竜大公は星を愛でたい ~就職だと思ったら、まさかの溺愛結婚でした!~
竜は、綺麗なものが好きな生き物だ。
金銀財宝だけでなく、人が加工した宝飾品やレース編み、絵画や歌劇や演舞、果ては柔らかな頬を伝う涙の一雫まで。
あらゆる亜人種が住むこの世界で、か弱い『ただの人族』が生きていけるのは、人がその手で生み出すものの美しさを、世界の王たる竜族が愛しているからに他ならない。
「すまない、エステル。竜の大公に嫁いで欲しい」
降り注ぐ日差しが眩しい夏のある日、リチャード・シルバ子爵(人族)は、可哀想なほどに身を小さくしてそう言った。
目の前にいる彼の愛娘、エステルの柔らかな赤毛がふわりと揺れて、宝石のような緑色の瞳がぱちぱちと瞬く。次いで、白銀のレースを編む彼女の手がぴたりと止まった。
いつもならば、その手は並大抵のことでは止まらない。エステルは幼い頃から驚くほどに手先が器用で、十八歳の今では領地で一番の、いや、国で一番と言っても過言ではないレース職人だ。
おっとりとしたその外見とは裏腹に、彼女が超高速で編むレースは身分を問わず引く手数多。金糸銀糸をふんだんに使い、小さな星を散りばめたように見える『エステルシリーズ』は、貴族のご婦人方を筆頭に注文が絶えない大人気商品だ。現在は三年先まで予約が埋まっている。
そんな彼女が今編んでいるのは、贔屓にして頂いている白馬族の奥様からの依頼品だ。夜会のための大判ショールという大作で、納期がとても近い。一分一秒でも惜しいくらいなのだが、先ほどの父の一言は、流石に聞き流すわけにはいかなかった。
「……先方が、お前の編むレースを大層気に入ったらしい」
太く丸い眉をしょぼしょぼとさせた子爵が、蚊の鳴くような声でそう付け足す。
「あらまぁ、それは……困りましたわね」
ふぅ、とエステルが一つ息を吐けば、父の肩が申し訳なさそうに一層ギュッと縮まった。
人が竜へ嫁ぐ。
それは決して言葉通りの、伴侶として迎えられるという意味ではない。美しいものを生み出す『側仕え』になるということだ。
独占欲が強い亜人種にとって、人との異種族婚は才ある者をお抱えにするための常套手段。正式な伴侶を意味する『番』とは違い、側仕えとしての伴侶は『花』と呼ばれ、亜人種の暮らしを彩るための家人と見做される。
どの種族よりも人一倍の悋気を抱く竜族においては、一人で複数の花を囲うことも珍しくはない。気に入ったものは全て手元に置いておきたい性分だからだ。
平民であれば使用人として、貴族の子女であれば形ばかりの配偶者として迎え入れ、他を寄せ付けぬように囲う。年齢も性別も関係ない。つまり結婚というよりも、才を買われた就職に等しいのだ。
エステルの生家、シルバ子爵家の領地は、昔から上等な絹やレース細工の生産地だ。その領主の次女であり、卓越したレース職人でもあるエステルは、遠く離れた王都でも名が知られている。
何故なら、エステルの顧客は主に高位の上流貴族。ついこの間も青鹿族の侯爵のご令嬢にデビュタント用の白手袋を拵えたところ、大層喜ばれた。王都の夜会で見せびらかして回ったと言っていたから、もしかしたらお相手はそれを見たのかもしれない。
「それで、お父様。お相手の竜大公って、まさか……」
「……」
青い顔で縮こまったままの父が、無言で差し出す書状を覗き込む。華やかな香り付きの上等紙に並ぶ美しい文字の列。四隅には金の箔押しでトネリコの葉の文様があしらわれている。何とも豪華だ。
「……ヒュッ」
エステルは思わず息を呑んだ。まさかと思っていた予想通りの大物の名前が、そこにあったからだ。
竜の大公、ソル・トルトニス。
王族に連なる高貴な血筋で、頭脳は明晰、夜空のような黒髪に輝く金の瞳という恐ろしい美貌の持ち主……だと、世のご令嬢方の間で評判のうら若き大公だ。暇さえあればレースを編んでいるせいで世事に疎い自信があるエステルでも、その名は何度も聞いたことがある。
(ま、まさか、こんな方からお声が掛かるだなんて……)
更に言うなら、ソルはその美貌だけではなく歴代最年少で宰相の地位を得たことでも有名な、誇り高き雷竜の末裔だ。たとえ形だけの伴侶だとしても、花として嫁ぐことを熱望する人族の娘は星の数ほどいるだろう。遠からず王家の竜の姫か、そうでなくとも獅子や大鷲あたりの上流貴族から、本当の妻が迎えられるのだとしても。
(はぁ……普通の結婚は、もう無理そうね)
エステルは胸中で溜息を吐いた。
自分だって、曲がりなりにも貴族の子女。政略結婚は与えられてきた環境に対する義務だ。結婚は己の意思と関係なく、家のためにするものだとわかってはいる。けれど竜に嫁ぐとなれば話は別だ。
政略だとしても夫と結ばれ、子を持ち、ときに悩みながらも立派に育て上げる。そんな人並みの幸せな人生は、竜家に『嫁ぐ』という名の『就職』をするのなら、きっともう望めないだろう。
(まぁ、これまでだって特にご縁はなかったけれど……)
ふふ、とエステルは苦笑いを零した。
雨の日には大きく波打つ赤毛も、頬に薄っすら浮かぶそばかすも、貴族社会ではあまり好まれるものではないようだ。
亡き母譲りのエメラルドのような瞳と、類稀なレースの腕前のおかげで、これまでも縁談のお話を頂くことは何度かあった。だが、何故かどれも知らぬ間に立ち消えてしまったのだ。
今や貴族としては結婚適齢期を過ぎ始めた十八歳。そこそこの家柄なのに上手くいかないのは、やはりこの容姿のせいなのだろうか。
(……うん、きっとそうね。どうせ結婚できそうにないのだから、就職でも構わないのかも)
赤い毛先をくるくると指で弄りながら、エステルは思案した。
子を持つ幸せは得られなくても、職人としての幸せならばどうか。大公家の潤沢な資財をもとに、美しく優雅で、世に二つとないレース細工を生み出す職人としての人生ならば。そこまで考えて、エステルはハッと思い至った。
(あら? これってもしかして、かなり良いお話なのでは?)
