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悦楽の儀式  作者: 香住景
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3.身辺調査

 目を開くと見知らぬ天井が飛び込んできて、此処が衛藤家の一室であることを暫く認識できなかった。

 やっと昨日の記憶を呼び覚ますと、榎尾の姿を探した。しかし隣のベッドはもぬけの殻。1階の食堂にでもいるのだろうか。

 ふと時計を見ると11時54分を指している。なんということだ。もう昼じゃないか。探偵の助手という名目で此処に寝泊まりしているのに、これじゃ怠慢と思われてしまう。信敏の厳めしい顔が脳裏をよぎって一気に覚醒する。

 急いでベッドから跳ね起きて服を着替え階段を降りると、ちょうど玄関から屋敷へ入ってくるキクと会った。

「あら、おはようございます。よくお休みになれましたか?」

「あ……ええ……すみません、こんな時間まで。あの、榎尾は」

「探偵さんなら朝から外出されましたよ。華織さんの勤めていた幼稚園の場所を聞かれたので、多分そちらに」

 榎尾は昨日のやる気のなさから一転、突如積極的に例の華織と会っていた人物を調べる気になったらしい。彼の気分は万華鏡のようにコロコロ変わる。ついていくこっちは大変だ。しかし起こしてくれたって良かっただろうに。

 榎尾に置いて行かれたことに少し不機嫌になりながらも、階段下奥の扉から続く食堂へと足を運ぶ。後から入って来たキクが「すぐお昼の用意をしますね」と微笑みかけてキッチンへ消えた。

 食堂の中央には長いテーブルが鎮座しており、左右に各5つずつ椅子が並んでいる。奥の誕生日席には他のものとは違う作りの豪華な椅子が1つ。そこが信敏の席であることは簡単に予測できた。

「成沢さん、今起きてきたの?」

「榎尾さんに置いて行かれちゃった?」

 手前の席に向かい合って座る双子から声をかけられた。しかし昨日とは違う服装のため、桜と楓の区別がつかない。今日はどちらもTシャツとデニムのハーフパンツに黒のレギンスというラフな出で立ち。違うのは髪を1つに束ねているシュシュの色がピンクかベージュか……根拠のない直感でピンクが桜だろうと当たりをつける。

