2.衛藤家の人々
舞台は屋敷と呼ぶのに相応しい大きな洋館だった。私の背より遥かに高い柵が外部から家屋を守るかのように、ぐるりと周りを囲っている。他にも金持ちが住んでいそうな上品な一軒家が多く立ち並んでいるが、その中でも衛藤家は広大さ、品性ともに群を抜いていた。門を潜ると玄関へと5メートルほどの石畳が続いている。左右に広がる手入れの行き届いた庭園を眺めながら、私と榎尾は暁美に続いた。
「お帰りなさいませ、奥様」
重厚そうな扉から玄関へ入ると、小柄な老女が私たちを迎えてくれた。柔らかな物腰でお辞儀をされ、客であるこちらもついつられて頭を下げる。
顔を上げたついでに、失礼にならないよう目だけで辺りを見回す。玄関だけでも1部屋作れそうな広さだ。高い天井にはシャンデリアが淡い光を放っている。正面奥には2階へ続く階段が緩いカーブを描きながら続いていた。床には緋色のカーペットが敷かれており、そのあまりの豪勢さに私は早くも圧倒された。
「榎尾さん、こちらは住み込みで雇っている家政婦の吉野キクさんです。吉野さん、こちらは……」
「どうも初めまして! 探偵の榎尾冬也と申します。あ、これ名刺。貴女が憐れなご遺体の第一発見者と伺っておりますが」
「え……ええ」
「では早速、当時の状況を詳しく説明してもらいましょう。さ、現場へ案内していただけますか」
榎尾は衛藤家に足を踏み入れるなり、初対面の挨拶もそこそこに、狼狽している老人を促して我が物顔で上がり込んでしまう。なんて厚顔無知な男だろう。
私はその様子を、暁美と一緒になって玄関先で呆然と見ていたが、やがて榎尾に名を呼ばれ、暁美に一礼してから小走りに彼の後を追った。
2階へ上がってすぐ右手の扉の前まで来ると、キクは一呼吸終えてからゆっくりと扉を開く。
明かりをつけてまず目に飛び込んで来たのはグランドピアノ。部屋のほぼ中央に鎮座しているそれは、黒々と鈍い光を反射していた。入って右の壁には小振りのデスク、本棚、ベッドが奥に向かって順に並んでいる。その木製の古めかしい本棚には児童書と楽譜が殆どを占めており、あとはハードカバーの小説や辞書が綺麗に収まっていた。当然ながら私の著書は見当たらない。
「華織さんは、このピアノの上に横たわっていました。16日の0時から1時の間に殺されたと……警察の方が漏らしているのを聞きました」
キクは震える手で、ピアノを指し示す。榎尾はそれに近寄ると蓋を開けたり、しゃがみ込んで裏を覗いたりしていたが「警察が入ったあとだから何も残っちゃいないか」と口をへの字に曲げてぼやいた。
「その殺された暁美さんの娘……華織さんですか。生きている彼女を最後に見たのはいつでした?」
「15日の……夜8時だったかしら。お仕事から帰って来られると、すぐまた外出されました」
「行き先は聞いてませんか?」
「ええ……。華織さんは最近夜に外出することが多かったのですが、行き先は一度も聞いたことがありません。旦那様は男のところへ行ってるんじゃないか、とおっしゃっていましたが」
「とすると、恋人がいたということでしょうか」
私が口を挟むとキクは当惑した様子で「さあ……私はそういったことは全く……」とだけ呟いた。
「それで、華織さんが部屋へ戻るところは見なかったのですか?」
「はい。15日は夜10時頃まで起きていましたが、見掛けませんでした。朝、食事の支度をする前に玄関周りのお掃除をしたのですが、華織さんの靴が足りないことに気がつきまして、きっと外出先から直接お仕事へ行かれるのだろうと思いました。最近はそういうことが、度々ありましたから」
「お仕事は何をなさっていたんですか」
「保育士を」
「ああ、なるほど、それで」
「何か合点がいくことがあったかい、ワトソンくん」
ニヤけ顔で榎尾が茶化す。少々気分を害した私は、黙ったまま本棚を指差した。
榎尾は横目で本棚を確認しただけで、そんなことは事件に関係ないとでも言いたげに、すぐまた吉野へ向き直る。
「……ですが朝9時頃に幼稚園からお電話がありまして、華織さんが出勤していないというのです。それで私、華織さんの部屋を覗いてみました。そうしたら、そこに華織さんが……」
