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【後日談】悪役令嬢として断罪される予定でしたが、領地のホワイト化に忙しいので定時後にお願いします

作者: 杜陽月
掲載日:2026/03/26

本編(N6958LY)の後書きでお約束した後日談です。

反響をいただき、書くことができました。ありがとうございます。


前半:聖女イリス視点/後半:リーゼロッテ視点の二部構成。

定時の鐘は、届かない


「聖女様……次の方です……」


 夜明け前から、列は途切れない。


 私は手のひらを(かざ)した。淡い光が指先から溢れ、目の前の男の腕に染み込んでいく。骨折だった。昨日も同じ箇所を治した。同じ男だった。


「……はい」


 次。


 手のひらを(かざ)す。光が流れる。治る。次。また、手のひらを(かざ)す。


 半年間、毎日これを繰り返している。


 王子領の朝は、いつも灰色だった。


 空が曇っているわけではない。人の顔に、色がないのだ。


 目の前に並ぶ領民たちは、誰も私の顔を見ない。私の手だけを見ている。


 ——正確には、私の手から出る光だけを。


 聖女様。聖女様。聖女様。


 誰もが、そう呼ぶ。


 半年前、あの大広間で王子殿下に選ばれた時、私は嬉しかった。聖女として必要とされている。この力で、誰かを救えるのだと。


 あの女性——リーゼロッテ様が、大広間を去っていった。振り返らなかった。靴音だけが、沈黙の広間に響いていた。


 私はただ、その背中を見送った。


 殿下の手を取ったのは、私だ。聖女の力で、この領地を支える。あの日、それが私の役目になった。


 でも——半年経った今、この領地はどうなったか。


 残っているのは私と、王子殿下と、逃げ遅れた人たちだけだ。


 水路が壊れている。


 誰も直せない。技術者はもういない。


 断罪の日、あの女性が宣言した通りだった。技術者も、商人も、資材も、全て引き揚げられた。


 壊れた水路から泥水が畑に流れ込んだ。今季の作物は、半分以上が駄目になった。


 市場には商品がほとんど並ばない。鉱山の産出量は激減し、精錬技術を持つ者もいない。


 食料の蓄えも底をつきかけている。隣領からの流通が途絶え、値段は日に日に上がっていた。


 城壁の修繕は途中で止まっている。崩れかけた石材が、雨ざらしだ。


 治癒所への道すがら、いつもその光景を目にする。


 空き家が増えていた。窓板を外して薪にした痕が残る家。扉が開いたまま放置された工房。かつて活気があったはずの通りに、埃が積もっている。


 残った領民たちは、疲れた足を引きずって治癒所に並ぶ。怪我人と、病人と、栄養が足りずに倒れた老人。


 列の先頭にいるのは、いつも同じ顔ぶれだ。今日治しても、明日にはまた並んでいる。


 列は日の出前に始まり、日が落ちても途切れない。


 私がいなければ、この人たちは怪我すら治せない。それだけが、私がここにいる理由だった。


「代わりの者を連れて来い!」


 王子殿下の怒声が、廊下の向こうから響いた。


「使える者は——使える者はおらんのか!」


 毎日聞く声だ。半年前は威厳があった。今は、ただ甲高い。


 誰も応えない。応える者が、もういないのだ。


 側近も半分以上が去った。残った者たちは殿下の顔色を窺うだけだ。誰も現状を変えようとしない。変える方法を、誰も知らない。


 殿下が、私の治癒所にやってきた。


「お前がいれば大丈夫だ、イリス。お前の力があれば——」


 私の名前を呼ぶのは、この領地で殿下だけだ。


 領民は「聖女様」としか言わない。


 でも——殿下が呼ぶ「イリス」も、私のことではない。


 殿下が見ているのは、私の手だ。私の手から出る光だ。


 怪我を治す機能。倒れた領民を明日も働かせるための道具。


 殿下の目は、いつも私の手に向いている。目を合わせるのではなく、手を見ている。


 最初は気づかなかった。必要とされることが嬉しくて、殿下の笑顔だけで十分だった。


 でも、半年経った今、分かる。


 あの笑みは——壊れた道具が直った時の、安堵だ。


(私の名前を呼ぶのは、殿下だけ。——でもそれは、「私」を見ているのではない)