「君たち、大学は?」

「2限までは真面目に受けたけど、榎尾さんとお話したくて早く帰ってきたのよ」

「だって探偵さんとお話する機会なんて滅多にないでしょう? でも榎尾さん、まだ帰ってきてないみたい」

「幼稚園に行ったって聞いたけど……」

「そうなの。幼稚園までは此処からそう遠くないから、すぐ帰ってくると思っていたのに」

 もしかしたら何か手掛かりを見つけて移動しているのかもしれない。榎尾のあとを追うよりも、此処で待っていたほうが良さそうだ。

「隣いいかな、桜ちゃん」

「桜は私よ」

 どうやら私の読みは外れていたらしい。けれど双子はどちらも楽しそうに笑うだけで、間違えたことを特に気にしていないようだ。

「しかし2人ともよく似ているね。格好まで一緒だから見分けがつかない」

 おまけにどちらも暁美の美貌を受け継いでいる。

「仕方ないわ。大学の友達だってしょっちゅう間違えるんですもの」

「服も一緒なのはわざとなのよ。人に間違われるのが楽しくて」

「学部も同じだし、サークルも一緒なの。私たちだけ2人部屋で、趣味や食べ物の好みも大体同じ」

 世の双子がどうかは知らないが、こんなに同じ尽くしの双子もそうはいないんじゃないだろうか。

「でも同じ人を好きになったりしたら取り合いになるな」

「取り合ったりしないわ。3人で付き合えばいいの。どちらかを選んでどちらかが傷つくなんて不公平よ」

 楓のほうがさらりとすごいことを言う。桜も異議はないらしく数度頷く。2人に見初められた男はさぞ大変……に良い思いができることだろう。

「ねぇ、そんなことより成沢さんのお話を聞かせて」

「推理小説をお書きになるんですってね。早苗ちゃんから聞いたわ」

「作家さんってやっぱり儲かるの?」

「うちよりずっと大きなお家に住んでるんでしょうね」

 あまり話したくない方向に話題がいく。4つの大きな瞳に見つめられて、私は少しのけ反った。この双子も例に漏れず作家イコール金持ちというイメージを抱いているらしい。

 印税でがっぽり稼いでいるんだろう、なんて知人によく言われるが、全ての作家がそうとは限らない。本が売れて増版されればそれだけ印税も貰えるが、少数の初版すら捌ききれない私のような作家の収入など、たかが知れている。その辺のサラリーマンのほうがずっと稼いでいるはずだ。もちろん家は安いボロアパートである。

 それもこれも私が本を書いていることをあの探偵が暴露したせいだ。今となっては後の祭りだが。帰ってきたら文句の1つでも言ってやろう。

 私がどう説明しようかまごついている間に、キクが食事を持ってきた。素晴らしいタイミング。ほぼ同時に由加里もやってくる。

「あら、貴方いらっしゃったのね」と素っ気なく言うと私の正面、桜の隣に腰を下ろした。昨日のことがまだ尾を引いているのだろうか。榎尾不在の今、私に矛先が向くのは仕方のないことかもしれないが。

 衛藤由加里は暁美や双子とはまた違った美しさを持っている。目鼻立ちがはっきりとしており、一文字に結ばれた意志の強そうな唇や鋭く光る双眸などは、柔和な印象の母親より父親にそっくりだ。カメラを構える者とは皆こんなに頑固そうなのだろうか。自らのポリシーや世界観を貫くためには必要な性質なのかもしれない。

「ところで、成沢さん」

 食事に手をつけようとしているところへ突然名を呼ばれて、何か厭味を言われるのではと深読みしてしまい、私は静かに箸を置いた。顔を上げると由加里と目が合う。一瞬。私のほうがすぐに反らした。何となく彼女に対して苦手意識が生じている。

 由加里のほうは私の挙動不審を無視して続ける。

「今日、もうすぐ祐輔さんが此処へくるけれど、構わないわよね。昨夜、電話で来てもらうようにお願いしたの。犯人はまだ見つかっていないし、自分の身は自分で守らなくてはいつまた香織姉さんのようになるか分からないですから」

「あ、はい。大丈夫だと思います」

 曖昧な返事しかできなかった。此処を仕切るのは私ではなく榎尾の役目だ。昨日のうちに探偵に伝えてくれたら良かったのだが、彼女としては榎尾と顔を合わせづらいのだろう。当の本人は昨日由加里から言われたことなど、記憶から既に抹消している可能性が高いのだが。

 しかし万が一、佐々木祐輔が犯人だったら……。不安が胸をよぎる。安易に外部の人間を招くのは得策ではない気がした。

 だが私は、それを由加里に言う勇気を持ち合わせてはいなかった。そもそも根拠のない予感めいた考えなのだから、口にしたところで由加里は取り合わないだろう。何より今以上に機嫌を損ねて、徒に私たちへ対する不信感を煽ることは避けたい。 私の逡巡をよそに、双子や由加里は他愛もない会話をしながら食事を進める。私は榎尾が早く戻ってこないかとそればかり考えて、あまり物が喉を通らなかった。



 食事を済ませると、私は双子の質問攻めから逃げるように食堂を出た。一旦部屋へ戻ってみるが、特にやることもない。持ってきていた文庫本を開いても内容が全く頭に入ってこないので、読書を諦めて事件について考えてみることにした。

 もし犯人が衛藤家以外の人間だとしたら、これは榎尾が戻ってから調査の結果を聞かなければ全く予測がつかない。今の段階では、由加里の恋人で信敏のアシスタントである佐々木祐輔が衛藤と最も親しいが、だからと言って彼を犯人だとする仮説を立てる材料すら整っていない。