話を聞いた後だと、ピアノ自体が何だか禍々しいものに見えてくる。腹を切り裂かれていたということだから、さぞ赤く染まったことだろう。血液と華織の無念を吸収したグランドピアノは、一体どんな音色を奏でるだろうか。
しかし私の妄想はキクの言葉で意図も簡単に砕かれた。
「……華織さんは……それはもう酷いお姿になっていましたが、お腹を切られているのに、綺麗だったんです。その、体もピアノも血に塗れていなくて」
「おや、それは不思議ですねえ。殺した後に拭き取ったのか……はたまた別の場所で殺害したのか……」
親指を噛んだまま、榎尾はピアノの前でじっと静止する。かと思うとさっさとベッドへ歩み寄り、整えられたそれをさっと捲った。
「事件後、シーツは取り替えました?」
くるりと振り向きキクに問うが、彼女は小刻みに首を左右に振る。
「この部屋は殆どあの日のままです。私は何も触っていません。一人じゃとても恐ろしくて入れませんし……」
「発見当時、室内で変わったところはありませんでしたか?」
「なかった……と思います。ごめんなさい、動転していて……細かいところまでは確認していません」
額に手を当てて俯くキクが痛ましい。これ以上尋問を続けると倒れてしまいそうだ。
榎尾に抗議の視線を送ると、わざとらしく首を竦めてみせてから優しくキクの肩に手を置いた。
「吉野さん、ご協力ありがとうございました。そろそろこの家の方々にお話を伺いたいのですが、皆さんご在宅でしょうか」
「あ……はい、皆さん階下の客間にいらっしゃいます。どうぞ、こちらへ」
1階へ降り右手扉の向こうに通されると、既に5人の人物が待機していた。部屋には4人掛けのソファーと1人掛けソファーがそれぞれ2つ、テーブルを囲んで向かい合わせに配置されている。暁美の夫と思われる男と若い女性3人がソファーに腰掛け、暁美は窓の側に立って裏庭を眺めていた。私達を案内するとキクは一礼してから静かに退席する。
「どちらが榎尾さん?」
「僕がそうです」
立ち上がった男の問い掛けに、榎尾は誇らしげに右手を胸に当て仰々しく頭を下げた。両脇からくすくすと控えめな笑い声。テーブルを挟んで向かい合って座っている2人の女性は、殆ど同じ仕種で笑っていた。仕種だけでなく顔も瓜二つだ。
「君がそうか。私は衛藤信敏。写真家だ。よろしく」
信敏は縦にも横にも大柄な人物で、そこに仁王のような仏頂面が加わり、必要以上の圧力を他人に与えていた。歳の割に豊富な毛髪は、もう殆どが白い。
私たちは交互に握手を交わすと信敏と女性の向かいに腰掛けた。暁美も信敏の隣に座する。
「三女の由加里。仕事は、とあるフォトグラファーの助手よ」
信敏の横からハスキーな声で由加里が名乗る。彼女は中性的な顔立ちをしていた。ワンレングス・ボブで黒い髪がミステリアスな雰囲気を際立たせている。紺のストレッチパンツ、衿元にレースをあしらったクリーム色のブラウス、黒のリボンを首に緩く結んだ格好からはボーイッシュな印象を受けた。
由加里の言葉が終わると、待っていましたと言わんばかりに両の女性が同時に立ち上がった。榎尾に向けられた彼女らの視線は、物珍しい玩具を見るように輝いている。
「私は桜」
「私が楓」
「末っ子で双子なの」
「よろしくね、探偵さん」
右と左……桜、楓の順で交互に語りかけてくる。どちらも赤茶のロングヘアーで、服装もカーディガンに赤いチェックのシャツ、白いスカートとほぼ同じで見分けがつかない。ただ、カーディガンの色だけが違う。モスグリーンが桜で、サーモンピンクが楓……私は2人の間で目を忙しなく移動させた。
「では改めまして、探偵の榎尾冬也と申します。衛藤家の皆さんにとっての救世主となれるよう、尽力致します」
「まあ!」
「救世主ですって」
「ねぇ、探偵さん。“えのおとうや”ってどういう字を書くの?」
榎尾はすかさず名刺を渡した。双子はその黒地に白文字の変わった名刺を受け取ると、また囁き合うように笑った。よく笑う双子だ。
一方、信敏と由加里は胡散臭そうに探偵を眺めている。彼らの反応は至って正常だ。こんなときにまでその馬鹿げた台詞を吐ける榎尾は、ある意味すごいと思う。
「榎尾さんは夏生まれかしら」
「いいえ、冬生まれよ、きっと。名前に入っているんだから間違いないわ」