 あの大広間の光景が、蘇る。


 殿下は私の手を取って、掲げた。


「聖女イリスこそ、この私にふさわしい」


 そう宣言した。あの時、広間中が私を見ていた。


 いいえ——私の光を見ていた。百を超える貴族たちの扇の向こう、値踏みするような視線。あの時から、何も変わっていなかった。


 この領地で、私の名前を知る者はどれだけいるだろう。


 聖女イリス。「聖女」が肩書きで、「イリス」が名前だ。


 でも誰も「イリス」とは呼ばない。殿下だけが呼ぶ。呼ぶだけだ。名前を呼んでも、私を見てはいない。


 あの大広間で、「巻き添え」にされたのだ。


 選ばれたのではなく——使われていたのだ。


 あの女性が一年かけて築いた水路も、商路も、技術者たちも。その全てが引き揚げられた。


 残されたのは、壊れた領地と、壊れた人。


 そして——それを治し続ける、私だけ。


 それに気づいた時、涙は出なかった。泣く気力さえ、もう残っていない。


 今日も、倒れた領民を治癒する。


 光が流れる。骨が繋がる。肌が塞がる。


 でも、この人は明日もまた倒れるだろう。


 休みがない。報酬は滞っている。食事は一日一回。


 それでも働かなければ、もっと悪くなる。


 昨日治した老人が、今朝また列に並んでいた。過労で膝が砕けたのだ。治しても、翌日から同じだけ働かされる。体は治る。でも暮らしは治らない。


 若い女が子供を抱えて来た。子供の腕が折れている。


 親が畑に出ている間に転んだのだと。幼い子が幼い子の面倒を見ている。日没まで親は帰ってこないから。


 光を注ぐ。骨が繋がる。子供は泣き止む。


 母親が頭を下げた。


「ありがとうございます、聖女様」


 また「聖女様」だ。この子の名前も、母親の名前も、私は知らない。誰も名乗らない。私も聞けない。


 でも、また折れるだろう。明日も、この子は一人で過ごすのだから。


「治しても、治しても……。この方たち、明日もまた倒れるのでしょう?」


 誰にともなく呟いた。


 私は怪我を治せる。病を癒せる。


 でも——人が壊れる仕組み(・・・)は、治せない。


 この仕組みが人を壊す。私はそれを治す。治して、また壊される。


 どれだけ治しても、壊す側が変わらなければ、何も変わらない。


 半年間。毎日。同じことの繰り返しだった。


 いつか、この繰り返しは終わるのだろうか。


 終わる方法があるのだろうか。


 その答えは、思いがけない形でやってきた。


 夕刻、治癒所の隅に、見知らぬ男がうずくまっていた。


 衣服はぼろぼろで、足の裏は血が滲んでいる。遠くから歩いてきたのだ。


「聖女様……」


 男は私を見上げて、少し首を傾げた。


「……いや。あんたに名前はあるのかい?」


 息が、止まった。


 半年間、誰にも聞かれなかった問い(・・)だった。


 名前。私の名前。


「聖女様」でも「お前の力」でもない、私自身の——。


 この人は今、私の光ではなく、私を見ている。


「——隣の領じゃあ、鐘が六つ鳴ると全員帰れるんだと。嘘みてえな話だが——あそこじゃ誰も倒れねえらしい」


 鐘が六つ。全員帰れる。


 誰も、倒れない。


 ——そんな場所が、あるのだろうか。


 私は知らなかった。「治す」以外の方法で、人を救えることを。


 人が壊れない仕組みがあるなら——そもそも治す必要がないのだ。


 男の足を治しながら、その言葉だけが頭の中で鳴り続けていた。


 鐘が六つ鳴ると、全員帰れる——。



 同じ空の下、別の領で鐘が鳴る。


(もうすぐ日の鐘六つ。今日も無事に終わる)