 なので今は、内部の人物による犯行が可能だったかを検討してみよう。

 それぞれの証言を呼び起こし、整理する。やはり何度思い返しても確固たるアリバイを持った者は1人もいない。

 まず、信敏の証言。彼は15日の夜は書斎から殆ど出ることなく朝を迎えている。昨日皆の証言が出揃ったあと、それらの裏付けを求めてキクに話を聞いたが、信敏は夕食を取ったあとすぐに食堂を出て階段を上がって行ったらしい。しかし彼が書斎へ入るのを見た者は誰もいない。そして9時に就寝。

 続いて暁美だが、彼女もまた信敏と同様アリバイはない。キクによると信敏が食堂を出て暫くしてから暁美も退席し、階段を上がって行った。8時20分に華織が部屋を訪れるが、食堂を辞したあとの暁美を見た者は華織以外にいないということになる。就寝時間ははっきりしていない。本を読んでいていつの間にか眠っていたそうだ。

 そして由加里。彼女は夜10時30分まで佐々木祐輔と会っていた。車で自宅へ送られたあとは華織が発見されるまで部屋から出ていない。15日の夜は由加里が唯一身内と顔を合わせていないということになる。

 桜と楓は9時に帰宅。2人は玄関でキクに出迎えられている。その後、桜は殆ど部屋から出ていないが、深夜に楓が1階のトイレへ向かう途中、2階でシャッターの音を聞いている。仮にこれは犯人が華織の部屋で何かを撮影……あまり考えたくないことだが、死体を撮影していたとしたら、カメラを所持している人物が怪しいと言える。この家でカメラを持っているのは信敏と由加里だ。この2人の犯行と見せ掛けるための偽装、は有り得ないだろう。シャッター音なんて眠りを妨げるほどの音ではないし、夜中に誰かが2階を通過するかどうかなんて予め予測できることではないのだから。

 それから次女の松岡真子は、9時半に仕事から戻りそのまま3階の自室へ入ると、疲れからすぐに眠ったと証言していた。朝5時まで一度も目を覚まさなかったし、不審な物音も聞かなかったという。

 真子の一人娘である早苗は……いや、彼女には人を殺すことは無理だろう。推理時は確かにあらゆる可能性を考慮しなければならないが、あの少女に大人の女性を、それも刃物で殺害する力はないだろう。おまけに華織はピアノの上に横たわっていたのだ。何とか引きずりながら成し遂げたとしても、ピアノにべったりと血液が付着したはず。……待てよ。ピアノには不自然にも血痕が残っていなかったとキクが証言していた。まさか痕跡を消すために拭き取った?

 だが、ではどう殺したのだ。華織が帰宅するのを待って、部屋で殺害した? 睡眠薬の入った飲み物を与えて眠っている隙に床で腹部をめった刺し。出血多量で息絶えた華織を、椅子を台にして引きずりながらピアノの上へ運ぶ。可能かもしれない。しかし頭で考えるほど簡単に出来ることではないし、それなら他の人物、特に信敏のほうがもっと上手く成し得るではないか。引きずって血を拭き取っても警察が調べれば椅子やピアノの側面からルミノール反応が出るはずで、あまり意味はない。それに何も早苗を無理して犯人に仕立て上げることはない。意外性があって小説のネタには使えそうだが。 内部の人間を疑えば、信敏犯人説がより強固なものになってくる。外で殺すのは無理だとしても、帰宅した華織を今考えたような方法で殺害するのは可能だ。眠っている華織をピアノに上げてからめった刺しにすれば、ピアノ以外に血が付着することはないため、拭き取る手間が最小限に抑えられる。ああ、それならビニールでピアノを覆いその上で殺せば、ピアノを汚すこともないし後処理が楽じゃないか。なかなか上手い推理だ。これなら榎尾もまともに取り合ってくれるだろう。