双子は探偵の名前に2つの季節が入っていることを言っているのだろう。夏と冬、正反対の季節を持つ名は確かに珍しいかもしれない。
当の榎尾にとっては幾度となく言われてきたことらしく、特に気分を害するふうでもなく、寧ろ双子の反応を楽しんでいるようだ。暫く2人に議論させてから首を左右に振ると「実は9月生まれなんですよ、夏でも冬でもなくね」と種明かしをした。
「ああ、それと。こっちの冴えない優男は僕の助手です。彼は趣味で小説なんぞも書いているんですが、大して売れてもいないし面白くもなくてね、あっはっは! それではそろそろ本題に入りましょうか」
この探偵は私のことを取ってつけたように、尚且つぞんざいに紹介すると、有無を言わさず話題を変えてしまう。
自らの名誉のために主張しておこう。私の本業は物書きであり、決して似非救世主の助手などではないことを。
「榎尾さん、申し訳ないんだが、次女の真子と孫の早苗がまだ帰っていなくてね」
娘たちの自己紹介のときに、長女か次女がいることは察していたがその上、孫までいるとは。おまけに信敏以外は皆、女性らしい。
そんな中で暫く寝泊まりすると思うと、緊張で少しばかり身が固くなる。いや、変な気を起こすつもりはないが、何となく肩身の狭い思いがした。
「そうですか。まあ、そのお2人は帰ってこられ次第お話を聞くとして。……警察と同じ質問ばかりになることを、始めに断っておきます。面倒でしょうがなるべく正確なご説明をお願いします」
そう前置きすると、榎尾は一度咳ばらいをしてから続けた。
「15日の夜8時から16日の華織さん発見時まで、皆さん何をしていたかをお伺いしたいのですが」
これにはまず信敏が口を開いた。
「15日の夜はずっと書斎に篭っていたな。翌日早くに仕事が入っていたもんだから、支度を済ませて9時には眠ったよ。華織と最後に顔を合わせたのは15日の朝だった。それから16日の朝5時に起きて朝食を済ませた後、6時に家を出た」
「では信敏さんは、吉野さんが華織さんを見つけたときは外出中だったと?」
「そうなりますな」
「由加里さんは?」
「15日は夜10時30分頃に帰宅したわ。仕事自体は5時に終わっていたのだけれど、祐輔さんと会っていたの。……佐々木祐輔さんはお父さんのアシスタントよ。私、彼とお付き合いしてるんです。それで車で送ってもらって、疲れていたからすぐに寝ました。16日は仕事がお休みだったから、目覚ましもかけずにずっと寝ていたの。朝、キクさんの悲鳴で目が覚めたわ」
「では由加里さんも華織さんが外出、帰宅する姿を見ていないのですね」
「ええ」
由加里は細い足を組み替えながら答える。榎尾は顎を撫でてから、次いで双子を交互に見遣った。双子はお互い目配せをして、桜が代表して話し始めた。
「私たち、夜の9時近くに帰ってきたの。大学の講義のあとにお友達と遊んでいて。だから出かける華織姉様は見かけませんでした。眠ったのは11時くらい」
「でも私、夜中にお手洗いに行きたくて目が覚めたんですけれど、廊下で物音を聞いたわ」
桜の言に補足するように楓が言う。
榎尾はその瞬間、ここに来て初めて生き生きとした表情を見せた。大袈裟に手を打ち鳴らすと、勢いよく立ち上がって喜色満面の笑みを浮かべる。
楓も探偵の反応が嬉しかったらしく、大きな目をしばたかせながら促さずとも先を続けた。
「廊下に出て1階へ降りようとすると、微かにシャッター音が聞こえてきたんです。そのときは由加里姉様が何か撮影しているのかしらと思ったんですけれど、姉様は眠ってらしたみたいなので……あの音は華織姉様の部屋からしていたのかも。華織姉様と由加里姉様のお部屋は隣同士ですし、2階でカメラを持っているのは由加里姉様だけでしたから勘違いしていましたけど」
「由加里さんの証言を信じるなら、何者かが華織さんの部屋に侵入して撮影をしていた……ということかな」
「私は嘘なんてついていません」
険のある声だった。由加里が探偵をきつく睨んでいる。
「いや、これは失礼。職業柄、他人を簡単に信用できない性質なもので。ただ、今の段階ではまだ誰が犯人だとも言えませんし、誰が犯人でないとも言えません。それは由加里さんだけでなく皆さんに当て嵌まることですよ。探偵は常に自分以外の全ての人間を疑わなければならないのです」
