4.第二の殺人
警察は通報から30分ほどで到着した。私たちは全員リビングルームに集められている。
リビングルームは玄関から向かって右手にある一室だ。奥には小さなカウンターがあり、カウンターの中には様々な種類のアルコールが棚に陳列されている。此処には大型のテレビもあり、普段は家族の憩いの場となっているのだろう。
しかし、今いる者の表情は皆暗い。あの信敏でさえもだ。
華織の時はその変わり果てた姿を見ることはなかったそうだが、今回彼は娘の死を直接目の当たりにしている。皆リビング中央のソファーに座しているのに、信敏だけはカウンターの隅に縮こまってしまっていた。
丸めた背中からは、初対面時に見せていた貫禄などすっかり消え失せており見ていて痛ましい。同時に私は、その信敏の姿に微かな安堵を覚えていた。彼もやはり人の親なのだと。
一方暁美は、この部屋に来てからずっと宙に視線をさ迷わせている。
今はもう泣き枯らしてしまったようだが、重く腫れた瞼と頬に光る幾筋もの涙の跡が彼女の悲しみを如実に表している。
彼女の哀惜は、私などには到底計り知れない。暁美の力になりたいと思うのに、私にできることなんて何一つない。暁美にかける言葉すら見当たらない。私はどこまでも無力だ。
2人とは対照的に、双子は悲壮に暮れることもなくただ無感情な面持ちで、落ち着き払った態度でこの場にいた。
この双生児は、私たちが由加里の部屋で大騒ぎをしている時、何事かと部屋の中を覗いていた。自室が同じ階だったので余計に気になったのだろう。遠巻きながらに由加里の姿を見ていたはずだが、若い2人はまだ死への認識が甘いのか、取り乱すことなく沈黙と無表情を守っていた。何を思っているのか全く読み取れない。少し不気味に感じる。
そして信敏と暁美以上に取り乱しているのが、佐々木祐輔だった。好青年の雰囲気は既に跡形もなく、今はただ小刻みに体を震わせ苦しげな嗚咽を漏らしていた。誰もが黙りこくっているせいで、彼の嗚咽はリビングルームによく響いた。それがさらに室内の空気を暗く澱ませている。
交際が始まってまだ1ヶ月。佐々木のほうが由加里に惚れ込んでいるようであったし、この悲しみようは仕方ないだろう。
が、しかし。それが欺瞞ではないかと、疑いの目を彼に向けるのを、私は禁じ得なかった。
そもそも彼は榎尾が戻るずっと前にこの家を訪問しているはずだった。なのに実際は榎尾が戻ったあと、信敏と共にこの屋敷へやってきている。これは何を意味するか?
先の訪問者は、由加里と親しい別の人物だったか。この可能性は大いに有り得る。
そしてもう1つの可能性は、今言ったように思わせるための、佐々木の細工か。一度此処を訪問し由加里を殺したあと、誰にも会わぬよう注意しながら屋敷を出る。そして何食わぬ顔で再び訪れる。外で信敏と鉢合わせたというのも計算してのことかもしれない。彼にとって有利な証言を得るために。
鶴川康ニは此処へ集められてからずっと、ソファーに浅く腰掛け膝の上で両手を組んだ姿勢のまま、まるで石像のように固まっている。それが冷静からなのか放心からなのかは分からない。
もしかしたら謎の訪問者は鶴川だったのではないか、という考えが一瞬沸き上がる。だが、このうだつの上がらない男を由加里が自室へ招くとは思い難い。
家政婦のキクは、部屋の隅に佇んだままうなだれている。今回彼女は幸いにも死体発見者とはならなかったが、一週間前を思い出しているのだろうか。その顔は蒼白である。
視界の隅で紫煙が揺れる。榎尾はいつの間にか窓を開け放って、緩慢な所作でPeaceを燻らせていた。彼の脳内では今、目まぐるしく様々な推理が駆け巡っているのだろうか。そうであってほしい。
「目星はついているのか」