 もし私の推理が当たっていたら、探偵はどんな顔をするだろう。これを機に探偵に転職するのもいいかもしれない。物書きのほうは、売れない、やる気が出ないの悪循環で今後成功する見込みもないし(そもそも売れないのは才能がないからなのだが、それを言うと今までの自分を否定してしまう気がするので敢えて言わないが)。

 生面を開いた気になりニヤついていると、ふと窓の外に目が行った。私たちが宛がわれた3階のこの部屋からは裏庭が見下ろせる。手入れの行き届いた庭は芝が短く刈られており、ライラック、庭桜、金雀枝、シラユキケシなどが花を咲かせていた。そこに、誰かがしゃがみ込んでいる。後ろ姿ではあったが、それが誰かを察すると、私は部屋を出て階段を降りていた。



 近づいても、彼女は一向に私に気づく気配がない。何をするでもなく、ただぼんやり地を見つめている。考え事だろうか。

 そういえば昨日客間で話をしたときも、彼女はこんな様子だった。その憂い顔に思わず良からぬ妄想を働かせてしまったが……。

「暁美さん」

 ゆっくりと、彼女は緩慢な所作で私の声に反応した。黒々とした深い闇を思わせる瞳に私を映す。日の下にいるからか、肌の白さがより際立って見える。もしかして具合が悪いのだろうか。慌てて「大丈夫ですか」と言い足すと、暁美は微笑んで頷いた。手を差し延べると華奢な左手が掌に乗る。ほっそりとした薬指に嵌まった指輪は今にも外れそうに、不安定に揺れた。さほど力を入れずに、彼女は静かに立ち上がる。

「少し、ぼんやりしていました」

 掠れた声。事務所を訪れた時とは違って今日は化粧気がないが、それでもやはり彼女は美しかった。肌の質と目元には隠せない老いが滲み出てはいるが、そんなものは全く気にならないほどに。そして醸し出す妖艶な雰囲気も。もう少し歳が近ければ、彼女が独身だったなら、私は沸き上がる衝動を抑え切れなかったろう。

 彼女の憂いの原因はやはり華織のことだろうか。

 この家の人々は、身内が殺されているというのにあまり悲しんでいる様子が見受けられなかった。殺人犯に対する恐怖や怒りはあらわにしてもだ。私は祖父を亡くした時など数ヶ月はふさぎ込んでいたというのに。

 まだ衛藤家との関わりが薄い私には彼らの内情など知る由もないが、何かが欠落している印象を直感的に感じずにはいられなかった。

 そんな中、暁美だけは世間一般的な感性を持ち合わせた、ただ唯一の人物だろう。この家の人々と接してみて足りないと感じたものを、彼女だけは持ち合わせているような気がした。

「3階から貴女を見掛けて……具合が悪いのかと思って」

 彼女の元へ来たはいいが、特に話のネタを用意していなかった私は咄嗟にそう取り繕う。ただ衝動的に暁美に会いたくなっただけだが、人妻にそれを言っては間違いなく誤解される。滑らかに口が回らず嫌な汗が出た。

「暁美さんは、信敏さんとどういった経緯で出会ったんですか」

 会話を終わらせまいと頭をフル回転させてやっと出てきた話題は、あまりに突飛で俗的で陳腐なものだった。すぐに自己嫌悪に陥る。何故もっと気の利いた言葉が出て来ないのか。確かに気になっていた話題ではあるが、それを尋ねるにしても、幾重にもクッションを重ねて探りつつその方面に話を持っていき、さりげなく、自然に聞き出すべきなのに。女性を前にするといつもこうだ。

 話の飛躍に暁美は驚いたようだったが案外さらりと答えてくれた。

「私は昔、ファッションモデルをやっていたんですけれど、何処で私を知ったのか、主人のほうから君を撮らせてほしいって依頼がありまして。それが知り合ったきっかけです。当時あの人は25歳でしたけど、その頃から既に業界では名のある写真家でした。私の方は全然売れていなかったものですから、そんな方から突然依頼されて、正直信じられませんでしたね。どうして私なんかをって」