榎尾は珍しく、真剣な態度で由加里を諭した。横から榎尾の表情を盗み見るが、何を考えているのか全く読み取れない。由加里は短く息を吐くと、ただ一言「悲しい人なのね」と言い放った。
妙な空気になってしまった。気まずい沈黙。榎尾は微動だにしないし由加里はそっぽを向いたまま。誰もかれもが言葉を発しようとしない。
「あ、の……そういえば、暁美さんからまだお話を聞いていませんでしたね」
いたたまれなくなった私は、つい暁美に話を振ってしまった。しかし宙に視線をさ迷わせた暁美は心ここにあらずだ。
「暁美さん……?」
もう一度呼びかけると、暁美はぴくりと体を揺らして、虚さの残る瞳で私を捕らえた。けれど不思議と見られている感じがしない。私の後ろずっと遠くを見ているような……私を通して一体誰を思っているのだろう。その憂いを湛えた彼女はとても……。
馬鹿な。何を考えている。
「すみません、私の番ですか」
絡んだ視線は暁美の方から解かれた。気まずさを解消するために口を開いたのに、先ほどとはまた違った気まずさに襲われる。顔が紅潮している気がして、足元を見つめたまま、ただ暁美の言葉だけに意識を向けた。
「15日の夜は食事を済ませてから、部屋で音楽を聞いたり読書をしたりしていました。8時20分頃、華織が部屋へやってきました。出かけてくるから、と言ってあの子はさっさと行ってしまいましたが、いつもより少し……めかし込んでいたようです」
「誰に会われるか言っていませんでしたか?」
「ええ、ただ出かけるとだけしか」
探偵はすっかり調子を戻していた。いや、彼のことだから由加里とのことなど本気で気にしていないだろう。黙っていたのも、きっと自分の考えに耽っていたに違いない。
由加里のほうはすっかり不機嫌な様子だったが。依頼者の1人と早くもこんな険悪ムードで大丈夫だろうか。
不意に由加里の隣、衛藤信敏に目が行く。彼はでっぷりとした体を深々とソファーに預けて、榎尾を眺めている。その鋭い目は、探偵が信頼に足る人間か見極めようとしているようだった。
「それで君、何か分かったかね」
厳しい声で信敏が榎尾に意見を求める。
登場人物の証言は2名を除いてほぼ出揃った。犯人を特定できるほどの決定的な情報はなかったが。あまり簡単な事件ではなさそうだ。
どこか一点を見つめて思案していた榎尾は、やがて膝を叩いて背筋を伸ばした。
「今のところ、華織さんが15日の夜に誰と会っていたかが気になりますね。彼女には恋人がいましたか?」
「いたみたいですよ」
桜が内緒話でもするかのように、右手を口元に添えて囁いた。
「でも誰かは知らないの。しつこく尋ねたことがあるけれど、華織姉様は何にも教えてくれなかったわ」
「他の皆さんは、何か聞いていませんでしたか?」
桜の言葉を否定する者も肯定する者もいなかった。楓も桜と同じ情報を得ているようで、楽しそうに微笑んでいる。若い女性はいつだってこうした恋愛話が好物らしい。
「分かりました。今のところ、僕からこれ以上質問することはありません。僕はこれから華織さんの部屋に篭ります。何か思い出したり、ご用のある方はいらしてください。行こう、成沢くん」
立ち上がって皆を見渡しそれだけ言うと、榎尾は足早に客間を後にする。置いて行かれぬよう「失礼します」とだけ言い残して、私も彼の後を追った。
「正直に言おう。警察の手垢がついた現場なんて、真剣に見る気がしないね」
華織の部屋に入るなり、榎尾は大声でそんなことを言う。華織のベッドに倒れるように横たわる榎尾を睨みながら、私は慌てて扉を閉めた。
「馬鹿、聞かれるだろ」
「別に構わないさ。全く、何だって事件から一週間も経ってから探偵を雇うんだろう。久々の殺人事件だからって浮かれて引き受けたのは間違いだったかなあ」
とんでもないことを言う奴だ。まさか中途半端に首を突っ込んでおいて、やっぱりやめた、なんて言い出すんじゃないだろうか。この気分屋なら大いに有り得る。
「暁美が言っていたじゃないか。警察は頼りないって」
「頼りないんならもっと早くに依頼すべきだね。一週間も犯人に猶予を与えていたら、僕ならさっさと雲隠れする」