重苦しい沈黙に耐えられなくなった私は、窓枠にもたれ庭を眺めている榎尾に小さく声をかけた。空では日が傾き始めており、夜の闇が静かに忍び寄ってきていた。
榎尾はちら、とこちらに視線を寄越すと、幾らか短くなった煙草を携帯灰皿へ押し込みながら「いや」と掠れた声で返した。
「まだ断言できるほどの答えは出せていないよ」
「それは、目星がついてるってことじゃないのか」
「ある程度は絞れているが……」
「誰だ」
「そんなに急かさないでくれよ。成沢くん、この事件での君は何だかおかしいぞ。感情的になりすぎている」
「別におかしくなんか」
「もしかして君は、本当に……」
榎尾の言葉は続かなかった。
ノックもなしに扉が開かれ、入ってきたのは七瀬警部と、私たちとは面識のない警視だった。低身長で横に大きい七瀬警部とは違い、警視の体躯は少々痩せすぎと思われるほどで、いかにも不健康そうだ。分厚い黒縁眼鏡の向こうにある瞳と薄い唇に表れた明らかな不満は、私たちに向けられているような気がした。その証拠に、彼は入ってきてすぐ私と探偵を交互に見遣ると、小さく舌打ちをする。
「お待たせしました。皆さんこちらに集まっていただけますか」
七瀬警部のダミ声で皆が中央に集まる。私と榎尾以外が座るとソファーは埋まってしまったため、仕方なく隅に控えた。
「衛藤の皆さんとは既にお会いしていますが、他の4名とは初めてですね。私は神奈川県警の揚野です。こちらの七瀬は今回から事件を担当させることになりました。そちらの……探偵さんとも面識があるようでしたのでね」
“探偵”と言う声に険が含まれている。揚野警視は完全に私たちを敵視しているようだ。当の榎尾は堂々とした態度を崩さない。衛藤から正式に依頼されているという事実があるためか余裕の表情だ。
私と榎尾、佐々木、鶴川はそれぞれ名前と此処にいる経緯を簡単に説明する。説明が終わるとやっと話は本筋に入った。
「それでは、由加里さん発見に至る経緯をお話いただきたいのですが」
警視がそう切り出すと、第一発見者である5人は目だけで無言のやりとりをした。するとおもむろに榎尾が手を上げる。
「僭越ながら僕が説明いたしましょう。よろしいかな、揚野警視」
探偵の介入を快く思っていない警視に対し、榎尾はわざと挑戦的に口角を上げ見下すような目で尋ねた。警視は一瞬嫌悪したように目を細めてから「どうぞ」とぞんざいに言い放つ。
「それでは、許可が下りましたのでお話します。僕は本日、朝から事件の調査のために外出していましてね。帰ってきたのは4時を10分過ぎた頃でした。食堂で助手の成沢くんとしばらく雑談していると、信敏さんが佐々木さんと鶴川さんを引き連れて帰ってきたのです。しかし成沢くんが言うには、佐々木さんは僕が戻るずっと前から屋敷にいるらしいではないですか。華織さんのこともあり不審に思いましてね、すぐさま由加里さんの部屋へ行きましたが、鍵がかかっている。外から呼んでも返事がない。これはいよいよ嫌な予感がする。僕は小説に出てくる探偵がよくやるように体当たりして扉を破ろうかしら、なんて思っていると、なんと偶然にも佐々木さんが由加里さんの部屋の鍵を持っていたのです。これで僕らは肩を痛めることなく難無く入室を果たしたわけですが、残念なことに由加里さんは既に生を失い、冷たくなっていました」
探偵の証言は事実を簡潔に述べたものではあるが、客観性に欠くのと口調が無駄に芝居がかっている。彼は大勢の前で推理を披露する時なんかもこんな口ぶりだが、私はそのうち警視が怒り出すのではないかと気が気ではなかった。
「成沢さんは、4時以前に佐々木さんが此処へ来るのを見たんですか?」
「いえ、それは……」
