1.依頼
榎尾冬也という男は普段、驚くほどずぼらで暗いやつだ。まず、よく生活できるなと思うほど事務所が汚い。書類や何かよく分からないオブジェのようなもの、ゴミ、その他諸々が床に散乱していて足の踏み場がない。
私がたまにやって来ては掃除をしてやるが、次の日には全て元通りだ。榎尾曰く、散らかっている状態がすでに片付いているんだから余計なことはするな、ということらしい。私には全く理解できない言い分だ。
私と榎尾は、ある事件をきっかけに知り合った。現場での彼は、それはそれは積極的に動き回るしよく喋る。警察などお構いなしに様々な事件を解決してきたのを、私は何度も見た。
しかし一歩自宅に戻ると、彼は途端に静かになる。私という話相手がいれば多少会話もするが、現場にいるときのような活発さ(……と言えば聞こえはいいが、奇行が目立つただの変人だ)はなりを潜めてしまう。
榎尾はあの黒いスーツ、黒いネクタイに毛髪をきっちりセットした状態でないと、気分が乗らないらしい。
彼の仕事に私がついて行くことも、しばしばある。一応、榎尾の助手という名目でついて行くが、本来の理由はただの好奇心だ。けれど殺人事件の捜査なんてものは滅多になく、彼の仕事を大きく占めるのは人探しとか浮気調査とか、興信所紛いのものが多い。今も彼は、書類が散乱したデスクに向かって、依頼されたある人物の調査を行っているところだ。
「最近大きな事件がないね」
デスクにへばり付いている彼に声をかける。私はここに来てから、もうニ時間も放置をくらっていた。
ジャージ姿の榎尾は、頭を掻きながら上目に私を見ると「うん」と唸るように返事をして、また書類に釘付けになる。
「事件はあるさ。毎日起きてる。大小に関わらずね」
「でも君んとこには依頼がさっぱりこない。最近解決した女児連続誘拐事件だって、もう四ヶ月も前だ」
「七瀬さんが仕事を持ってきてくれないからなぁ。直接被害者が依頼しにくることなんて、滅多にないし」 七瀬とは、神奈川県警の警部のことだ。榎尾は彼の弱みを握っていて、それを秘密にしておくことと引き換えに、事件の捜査に加わらせてもらっているらしい。
「また何か新しいネタで脅しをかけないといけないかな」
「怖いことを言うなよ。探偵がそんなことしていいのか?」
「仕事がないと探偵なんて名乗れない。その仕事を得るためなら、少々の無理も必要なのさ。相手は馬鹿な警察なんだから、罪悪感も感じない」
榎尾は万年筆で宙に円を描きながら、とんでもないことを言ってのける。その拍子にインクが書類の上へこぼれ落ちた。天罰だと笑ってやる。
私たちがそんなくだらないやり取りをしていると、木製の扉が控え目な音でノックされた。榎尾は即座に口を閉ざすと、私に顎で出るよう示した。
読みかけていた雑誌をソファーに置いて、扉へ駆け寄る。押し開き、その来訪者を目にした途端、私は魔法にでもかけられたかのように固くなり、その場から動けなくなった。
綺麗な女性だった。太陽の日を一度も浴びたことがないのでは、と思われるほど白い肌、きゅっと結ばれた唇はベージュの口紅で濡れていて、エロスを感じさせる。垂れ気味の目の周りを覆う黒々とした睫毛は、誇らしげに上向いていた。胸元で緩く波打っているブラウンの髪は艶やかに光っている。
40代と言われても無理のない風貌。しかし黒のタイトなワンピースの袖から覗く手の皺と、化粧で隠された目元の小皺が、それを頑なに拒んでいる。もしかしたら50をゆうに超えているかもしれない。若い頃はさぞ男に困らなかったことだろう。つい無粋なことを考えてしまう。
「あの……榎尾冬也さんですか?」
「どちら様?」
後ろから榎尾の低い声が聞こえた。彼女は私の肩越しに榎尾を見遣ると、軽く会釈をした。