「じゃあ君は、もう犯人はどこかへ身を隠したっていうのか?」
「犯人が衛藤家以外の人間ならね。普通に考えたら、華織が15日の夜に逢瀬を交わしていた人間が怪しい。それに楓が言っていた、シャッターの音も気になる。この家でカメラを持っているのは今のところ信敏と由加里だが、彼らに華織殺害は無理だ」
「信敏は」
私は先ほどの信敏の証言を思い出していた。彼はずっと一人で書斎にいて9時には床に就いたと言っていたが、これは充分なアリバイとは言えない。夜中にこっそりと華織を殺しに行くことは可能だ。それを言うと榎尾は呆れ顔で溜め息をついた。
「何を言うかと思えば。華織は8時に帰ってきてすぐ出ていったんだよ。それで殺されたのは0時から1時の間だ。君は信敏が華織を尾行して行って逢瀬を終えるのを待って、帰り道で殺害したとでも言うのか」
「有り得ない話ではない」
「どうだか。尾行の途中で華織に見つかる可能性があるのに、そんな危ない橋を渡るとは思えないな」
我ながらなかなかの推理だと思ったんだが、探偵のお気に召さなかったらしい。あしらうように手をぱたぱたと振ると、そのまま目を閉じてしまった。こんなところで寝るつもりだろうか。死体があったのはピアノの上だが、よくもまあ殺された被害者の部屋で寛げるものだ。
手持ち無沙汰になってしまった私は、本棚から一冊の絵本を取り出してベッドに横たわる榎尾の足元に腰かけた。絵本のタイトルは「いのちの おすそわけ」、著者は青葉りょう。病気の母の見舞いのために病院へ通う男の子が、母と同じ病室の病人たちに自分の寿命を分け与えるという話だ。
絵は淡い色の水彩絵の具を使った優しいタッチで、人への親切を描いた内容ではあるが、自分の命を削ってまで誰かのために犠牲になるというのは、なかなか残酷な気がする。この本を読み聞かせたらトラウマになる子どもは間違いなくいるだろう。
私は幼少の頃、親が読み聞かせてくれた「青い鳥」を思い出した。内容は思い出せないし未だに知らないままだが、何かとても恐ろしく感じた記憶がある。子どもの頃のトラウマは意外と大人になっても尾を引いているものだ。
「そういえば、僕は君が熟女好きだとは知らなかったな」
「何のことだ?」
寝ていると思っていた榎尾が薮から棒に訳の分からないことを言い出す。彼は何やら下卑た笑みを浮かべていた。私は特に熟女が好きというわけではないのだが。
「確かに彼女は綺麗だ、あの歳にしては若く見える。でも旦那の前であんなに見つめ合うのはどうかと思うな。いや、恋愛の形は人それぞれ。僕は不倫関係を否定はしないが、軽蔑はするね」
「もしかして暁美のことか」
彼は客間でのことを言っているのだと、そこでやっと気がついた。
心外だ、それはお前の勘違いだ、と言ってしまえばいいのに、なぜか言葉がすぐに出てこない。舌が縺れる。
何度か口をもごもごと動かしてから「いや……」と曖昧な返答しかできなかった。私は自分に絶望した。
暁美に対して恋愛感情を抱いているわけではない。これは確かだ。しかし彼女から、中年女性に似つかわしくないエロスを感じていることも否定できない。初めて彼女を目にしたときから、私はそれを本能的に感じとっている。
「君も隅に置けないね」
喉を鳴らして笑う失礼な男の足に、拳を入れてやる。するとタガが外れたかのように大笑いし始めた。怒りと恥辱で顔面に血が集まるのが分かった。こんなくだらないことで、無駄に観察力を発揮しないでもらいたいものだ。
いつまでも笑い転げている榎尾に冷たい視線を送っていると、私たちを諌めるかのように突然ドアを強くノックされた。
反射的に素早く立ち上がる。榎尾はまだひいひい言っているが、さすがにベッドから体を起こした。
「随分と楽しそうな声が聞こえてますけれど、もう犯人は分かったのかしら?」
私の手がノブにかかる直前、扉が勢い良く開いた。同時に飛び込む刺のある言葉。しかしその台詞を発するのには少々幼過ぎる声だ。正面には由加里の部屋の扉が見えている。声は下から聞こえてきた。