私は食堂で暁美とキクと話していた時のことを説明した。誰かが家を訪問したこと、キクが出ようとすると由加里が2階から駆け降りてきたこと、昼に由加里から佐々木がやってくる旨を聞いていたので、訪問者が佐々木であると勘違いしていたこと。あとからキクが、彼女もその訪問者を見ていないことを補足した。
「桜さんと楓さんは」
「見ていません。私たち2階のお部屋にいましたけど、由加里姉様が1階へ降りていったのと、誰かと2階へ上がってきたのは足音で分かりました」
「でも、しばらくしてからまた出ていく足音がしたわ」
「それは、1人でしたか?」
「ええ」
まただ。未だ判明しない謎の第三者。華織と由加里のそれが同一人物かは分からないが、私には同じに思えてならなかった。そしてその人物こそが、非道なる殺人鬼であると。
「ちなみに、その誰かさんがやってきた時間は分かりますか」
「2時50分くらいでした。玄関まで行ったときに時計を見たので」
キクの言に警視は納得したように数度頷く。由加里の死亡推定時刻と一致しているのだろうか。
「由加里さんの部屋から人が出ていったのが何時だったか、桜さんと楓さん、お分かりですか」
「3時30分くらいじゃなかったかしら」
「その時は暁美さんと成沢さん、吉野さんはまだ食堂に?」
私たち3人は首を縦に振って肯定の意を表す。ちょうど華織の写真を見た頃だろう。
「この家の食堂はちょうど階段の下に位置していますね。誰かが階段を降りてくるのに、お3方とも気がつかなかったんですか?」
「とても……それどころじゃなかったんです」
暁美が、苦しげに言葉を絞り出す。確かに、あまりのショックで訪問者がこの屋敷を去ったことには全く気がつかなかった。キクも同様らしく、俯いたまま何も言わない。
「それは一体どういうことですか」
警視の眉間にきつく皺が寄る。隣で榎尾が溜息をつく気配。どうやらこの探偵は写真のことを警察に隠し通すつもりだったようだ。先ほど写真について言及しなかったのは、忘れていたのではなく意図してのことだったのか、とようやく気づく。狡猾な男だ。
しかし暁美の一言で、その思惑は潰えてしまった。そもそも事前に示し合わせていなかったのだから、露見するのも時間の問題だっただろう。
「写真が、送られてきたんです」
「写真?」
「華織の……」
やっとそこまで言うと、能面のように無表情だった暁美の顔はみるみる崩れていく。うう、と微かに唸ると両手で顔を覆い肩を小刻みに震わせて、しゃくりあげるのを必死に堪えていた。
憐れな夫人に対して質問を重ねるのを躊躇っているのか、揚野警視は頻りに眼鏡の位置を気にした。クールを装っているくせに女性の涙には案外弱いらしい。
榎尾には悪いが、代わりに私が暁美の言葉を継ぐ。
「今朝、暁美さん宛てに差出人不明、住所未記入で送られてきたんですよ。殺された華織さんを映した写真が」
「なるほど。それで、その写真というのは?」
私は榎尾に写真を提示するよう目で訴えた。彼は一度私を睨みつけてから、観念したようにポケットから封筒を取り出し、テーブルに放る。警視は封筒の中身を確認もせずに「鑑識に」とだけ告げて七瀬警部に手渡した。警部は立ち上がって外で控えていた刑事に何事かを囁いてそれを託した。
「さて。それでは改めて今日1日の皆さんの行動を、順を追って説明していただきましょう。……ああ、榎尾くんと言ったか。君は結構だ」
いの一番に口を開こうとする榎尾を制すると、警視はまず信敏に説明を促した。
「今日は、午前中から都内のスタジオに篭っていた。ある歌手のジャケット撮影の依頼があってね。昼の1時に撮影を終えてから、別の仕事の打ち合わせのためにスタジオ近くの喫茶店へ移動した。そこで鶴川くんと合流したんだよ。彼もその仕事に携わっているから。打ち合わせが終わったのは3時30分くらいだった。そのあとは鶴川くんと一緒にうちへ向かったよ」