「衛藤暁美と申します。榎尾さんに依頼したいことがありまして」
「どういったご依頼で?」
暁美は一瞬戸惑った表情を見せた。唇が微かに震えている。
「私の……娘を殺した犯人を、突き止めてほしいのです」
がしゃん、と大きな音が響いた。振り向くと榎尾が慌てた様子でクローゼットからスーツを取り出し、風呂場へ走っているところだった。卓上のインクの瓶が倒れている。さっきまで何やら認めていた書類が黒く染まっているのを見て、私は小さく息を吐いた。
とりあえず依頼主を事務所へ通すと、先ほどまで私が座っていた、辛うじてスペースのあるソファーを勧めた。
「少々お待ち頂けますか。すぐ榎尾が参りますので。何か飲み物を……」
「いえ! ……あの、どうぞお構いなく」
緊張しているのだろうか。必要以上に大きな声を出されて、私はまた固まってしまう。「はい」と情けなく応えると、彼女の向かいのソファーへ腰掛けた。
ほどなくして、着替えを終えた榎尾がやってくる。ネクタイが曲がっているのに気づいていないらしい。
「お待たせしました。では詳しくお話を伺いましょうか」
私の横に腰掛けた榎尾は、言いながら足を組んで胡散臭い笑みを浮かべた。彼女がくる前とは態度がまるで違うが、この変貌ぶりにももう慣れてしまった。
暁美は小さく頷くと、消え入りそうな声でゆっくりと話始めた。
「娘が殺されたのは、今から一週間前の、4月16日です。お腹を滅多刺しにされていて……。家政婦さんが発見したんです。自室で殺されているのを。彼女の悲鳴が聞こえて、私も駆けつけたんですが……娘は、変わり果てた姿になっていました」
その時の情景を思い出したのだろうか。暁美の白い肌が一層青白くなった。瞳が僅かに潤んでいる。
「警察には?」
「もちろん通報しました。でも、何と言いますか……警察は頼りないのです。一刻も早く犯人を捕まえていただかないと、不安で不安で……。家にいたってとても休まりません。またいつ誰が殺されるかも分からないのに。そこで、知人から榎尾さんを紹介されまして。数々の実績をお持ちの方と伺っております」
「買い被りすきですよ。まぁ引き受けた事件を全て解決していることは確かですが」
榎尾は軽く受け流したが、私には彼が嬉しげなのが手にとるように分かった。
榎尾を頼もしげに見つめていた暁美は、上体を前のめりにすると、縋るように懇願した。
「お願いです。どうかお受けしていただけないでしょうか。お礼は榎尾さんのご希望される金額を、ちゃんとお支払いいたします」
榎尾はこれにはあまり反応を示さなかった。いつだったか、金に対して執着が湧かないと言っていたことを思い出す。そんなことだから、いつまでも事務所で生活するような貧乏探偵のままなのだろう。
「金のことは事件が解決してからでもお話しましょう。僕はとにかく早く推理に取り掛かりたい! なんせ殺人事件を手掛けるのだって久々なんですから。ああ、だからといって推理力が衰えているなんてことはありませんので、ご安心を。さて、しかし謎を解くには貴女様だけの証言では不十分です。なので今はこれ以上詳しくお聞きしません。とにかくすぐにでもそちらのお宅へ伺って、僕が隅々まで引っ掻き回すことになりますが」
「構いません。家の者は皆、榎尾さんを歓迎しております。お部屋も用意しておりますので、是非お泊りいただいて、捜査を」
「それはそれは。こちらも通う手間が省けて何よりだ。ああ、成沢くん。君も時間があるなら来るかい?」
ちら、と暁美に視線を遣ると、まだ青さの抜けない顔で力無く微笑み頷かれた。私などついて行っても毎回何の足しにもならないのだが、幸い仕事も昨日目処が立ったばかりだ。私は榎尾と暁美の了解を得て、探偵の助手を務めることに決めた。