからっていつも一緒にいるのが気に食わないようなことは、一度言われたことがあるわ」
死人を悪く言うつもりはないが、由加里ならそういうことをズバズバと言いそうだと思った。生前の勝ち気で澄ました顔が脳裏をよぎる。
「だけど、兄弟や姉妹って割とそういうものですよね。うちは5人姉妹で皆成人していますから、いつまでも子どもの頃みたいにはいきません。大人になれば家族との交流も徐々に少なくなっていきますよ。全ての家族がそうとは言いませんけれどね。成沢さんは、兄弟はいらっしゃらないの?」
「いや、弟がいるよ」
「弟さんとは仲が良いんですか?」
「いや……」
私はぎこちなく笑って言葉を濁す。うちは兄弟間どころか家族間もあまり良好とは言えない。いや、ただ私一人だけが、両親や弟から疎まれているだけなのだが。
長男であるのに家業を継がず、小説家などという無謀な夢を追いかけて、家のことは弟に全て預け出てきてしまった。
家を出てからは実家から連絡が来ることはないし、こちらからすることもない。勘当を言い渡されたわけではないが、現状はそれに近い。
あまり他人に言えたような家庭事情ではない。何より私の恥部を晒すことになるので、桜の問いに対して詳細な説明を提示することはできなかった。
「まあ、家の事情は人それぞれですから」
そういうと桜は静かに紅茶を啜る。十も年下の娘にフォローされてしまった。情けない。
「ところで、榎尾さんは何処へ行かれたのかしら」
グランボアシェリ・バニラを口に含みながら、私は榎尾の行き先を教えてもいいものか、一瞬迷った。
しかし犯人は男だということが分かっているのだから、桜に対してそこまで慎重になることもあるまい。
桜が殺人鬼とグルであったなら教えるわけにはいかないが、そうなると彼女といつも一緒にいる楓も怪しくなる。
真犯人と双子の3人が団結し、衛藤を抹殺しようとしている……とは考え難い。面白いストーリーではあるが、まずそこに至る動機がこの双子にあるとは思えない。
身内を殺すなんて非道な所業は、よっぽどの理由がなければ為せることではないし、事の真相を知るものが3人もいたなら必ずどこかでボロが出るはずだ。榎尾が2日もかけることなく事件は解決しただろう。
「誰にも言わないと約束するかい?」
「もちろんよ。私だって早く犯人が捕まってほしいと思ってますから」
そう言いつつも桜の表情は実に愉しそうだった。私の勿体振ったような前置きが彼女の好奇心に火をつけてしまったらしい。
探偵の秘密を共有できるというスリルに胸躍らせているのだろうか。次に殺人犯の標的になるのは、桜自身であるかもしれないというのに。
「由加里さんを訪ねてきた人物に会いに行ったらしいよ」
ソーサーの縁に描かれた薔薇をなぞりながら、私は低く答える。
桜がこちらに食い入るように耳を傾けているのが気配で分かるが、私はなるべく彼女を見ないようにした。
「今日うちに来た人ね。皆が佐々木さんだと思い込んでいた。その人が犯人なのかしら」
それは私も現段階ではまだ分からない。しかし華織が会っていた人物と由加里を訪問した人物がイコールで繋がれば、あるいはそうなるのだろう。
全ては榎尾の調べ次第だ。私はまた待つだけの格好になってしまったが、不思議と焦りや不安はない。明日の夜には全てが分かる。暁美の苦悩を取り除いてやれる。
その仕事を果たせるのが私でないのは少々残念だったが。
「そういえば楓さんは」
話が途切れて、私はやっと疑問に思っていたことを口にした。
「2階で眠ってます。話し相手がいなくなったところに成沢さんを見つけたの。お母様と何を話していたんですか?」
「あ、いや、何も……ただ、犯人は誰なのかを聞かれたけれどね。僕には全く検討がつかないから、答えられなかった」
「本当に、分からないんですか?」
念を押すような聞き方に、私は居心地の悪さを覚える。桜は突如真剣な表情になると、私の顔をじっと見つめた。睨まれているわけではないが、妙な眼力を秘めた双眸に射止められると、強く圧迫されるような感覚に陥る。
桜の質問の意図はなんだ。私を非難しているのか? しかし責め立てるような色は感じなかった。また、尋問のときに見せた、喜怒哀楽全てが排除されたような表情。不気味だと感じた、あの。
「どういう、意味かな?」
努めて冷静に尋ねて、ごまかすように微笑を浮かべてはみたが、頬が引き攣っているのが自分でも分かった。
けれど桜のほうはその瞬間に小さく息を吐くと、先ほどまでの無表情が嘘のように、また明るい娘の顔に戻った。
「いいえ、ただの好奇心です。まあ、明日には榎尾さんが謎解きをしてくれるみたいだし、それまで楽しみにしてます」
桜は人当たりの良い笑顔を浮かべてはいるが、二度も彼女らの二面性を垣間見てしまったためかなにか釈然としない。
衛藤家は変わり者ばかりだと思っていたけれど、最も異様で最も欠落しているのは、桜と楓なのかもしれない。どこが、とは明確に指摘できないが、彼女らは他の誰よりも不明瞭なベールに包まれた存在のように思えた。
「さて、と。私、そろそろ2階に戻ります。もうこんな時間だし」
桜につられて時計に目をやると、もうすぐ10時30分を回ろうとしていた。榎尾は一体いつ戻るのだろう。
「僕はまだ此処にいるよ。もうすぐ榎尾が帰ってくるかもしれないから」
「そうですか。お喋りに付き合ってくれてありがとうございました。あまり無理なさらないようにね」
そう言って立ち上がった桜は、軽く伸びをしてから食堂を去って行った。
桜が階段を上がっていく足音を聞きながら、カップに残った紅茶を飲み干す。
再び食堂に静寂が訪れると、不意に睡魔が襲ってきた。瞼を乱暴に擦ってみるが、一度認識してしまった眠気は解消されるどころか徐々に濃さを増していく。
部屋に戻って寝てしまおうか? しかし寝ている間に殺人が起きてしまったらどうする。だが今日由加里を殺したばかりで、すぐまた犯行に及ぶだろうか? 佐々木はどうしているだろう。桜と会話している間に何も物音はしなかったから、まだリビングルームか。暁美は? あの憐れな夫人はちゃんと部屋に戻ったろうか。庭で暁美は私に何を言おうとしたのだろう。やはりこの家には何か秘密が……?
次々と沸き上がる思考も、次第に途切れ途切れになっていく。いつの間にかテーブルに突っ伏してしまった私は、最後に暁美の流した大粒の涙を思い浮かべた。
あのとき、無理矢理にでも暁美に質問の答えを聞き出しておけば、事態は好転していただろうか。彼女を守ることができただろうか。
遂にその機会は、もう二度と訪れることがなくなってしまった。