ビヰ玉Ⅱ
巽 貴仁、と男はそう言った。その顔はそこらにいる女たちより数倍も美しく、瞳は黒髪に似合わず薄い灰色をしていた。長く伸ばした髪は毛先だけが茶色く変色しており、羽織の肩にかかっている。
秋の冷たい風に羽織の裾が揺れた。彼の横を通り過ぎた風は、七緒の頬をかすめていく。宮内家の垣根が葉擦れの音を立てている。折角七緒がかき集めた木の葉が、再び門の前に散らばった。
「キミは……この家の子じゃないね」
透き通るような声で、男は七緒の黒い瞳を見つめた。琴の調べのような声。七緒は体に合わない大きな竹箒を握り締めながら頷いた。
男は七緒の様子を見つめ、少し考えるように右手で顎に触れた。その白い腕に七緒は見入ってしまう。夏の日差しで焼けた自分のそれとは大違いの、白い肌。しかし病弱な様子は微塵も感じられない。
じっと見上げている七緒の視線に気付くと、男はその白い腕で七緒の黒髪を撫でた。体に似合わない大きな手が、七緒の小さな頭をすっぽりと包み込む。
「そうか、キミは声が出ないのか。……うん、そうゆうことか」
男の言葉に、七緒は驚いたように顔を上げた。男はしゃがみこんで七緒に視線を合わせると、ふと微笑んだ。
「伝言を頼みたいけれど、ちょっと無理のようだから……、また夕方に来るよ。その頃には和泉も帰ってくるだろう?」
和泉、と聞いて七緒は我に返った。この家の主人・宮内和泉の名前を呼び捨てにするということは、もしかすると和泉の友人だろうか。
男の微笑みに、七緒は首を縦に振った。男は再び七緒の頭を撫でると、それじゃあ、と羽織の裾を翻して通りに向かって歩き出す。七緒は箒を抱えながら、紺色の羽織の背中を見つめていた。風の音が妙に響く、ある秋の昼間のことだった。
☆
芸者の娘・七緒がこの片田舎の豪商・宮内家に預けられてから、早3ヶ月が過ぎた。
芸者小屋で小間使いをさせられていた七緒にとって使用人の仕事はさほど難しいことではなかった。教育係であり世話役でもある秋代のフォローと、使用人の纏め役であるヨシの教育によって、七緒は宮内家の使用人の1人として認められるようになった。
「なあに、七緒」
夕暮れ時、食事の用意をしている秋代の袖を、七緒が引いた。振り向いた秋代に、七緒は身振り手振りで昼間に客人が来たことを伝える。
客人が来た時は右手の指を立て、それを曲げる。指の本数は客人の数であり、指を曲げるのは客に用事があったときだ。
「お客さんが来たの?」
確認の声に七緒はしっかりと頷く。右手を後ろに隠し、そしてもう一度秋代の前に右手を出した。これは、客人がまた来訪することを表している。ちなみに、これを考案したのは宮内家の跡取りである長男・左一だ。他にも様々な伝え方を考えて、使用人達に広めてくれた。そのおかげで仕事をするのに困ることはない。
「あら……それじゃあ、もうそろそろ来るのかしら」
七緒の報告を受け取った秋代は鍋の具合を見つめながら、そう呟いた。隣で大根を洗いながら二人の対話を聞いていたヨシが、顔を顰めて七緒に視線を向ける。
「七緒。もしかして、その客人、髪を伸ばしてなかったかい?」
色白に紺色の袴の男、とヨシが眉間の皺を更に深く刻ませる。七緒はヨシを見上げ、素直に首を縦に振った。あからさまに嫌そうな顔をしているヨシに、秋代は苦笑しながら口を開く。
「もしかして、巽さんとおっしゃらなかった?」
巽。七緒はその声を思い出して、大きく頷いた。透き通るような静かな声音に、あの長い髪。異様な格好をしているにもかかわらず、彼の姿はどちらかといえば神聖に見えた。それを思い出して七緒は首を傾げる。
秋代は小さな皿に味噌汁を垂らして味見をし、それを七緒に渡した。
「巽さん……巽 貴仁さんは、和泉様のご学友。時折ふらっとおいでになるの。少し変わっているけれど、悪い方ではないわ」
「……」
七緒は静かに頷いた。あの人は敵ではない、と子供ならではの本能がそう言っている。しかし『変わっている』ことは否定できない事実だ。品性を重視するヨシには変わり者以外の何者にも見えないのであろう、七緒の隣で大きな溜息が聞こえてくる。
味見の皿を舐めた七緒は何度か首を縦に振って、それを秋代に返した。
「それじゃあ、そろそろ盛り付けましょうか。……七緒、坊ちゃんたちに伝えてきて」
秋代の微笑みに、七緒は台所に背を向けて歩き出した。廊下を通って、左一達がいる和室へと向かう。
その小さな背中を見送って、ヨシは洗った大根をまな板の上に置いた。慣れた手つきで包丁を持つと、皮をむいていく。鍋をかき回しながらその様子を見ていた秋代は、少し小声でヨシに問いかけた。