そう気付き、思わず立ち上がった拍子にガタンと大きく椅子が鳴った。父が飛び上がって驚いている。
(そうよ、そうだわ!)
エステルの瞳はかつてないほどにきらめいた。
書類上とはいえ結婚するのだから、十番目の妻だったり、三十歳も年上だったりして返答に困るような縁談話が来ることももう無くなる。衣食住は勿論、仕事(レース編み)のための環境も保証されるだろう。夜のお勤めなんか当然お声が掛からないだろうし、それに何より、美しいと評判の大公を飾るためのレースが好きなだけ編める。
断る理由が一つも見当たらない。まぁ、そうでなくとも大公家の申し出を断ることなど、そもそもできないのだけれど。
すう、と息を吸って、エステルは凛と背筋を伸ばした。
「お父様。このお話、謹んでお受けいたします!」
まだ項垂れている父に向かってハッキリとそう告げれば、父は悲しいような嬉しいような、安堵とも悲哀ともつかない顔で泣き出した。
「うぅ……すまない、エステル……! 父が不甲斐ないばかりに……!」
丸くなってむせび泣く父の背を労うように撫でながら、エステルは暢気に(本気でこのお話を喜んでいること、あとでよく言って差し上げなければ!)と思った。
***
シルバ子爵領から王都のトルトニス大公邸までは、馬車で一日半かかる。
「もともと平らなお尻がもっと平らになってしまうわ……」とエステルは嘆いたが、そこは流石の大公家。用意された迎えの馬車は非の打ちどころのない一級品で、長旅も至極快適に過ごすことが出来た。
あの豪華な書状を見た日から一ヶ月。あれよあれよという間に話が進み、気付けばもう大公家への輿入れ当日。一人だけ連れてきた侍女とともに馬車を降りれば、ずらりと並ぶ使用人がエステルを出迎えた。
秋薔薇が咲き誇る見事な前庭と、その後ろに聳える城のような邸宅も相まって、まるで一枚の絵画のよう。何とも壮観な眺めだ。
「あらまぁ……なんて美しい……!」
見惚れるエステルの前に、家令と思しき銀髪の紳士が進み出て、上品に刻まれた皺を一層深くしながら開口一番に謝意を述べた。
「お待ちしておりました、エステル様。まことに申し訳ございません。本来ならば主がお出迎えするべきなのですが、生憎急な職務が入り……」
そう言われてからようやくエステルは気付いたのだが、確かにこの城の主である大公の姿が無い。
貴族の花嫁の輿入れ当日には、夫が出迎えるのが習わし。それは無論エステルも知っているのだが、たとえ出迎えが無くても驚くようなことではない。何せ、自分は本当の花嫁ではないのだから。
「まぁ、大公様はお忙しいのですね」
すぐに雇用主に会えないのは少し残念だが、仕方がない。挨拶ならば然るべき時に出来るだろう。そう思って、エステルは淑女らしくにこりと微笑んだ。
「お顔をお上げになって。何も問題ありませんわ」
「いいえ! よくよく非礼を詫びるようにと、主からも固く申し付かっております。この埋め合わせは必ずさせて頂くとのことで……」
家令の言葉を、エステルは驚きのあまり遮った。
「まぁ、そんな! 埋め合わせだなんて畏れ多いわ。衣食住とお仕事さえ頂ければ、それで構いませんもの!」
今度は家令が驚く番だった。渋い切れ長の目が驚きに見開かれている。
「お、お仕事、ですか……?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、家令は何度か瞬きをした。
「あら、だって私はレース編みのために雇われたのでしょう? お任せください。仕事はきちんとしますわ!」
にっこりと笑ってそう告げるエステルに、家令は驚愕の表情で石のようにピシリと固まってしまった。しかし当のエステルはこれっぽっちも気付かない。
それどころか、脳内で(この人が今着ている漆黒のモーニングコートには、淡い真珠色のポケットチーフが良く似合いそう。決して華美ではなくて、けれどよく見れば造りの良さがわかるような上品なレースがいいわね。デザインは、そうねぇ……)などと、何らかの鳥族だと思しき家令に似合うレース細工について考えていた。
「ンンッ」