視線を落とすと、私を見上げている愛くるしい顔があった。精一杯不機嫌な表情をしているが、それでも愛くるしさを失わないその少女は、パフスリーブの純白のボレロ、裾が2段のフリルになっている淡いピンクのスカートという歳に見合った幼い姿をしていた。色素の薄く緩いくせっ毛は艶やかに輝いて、まばゆいほどの若さが感じられる。そのふっくらとした頬を更に膨らませ、大きく黒い瞳に射止められた私は、意図せず口角を緩ませていた。
「何がおかしいのかしら?」
「あ、いえ」
大人びた口調で咎められ、すぐに顔を引き締める。ベッドからつかつかとやってきた榎尾が、私の横に並んで少女を見下ろした。
「おやおや、こんな小さなお客様だとは思わなかった」
「どちらが探偵さん? それから、子ども扱いはやめてくださる?」
その物言いに探偵はわざとらしく驚いた顔を見せたが、やがてその吊り目を細めると、恭しく頭を下げた。
「これは、大変失礼いたしました。何せ女性との交流をあまり持たない人間なものでして。探偵は僕です。こっちの地味男は成沢亨輔。僕の助手でして、面白くない本を書くのだけが趣味なやつです」
またこの探偵は、こんな少女にまでそれを言うのか。しかし面白くないのは自書が売れていないことからも明らかなので、簡単に否定できないのが悔しい。
「あら、どんな小説をお書きになるの?」
「推理小説を……」
「ミステリをお書きになるのね! 私、読書が大好きで特にミステリは格別に好きなの。綾瀬浩二の松戸芳一シリーズなんかは全て読みましたのよ。成沢さんは本名で書いていらっしゃるのかしら。一度読んでみたいわ」
12歳くらいのその少女は、ミステリを書けば必ず賞を取ると言われている作家の名前を挙げた。そんな作家と比べたら、私の小説なんて足元に及ばないどころか比べられるのさえ恥ずかしいくらいの代物だ。評論家の先生方から悪評しかいただいたことがない。綾瀬浩二を読むこんな小さな女の子に出会ったのは初めてだ。
私はタイトルすら言えずに、ただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「それで、貴方が榎尾冬也さんね。つい先ほど学校から帰宅したんですけど、私とお母様だけ尋問がまだのようですからこうしてお伺いしたのよ」
「お気を回していただきありがとうございます。それでは……そうだな、まずは貴女のお名前からお聞きしてもよろしいでしょうか」
榎尾の言葉に「あっ」と小さく声を上げると、少女の顔はみるみる赤くなった。
「私としたことが、申し遅れてすみません。松岡早苗といいます」
ぺこりとお辞儀をすると、少女はちょっとはにかんでみせた。そしてこちらが質問をする前に、進んで口を開いた。
「私、15日は学校が終わったあと真っ直ぐ帰宅しました。確か……夕方の6時には家にいたかしら。お夕食をいただいて、7時頃に宿題をしなきゃと思ってお部屋へ戻りました。それから8時20分頃、お風呂に入ろうと1階へ降りましたら、玄関で華織さんを見かけましたわ。急いでいたみたいだったので、声はかけなかったけれど。お風呂のあとはすぐベッドに入って、翌日は朝7時に登校しました」
早苗の証言にも、特に真新しい情報は含まれていなかった。
「早苗さんは、華織さんがお付き合いしていた相手を聞いていませんでしたか?」
「特には。私、由加里さんと華織さんとはあまり……普段からお話しないので、よく分からないんです。あまりお役に立てなくてごめんなさいね」
「とんでもない! 早苗さんは犯人じゃないと分かっただけでも十分ですよ」
早苗も信敏らと同様に確固たるアリバイはないのだが、榎尾はそういうと探偵用の微笑を向けた。まあ、まずこんなに小さい子どもが殺人を犯すはずはないだろう。
最後に「早く犯人を見つけてくださいね」と付け加えると、早苗は静かに扉を閉めて去っていく。少女がいなくなるとさっきまでの笑顔は何処へやら、榎尾は盛大に溜め息をついた。
「全く、この家は変わった人間ばっかりだな! 俄然面倒くさくなったよ」
そう言いながら再び横になる榎尾とは反対に、私は衛藤家の個性ある住人たちを小説に登場させたら面白そうだ、などと悠長なことを考えていた。これがこの先に続く事件の序章に過ぎないとも知らず。
そのあとも仕事から帰った早苗の母(未亡人で松岡真子という。職業は歯科医師らしい)とも話をしたが、彼女の証言からも結局有力な情報は得られなかった。