 ヴァイスガルテン領の夕刻。


 窓辺に置いた紅茶から、湯気が細く立ち上っている。今日一日の書類仕事を終え、最後の報告書に目を通したところだ。数字は順調。人の暮らしが回っている証拠の数字。


 執務室の窓から見える通りでは、露店の商人が品物を片付け始めている。


 工房の煙突から最後の煙が上がる。鍛冶屋の槌音(つちおと)がひとつ、ふたつ、と間遠になっていく。


 帰り支度だ。鐘が鳴る前から、領民たちは自然と手を止める。


 半年前、この光景を信じる者は誰もいなかった。鐘が鳴っても誰も帰ろうとしなかった。帰ったら明日の仕事がなくなると、本気で怯えていた頃だ。


 今では当たり前の日常になっている。


 子供たちが広場で駆け回っていた。鍛冶屋の親方が隣の仕立屋と笑いながら手を振り合っている。どこかの窓から、夕餉(ゆうげ)の支度の匂いが漂ってきた。


 人の顔に、色がある。声がある。笑いがある。


 一年半前、死んだ目をしていた人たちの面影は、もうどこにもない。


「——ですから、漁は潮に従います。鉱脈は季節を選びません。定時の鐘で解決する話ではないのです」


 執務机の向かいに座る男が、穏やかだが確かな声で言った。


 ヴェルナー辺境伯。隣領の若い領主で、ここ数ヶ月は月に二度ほど視察に通っている。


 いつも律儀に書状で日程を知らせてから来るのだが、毎回なぜか見事な花束も一緒だ。今日も執務机の脇に、彼が持ってきた白い花が活けてある。


(前回の白百合は、明らかに経営視察に持ってくるものではなかった)


 ——まあ、それはさておき。


 彼の話を整理すると、こういうことだ。今日の相談は、これまでの視察で最も具体的だった。定時の鐘を自領にも導入したいが、漁業と鉱業には固有の事情がある——。


 漁村は潮に合わせて働くため、固定の定時制が当てはまらない。鉱山は季節を問わず掘り続ける必要があるが、坑内の長時間作業は危険だと。


 漁村の問題は単純ではない。潮の満ち引きは毎日約半刻ずれる。昨日と今日では最適な出漁時間が違い、「何刻に出て何刻に帰る」とは決められないのだ。


 さらに秋の回遊魚の季節には、夜通しの漁が必要になるという。二ヶ月の間に一年分の漁獲を確保しなければ、漁師の生計が成り立たない。


 鉱山も同様だった。坑内の気温と酸素の問題で、長時間の連続作業は命に関わる。しかし採掘の途中で帰れば、翌日には坑道が変形するリスクがある。


「ええ。父が鉱山の落盤で命を落としました。安全管理を変えたいのですが、何をどう変えればいいのかが分からないのです」


 彼の目は真剣だった。白々しい社交辞令ではない。本当に、答えを探している目だ。


 二年前のことだという。領民を庇い、父は還らなかった。「人を大切にする」ことを、文字通り命で示した人だ。


 ヴェルナー辺境伯がこの領地に通い続ける理由は、経営手法への関心だけではない。父を奪った鉱山の事故を、二度と起こしたくないのだ。


(変形労働時間制——この世界の言葉で言えば……)