みかねたエステルの侍女が小さく咳払いしたのを機に、家令は我を取り戻したようだ。
「……ハッ! 申し訳ございません、あまりのことに意識が。エステル様、全く違います、主は決してそのような……」
「ふふ、優しいのね。でも本当に大丈夫なのよ。それよりもお部屋に案内していただけるかしら? 早速だけれど、編みたいものがあるの」
物腰柔らかく穏やかでありながらも、全く人の話を聞かないところがあるエステルに、家令は顔を青くしながら半泣きになった。
その後も、用意していた女主人用の豪奢な部屋をエステルにあっさりと固辞され、レース編み用に用意した趣味部屋で寝起きするなどと宣言されて、更には「作業に集中したいから」と早々に締め出されてしまった。
「ああ……ソル様に何とお伝えすれば……」
廊下に膝をついて泣く家令の声は、大公家の美しく重厚な扉に阻まれて、新しい職場にうきうきしているエステルにはちっとも届かなかった。
***
「な・ん・で、そんなことになっているんだ……!?」
若き美貌の大公ソル・トルトニスは、固く握りしめた拳をこれでもかと執務机に叩きつけた。竜の膂力を考慮して造られた特注の机が、ひどい扱いに抗議するかのようにミシミシと軋む。
「働かせるために雇っただなんて、とんでもない勘違いだ! しかもそれを気にも留めていないだなんて……! 俺はどんな冷血漢だと思われているんだ!?」
どんなときも冷静沈着で優秀な、史上最年少宰相はどこへやら。ソルはこれ以上なく焦った顔で狼狽えた。
「どうすればいい!? 新妻が来る大事な日だというのに、クソみたいな会議のために急に呼び出した王太子殿下を殴りに行けばいいのか!?」
「ソル様、そんなことは後日にいたしましょう。今は疾く奥様の誤解を解かねば……!」
王族への暴言を諫めるどころか『そんなこと』扱いをする家令と、苦々し気に「そうだな……!」と呟く主。
これが由緒正しき臣の鏡と名高いトルトニス大公家の真の姿だ。もうすっかり慣れている執務室内の使用人たちは、一様に「またか」と言いたげな苦笑いを零している。
「ようやくエステルと結婚できたのに、形だけの結婚で囲うクズ野郎だと思われているなんて……!」
じめじめと茸が生えそうな空気を纏って、ソルは執務机に突っ伏した。家令をはじめ使用人たちは(いや、そこまでは仰っていませんでしたけど……)と心の中だけで突っ込みを入れた。
「気にした様子がないっていうのは、つまり、彼女は俺には一切期待していなくて、興味も無いってことだよな……。それでも挽回のチャンスが欲しい。十年も恋焦がれたあの子と、ようやく結婚できたんだから!」
グッと拳に力を入れながら、ソルは自らに言い聞かせるように言った。
「まずはエステルの誤解を解く!」
燃える金色の瞳でそう宣言するソルに、家令たちも賛同の拍手をしながら頷いた。
***
(うーん、どうしたものかしら……)
エステルは悩んでいた。
大公邸に来て、はや一週間。衣食住の保証どころか、いつでも最高級の家具や寝具に囲まれて、おまけに十時と三時のおやつまで毎日用意されている。それも高級料理店をいくつも渡り歩いてきた大公家総料理長のお手製だ。
(こんなに好待遇で良いのかしら……。何だか、ソル様ともよく顔を合わせるし)
初日の出迎えもなかったのだから、てっきり用があるまでは放っておかれると思っていた。それが輿入れ翌日からは毎朝毎晩の食事を共にしている上に、三時のティータイムにも頻繁に現れる。大公の仕事は大丈夫なのかと聞きたくなるほどだ。
(まぁ、あの美しいお顔が眺め放題なのは嬉しいけれど!)
綺麗なものが好きなのは竜だけではない。エステルもだ。
ソルの、あの夜空を煮詰めたような艶のある漆黒の髪も、眩い黄金を切り出したような瞳も、意外と優しい声や柔らかな笑顔も何もかも。こんなにも美しいものがこの世にあるのかと思って、ついつい目が引き寄せられてしまうのだ。
(お会いするまで知らなかったのだけれど、ソル様には角や鱗があるのよね。高位貴族なのだから当然かしら。あの喉元の鱗なんか、朝の陽にきらきら光ってとっても綺麗だったわ……!)