「……七緒も、仕事ができるようになってきましたね」
妹の成長を喜ぶ姉のような秋代の姿に、ヨシは鼻を鳴らして呆れた表情をしてみせる。
「まだまだだよ。力仕事をさせようにもあんな細い腕じゃ、どうにもならないからね」
子供だからという甘さなど、ヨシは持ち合わせてはいない。使用人としてこの家に入ったかぎり、七緒も1人の働き手。大人と同じように扱うのが、ヨシの教育の仕方だ。そしてこの3ヶ月、七緒はそれを十分に理解し、成長してきた。
しかし、一つだけ思うことがある。ヨシはふと包丁を止めて、呟いた。
「あれで少しでも笑うことを覚えてくれたらねぇ……」
☆
「おい、七緒!」
夕食の片づけを済ませ縁側で一息ついていた七緒に、向こうの部屋から孝次が顔を出した。相変わらずがさつで横暴な呼びかけに七緒は顔を顰めてそっぽを向く。どうせいつものように、芋虫や蛾を捕まえてきて『土産』とでも言うのだろう。もちろんそんなものを恐がる七緒ではないが、孝次の悪戯はしつこい。最近では左一に窘められても、しばらくすれば、また七緒をいじめて遊ぶのだ。
「おい、七緒っ!」
こっち向け、と孝次が苛立った声をあげている。隣では苦笑している左一の姿があるに違いない。七緒は一度孝次を一瞥すると、縁側から玄関の方へと歩き出した。折角1人で綺麗な月を見ていたのに、気分が台無しだと思いながら。
ふと玄関を出て庭に出ると、紺色へと変わりつつある空に星がいくつか見えてきた。七緒はそれを見上げて、小さく息を吐く。今日も一日が終わったのだと、七緒は思った。
「……おや?」
ふとそんな声が聞こえて、七緒は視線を門へと向けた。するとそこには、昼間に見たあの巽という男が立っている。
「……!」
人がやってきた気配は全くなかった。七緒は驚きに体を震わせたが、その緊張は巽の微笑みによってすぐに弛緩した。
「さっきの子だね。こんばんは。……和泉はいるかい?」
和泉、と言われて七緒は首を縦に振った。さきほど夕食を済ませ、奥の部屋にいるはずだ。七緒は玄関に戻ると、両手を三回叩いた。パンパンパン、という音を何度か続けると、台所の方から秋代が顔を出す。手を叩くのは急な用事や来客があったときの合図だ。
秋代は豊かな黒髪を三角巾で纏めていたが、七緒の合図を聞いてそれを外した。そして玄関に顔を出した巽の姿を確認すると、床に膝をついて両手を添え、お辞儀をする。
「お久しぶりです、巽さん」
接客に関して、秋代は使用人の誰よりも上手い。七緒はそう思った。誰に対しても笑顔でいるからだろうか、それとも元来優しく親切な性格を持っているからだろうか。以前都会から来た客は秋代の気配りをとても気に入って、和泉との商談を了承したものもいた。
顔は並程度でそばかすが多く、お世辞にも美人とは言い難いが、魅力的という言葉は秋代の為にあるようなものだと七緒は思う。
「夜分に悪いね」
巽はそう言うと、秋代に促されて客間へと通された。真っ直ぐで、柔らかそうな長髪が秋風に揺れる。ぼうっとその背中を見つめていると、台所からヨシの『お茶を持っていけ』という指示が飛んできた。
七緒は巽の背中から視線を外すと、台所へと足を向けた。
☆
七緒はヨシに渡されたお茶の入ったお盆を持ちながら、廊下を歩いていた。幸いなことに月明かりのおかげで足元は明るい。七緒はゆっくりと、両手を水平に保ったまま足を進めた。慎重に運ばなければ、茶碗の水面が溢れてしまう。
ふと、人の気配がして七緒は足を止めた。和泉の書斎から子供の右足が出ている。歩みを邪魔するように突き出された足を見て、七緒は呆れたような表情を浮かべた。そしてスッと足を避ける。
「……あっ!!」
そんな声が書斎の障子の間から聞こえた。聞き覚えのある声に七緒は大袈裟に溜息をついてやった。
「お前、なんで転ばねぇんだよ!」
ぱっと障子を開いて現れたのは夏の日差しで真っ黒に焼けた孝次だった。外で遊びまわっているせいで、肩は日焼けで皮が向け、あちこちに掻いた痕がある。
七緒は改めて呆れた表情を浮かべた。進行方向に足が出てれば、避けるのは人間として普通の考えだ。声が出せるものならば、転ばせようという考えの馬鹿さ加減を教えてやりたいところだ。しかし、七緒は声が出ない。
七緒はさっと身を翻すと、後ろで騒ぐ孝次を放って客間へと足を運んだ。
「ああ、……七緒かな」