「暁美さんの写真集かなんかの依頼だったんですか?」

「まさか。私じゃなくて主人の写真集です。デビューしてからちょうど5周年だったので、その記念の。30人のモデルや俳優を被写体にして“素顔”をテーマにしたものでした。中には有名な女優さんもいたんですよ」

「それからどういった経緯でお付き合いされたんですか?」

「撮影が終わって本が出版された頃に、主人から2人で会いたいと誘われたんです。それから何度か2人きりで会っているうちに気づいたらお付き合いしていて、気づいたら結婚していました。私は同時にモデルも辞めたんです。付き合い始めた頃から主人に辞めるように言われていましたし、何より赤ちゃんができてしまいましたから」

 今の信敏からは想像も出来ないが、彼は相当暁美に入れ込んでいたらしい。

「随分情熱的だったんですね、信敏さんは」

「そう……ですね」

 言葉の途中に不自然な間があった。暁美の表情が一瞬陰るのを、私は見逃さなかった。

 一陣の風。植物の芳香が鼻をつく。ブラウンの髪が春の陽射しを受けて煌めきながら横に靡いた。

 やがて風が止み髪をかき上げた暁美には、今しがた見せた哀愁の陰りはもうなかった。

「中に、入りませんか。コーヒーでも飲みましょう」

 穏やかにそう言われて、私は無言で頷いた。

 暁美は信敏を愛しているのだろうか。今も、昔も。私には彼女が自由を奪われ、衛藤という檻に幽閉されているように思えてならなかった。



 食堂ではキクがキッチンの清掃をしているところだった。他の3人は自室へ戻ったのだろう。

「掛けてお待ちください。コーヒーを煎れてきますから」

 そう言って暁美がキッチンへ向かう。するとおおよその一般家庭ではあまり耳にしない、鐘を鳴らしたような品のあるチャイムの音が響いた。榎尾が戻ってきたのかもしれない。玄関へ足を向けようとすると、キッチンからキクが小走りに出てきたので「榎尾だったら此処へ呼んでください」と呼び掛けて、私は昼食時と同じ席に腰掛けた。

 キクが食堂から出ると、間髪入れずに激しく階段を踏み鳴らす音がした。それはどんどん近づいてきて、止んだと思ったらキクが何やら微笑みながら戻ってきた。

「誰だったんですか?」

「出ようとしたら由加里さんが大急ぎで降りてきましてね。祐輔さんだから私が出るわ、とおっしゃったのでお邪魔にならないように引き返してきましたの」

 そういえば恋人の佐々木祐輔を呼んだと言っていた。頭上からは不揃いな足音が4つ聞こえてくる。

「佐々木さんは、どんな人なんですか?」

「優しい方ですよ。由加里さんより2つ下で24歳なんですけどね、とても謙虚で。由加里さんは少し……気の強い方ですから、お似合いのカップルだと思います」

「この家にはよく来られるんですか?」

「そうですね。月に4、5回はいらっしゃるかしら。由加里さんに会いに来るのもありますけれど、旦那様とお仕事のお話をしに来たりもしますので」

「まだお付き合いを始めたばかりで、初々しくて見ていて微笑ましい2人なんですよ」

 3つのコーヒーカップを乗せた銀盆を持つ暁美が付け加えた。湯気の立つそれを目の前に置かれると、香ばしい香りにほっと息をつく。

「吉野さんもいかがですか? お掃除は休憩にして」

「ま、ありがとうございます」

「あの、付き合い始めたのはいつからなんですか?」

「確か……1ヶ月前くらいだったでしょうか」

 暁美の言葉にキクがコーヒーを啜りながら頷く。それから控えめな笑い声を上げると左手を口元に添えた。

「佐々木さん、此処で由加里さんに告白したんですけどね、すごく緊張してらして」

「あの時は佐々木さんと家族皆で食事をしていたんです。それまでは何でもない話をしていたんですけど佐々木さん、急に立ち上がって、由加里さんとお付き合いさせてください! って、主人に向かって言うんですよ。皆ぽかんとした顔で佐々木さんを見てましたわ。でも主人はあの仏頂面を全く変えないで、そういうことは本人に聞けって」