つい先ほどの朝食の席を思い出し、エステルは感嘆の溜め息を吐いた。
様々な動植物の血筋を持つ亜人種でも、現代ではほぼ人と変わらない姿をしている者が多い。だが、高位貴族や先祖返りなど、一部の『血が濃い』者たちは違う。角や尾や牙、爪や鱗など、体のあちこちに種の片鱗が見られるのだ。
ソルの角や鱗は、光の加減で金色に輝く雷竜特有のもの。王族の竜たちも持つそれらは、建国の王である古の雷竜の血が濃いことを示している。
形ばかりでもこの美しい人の妻なのだと思うと、何とも畏れ多く、心がソワソワとして落ち着かない。
麗しい姿を見られて眼福だと思う反面、本当の妻ではない自分が見惚れて良いはずが無いと、自責の念が生まれてしまうのだ。だからエステルとしては、出来ればソルにはあまり姿を見せて欲しくはないのだが……。
「そういうわけにもいかないわよね……もうすぐお披露目もあるし」
ふぅ、と小さく息を吐きながら、エステルは今しがた完成したばかりのレースの図案を手に取った。
ひと月後に控えた王宮での夜会のために、夫婦で何か揃いのレース細工を造って欲しいと依頼を受けたのだ。依頼主はもちろん、夫であるソル。婚姻後初の大きな夜会ということもあり、エステルの披露目の場でもあるとのことだった。
どのような柄が良いかを聞いた時、ソルは少し口籠った後で「……星がいい」と言った。だから、エステル得意の星を散りばめたようなエステルシリーズをベースに、更に大小の星を取り入れた柄にした。
「うん、我ながら良い出来ね」
星がいいと言った時の、ソルの眼差しは真剣だった。そんなに星柄が好きなのかと思って、エステルは「星がお好きなのですか」と何気なく聞いてみた。そのときのソルの顔と言ったら。
(……ふふっ。星柄がお好きだなんて、少女みたい。あの時のお顔はかわいらしかったわ)
何故か顔を真っ赤にして、何度も大きく頷いたソルの姿を思い出しながら、エステルはクスクスと笑った。何だかとても良い気分だった。
***
あっという間に日々が過ぎ、エステルのお披露目を兼ねた夜会当日となった。
揃いで誂えた夜会服は艶のある漆黒をベースに、落ち着いた赤を差し色にした。二人の髪の色を連想させる色合いだ。幸せな新婚夫婦をアピールするにはちょうど良いだろう。
「すごく素敵だ。ありがとう、エステル」
「ふふ。どういたしまして」
どうにか間に合わせた純白のレースのクラバットを、ソルは甚く気に入ったようだった。何度も鏡を見ては目を輝かせ、揃いの柄のエステルのヘッドドレスを眺めて嬉しそうに微笑む。
(……何だか、くすぐったいわ)
ヘッドドレスの位置を直すふりをして、エステルはじっと見つめてくるソルから目を逸らした。
ソルのクラバットの留め具には、大きなエメラルドのブローチ。エステルのヘッドドレスには大粒のシトリンが添えられている。それぞれの瞳と同じ色の宝石だ。渾身のレースの美しさをより一層引き立ててくれるそれらが、本当の夫婦の証しであればどんなに良かったか。ソルに悟られないように、エステルは小さくため息を吐いた。
(世に名高い『美貌の大公様』は本当にすごいわ……好きになっても辛いだけだとわかっているのに……)
このひと月あまり、ソルはエステルを本当に大切にした。それはもう、大切な宝物のように扱った。常に紳士的で、素肌への接触などもってのほか。一度だけ、よろけた拍子にソルの手を触ったことがあったけれど、竜の皮膚のあまりの硬さにエステルは驚いてしまった。
やはり、人とは違うのだ。そう思ったけれど、そこには恐怖も嫌悪もなかった。ソルがどうしようもなく優しかったからだ。
暇さえあればあの手この手でエステルを笑顔にし、その笑顔を見てソルもまた笑顔になる。互いを尊重しながら過ごす穏やかで暖かな時間は、いつしかエステルの心を柔らかく包みこんでいった。
(困るわ……。まるで、本当に妻として求められているようで)
少しずつ、けれど確かに惹かれて、気付いた頃にはもう後戻りのしようもなかった。
雇い主ではなく、名ばかりの妻にも優しいお人よしの大公閣下でもなく、一人の男性としてソルを愛しく思っている。その事実は、エステルをとても憂鬱な気分にさせた。期待などしたくない、してはいけないと思うのに、その度にソルの柔らかな笑顔に心を動かされてしまう。
(ソル様は、どういうおつもりなのかしら……)
愛していると言葉でも態度でも伝えてくれる割に、亜人族が婚姻の証として体のどこかに噛み痕を残すという『咬合の儀』とやらの話は一向に出ない。それがどんなものなのかエステルはよく知らないが、亜人族の婚姻には欠かせないものだというから、きっと大切な儀式なのだろう。
(それをしないのは……やっぱり、私が単なる『花』だからよね)