軽く障子を叩くと、和泉の声が聞こえてきた。七緒はお盆を一度傍らに置き、芸者小屋で教え込まれた動作で丁寧に障子を開けた。秋代を見習って深々と頭を下げる。顔を上げると、和泉と向かい合っていた巽と視線が合った。
巽は自然な表情で七緒に微笑みかける。
「……ここに来て3ヶ月だそうだね。どうやら孝次と仲が良いらしい」
お茶を手渡した七緒はあからさまに嫌そうな顔をした。その正直な反応に和泉が苦笑する。
「悪いな、七緒。ガキ大将気質なものだから、七緒みたいに大人らしい反応をされるのが気に食わないんだろう」
大人、という言葉に七緒はふと手を止めた。年齢でいえば七緒はまだまだ子供で、大人と言われることに奇妙な感覚を覚えたのだ。
和泉の言葉に巽は目を細めて笑う。
「……女の子は男の子より早く成長するって言うからね」
七緒は意味が分からず、首を傾げた。巽は苦笑して、それから何か思いついたように羽織の袖を探し始めた。
「そうだ、たしかここに……」
そう言って巽は袖から飴色の簪を一本取り出した。そして七緒を手招きする。いつもならば初対面の相手には多少警戒する七緒だったが、あまりに下心のない表情で呼ばれたので、つい傍によって行ってしまった。
後ろを向いて、と指示され、七緒は素直に背を向ける。すると巽は持っていた簪を器用に七緒の髪につけた。そして和泉に視線を向ける。
「どうかな……?大人物だから、ちょっと地味だけど」
「くれるのか?悪いな。七緒、こっちを向いてみなさい。……ああ、よく似合っている」
鏡がないと、七緒にはそれが似合っているのかどうかすら分からなかったが、和泉と巽の二人から似合っている、と言われて、七緒は少し恥ずかしそうに俯いた。
そしてもう一度巽に向き合うと、深々と頭を下げた。お礼の言葉は言えないが、頭を下げて感謝することならば七緒にも出来る。
巽は柔らかく微笑んだ。
「いいよ、お礼は。……古いものだからね、お守りのようなものだと思ってくれればいい」
☆
次の日から、七緒の機嫌はいつもより良くなった。朝食の準備をしていた秋代は誰よりも早く七緒の様子に気付いて、良かったわね、と微笑んだ。そして「似合ってる」と言われるたびに、七緒は少しだけ嬉しそうにはにかむようになっていった。ヨシもまたその様子に気付いたのか、巽のことは別にして、簪を褒めてやった。
「……そしたらなんだい、私のときだけ驚いた顔をするんだよ。これじゃ、褒め損ってやつだ」
話を聞いていた使用人たちが、いっせいに笑い出した。滅多に褒めることのないヨシに褒められて、七緒も驚いたのだろう。ヨシは口を尖らせて、包丁を持つ手を動かし始めた。
そんな談笑をしながら夕食の準備をしていた使用人たちのところに、左一がニコニコしながら顔を出した。
「楽しそうだね」
「あら、坊ちゃん。お食事はまだですよ」
秋代がそう言うと、左一は首を横に振った。
「ううん。なんの話をしているのかな、って思って来てみたんだ」
楽しそうな話してたでしょう、と左一は言う。秋代はヨシを見上げて、そしてまた左一に視線を戻した。そして七緒の話ですよ、と苦笑する。
「七緒がどうかしたの?」
「いえね、巽さんから簪を貰って、上機嫌なんですよ」
使用人の1人が笑いを堪えながらそう言った。するとヨシの刺さるような鋭い視線が向けられる。しかし左一はそれに気付いていないようで、無邪気な表情で秋代に聞き返した。
「巽さんって……骨董屋の巽おじさん?」
「ええ」
微笑む秋代に左一は、僕もあの人大好きだよ、と笑う。すると丁度そこに、夕食の材料を買ってきた七緒が戻ってきた。使用人達は七緒の顔を見ると、思い出したように笑い始める。秋代は困ったようにヨシと七緒を見比べる。
顔を見て笑われた七緒は、訝しげな表情を浮かべる。しかし、その場にいた左一の一言によって、七緒の機嫌が悪くなる事態は避けられた。
「あ、七緒が簪してる!可愛いね」
「……!」
七緒はぱっと顔を赤くした。使用人たちの視線が自然と七緒に集まってくる。注目されることに慣れていない七緒は、ヨシに買ってきた野菜を押し付けると、ぱたぱたと風呂の準備に走っていった。
あらあら、と秋代は笑う。誰に褒められても同じ反応を繰り返す七緒が面白いのか、使用人たちの中ではしばらくの間、七緒を褒めて反応を見るという遊びが流行った。
☆
夜も更けてくると、七緒は早めに二階に上がって他の使用人たちの布団を敷く。それは七緒の日課の一つだった。干した布団を座敷の中に引っ張り込むと、太陽の空気が部屋の中に広がる。七緒は少し小さめの自分の布団に寝転がると、大きく息を吸い込んだ。