 前世の知識が、頭の中で組み上がっていく。


 繁忙期と閑散期で労働時間を傾斜配分し、月間の総労働時間は固定する。前世では変形労働時間制と呼ばれた仕組みだ。


 それを、この世界の言葉に翻訳する。前世ではただの苦痛だった知識が、ここでは人を救う道具になる。この翻訳作業が、実は嫌いではない。


「漁村は潮のシフト制にしましょう。繁忙期の超過分は、閑散期に休日で返す。年間で帳尻を合わせれば、漁師の体も保てます」


 辺境伯が頷く。


「鉱山は坑内四刻、坑外二刻の交代制にして、一日の坑内時間に上限を設けます」


 掘る前に坑道を点検する時間も、労働に含める。地上での通気確認や工具の手入れも、立派な仕事だ。


「掘る前に確認する」を制度にすれば、落盤のリスクは減らせる。彼の父を奪った事故を、二度と起こさないために。


「なるほど」


 辺境伯が呟いた。口癖だ。でもその「なるほど」には、理解の確かさがある。


「つまり『いつ働くか』ではなく、『どれだけ休めるか』で設計するのですね」


 ——この人は、分かっている。


 私が一時間かけて説明した概念を、一文で要約した。


 彼は私の説明を遮らない。疑問があれば的確に問い、理解すれば自分の言葉で言い換える。


 前世の上司にこういう人が一人でもいたなら、私は過労死していなかったかもしれない。


「お嬢様、辺境伯様にもお茶をお持ちしました。もうすぐ定時ですので」


 マリアが盆を手に入ってきた。


 湯気の立つカップを二つ、机の上に並べる。領地産の新しい茶葉の、柔らかな香り。


 ——そのとき、日の鐘六つが鳴った。


 澄んだ音が、夕暮れの領地に広がっていく。


 一年半前から領地を包み続けている音だ。最初は怯えの合図だった。今は——安心の合図。


 窓の外で、領民たちが一斉に歩き出した。工房の扉が閉まり、市場の(ほろ)が畳まれ、石畳の道に帰宅の足音が満ちていく。


 誰に急かされるでもなく、誰に許可を取るでもなく。鐘の音に導かれて、自然に帰っていく。


 鉱山帰りの職人が、明日の段取りを話しながら通りを歩いている。肉屋のおかみさんが、近所の子供に残り物を分けていた。噴水の前では、老夫婦が並んで夕陽を眺めている。


 誰もが帰る場所を持っている。帰る時間を、持っている。


 辺境伯が、窓の外を見ていた。


 マリアの笑顔と、鐘に応じて帰路につく領民たちを。


 しばらく無言だった。


「……なぜ、ここまで人を大切にされるのですか」


 鐘の余韻が消えた、静かな執務室で、辺境伯が言った。


 定時を過ぎている。マリアはもう退室した。二人きりだった。


 窓から差し込む夕焼けが、彼の横顔を照らしている。


 答えに、少し詰まった。


 前世の記憶が、喉元まで上がってくる。蛍光灯の白い光。冷たいデスク。押せなかった退勤ボタン。守れなかった部下たち。


「……大切にされなかった人を、知っていますので」


 それ以上は言えなかった。言えば、この世界の言葉では説明できないものが溢れてしまう。


 辺境伯は、深く頷いた。追及はしなかった。


 その目が、ほんの一瞬だけ伏せられた。父を失った人の目だった。「大切にされなかった」痛みを、この人は別の形で知っている。


 私の言葉の奥に何があるのか。全てはわからなくても。


 ——痛みの重さだけは、この人には伝わった気がした。


 しばらく、二人とも黙ったまま紅茶を飲んでいた。紅茶の温度が、ちょうどよくなっていた。茶葉の柔らかな甘みが口に広がる。


 鐘の余韻が薄れ、窓の外に宵の気配が忍び込んできた頃。


 彼は穏やかに言った。


「次は、私の領地にもいらしてください。漁村の朝は早いので——前泊をお勧めします」


 書状だけだった人が、毎月通うようになった。


 花束を持って。


 そして今——前泊を勧めている。


(……これは出張……? それとも……いや、定時後に考えよう)


 ——と思ってから、気づいた。


 もう、定時を過ぎている。


 窓の外で、鐘の余韻が消えていく。


 夕焼けが、執務室を琥珀色に染めていた。


 窓を閉めようとして、やめた。


 この音をもう少しだけ聞いていたかった。隣の領にも、その先の領にも、いつかこの音が届く日が来ればいい。


 この鐘の音が、もう少しだけ遠くまで届けばいい。


 ——定時後に、そう思った。


お読みいただきありがとうございます。


お楽しみいただけましたら、★評価やブックマークで応援いただけると励みになります。

定時の鐘がもう少し遠くまで届く話も、いつか書けたらと思っています。

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