夜会で『花』のお披露目が済めば、きっとすぐに由緒正しい正妻が迎えられるだろう。
以前から噂があった王家の姫ではなく、最近は獅子族の公爵家のご令嬢が熱心にアピールしているのだと噂で聞いた。ほぼ内定しているとご令嬢自身が触れ回っているそうだから、近いうちに公表されるのかもしれない。
(その時が来ても、ちゃんと祝福しなくちゃ)
そう思うものの、その日を想像するだけで正直な胸はズキリと痛んだ。
ソルはきっと、本当の妻のためのレースを依頼してくるだろう。そのときも今日と同じ星柄を希望するのだろうか。
(……だとしても大丈夫、心を込めて編めるわ)
エステルは、そっと自分に言い聞かせた。それと同時に心の片隅で、出来ることなら今日のために編んだこの星の図柄だけは、他の女性のためには使わないで欲しいと願った。
***
眩暈がするほど煌びやかな会場中を、エステルはソルに連れられて練りに練り歩いた。
貴族の夜会には付き物の挨拶回りというものだが、宰相大公ともなれば、ほぼ会場中の全員と言葉を交わすことになる。幼い頃に父に連れられて新年の宴に出たきり、夜会そのものに縁が無かったエステルは、あまりの目まぐるしさに視界の端でチカチカと星が舞うのを見た。
「大丈夫か、エステル。疲れただろう」
申し訳なさそうに言うソルもまた、気疲れを滲ませた顔をしている。
「ふふ、少しだけ疲れました。ありがとうございます」
長椅子に掛けるよう促すソルの手を取って、ボルドー色の上質な座面にゆっくりと腰を下ろす。
「ここにいてくれ。何か飲むものを持ってくる」
そう告げるが早いか、ソルはサッと人波の中に紛れていった。これだけの混雑のなかを、全くぶつからずにスルスルと歩けるのは大したものだ。流石の大貴族、こなしてきた場数が違うということだろうか。妙な関心をしていると、甲高い声が頭上から降ってきた。
「ちょっとアナタ!」
視線を上げてまず見えたのは、肩に流した豪奢な金の巻き髪と、燃え盛る炎のような朱色のドレス。砕いた螺鈿を縫い付けた生地がギラギラと輝き、はち切れんばかりの豊満な胸をこれでもかと引き立てている。エステルは瞬時に、それが誰かを理解した。
(今の社交界でこんな服を着こなせるのは、この方しかいないわ……獅子族のデンス公爵家のご令嬢、グロリア様)
即座に立ち上がり、そっと礼をする。一応、今のエステルには大公夫人という立派な肩書があるのだが、そんなものには何の意味もないということを、目の前に立つご令嬢の赤い瞳が物語っていた。
「……ふぅん、まぁまぁね。田舎の下位貴族だというから、もっと野暮ったいのかと思っていたわ」
家格と美貌に裏打ちされた圧倒的な自信。その塊だ、とエステルは感じた。大貴族然としたその態度は、いっそ清々しささえ感じられる。
「ま、仲良くしましょうね。いずれ私もアナタの主人になるんだから」
にっこりと微笑んで告げられたその言葉が、エステルの胸に重く響いた。まるで冷たい金属を飲み込んだかのように、静かに心が冷やされていく。
「……その時は、どうぞ宜しくお願いいたします」
小さくそう答えるのが精いっぱいだった。早くこの人の前から立ち去りたい。その一心で、エステルはもう一度小さく礼をして、そそくさと移動しようとした。それが、貴族界でも有名な激情家であるグロリアの気に触ってしまったようだった。
「待ちなさい」
低く、威嚇するような声が呼び止める。本当は人族の女など気に食わない、何様のつもりだ、という本音が滲み出た一言だった。
「……そのヘッドドレス、素敵ね。でもあなたの貧相な赤毛より、私の金の髪の方が映えそうだわ」
言うが早いか伸ばされた手を、エステルは顔を背けて必死に躱そうと試みた。けれど相手は身体能力に優れた獅子族。敵うわけもない。
ビリッ
嫌な音が響いた。聞き覚えのある悲しい音だ。レースが引き裂かれる音。俯いたまま、エステルは思わず唇を嚙みしめた。
グロリア様こそ、何様のつもりなのか。仮にも新妻の披露目の場で、本当の妻は自分だと宣言するだけではなく、恐らくは唯一の揃いのレースになるだろう想い出の品まで引き裂くだなんて。
悔しくて、腹立たしくて、涙が出そうだった。不敬と言われても構わない。トラブルを起こして大公家を追い出されることになっても、それでも一言文句を言いたい。そう思ってキッと顔を上げれば、そこにはソルの大きな背中があった。
(え、ソル様……?)
驚きに固まるエステルを背に、ソルが唸るように呟く。
「これはどういうことだ、グロリア・デンス」
低く、重く、雷鳴を孕んで空一面に立ち込める暗雲。そんな声だった。紛れもない怒りを載せたソルの声に、エステルはまたも驚いた。
(あらまぁ、そんな怖い声も出せるんですね……なんて、暢気なことを思っている場合じゃないわ!)