この家に住み込みで仕事をしている人間は、七緒以外に4人いる。秋代もヨシも、住み込みをしている使用人の1人だ。彼女たちは朝から晩まで一緒に過ごす。
「七緒、そっちは敷き終わった?」
襖の間から蝋燭を持った秋代が顔を出した。七緒は体を起して首を縦に振る。秋代はそれを確認すると、蝋燭を少しだけ掲げて言った。
「じゃあ、戸締りをしてくるから、こっちの部屋もお願いね」
七緒は再び頷いて、秋代を見送った。そして頼まれた隣の部屋の布団を敷きに行く。部屋の中は豆電球の儚い光が辺りを照らしていて、少しだけ冷たい風が吹いていた。見ると、窓が開いている。
閉めなければ、と窓に近づいた時、ふと庭に白いものが見えた。この窓からは中庭の小さな池が見える。獅子おどしの軽やかな竹の音が響く中庭。そこに何かがいる。七緒は目を細めた。ぼやけていてはっきりとは見えないが、その輪郭は見て取れる。
「……?」
そこにいたのは、真白な狐だった。子狐のような小さい体に、長い尻尾をしている。遠くから見ると犬のようにも見えるが、その顔の輪郭や尻尾は狐のそれだった。
狐はキョロキョロと辺りを見回していたが、やがて七緒の視線に気付いた。池の前から七緒を見つめている。そして七緒も目が離せなくなってしまい、じっと狐を見つめていた。
風の音と共に、秋代が戸締りをしている音が聞こえてくる。おそらく、狐のいる目の前の部屋の網戸を閉めているのだろう。しかし、秋代が狐に気付く気配はない。
「……」
七緒はふと、嫌な予感がした。秋代にも見えていないこの真白な子狐が、数ヶ月前の出来事を思い出させたのだ。
獅子おどしの音が再び高らかに鳴り響いた。その音に我に返ると、七緒の視界の中からあの狐が消えていた。慌てて窓から身を乗り出して辺りを窺ってみたが、そこにあの姿はもうなくなっていた。
☆
孝次の通う尋常小学校には沢山の子供がいる。宮内家の近所の子供たちも左一や孝次くらいの年齢になるとみんな小学校に通うことになるが、家の事情で学校に来れない者や、赤ん坊の妹や弟を背負って学校に来るような子供もいた。もっとも、それはまだ良い方で、七緒のように奉公をして働く者もいる。
しかし、学校にはいつも子供らしい活気が溢れていた。どこかしらから大声が聞こえてきたり、遊び歌を歌っている声や、話し声が木造の校舎に響き渡っている。
そんな中で、いつもの平和な喧騒とは違った声が聞こえてきた。
「孝次にい、孝次にい!!」
声変わりする前の少年の声が、教室内にひときわ大きく響き渡った。学友たちとの会話に盛り上がっていた孝次は、その甲高い声に顔を顰める。教室中の誰もが会話を辞めて、走りこんできた年少の少年に視線を向けた。
「孝次にい、大変だ!」
少年は細い手足に色白の肌をしていて、いかにもか弱そうな外見の子供だった。孝次は座っていた机から降りると、その子供のところに歩み寄る。
「なんだよ、市太郎。教室に蛇でも出たか?」
後ろで様子を窺っていた学友たちが孝次の言葉に噴き出した。しかし、市太郎と呼ばれた子供は首を横に振る。そして息を整えながら、孝次を見上げた。
「慶吾が、眞治にいと喧嘩してるんだっ。姉ちゃんが、孝次にいを連れて来いって……」
ゼイゼイ言いながら話す市太郎に、孝次は顔を顰めた。俺は喧嘩の仲裁役じゃねぇのに、とぶつぶつ呟きながら、市太郎に引っ張っられて教室の外へと出て行く。廊下を通り、木造校舎の階段を降りようとすると、下のほうから大きな叫び声が聞こえてきた。
孝次は大きくため息をつく。
「姉ちゃん、孝次にい連れてきたよ」
市太郎が階段の下に向かって声をかけると、一階にいた小柄な女の子が顔を上げた。白い肌に真っ黒な瞳をした女の子だ。勝気そうな丸い瞳に、上等な着物を着ている。彼女は、名前を花江という。
市太郎と花江は姉弟であり、真木野という機織屋の子供だ。宮内家ほどではないが、彼らも裕福な家柄である。花江は弟に手を振ると、孝次に視線を向けた。
「イチ、ありがと。……で、これどうにかしてよ、孝次」
花江は女とは思えないほどの態度が大きい。しかも頭がよく、喧嘩も強いので、誰も手を出せない。もちろん孝次も花江は苦手だ。
「どうにかっつったって……」
花江の指差す先には、睨み合っている二人の少年の姿があった。孝次たちからすれば、喧嘩など日常茶飯事だが、花江が孝次を呼んでくるということは何かあるのだろう。
腕を組んで様子を見つめながら花江は言う。
「喧嘩くらいならいいけど、なんか話がこんがらがって……肝試しで勝負をつけようとか言うのよ」