すっかり憔悴した信敏は、早口にそれだけ言ってしまうと、拒絶の意を示すかのように頭を重くうなだれた。
前の事件と違い、今回の信敏にはそれなりにアリバイがある。私の信敏犯人説が瞬時に崩れ去った。
警視は次いで鶴川を名指しする。彼の声はしゃがれている上にぼそぼそと口を小さく動かして喋るために聞き取りにくい。
「俺は……午後の打ち合わせまで自宅にいました。前の日に仕事で撮影した写真の修正とか、現像とか、してました。正午に家を出て……あとは先生の言った通りです」
七瀬警部が苛々した様子で右足を上下に揺すっている。彼はいかにも鶴川と合わなそうだと思った。彼自身もきっと苦手なタイプなのだろう。
「では、佐々木さんは」
彼は警視の声に、はっと顔を上げると、狼狽を隠そうともせずに震えた声で話し出す。
「僕は……今日は友人たちと会っていました。2年前まで芸能関係の専門学校に通っていて、彼らとはそのときからの付き合いなんです。今、皆で展示会を企画しているんですけど、展示する写真の選考を、ある友人の家でやっていました。友人宅を出たのは2時くらいでした」
「ご友人の家から此処までは遠いんですか?」
「いえ……電車で30分くらいです」
「ほう。そういえば貴方、此処へ到着したのは4時頃だったそうですね。来るまでの間は何をしていたんですか?」
警視の眼光が鋭くなる。警部もずい、と身を乗り出した。
警視らのそんな様子から、自らが疑われていると察した佐々木は悲壮な表情から一変、その整った顔に怒りを漲らせるとテーブルを力任せに叩いて立ち上がった。
「まさか……僕が、僕が犯人だとでも言うんですか?! 僕が由加里を殺したと?!」
暁美が小さく震えた。明らかな怯えの色で佐々木を見つめている。
「まあまあ、落ち着いて……」
「佐々木さん。貴方は何故、由加里さんの自室の鍵を持っていたんですか?」
警視が宥めるのを打ち消して、追い打ちをかけるように榎尾が問いただした。佐々木は警視から探偵へ矛先を変えると、必要以上の音量でがなり立てた。
「由加里から合鍵を貰っていたんですよ! 2人揃いのものが欲しいけど、指輪は恥ずかしいからって。鍵なら人目につかないから……でも僕じゃない! 僕はやってない!」
悲痛な叫びは虚しく部屋にこだまする。確かにそれだけで佐々木を犯人とすることはできない。しかし彼の証言を裏付ける人物も、もうこの世にはいないのだ。
「貴方が犯人だとは誰も言っていませんよ。ただ不明な点は1つずつ解消していかないと。真実に辿り着くためにはね。そこはご理解いただきたい。佐々木さんだけでなく、他の皆さんも」
榎尾はぐるりと室内を見渡したが、誰も彼と目を合わそうとはしなかった。ただ揚野警視だけが、険しい表情で榎尾を見つめている。
佐々木は小さく謝罪すると、力無くソファーに腰を落とした。
「榎尾くん、君は少し黙っていてくれるか」
ついに警視が不満をその口から吐き出す。ペースを乱されてやりにくいのだろう。私が警視の立場でも、きっと同じ反応をしたと思う。探偵と言えども、ただの一般民間人なのだから。
「これは失礼しました。ずっと気になっていたものですから」
「君らは、もうこれ以上事件に関わらないでくれ。こっちにはこっちのやり方がある。あんまり引っ掻き回されると捜査が進まない」
「お言葉ですがね、警視。僕の雇い主は貴方じゃなくて衛藤暁美さんだ。彼女が今すぐ帰れと言うのであれば僕も素直に退散しますがね」
警視は暁美に向き直る。暁美は先ほどよりも幾らか冷静さを取り戻していた。
「暁美さん。そもそも何故、探偵など雇ったんですか。私たちに任せてくださればいいものを」