「ソ、ソル様……!」
今にも攻撃しそうな気配を漂わせる彼を止めなくては。そう思い、エステルは後ろからソルの腕を強く引いた。だが、見かけよりもずっと屈強な体はびくともしない。仕方なく前に回り込めば、無残に引き裂かれたソルのクラバットが目に飛び込んできた。
「あ……」
裂かれたのは、こちらだったのか。
「エステル! 危ないから下がっていてくれ」
ソルが慌てたようにそう言ったが、見る限りグロリアはすっかり戦意を喪失しているようだった。竜の本気の威嚇に耐えられる種族は少ない。今にも崩れ落ちそうに青褪めて、小刻みに震えてすらいる。これはまずい、とエステルは咄嗟に感じた。
「いいえ、下がりません。ここで事を大きくすれば、ソル様とグロリア様のご結婚にも障りがあります……!」
大公家と公爵家の婚姻など、簡単に覆せるものではない。ともすれば両家共に傷を負い、臣下同士の深い亀裂にも成り得てしまう。そんなことになれば国はどうなってしまうのか。そう焦るエステルだったが、ソルは途端に怪訝な顔になった。
「はっ?」
「えっ?」
思い切り『何を言っているのかわからない』という顔をするソルに、エステルもまた頭上に『?』を浮かべ、見つめ合ったまま数秒の間が空いた。
「……はぁあ!? グロリア嬢と結婚!? 俺が!? やめてくれ、そんな事あるわけないだろう! どうして君は、いつもそう斜め上の勘違いをするんだ……!」
エステルの肩を両手で掴んで、ソルは魂の叫びとばかりに訴えた。
「俺は、俺の妻に危害を加えるような女は大っ嫌いだ!!」
足されたその一言は、完全に委縮してしまっているグロリアへと向けられていた。最期のダメ押し、と言ったところだろうか。
しおしおと項垂れたグロリア嬢は、ボソボソと覇気のない声でエステルに謝罪した後、脱兎のごとく去っていった。ソルのダメ押しもさることながら、周囲からの憐れむような視線に耐えられなかったせいもあるだろう。
(ええと……、つまり、グロリア様との結婚は無いってこと? あらそれは、何だかちょっと嬉しいわ)
重く冷たかった胸の内が、ほわほわとした温かさで満たされていく。ほんのひと時のこととは言え、出来ることならまだもう少し、ソルの唯一の妻でありたい。
「エステル……ああもう、その顔はまだ伝わって無さそうだな!?」
ホッとした顔を見せたエステルに、ソルは溜息を吐きながら天を見上げた。それから困ったような苦笑いを浮かべて、真っすぐにエステルを見つめる。細い肩を包む両手は、随分と優しい手付きになっていた。
「何度でも言うけど、俺が好きなのは君だけだ。あのときからずっと!」
そう言うと、ソルは何かを観念したように語りだした。
***
それは、もう十年も前の夜会での出来事だった。
当時のソルは十五歳で、一族の長い歴史の中でも最強と言われる強大な力を、未だうまく制御できずに苛立っていた頃のこと。王宮で開かれた新年を祝う夜会で、ソルは誤って彼の母がとても大切にしているレースのショールを裂いてしまった。
決して故意ではなかった。それは母も、周囲の者も皆わかっていた。だから誰もソルを責めなかった。それが一層、ソルを罪悪感の檻に閉じ込めた。
亡き祖母から譲り受けた大切なショールを、寂しそうに撫でる母の手。大丈夫よ、あなたは悪くないわ。そう慰める声も、悲しみを隠した笑顔も、何もかもが若いソルの心を突き刺すようだった。
大変なことをしてしまった。
激しい動揺がソルの全身を包んだ。どうして自分はこうなんだろう。もう子供ではないというのに、自分の力さえ満足に制御できない。苛立ち紛れに、母に当たるかのように手を振り払った結果がこれだ。まるで小さな子供の癇癪ではないか。
自らに対する怒りと羞恥、そして強い自責の念で目の前が暗くなっていく。こんなことでは大公家の跡取りなど到底名乗れない、そう思った時だった。
「あの、よろしければ、わたくしがお直しいたしましょう」
幼い、けれど凛とした声が響いた。
いつだか童話で聞いた天上の鈴のような、軽やかで伸びやかで、心を明るく照らしてくれるような音。そう思いながらソルが振り向いた先には、それは見事なレースの髪飾りを付けた年端もいかない少女がいた。ふわふわと波打つ赤毛と、宝石のように輝く緑色の瞳。
「わたくしは、エステル・シルバともうします」
明らかにソルよりもだいぶ年下の少女は、そう言って小さな淑女らしく綺麗にお辞儀して見せた。
シルバ家と言えば、上質なレース細工で有名な子爵家。ソルがそう理解するよりも早く、エステルと名乗った少女は母の許可を取り、白い小花のような小さな手でそっとショールに触れた。
そしていつのまにか背後に控えていた側付きに短く何かを伝えた後、出された道具を受け取って、またショールに向き直る。
そこからはもう、魔法のようだった。「オウキュウショチですけれど」と少し舌ったらずな声で言いながら、周囲の者が目を瞠るような手際の良さで、裂かれた部分をサッと修繕して見せたのだ。ものの数分で、母のショールは遠目にはどこが破けたのかさえわからなくなった。
「おかえりになられたら、おかかえの針子に仕上げさせてください」
ふぅ、と一仕事終えたとばかりに息を吐く少女。母は目を潤ませながら感謝し、祖父や父は「これは先が楽しみなお嬢さんだ」と讃えた。
ソルは、まるで雷に打たれたかのようにその場に固まっていた。見る間に美しさを取り戻したショールと同時に、いびつな形に歪んでいた自身の心までもが、優しく編み直されたような気がした。