「肝試しぃ?」
孝次の声に、市太郎が頷く。
「『蛙岩』のところ、この間雨が降って水嵩が増してるから、そこを飛び越えて反対側にいけるかどうか、勝負しようって……」
蛙岩とは、西川の上流にある、岩が5つ川を横切るように並んでいる地点のことだ。3つ目まではなんとか子供の力でも飛び移ることは出来るが、残りの2つは大人でも飛び越えることは難しい。
市太郎の言葉を聞いた孝次はあからさまに顔を顰めた。
「ばっ……、あれを飛び越えるなんて出来るわけないだろ!?」
「だからアンタを呼んできたのよ」
間髪いれずにそう言い返されて、孝次はぐっと言葉に詰まった。この状況をどうにかしろと言われても、孝次にはなす術が無い。
喧嘩をしている片方は名前を荒峰眞治という。あまり裕福な家の子供ではないが、もともと体が大きく喧嘩も強い。普段はおおらかで口数も少なく静かな性格をしているが、怒ると手が付けられない。
そしてもう1人は吉見慶吾という。こちらは宮内家に次いで裕福な染物屋の1人息子だが、自尊心が大きい分だけ喧嘩っ早い。多少曲がってはいるが、年下ながら眞治に喧嘩を売るような根性がある。
孝次は頭を押さえた。ガキ大将役というのは楽なことばかりではないらしい。ギリギリと睨み合っている子分たちを見つめて、孝次は人知れずため息をついた。
☆
「……」
その日の夕方、玄関前の落ち葉を熊手でかき集めていた七緒は、さっき帰ってきたばかりの孝次がそろりそろりと外へ出て行こうとしているのを見つけた。辺りを窺って、ヨシや秋代がいないかを確かめているらしい。
七緒は抜き足差し足で外で出て行こうとする孝次に向かって熊手を突き出した。着物の帯に引っ掛けて捕獲すると、一瞬驚いた表情でこちらを振り返る。
「!……なんだ、七緒かよ……」
孝次は大きく息を吐いてそう言った。七緒は熊手を外すと外に向かって指を差し、首を傾げる。何処へ行くのかを尋ねるときの動作だ。
しかし孝次は何も言わず、ふいと顔を逸らした。
「別に、何処だっていいだろ」
ぶっきらぼうな発言に、七緒はまた熊手で引っ掛けてやろうかと思ったが、七緒の手が動くのより先に孝次は駆け出していった。
ぽつんと残された七緒は、西川の方に走っていく孝次の姿を見つめて、首を傾げていた。
☆
夜になっても孝次が帰ってこないことに気付いたのは、やはり左一だった。小学校のカバンは残っているのに、本人の姿が見当たらない。不安に思った左一が使用人たちに孝次の行き先を聞いて回ったため、話は膨れ上がり、宮内家は大騒ぎとなった。
この日和泉は家を出ていて、一週間は帰らない予定だったため、使用人たちが孝次を探して回ることになった。
「孝次坊ちゃんは行き先を言わなかったのかい?」
ヨシの真剣な視線に射られて、七緒は首を縦に振った。でも西川に走っていったのは確かに見たのだ。七緒が秋代の通訳を通じてそう伝えると、使用人たちはそれぞれ西川方面に孝次を探しに出て行った。
宮内家に残されたのはヨシと秋代、そして左一と七緒だ。そわそわと不安げな表情で行ったり来たりを繰り返す左一を見ながら、七緒もまた不安で心を一杯にしていた。近くにいれば天敵のような存在だが、いなくなるとなんとなく気分が悪い。しかも遊びに行って夜まで帰ってこないのだから、不安にもなる。
近場を探していた使用人の1人が、駆け込むようにして宮内家に戻ってきた。中庭に面する廊下から顔を出し、息を切らして座敷にいた4人に告げる。
「ヨシさん!真木野さんとこのお二人もいないそうなんですよ!!」
ぱっと俯いていた左一が顔を上げる。
「花江ちゃんと市太郎君も……?」
級は違えど、家は近いからよく知っている。七緒も顔を見たことがあるので、その二人のことは知っていた。左一の言葉に、使用人の女は何度も首を縦に振る。
「そうなんですよ。真木野さんとこもお女中さんたちが探して歩いてるみたいで……」
「じゃあ、真木野さんのお嬢さんとお坊ちゃんも、孝次坊ちゃんと一緒に……?」
秋代の言葉に、左一がふと顔を顰めた。何かを考えるように、視線を彷徨わせている。使用人とヨシの会話が続く中で、七緒は左一の袖を引っ張った。左一は躊躇いながらも口を開く。
「あ……ええと、今日学校で、喧嘩があったって話を聞いたんだ。僕は見てないんだけど、市太郎君が騒いでるのを見かけて……」
左一は記憶の粒をひねり出すように、一つ一つを思い出していく。学校の廊下で市太郎が喧嘩のことで騒いでいたのを見た。病弱に見える白い顔をいっそう青ざめさせて、『蛙岩』がどうとか、『肝試し』がどうとか言っていたのを思い出す。