ふと、顔を上げた暁美は、その赤く充血した瞳に、榎尾を通り越して私を映した。
彼女は私に何を訴えているのか。事件を暴くのは私ではなくて榎尾のほうだ。探偵の力量を計りかねているのかもしれない。榎尾が本当に事件を解決へ導けるのかと。
だとしたら、私は自信を持って探偵が退けられるのを阻止せねばなるまい。一見ふざけた男だが、大小関わらず数々の事件を解決したのを、私はこの目で見てきたのだから。
私は毅然たる態度で暁美へ頷いてみせる。榎尾に任せておいて間違いはない。私自身も、そう信じて疑わなかった。
榎尾のほうは暁美がどう言おうと構わないといった様子で、飄々とした態度のままだ。いや、もしくは自分が帰されるなどとは露聊かとも思っていないのかもしれない。その自信が一体どこからくるのか、一度本人に聞いてみたいものだ。
「榎尾さんへの依頼は……取り消しません。私はとにかく一刻も早く、犯人を捕まえて欲しいのです。そのためには尽くせる手を尽くしたい。だから……」
くだらないことで言い争うな、ということだろう。
皆神妙な面持ちをしている中で、榎尾は一人勝ち誇ったように腕を組み、にやりと笑った。
「そういうことですから、揚野警視。貴方は不本意かもしれませんが、此処は目的が同じ者同士、助け合おうじゃありませんか。そのためには情報を共有することが大切です。お互いに包み隠さずにね」
写真のことを隠そうとした張本人が言えることではないが、警察と手を取り合うのは賢明だ。
警視は苦虫を噛み潰したような顔でしばらく榎尾を睨んでいたが、諦めたように頷くと盛大に息を吐いた。
「まあ……君の活躍は七瀬くんを通して聞いているからな。いいだろう。ただし、くれぐれも我々の邪魔だけはしないでくれ」
「もちろんです。邪魔どころか、警察の力になることをお約束いたしましょう」
榎尾は右手を胸に当てて、仰々しく頭を下げた。またその仕種が警視を苛立たせたようだが、救世主などと宣わなかっただけマシだった。
「話を戻しましょう。桜さん、楓さん。それから暁美のお話がまだでしたね」
「私たち、2限までは大学で講義を受けていましたわ」
桜が警視の言葉に被せて答える。
「そのあとは真っ直ぐ帰宅して11時30分頃、家に着きました」
次は楓が。
彼女らはまるで示し合わせたように交互に語りだす。
「榎尾さんとお話したくて帰ってきたんだけれど、朝に家を出たっきりのようでしたから、私たち食堂で待っていたんです」
「でも榎尾さんの代わりに成沢さんが来ましたわ。0時くらいに」
「それからは3人でお喋りしていたんです。あとから由加里姉様も降りてきて、4人で昼食を取りました」
「食事が終わると成沢さんも由加里姉様もまたお部屋に戻って行ったので、私たちも自室に帰りましたの」
「それからはお父様たちが由加里姉様のお部屋に入るまで、自室を出ていません」
2人は待機中の無表情が嘘のように、ハキハキと簡潔に、彼女らにとっての事実を述べた。まるで教師に名指しされて回答を述べる生徒のような口ぶりだ。
しかし何かこの場にそぐわない態度だと思わずにはいられない。その原因はやはりこの落ち着きようからだろう。双子は姉2人の死を一体どう捉えているのか。
「部屋では何をしていましたか?」
疑っているふうではなく、形式上といった感じで警視が問う。アリバイはないが、双子のどちらかがあのような残忍な仕事をやってのけたとは、私にも考えられない。双子が共犯であってもだ。この若い娘たちに、殺人を犯しておきながら挙動不審にならず、ここまで冷静な演技が果して出来るものだろうか。
「私はお昼寝をしていました」と桜。
「私は音楽を流しながら読書をしていました」と楓。
「先ほど言っていた足音以外に、何か不審な音は聞きませんでしたか」