自分からも感謝を伝えたい、伝えなければと思うのに、足は動かず、口は魚のようにパクパクするばかり。ドクドクと鳴る心臓がやけにうるさくて、ソルは結局、何も伝えることが出来なかった。
騒ぎを聞きつけ走ってきたシルバ子爵に抱き上げられ、にこやかに去っていく少女。その後ろ姿を見つめながら、あの白く優しい小さな手で魔法のようにレースが紡がれる様を、もう一度見たいと強く思った。
その日から、十年に渡るソルの長い戦いが始まった。
王家の血を引く大公家の番には、これまで例外なく同じ竜族か、ごく一部の上流貴族が選ばれてきた。それを覆すためには、祖父や父はもちろん、その他の貴族たちに文句を言わせない功績と実力が必要だった。
ソルは、持って生まれた才を弛まぬ努力で鍛え抜いた。学業でも体術でも常にトップの成績を収め、宰相職の何たるかを祖父や父から懸命に学び、あらゆる分野の見識を貪欲に深めた。
血の滲むような十年だった。けれど、歯を食いしばって耐えた。『他を圧倒し、最年少で宰相の地位を父から継ぐ』ことが、筆頭貴族である大公家の慣例を破り、人族を正式な伴侶とするための、父からの条件だったからだ。
余談だが、ソルの祖父も両親も、十五歳のソルが「エステルを妻に迎えたい」と言った時、内心では大手を振って賛成していた。
どんな女性にもかなりの塩対応で、年頃になっても浮いた噂ひとつ無いソルを心底心配していたからだ。もう結婚してくれるなら相手の身分は問わないとまで思っていたことに加え、エステルにはショールの件で良い印象しかない。けれど、大公家が国の重鎮である以上、どうしても他貴族の目を気にしなければならなかった。
ソルの祖父と両親は慎重に準備を進め、少しずつ外堀を埋める手伝いをした。特に、ソルの伴侶の座を狙う獅子の公爵、デンス家には細心の注意を払った。
ソルがエステルに夢中だという事実が知られれば、エステルはきっとただでは済まない。場合によっては形振り構わず排除しようとしてくるはず。だからエステルのレースがどれだけ有名になろうとも、大公家からの接触は一切しなかった。
トルトニス大公家一同は、影ながらエステルに護衛を付けたり、デンス家の目を逸らすために王家と結託して姫の降嫁の噂を流したり、秘密裏にシルバ子爵と接触し「エステルが少しでも嫌がったら即刻離縁する」という条件付きで婚約の内示をもらったりしながら、ソルの足場が固まるその日をじっと待ったのだ。流石は竜の一族、並々ならぬ執着だ。
***
「あらまぁ、あのときの……えぇ、覚えていますわ。奥様のあのショールは、それはそれは素敵でしたもの」
「うん。わかっていたけど、ショールのことしか覚えていないね……わかっていたけど」
がっくりと肩を落とすソル。
その姿を前に、流石のエステルも少しばかり気まずさを感じた。あのときのショールは本当に見事で、今も細部までしっかりと思いだせる。けれどあの場にいた人々の顔や背格好となると……途端に不鮮明になってしまう。
今は王都外の領地にいるソルの両親にも勿論挨拶をしたが、今の今まで、大奥様があのときのご婦人だとは思い至らなかった。『ショールのことしか覚えていない』というソルの指摘はもっともで、返す言葉もない。
「父の許しが出てようやく君に求婚できたのに、君は職人として雇われたなんて勘違いをして……。何度言っても女主人の部屋を使ってくれないし、ちっとも俺を意識してくれないし、むしろ『何で毎日話しかけてくるんだろ?』みたいな顔してさぁ!」
滔々と溢れだすソルの言葉は徐々に勢いを増していく。これは相当、ストレスが溜まっていたようだ。その圧に負けて、エステルは思わず謝罪した。
「も、申し訳ありません……」
深く頭を下げ、エステルは本当に申し訳なく思った。竜と人の結婚は『花』としての就職であることが一般的だとは言え、ソルの言葉をあまりにも蔑ろにしてきてしまった。一体どれだけ傷つけてしまったことだろう。
眉を下げてシュンとするエステルに、今度はソルが言葉に詰まる。
「……謝って欲しいわけじゃないんだ。ただ、これだけは信じて欲しい。俺は君に、妻として側にいて欲しいと思っている。生涯ただ一人の、俺の『番』として」
疑いようのない誠実さと、同じくらいの切実さを滲ませて、真っすぐにエステルを見つめるソルの瞳。朝一番の陽の光を集めたような、美しく優しい金色だ。
(あらまぁ、なんて……)
それはこれまでに見たどんなものよりも美しかった。金銀財宝よりも、渾身のレース細工よりもずっと美しいその輝きが、エステルの心を明るく照らす。
「……っ」
エステルは思わず両手で顔を覆った。眩しい。嬉しい。愛しい。胸の内から鮮やかな感情がいくつも湧き上がる。抑えようもなく込み上げる何かで、目の奥が焼かれるように熱い。
「エステル!? ちょ、待って、泣くほど嫌ってこと……!?」
そう慌てるソルの方が泣きそうな顔をしている。というか、もう半分泣いている。
「ふふっ」
冷静沈着な美貌の大公閣下がオロオロと狼狽える様がおかしくて、エステルは申し訳なく思いながらも笑みを零した。
「あなたが私を好きだなんて、夢みたい!」
玉のような大粒の涙を溢れさせて、エステルは心底嬉しそうに笑った。白く丸い頬を透明な雫が伝う。それはまるで今開花したばかりの花弁を彩る朝露のようで、ソルは思わず見惚れてしまった。
周囲の貴族からも安堵と感嘆の溜息が漏れ聞こえる。皆遠巻きにしてはいるが、かなり注目を集めてしまったようだ。
「……満面の笑顔が見れたのは嬉しいけれど、ちょっとギャラリーが多いな」