 衛藤家の面々が揃っている時に告白とは、とても勇気ある行動だ。もし失敗したら彼らの笑いのネタにされるのは明白なのに、よくやってのけたものだ。佐々木には由加里に告白を受けてもらえるという確信があったのかもしれない。でなければどこかが相当抜けているのか。

 暁美とキクは暫く笑い合っていたが、不意にキクが短く声を上げてそれを断ち切ると、エプロンのポケットから一通の封筒を差し出した。

「すっかり忘れていました。午前中に郵便受けを見てみたら、奥様宛てに手紙がきていましたよ」

「私に? 珍しいわ。どなたからかしら」

 白い封筒の表には“衛藤暁美様”と印刷した文字で記されている。住所はない。裏も空白だ。暁美が封を丁寧に切る。何か……嫌な予感がする。

 封を切り、中に収まっていたものを目にした暁美は、美しい顔をこれ以上ないくらいに歪ませて悲鳴を上げると、椅子から立ち上がり数歩後ずさった。体を小刻みに震わせて、両手で口を覆ったまま硬直してしまう。

 暁美の手からそれはこぼれ、はらりと宙を舞い、床に落ちる。それは1枚の写真だった。恐る恐る手に取ってそこに写ったものを見る。しかしあまりにも衝撃的なその画は、逆に私の視線を釘付けにした。

 写っていたのはグランドピアノに仰向けに横たわった女性。アングルは真上からで、赤黒く染まった腹部が生々しく光に照らされている。引きの画であまり鮮明ではないが、切り裂かれた腹からは内臓が出ているようだ。女性の表情は苦痛に歪み、開かれた唇からは舌がはみ出している。

「華織……」

 上擦った声で暁美が娘を呼ぶ。目一杯に溜めた涙が一雫、頬を伝った。



「一体何処で油を売っていたんだ」

 私は榎尾が戻ってくるなり、食いかからんばかりの勢いで問い詰めた。事情を知らない探偵は両手を肩のあたりまで挙げて首を竦めてみせてから、私を振り切るかのように早足で食堂へ直行した。

「いつまでも寝ている君と違って僕は忙しいんだ。華織さんの勤めていた幼稚園へ行っていたのさ。彼女の交友関係を探るためにね」

「それは聞いた。幼稚園は此処からそう遠くないらしいじゃないか」

「幼稚園に行ったあと、そこから華織さんと親しかった友人を訪ね歩いていたのさ。保育士の1人が彼女と同じ大学に通っていたらしくてね。それから途中、七瀬警部に電話して事件について聞いてみたけど、やはりこれは警部の担当じゃないみたいだ。何も情報は得られなかった。ただ警察は犯人の目星すらついていないということは分かったけれど」

「それで、華織さんと会っていた人物は分かったのか?」

 せき立てるように尋ねると、榎尾は乱暴に椅子へ腰掛け、あからさまに不機嫌な様子で私を見上げた。

「何をそんなにカッカしているんだい、君は。置いて行かれたのがそんなに不満だったか? それなら謝るから、まずはこの哀れな労働者を落ち着かせてからにしてくれよ。吉野さん、水を一杯いただけますか」

「言えないのか? その名誉ある労働が無駄に終わったからか?」

 いつまでも言い渋る榎尾の神経をわざと逆なでしてやる。すると彼は勢いよく立ち上がり、私を正面から見下ろした。反動で荒々しい音を立てて椅子が倒れる。体躯は華奢だが、その長身で見下され鋭く吊った目で睨まれると少々の迫力を感じる。だが私も負けじと睨みを利かせた。