「いいえ」と見事にはもったところで、双子への聴取が終わる。
「では、最後に暁美さん。貴女は食堂で例の写真を見たあとは、何を?」
「あのあとは……ショックで目眩がして、起きているのが辛かったものですから……すぐに3階の部屋へ戻って横になっていました。榎尾さんが私を呼びに来られるまで」
これで第二の殺人における登場人物の証言は出揃った。屋敷内の人物の中でアリバイが確かでないのが3人。桜と楓と暁美。この中に非道なる殺人鬼が存在するのか、はたまた外部の人物による犯行なのか。私は後者であると、この時既に確信していた。
いや、この見解は、あるいは私の単なる願望だったのかもしれない。
一通りの尋問を終えてから、去り際の七瀬警部に榎尾は何か囁いて、1枚の紙切れを渡した。警視は2人のやり取りに気づかない。それを受け取った警部は素早く上着のポケットに押し込むと、何も言わず警視と共に去って行った。
「なんだ、あれは」
「此処の電話番号を教えたのさ。あとで捜査の結果を報告してもらうためにね。あのときはああ言ってたけれど、警視が素直に僕へ全ての情報を提供してくれるとは思えない」
「もしかして警部が突然捜査に加わったのは……」
「警察の協力を得て初めて、探偵の活躍は光るのさ」
実に爽やかに微笑んではいるが、また警部を脅しつけたことは想像に難くない。悪なのか、善なのか。たまにこの男のことが、よく分からなくなる。
警察が退散しても、すぐには誰も動こうとしなかった。
1度目の殺人で凶器が見つかっていないことからこうなることは予測できていたが、皆あまり深刻に事を把握していなかったのだろう。華織が殺害されてから1週間。その期間が衛藤の人々の心に隙を与えていた。
榎尾は再び窓に寄るとPeaceを1本くわえて火をつけた。特有のバニラの香りが鼻をつく。夕刻の風は先ほどより幾らか冷たくなっていた。
真子が早苗を連れ帰宅した頃には7時を過ぎていた。
「どうしたの」
食堂の光景に、真子が訝しがりながら誰にともなく尋ねる。
とりあえず食事をしようと皆で食堂に場所を変えたはいいが、尋問前と同じ沈黙が部屋には満ちていた。本来なら客人を交えて楽しく語らいながらの食卓になるはずだったのが、まるで言葉を発するのが罪とでも言うように、皆口をつぐんでいる。暁美は目の前の食事に手をつけようとすらしない。
私もただ機械的に食物を咀嚼する運動を続けた。榎尾と双子だけが、平気な顔で箸を進ませている。
「悲しいことに、また起こってしまったんですよ。殺人がね」
真子の疑問には榎尾が答えた。
彼女は驚愕の顔で絶句し「誰が……」と苦しげに呟いた。傍らの早苗が食堂を見渡して「由加里さんがいないわ」と母親に知らせた。
「華織の次は由加里が……何故……一体誰が……」
「まあ、かけたらどうです、お2人とも」
「榎尾さん、まだ犯人は分からないんですか」
席につきながら投げかけられる不満の声。2人も身内が殺されて真子も気が気じゃないようだ。自らを案じているというよりは、早苗のことを心配している様子だ。
当の早苗はあまり恐怖を感じているふうではないが。恐怖よりも犯人が見つからない苛立ちを、その目に湛えて榎尾を見ている。
「やっぱり現実の探偵さんってこんなものよね」
相変わらずのませた口ぶり。榎尾は聞こえないふりをした。 早苗が愛読するという綾瀬浩二の著書に出てくる探偵は、確か推理の早さが売りだった。私はデビュー作しか読んだことがないが、トリックも犯人も奇抜さに欠けるし内容に深みが足りないと感じた覚えがある。
「不確かな見当なら、ついていないこともないです。しかしまだ確固たる証拠を掴んでいないので、その人物を今すぐ糾弾するのは難しいですが」