あ、と左一は声をあげた。
「そうだ、『蛙岩』だ!」
『蛙岩』は子供たちの遊び場の一つで、西川の上流にある。孝次が西川に走っていったのが本当ならば、おそらく孝次はそこにいる。
ヨシにそれを伝えようとした時、真木野の話を持ってきた女の後ろから、ひょっこり別な顔が現れた。
「なんだか賑やかそうですが……どうかしましたか?」
「巽さん!」
秋代の声とほぼ同時に、ヨシが嫌そうな顔をしたのを七緒は見た。七緒は巽に駆け寄ると、その着物の袖を掴んだ。分かってもらえるとは思わなかったが、それでも七緒は巽の袖を掴んでいた。巽は七緒を見下ろし、そしてしばらく考えるようにしてから、微笑む。
「うん、何か大変なことがあったようだね。……この子も探しに行きたいようだ」
その発言に、七緒は巽に飛びつき、ヨシはまたあからさまに顔を顰めた。秋代は不思議そうな顔で、左一と顔を見合わせている。
まるで声に出したかのようだった。巽は微笑み、そして七緒の頭を撫でる。
「そうゆうことなら、僕も協力してあげるよ。さあ、靴を履いておいで?」
七緒は首を上下させて、すばやい足取りで玄関に向かった。その様子を見ていた左一は、我に返ったように七緒の後を追う。ヨシの制止の声が響くのも構わず、玄関から飛び出していく足音が宮内家に響いていた。
☆
「だから、何度言えば分かんだっ」
七緒たちが宮内家を出た時から時間を少し遡る。家を出て西川の上流『蛙岩』の前には孝次、花江、市太郎、そして互いに睨み合う慶吾と眞治の姿があった。『蛙岩』は数日前の豪雨で水嵩が増し、5つある飛び石のうち最後の一つは天辺しか見えない状態になっている。たとえ大人であろうと、足を滑らせたらそこで仕舞いだ。
説得を試みる孝次だが、喧嘩をしている張本人たちは頭に血が上っていて話を聞く気はないらしい。
「だって、眞治のやつが悪いんだ!あっちが先に手を出したんだぞ!!」
「なんだと!」
花江の後ろで市太郎が小さく震えている。なんでついてきたんだか、とため息を吐く姉。孝次はそんな二人に視線を向けて、助け舟を要求している。しかし花江にも、この状況はどうすることも出来ないらしい。
これは喧嘩両成敗で両方殴った方がいいのか、と孝次がそう思ったときだった。睨み合いに痺れを切らした慶吾が、蛙岩の前まで来てこう言ったのだ。
「さてはお前、怖いのか!俺は怖くなんかないぞ、えいやっ」
勢いをつけて、慶吾が1つめの蛙岩に飛び移る。1つ目はお寺の釣鐘のように大きな岩で、危険も少ないが、ここから徐々に岩は小さくなっていく。
「馬鹿、戻ってこい!!」
孝次が慌ててそう叫ぶが、もう遅かった。慶吾は1つ、2つと岩から岩へ飛び移り始めたのだ。3つ目まで来た慶吾は振り返って眞治に言う。
「百姓っ子の臆病者、渡れるってのは口だけか!」
濁流のせいで殆ど聞き取れなかったが、どうやら眞治にははっきりと聞こえてしまったらしい。市太郎が目を覆う。そして花江もまた、少しばかり焦りの表情を浮かべた。
子供であろうと、育ちの違いで多少の劣等感を持っている。特に百姓を全て馬鹿にすることは、相手の逆鱗に触れることなのだ。いつもは物静かな眞治だが、これには耐えられまい。
「渡れるに決まってる!馬鹿にするなっ!!」
眞治はそう言って駆け出すと、孝次の制止を振り切って蛙岩を飛び越え始めた。1つ、2つ、3つ、そしてすぐに慶吾を追い越して4つめの岩に飛び移る。そこには子供が1人立つくらいの幅しかない。慶吾はギリギリと歯を食いしばり、自らも飛び移ろうとした。飛び移れば、おそらく眞治が川に落ちてしまう。しかし血の上った頭では、そんなことを冷静に理解出来なかった。
飛び移ろうと片足を上げた瞬間、慶吾の体は後ろへと引き戻された。そして同時に孝次の怒声が響き渡る。
「いい加減にしろっ!!」
目を覆っていた市太郎が、孝次の声に肩をすくませる。見ると孝次が3つ目の岩まで飛び移り、慶吾の着物をしっかりと掴んでいた。
「何が原因かは知らないが、頭を冷やせ!!」
流石に大将の怒号は効いたようだった。慶吾は孝次に言われるがまま、蛙岩から引き返すことを余儀なくさせられ、眞治もまた戻るように言われた。眞治は気にくわないようだったが、仕方なく引き返そうとした。
その時だった。
「!……眞治っ!!」
4つめの岩は、濁流のせいで濡れていた。そこで眞治は足を滑らせたのだ。体が傾き、そして濁流に呑まれる。孝次は瞬間的に、その腕を掴んでいた。