 ほんの数秒の沈黙。何を言われても弾き返してやると思っていたが、榎尾は意外にもすんなり引き下がった。声を荒げることはしないが、1つ舌打ちを残して倒れた椅子を起こすと、どっかりと腰掛けた。

「成沢くん。僕と君が此処で仲違いするのは良くない。何を苛立っているのか知らないが、穏やかに対話をしようじゃないか」

「お前がさっさと言わないからだろう」

「分かった。では正直に言おう。僕は朝からあちこち歩き回って聞き込みをしたが、納得のいく成果は得られなかった。君の言う通り、徒労に終わったのさ。僕から言うことはこれ以上ないよ。それで、次は君の怒りの理由を聞こうか」

 ネクタイを緩めながらこちらを見上げる榎尾に一瞥をくれてから、私も隣に腰掛けるとあの写真を封筒ごと彼に渡す。榎尾は中の写真を見ると、息を飲み眉間にきつく皺を寄せて険しい表情になる。

「なんだ、これは」

「華織さんだよ。朝、暁美さん宛てに投函されていたそれを吉野さんが持っていて、君が戻る少し前に此処で彼女が開封した」

「宛先も差出人も書いていない……なら犯人が直接持ってきたのか。恐怖を煽るため? 警告? 生殺与奪の権を誇示しているのか? くだらない!」

 下顎を頻りに上下させて親指を噛みながら榎尾は吠える。聞き込みの成果がなかったことと相まって相当ストレスが溜まっているらしい。

「本当に何の手掛かりもなかったのか?」

「残念ながら、何も。恋人がいたことは友人たちにも仄めかしてたようだったけれど、それが誰なのか、どういった人なのかは全く漏らしていない。華織さんは相当口が堅かったらしいな。多くの女性は恋愛話となると饒舌になるものだが……他人に知られてはまずい相手だったのかもしれない。例えば不倫関係にあったとか」

 ここでキクがおずおずやってきて、水を注いだグラスをテーブルへと置く。私たちが言い争いを始めてしまったためにタイミングを見計らっていたのだろう。変に気を遣わせてしまった。「すみません」と声をかけると苦笑いを返してそそくさとキッチンへ引っ込んでしまう。先に我を忘れて榎尾をけしかけたのは私のほうだったので、気が重かった。

 榎尾はやっと運ばれてきた水を一気に飲み干すとキクの姿を目だけで追った。

「それで、暁美さんは」

「部屋に篭っているよ。相当ショックだったみたいだから」

「無理もない。ところで今屋敷には暁美さんと吉野さん以外にも誰かいるかい」

「双子と由加里さんが。ああ、それと、佐々木さんが来ている。由加里さんの恋人の」

「へぇ。彼女の用心棒でもしに来たのかな」

「そうらしい。由加里さんが昨夜、佐々木さんへ電話で此処に来るよう頼んだみたいだから」

 榎尾はふうん、と気のない返事をして、グラスの縁をなぞる。だいぶ落ち着いた彼は軽く伸びをすると、瞼を擦りつつ立ち上がった。

「夕食まで時間があるから、華織さんの部屋を見てくるよ。殺人犯の意図がどうであれ、当時の現場を見ていない僕らにとって、この写真は有益な情報の1つだしね」

 榎尾は写真を封筒と一緒にポケットへ突っ込み食堂を後にする。腕時計に目を落とすと4時12分を指していた。榎尾について行っても推理の邪魔になりそうなので、部屋に戻ろうと私も彼へ続く。

 食堂を出て螺旋階段を上がっていると、背後で扉の開く音がした。振り返ると信敏が、その大きな体を揺すりながら屋敷の中へ入ってくる。それからもう2人、見知らぬ男が信敏に中へ入るよう促されている。

 私が玄関の3人に注意を向けていると、先を歩いていた榎尾もこちらへ引き返してきた。私を通り過ぎてそのまま玄関先へ向かうと、両腕を広げて彼らを出迎える。まるで自らの家に客人を招くかのように。