「その人物というのは……」
リビングルームでの私と同じく回答を急かす真子を片手で制すると、榎尾は首を左右に振った。
「まだ……まだです。まだその段階ではない。僕に少し時間をくれませんか。明日のこの時間には、皆さんの納得のいく推理を披露いたしましょう。それまでなるべく1歩もこの屋敷から出ないように。いいですね」
「俺たちは」
尋問を終えてからずっと黙りこくっていた鶴川が口を開く。俺たち、には佐々木も含まれているのだろう。
「当然、鶴川さんと佐々木さんにも此処にいてもらいます。この屋敷にはまだ空き部屋がありますね? よろしい。ではそちらにお泊りいただいて。僕は今からちょっと外出しますけど、日付が変わるまでには戻ります。皆さんは自室にいてください。またいつ何が起こるか分かりませんから、しっかり施錠して。では」
いつの間にか食事を終えた榎尾は、勢いよく立ち上がり食堂をあとにする。扉が閉まるとまた静寂が舞い降りた。
気まずさを感じた私は残りの料理を一気に詰め込み、急いで榎尾のあとを追った。
「一体何処に行くつもりだ」
「君は此処に残ってくれ」
「いや、僕も行く」
玄関で靴紐を結んでいた榎尾は、手を止めてこちらを見上げた。一瞬批難するような眼差しを見せたが、ゆっくりと立ち上がり正面から私と対峙する。今度は哀願するような表情。どこか白々しいのは、その表情が探偵お得意の演技だからだ。
「頼むよ、成沢くん。僕が留守の間、彼らを見張っていてほしいんだ」
だがそんなものに惑わされはしない。せめて彼が何を考えているのか、推測の一端でもいいから聞き出してやらないと気が済まなかった。
「見張るったって限度があるだろ。一人で全員の動きなんて把握しきれるものか」
「そうか……そうだな、では男性陣に特に気をつけていてくれ」
「どうして? 鶴川と佐々木と信敏の誰かが犯人なのか?」
「声が大きい」
執拗に食い下がる私を強く咎めると、榎尾は頻りに私の背後、容疑者たちが集まった食堂を気にしながら、声を落として続ける。
「君は気づいていないかもしれないが、由加里の体には精液が付着していた」
「なんだって?!」
「静かに。通報してから警察がやってくるまでの間、僕は由加里の部屋と死体をざっと調べたんだ。そうしたら彼女の太股辺りにそれを見つけた。警察が帰ったあと七瀬警部から僕に電話があったろう。確認したら当たりだったよ。そしてこのことは他の人間に知らせるな、と釘を刺された」
食堂に集まる前、リビングルームの電話が鳴ったのを思い出す。榎尾は1コールでそれに出て短くやりとりしていたが、やはりあれは七瀬警部からだったようだ。死亡推定時刻や指紋の有無などを教えていたのだろう。
この探偵は皆の前では証拠を掴んでいないと断言していたが、あれはフェイクだったのだ。「それじゃあ、もう犯人は分かったも同然じゃないか」
精液が検出されたのなら、血液型が判明するはずだ。
「そうでもないさ。由加里に付着した精液の血液型はA型だったが、鶴川、佐々木、信敏もA型なんだよ」
事実は私たちの味方ではなかった。日本人にはA型が多いのだから、この結果は仕方のないことかもしれないが。
榎尾は私が納得したと見ると、ぽんと肩に手を置いて満面の笑みを浮かべた。
「それじゃ頼んだよ、助手くん」
「待て待て、それで君は何処に行くんだい」
ドアノブに手をかけ出ていこうとする榎尾に同じ質問を投げる。危うくはぐらかされるところだった。
「今日由加里を訪ねてきた人物に会いに行くのさ」
振り向かず左手を上げながらそれだけ言うと、榎尾は外へ足を踏み出す。
外はすっかり暗くなり、夜の支配が始まっていた。
私は一抹の不安を拭えず、とっくに閉ざされた扉をしばらく見つめていた。