「っ……!」
体の重心がずれて、体が傾く。孝次は慌てて3つめの岩の出っ張ったところを掴んだ。そしてその瞬間、右手と左手を引っ張られるような激痛が走る。眞治の手を掴んだ手と岩を掴む手が悲鳴をあげていた。
花江の悲鳴が何処か遠くの出来事のように聞こえる。顔にかかる泥水を振り払って、孝次は死と隣り合わせの感覚に背筋を凍らせた。
「孝次ー!!」
「孝次くーん!!」
西川沿いを上流へ向けて、左一と七緒、そして巽が捜し歩いていた。もちろん彼らは孝次が川に飲まれていることなど知りはしない。
七緒は声を出せないため、必死に辺りを見回していた。しかし、どこを見てもあるのは闇。孝次たちの姿は一行に見当たらない。左一の顔に焦りの表情が浮かび始める。辺りには不安を掻き立てるように虫の鳴き声が響き渡っていた。
河原を見やると、濁流が岩に当たって小さな飛沫をあげていた。この間までの日照りで真っ白になっていた岩が、今は茶色く変色している。こんな流れに呑み込まれたら、と考えて七緒は身をすくませた。ぎゅっと着物の袖を握り、強く目を瞑る。
何処にいるのか、まだ生きているのか。頭の中を、不安がぐるぐる回る。左一と巽が孝次を呼ぶ声、そして川の音、虫の音……。
ふと気付くと、七緒は川を挟んだ反対側の道に白い影を見た。目を凝らすと、それはつい先日宮内家の中庭で目にした白い子狐だった。
「……!」
子狐はじっと反対側にいる七緒を見つめていた。七緒もまた、目を逸らすことが出来なくなって、じっと狐を見つめていた。
すると白い狐はパッと河原を上流へと向かって走り始めた。
「……!?」
素早い動きで道を走り、そしてある程度の距離を走るとこちらを振り返る。まるで付いて来いとでも言われているようだった。七緒は誘われるようにふと足を踏み出す。
早く来い、と言いたげに円を描くように狐が回っている。そして七緒が追いつくと、また導くように河原を走り出した。
「……七緒?」
辺りを見回していた左一が、フラフラと上流へ向かって走り始めた七緒に気付いた。一人で行くと危険だと制止の声を上げるが、七緒には聞こえていないらしい。左一は首を傾げて、もう一度声を出そうとした時だった。
ぽん、と右肩を叩かれた。
「しっ、……僕らも行ってみよう。ただし、静かにね」
肩を叩いたのは巽だった。口元に人差し指を押し当て、そして静かに背中を押される。たったそれだけの動作なのに、騒いでいた胸の内が一気に収まっていくのを左一は感じていた。巽はその長い髪を夜風に揺らして、走っていく七緒の背中を見て目を細める。
☆
「孝次にい、孝次にい!!」
濁流の音で途切れ途切れになりながらも、市太郎の声が聞こえてくる。孝次は何度目かも分からない泥水を浴びながらも、必死に眞治の手を掴んでいた。おそらく、眞治の方が水を被っているに違いない。それでもまだ、辛うじてその握力が伝わってくる。まだ、まだ大丈夫。孝次はそれを何度も自分に言い聞かせる。
そして岸に向かって叫んだ。
「市太郎!だれか、……誰か、呼んでこい!!」
「で、でも……」
市太郎は混乱した表情のままそう言った。孝次はこの場に他の人間を連れてこなかったことを後悔した。誰かを呼んでこさせようにも、市太郎はすくんでしまっているし、慶吾は呆然としてしまっている。花江も混乱しているようだ。
自分で這い上がるしかない、と孝次は思った。しかし蛙岩は徐々に濡れ始めて、握力は自然に奪われていく。手を滑らせたら一貫の終わりだ。
畜生、と心の中で毒づいた。その時、ぱっと川の向こうに白い影が見えた。一瞬孝次は期待したが、それは大人達の堤燈の灯りではなかった。何かの生き物の影のようにも見える。白い毛皮を着た動物が、河原の丘の上をぐるぐると回っている。
不思議なことに、その動物は半分体が透けていた。毛皮の向こうには夜空の星が見えるほどに。孝次はふと心の中でため息を吐いた。虫の知らせとか、そうゆうもんかな、と冷めた気持ちでそう思ったとき、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
「 ―――――!」
誰の声だろう、と頭の中でぼうっとそう思った。知っているような、知らないような、そんな声だ。市太郎でも花江でもない、聞いたことはないけれど覚えのあるような、そんな声。誰だろう。
そう思った瞬間、今度は現実に引き戻す呼びかけが孝次の耳に届いた。
「孝次!」
