【後日談】悪役令嬢として断罪される予定でしたが、領地のホワイト化に忙しいので定時後にお願いします
本編(N6958LY)の後書きでお約束した後日談です。
反響をいただき、書くことができました。ありがとうございます。
前半:聖女イリス視点/後半:リーゼロッテ視点の二部構成。
定時の鐘は、届かない
「聖女様……次の方です……」
夜明け前から、列は途切れない。
私は手のひらを翳した。淡い光が指先から溢れ、目の前の男の腕に染み込んでいく。骨折だった。昨日も同じ箇所を治した。同じ男だった。
「……はい」
次。
手のひらを翳す。光が流れる。治る。次。また、手のひらを翳す。
半年間、毎日これを繰り返している。
王子領の朝は、いつも灰色だった。
空が曇っているわけではない。人の顔に、色がないのだ。
目の前に並ぶ領民たちは、誰も私の顔を見ない。私の手だけを見ている。
——正確には、私の手から出る光だけを。
聖女様。聖女様。聖女様。
誰もが、そう呼ぶ。
半年前、あの大広間で王子殿下に選ばれた時、私は嬉しかった。聖女として必要とされている。この力で、誰かを救えるのだと。
あの女性——リーゼロッテ様が、大広間を去っていった。振り返らなかった。靴音だけが、沈黙の広間に響いていた。
私はただ、その背中を見送った。
殿下の手を取ったのは、私だ。聖女の力で、この領地を支える。あの日、それが私の役目になった。
でも——半年経った今、この領地はどうなったか。
残っているのは私と、王子殿下と、逃げ遅れた人たちだけだ。
水路が壊れている。
誰も直せない。技術者はもういない。
断罪の日、あの女性が宣言した通りだった。技術者も、商人も、資材も、全て引き揚げられた。
壊れた水路から泥水が畑に流れ込んだ。今季の作物は、半分以上が駄目になった。
市場には商品がほとんど並ばない。鉱山の産出量は激減し、精錬技術を持つ者もいない。
食料の蓄えも底をつきかけている。隣領からの流通が途絶え、値段は日に日に上がっていた。
城壁の修繕は途中で止まっている。崩れかけた石材が、雨ざらしだ。
治癒所への道すがら、いつもその光景を目にする。
空き家が増えていた。窓板を外して薪にした痕が残る家。扉が開いたまま放置された工房。かつて活気があったはずの通りに、埃が積もっている。
残った領民たちは、疲れた足を引きずって治癒所に並ぶ。怪我人と、病人と、栄養が足りずに倒れた老人。
列の先頭にいるのは、いつも同じ顔ぶれだ。今日治しても、明日にはまた並んでいる。
列は日の出前に始まり、日が落ちても途切れない。
私がいなければ、この人たちは怪我すら治せない。それだけが、私がここにいる理由だった。
「代わりの者を連れて来い!」
王子殿下の怒声が、廊下の向こうから響いた。
「使える者は——使える者はおらんのか!」
毎日聞く声だ。半年前は威厳があった。今は、ただ甲高い。
誰も応えない。応える者が、もういないのだ。
側近も半分以上が去った。残った者たちは殿下の顔色を窺うだけだ。誰も現状を変えようとしない。変える方法を、誰も知らない。
殿下が、私の治癒所にやってきた。
「お前がいれば大丈夫だ、イリス。お前の力があれば——」
私の名前を呼ぶのは、この領地で殿下だけだ。
領民は「聖女様」としか言わない。
でも——殿下が呼ぶ「イリス」も、私のことではない。
殿下が見ているのは、私の手だ。私の手から出る光だ。
怪我を治す機能。倒れた領民を明日も働かせるための道具。
殿下の目は、いつも私の手に向いている。目を合わせるのではなく、手を見ている。
最初は気づかなかった。必要とされることが嬉しくて、殿下の笑顔だけで十分だった。
でも、半年経った今、分かる。
あの笑みは——壊れた道具が直った時の、安堵だ。
(私の名前を呼ぶのは、殿下だけ。——でもそれは、「私」を見ているのではない)
あの大広間の光景が、蘇る。
殿下は私の手を取って、掲げた。
「聖女イリスこそ、この私にふさわしい」
そう宣言した。あの時、広間中が私を見ていた。
いいえ——私の光を見ていた。百を超える貴族たちの扇の向こう、値踏みするような視線。あの時から、何も変わっていなかった。
この領地で、私の名前を知る者はどれだけいるだろう。
聖女イリス。「聖女」が肩書きで、「イリス」が名前だ。
でも誰も「イリス」とは呼ばない。殿下だけが呼ぶ。呼ぶだけだ。名前を呼んでも、私を見てはいない。