「これはこれは、今お戻りですか、信敏さん。おや、そちらのお方々は?」

「ああ、探偵さん、紹介しよう。こっちは私の元教え子で写真家の鶴川康二くんだ」

 まず最初に紹介された人物は、ボサボサに乱れた髪を掻きながら、猫背をやや曲げて無愛想に会釈した。長く延びた前髪の奥に潜む灰色をした目はずっと下を向いており、私たちと視線が交わることはない。歳は……榎尾や私と同じくらいかもしれないが、延びるに任せた髪が顔を隠しているため、判別し難い。彼は荒れた唇からしゃがれ声で「鶴川です」とだけ言うと、それ以上は何も言うまいと、全てを拒絶するかのように俯いてしまった。

 すかさず榎尾が補足説明を求める。

「教え子というのは?」

「私は専門学校で講師もしておってな。鶴川くんに教えていたのは8年も前だが、在学中からカメラの腕はなかなかだった。卒業してからもこうして交流している教え子は鶴川くんくらいだ」

 人との関わり合いの一切を受け付けないような空気を纏ってはいるが、信敏とは案外長い付き合いのようだ。衛藤の人々以上に一癖もニ癖もある人物だという印象。

「それで、こっちは助手の佐々木だ。帰ってくると、ちょうどこいつがうちの前に車を止めたとこだったよ」

 鶴川の隣に立つ青年は「佐々木祐輔です」と名乗ると、人当たりの良い笑顔を浮かべてから一礼した。こちらは鶴川とは対称的に清潔感溢れる好青年といった感じだ。……いや、そんなことより。

「これはどういうことだ」

 探偵も気がついたらしく、顎に手をやって佐々木を舐めるように眺めたあと、不審な目をこちらに向けた。

「君は、佐々木さんはこの家に既にいると、さっき言っていなかったかい」

「ああ……榎尾が戻るずっと前に訪ねてきて。佐々木さんだと言って由加里さんが2階から駆け降りてきたらしいから、僕はてっきり……」

「じゃあ、君はその訪問者を見ていないのか」

 背筋を冷たいものが走った。端で聞いていた3人も不穏な空気を読み取って、表情が険しくなる。佐々木の顔からは笑顔がすっかり消えて困惑の色を濃くしていた。

「一体何のことですか?」

 佐々木が言い終わらぬうちに、榎尾は駆け出した。私も次いで後を追う。予感は既に確信へと変わっていた。

 由加里の部屋の前へ来た榎尾はすぐに扉を開けようとノブへ手をかけるが、途中でガチャ、と音を立てて阻まれる。

「鍵が……」

「由加里さん! 榎尾です! 此処を開けてください!」

 榎尾は執拗に扉を叩くが、中からは何の返事も返ってこない。不気味なほど静かだ。脳裏を華織の無惨な姿がよぎる。そして暁美の涙が。

「これで開けてください!」

 横から佐々木が腕を差し出す。榎尾はそこに握られた鍵を引ったくると、錠を解いて扉を開け放った。なだれ込むようにして5人が部屋へ入ると、その瞬間、不確定だった様々な可能性は収束してしまった。最悪の方向へと。

 一拍おいてから、悲鳴とも笑い声とも取れる不可解な叫びが、部屋に響き渡る。

 榎尾が私に向かって何事かを言っているが、脳は言葉の認識を拒否している。目の前の凄惨な光景に全ての意識が捕われ、指の先すら動かせない。

 もう2度と生の活動を許されない体は、胸の下から下腹部にかけて赤に染まっていた。切り刻まれた部分からは大量の写真が、まるでそこから湧き出ているかのように重なり合って床へこぼれ落ちている。

 男が女の名を呼びながら奇怪な足取りで近づき、その場にうずくまる。私はまるでリアルに感じられず、ただぼんやりと現実逃避を始める。


 かくして悲劇は繰り返される。

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