聞きなれた兄の声に、孝次は我に返った。見ると、反対側の岸から七緒と左一が駆け下りてくる。そして少し遅れて、堤燈を掲げた巽の姿が見えてきた。
「兄ちゃ……!」
そう叫んだのと同時に、また頭から泥水が襲い掛かってきた。鼻と口に入って苦しそうに咳き込みながら、孝次は駆け寄ってくる左一に視線を向ける。
左一はそのまま川に入って孝次を助けようとしたが、一歩足を踏み込んだところで巽に引き戻された。
「おじさん……っ!」
「左一くん、キミが行ってもミイラ取りのミイラになるだけだ」
「じゃあ、どうすれば……」
左一がそう言ったとき、後ろにいた七緒が何かに気付いて後ろを振り向いた。すると河原の木陰であの子狐が寝そべっている。誘われるようにして近づいていくと、ふと木の枝に一本の蔦が絡み付いていた。かなりの長さがあり、縄のように太い。
これなら、と七緒は巽の腕を引いた。
「ん?……ああ!これを使えってことだね?たしかにこれなら丈夫そうだし、長さも十分だ」
頭から振ってきた巽の声に、七緒は何度も首を上下させた。二人の様子に気付いた左一も加わり、三人でその蔦を剥ぎ取ると、巽がそれを木の幹に結びつけ、末端を孝次に向かって投げる。
孝次は何度も川に呑まれそうになりながらも、繋いでいる眞治のもう片方の手に蔦を握らせた。眞治は泥水を浴びたせいで苦しそうな表情をしていたが、蔦を伝ってゆっくりと左一たちのいる岸へと向かい始めた。
孝次は眞治の手を離すと、そのまま蛙岩に両手をついて大きく安堵のため息をついた。自分1人くらいなら、岩にしがみついている事も出来る。気が楽になった孝次は辺りをもう一度見回してみたが、さっきの白い影は何処にも見当たらなくなっていた。さっきまで、岸辺の木陰の下に確かにいたはずなのに。
そして代わりにそこにあるのは、緊張の糸が切れたようにへたり込んでいる七緒の姿、それだけだった。
☆
家に帰ってきた孝次の姿に、使用人たちは安堵の表情を浮かべていた。その中で唯一、ヨシが角を生やした鬼のような形相をしていたが、泥水に汚れたまま説教するわけにもいかず、結局風呂に入ってから詳しい話をすることになった。
湯船につかると、暖かいお湯の感覚のせいか、どっと疲れが溢れ出してくる気がする。孝次は大きくため息を吐いて、格子戸の向こうに見える空を見つめた。どうやら自分はまだ生きている。どこか遠くで聞こえる蛙の大合唱を聞きながら、孝次はそう思った。
ふと外から足音が聞こえて、誰かが風呂の前で立ち止まった。そしてすぐに風呂の壁を叩く音がする。孝次は爪先立ちで格子戸から下を見る。すると予想通り、そこにいたのは七緒だった。風呂の焚き火の調節に来たのだろう。片手に竹筒を持っている。
「……ぬるい」
頭の上からそう言ってやると、七緒も孝次に気付いたようだった。しぶしぶといった表情で、隣に積んである薪を風呂釜の中に放り込んだ。そして筒で息を吹きかけ、中の火を更に燃え上がらせる。
孝次はぼーっと風呂の縁に肘をついて空を見上げていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういや、さっき、変な生き物がいたんだけど見たか……?」
自分でも変な問いかけだと思ったが、孝次はそう言った。少し遅れて、コンコン、と風呂場の壁を叩く音が聞こえてくる。おそらく、見ていない、という答えだろう。そりゃそうだよな、と孝次は呟いた。きっと川に呑まれて、混乱していたせいで見た幻だろう、と自分に言い聞かせる。
しかし、それでも一つだけ気になることがある。あのときの、自分を呼ぶ声。
「なあ、あんとき……俺を呼んだ?」
疲れと眠気でぼうっとしながら、孝次はそう呟いた。しかし、七緒の返事はいつまで経っても返ってこない。また爪先立ちで下を覗き込むと、積み重ねられた薪の山に体を預けて眠り込んでいる七緒の姿があった。右手にしっかりと竹筒を持ったまま、規則的な寝息を立てている。
「……」
起してやろうか、と孝次は思ったが、そっとしておくことにした。
虫の音がまるで子守唄のように響いている。風呂場の中に聞こえるのは薪の燃える音と、時折落ちる水滴の音、そして遠くで聞こえる蛙の鳴き声。
いつのまにか孝次も船の縁にもたれるようにして眠っていた。吹き込んでくる夜の風が気持ちいい。それは、秋の夜長のことだった。
Fin.
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
前回は座敷わらし(?)だったので、今回は狐の話になりました。楽しんでいただけたら嬉しいです。