はは、と苦笑いを零して、ソルはそっとエステルの手を取った。
「この際だから白状してしまうけど。誰かが君に縁談を申し込むたびに、俺は気が気じゃなかったんだ。何度相手を捻りつぶ……いや、牽制したかわからない」
「あらまぁ」
エステルは僅かに呆れを滲ませた声を出した。
(道理で、どのお話も立ち消えるわけだわ……。でも良かった、この容姿のせいじゃなかったのね)
ふと視線を下げれば、ちょうどエステルの目の高さにあるクラバットが目に入った。派手に裂かれてしまっているが、修繕が不可能なほどではない。直したところで流石にもう夜会で身に着けることは出来ないだろうが、大事な記念として取っておくくらいなら。
「……よろしければ、私がお直しいたしましょう」
つつ、とクラバットに手を添わせてそう告げれば、ソルは一瞬何かを思い出したように目を瞠り、それから優しく笑って言った。
「ああ、頼む。大事なものなんだ。何せ、妻が揃いで編んでくれた初めてのレースだからね」
「まぁ」
嬉しそうに微笑むエステルの顔は、遠いいつかと重なるようだった。『彼女にもう一度会いたい』と、そう強く願った幼いあの日を思い出して、ソルの胸がきゅうと締め付けられた。
「エステル」
そっと呼んで、ソルはゆっくりとその場に跪いた。右手を差し出し、左手を心臓に添えて、しっかりとエステルを見上げる。女王陛下に生涯の忠誠を誓うように、あるいは騎士が主君に剣を捧げるように。
「君が好きだ。どうか俺だけの星になって欲しい」
星。俺だけの星。
エステルはパチリと瞬きをした。そして思い当たる『星』の意味。いつだか父から聞いたことがある。
(私の名前……エステルは、古い言葉で星を意味するのだと……)
どんな柄がいいかと聞いた時、ソルは星柄が好きだと言った。いや、正しくは『星』が好きだと言ったのだ。それが何を意味するのか、もうどんなに鈍いエステルにでもわかった。
(あらまぁ、そういう意味だったのね……!)
エステルを見上げたまま返事を待つソルは、どこか所在無げな子犬のような顔をしている。美貌の最年少大公も、たった一人の愛する星の前では形無しだ。
いつしか周囲も固唾を呑んで見守って、王宮の楽団の演奏もいつの間にか止まっていた。シンと静まり返る会場の中、エステルはとびきりの笑顔を見せて、差し出されたソルの右手を両手で握った。
「ええ、ええ、勿論よ……!」
一拍の間をおいて、ワッと上がる歓声。次いで祝福の雨のように降り注ぐ拍手。それに後押しされるように立ち上がったソルは、言葉にならない喜びを込めて、エステルをしっかりと抱きしめた。おずおずと背に回されるエステルの腕がまた愛らしくて、ソルは一層腕に力を込めた。細い体を潰してしまわないように、ちゃんと加減することも忘れずに。
「ところでエステル、提案なんだが……」
「はい?」
「この柄は、俺たちだけのものにして欲しいな」
エステルのヘッドドレスに口付けながら、ソルは強請るようにそう言った。
「まぁ! ちょうど私もそう思っていたところなの」
気が合うわ、と笑うエステルに、若干の苦笑いで返すソル。
気付けば王と王妃までもが二人に向かって拍手をしていて、エステルは慌ててお辞儀をした。会場の端では父が感動にむせび泣いている。その肩を笑って叩いているのは、ソルの父である前大公だ。その光景が畏れ多くも微笑ましくて、エステルは微笑みながら会釈した。
「うーん……まだちゃんとわかって無さそうだけど、まぁいいか」
「え? 何です?」
「いいや、何でもない」
おいおいわかってもらうよ、とソルは小さく呟いた。小首を傾げたエステルは、竜の独占欲がいかに強くしつこいかを、その晩、身をもって知ることとなった。
翌朝、だいぶ遅い時間にようやく起き上がれたエステルのうなじには、正式な番の証である噛み痕がくっきりと残っていた。
***
「あらぁ、ソルが獣化してるわね」
うららかな日差しに目を細めながら、前大公夫人が窓の外を眺めて言う。その視線の先には、はるか上空を舞う金色の竜の影。
「久々だな。前回は……エステルと正式に番になった翌朝だったか?」
呆れを滲ませ、前大公が「仕方のない奴め」と言いたげに溜息を吐く。テーブルを挟んで座るエステルは、名実ともに義両親となった前大公夫妻の視線に苦笑いを零した。
ソルのような特に血の濃い亜人族は、しばしば獣形態へと変化することがある。主に感情の高ぶりが原因で、幼い頃には意図せず変化してしまうことも多かったのだとか。
普段は冷静沈着なソルも、エステルのこととなると未だに感情の制御が効かないようだ。今朝エステルがあることを耳打ちしてから、ずっと空を飛び回っている。
「で、何があったのかしら?」
獣化の原因は何なのか。何がそんなに嬉しかったのか。
不思議そうにエステルを見つめて問う前大公夫人に、エステルは少し迷った末に、照れ臭そうに両手でお腹を擦った。
「……まぁ!」
「おお、本当か!? でかした!」
喜び勇んだ前大公夫妻の命により、数日後には身内の者だけの祝宴が開かれた。
その後ソルとの間に二男三女の子宝に恵まれたエステルのレースは『子宝・安産祈願』のお守りとして一大ブームとなるのだが、それはまだ少し先のお話だ。
了
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同シリーズをオムニバス形式で少しずつ書いていきたいと思います。
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