あの大広間で、「巻き添え」にされたのだ。
選ばれたのではなく——使われていたのだ。
あの女性が一年かけて築いた水路も、商路も、技術者たちも。その全てが引き揚げられた。
残されたのは、壊れた領地と、壊れた人。
そして——それを治し続ける、私だけ。
それに気づいた時、涙は出なかった。泣く気力さえ、もう残っていない。
今日も、倒れた領民を治癒する。
光が流れる。骨が繋がる。肌が塞がる。
でも、この人は明日もまた倒れるだろう。
休みがない。報酬は滞っている。食事は一日一回。
それでも働かなければ、もっと悪くなる。
昨日治した老人が、今朝また列に並んでいた。過労で膝が砕けたのだ。治しても、翌日から同じだけ働かされる。体は治る。でも暮らしは治らない。
若い女が子供を抱えて来た。子供の腕が折れている。
親が畑に出ている間に転んだのだと。幼い子が幼い子の面倒を見ている。日没まで親は帰ってこないから。
光を注ぐ。骨が繋がる。子供は泣き止む。
母親が頭を下げた。
「ありがとうございます、聖女様」
また「聖女様」だ。この子の名前も、母親の名前も、私は知らない。誰も名乗らない。私も聞けない。
でも、また折れるだろう。明日も、この子は一人で過ごすのだから。
「治しても、治しても……。この方たち、明日もまた倒れるのでしょう?」
誰にともなく呟いた。
私は怪我を治せる。病を癒せる。
でも——人が壊れる仕組みは、治せない。
この仕組みが人を壊す。私はそれを治す。治して、また壊される。
どれだけ治しても、壊す側が変わらなければ、何も変わらない。
半年間。毎日。同じことの繰り返しだった。
いつか、この繰り返しは終わるのだろうか。
終わる方法があるのだろうか。
その答えは、思いがけない形でやってきた。
夕刻、治癒所の隅に、見知らぬ男がうずくまっていた。
衣服はぼろぼろで、足の裏は血が滲んでいる。遠くから歩いてきたのだ。
「聖女様……」
男は私を見上げて、少し首を傾げた。
「……いや。あんたに名前はあるのかい?」
息が、止まった。
半年間、誰にも聞かれなかった問いだった。
名前。私の名前。
「聖女様」でも「お前の力」でもない、私自身の——。
この人は今、私の光ではなく、私を見ている。
「——隣の領じゃあ、鐘が六つ鳴ると全員帰れるんだと。嘘みてえな話だが——あそこじゃ誰も倒れねえらしい」
鐘が六つ。全員帰れる。
誰も、倒れない。
——そんな場所が、あるのだろうか。
私は知らなかった。「治す」以外の方法で、人を救えることを。
人が壊れない仕組みがあるなら——そもそも治す必要がないのだ。
男の足を治しながら、その言葉だけが頭の中で鳴り続けていた。
鐘が六つ鳴ると、全員帰れる——。
◇
同じ空の下、別の領で鐘が鳴る。
(もうすぐ日の鐘六つ。今日も無事に終わる)
ヴァイスガルテン領の夕刻。
窓辺に置いた紅茶から、湯気が細く立ち上っている。今日一日の書類仕事を終え、最後の報告書に目を通したところだ。数字は順調。人の暮らしが回っている証拠の数字。
執務室の窓から見える通りでは、露店の商人が品物を片付け始めている。
工房の煙突から最後の煙が上がる。鍛冶屋の槌音がひとつ、ふたつ、と間遠になっていく。
帰り支度だ。鐘が鳴る前から、領民たちは自然と手を止める。
半年前、この光景を信じる者は誰もいなかった。鐘が鳴っても誰も帰ろうとしなかった。帰ったら明日の仕事がなくなると、本気で怯えていた頃だ。
今では当たり前の日常になっている。
子供たちが広場で駆け回っていた。鍛冶屋の親方が隣の仕立屋と笑いながら手を振り合っている。どこかの窓から、夕餉の支度の匂いが漂ってきた。
人の顔に、色がある。声がある。笑いがある。
一年半前、死んだ目をしていた人たちの面影は、もうどこにもない。
「——ですから、漁は潮に従います。鉱脈は季節を選びません。定時の鐘で解決する話ではないのです」
執務机の向かいに座る男が、穏やかだが確かな声で言った。
ヴェルナー辺境伯。隣領の若い領主で、ここ数ヶ月は月に二度ほど視察に通っている。
いつも律儀に書状で日程を知らせてから来るのだが、毎回なぜか見事な花束も一緒だ。今日も執務机の脇に、彼が持ってきた白い花が活けてある。
(前回の白百合は、明らかに経営視察に持ってくるものではなかった)
——まあ、それはさておき。
彼の話を整理すると、こういうことだ。今日の相談は、これまでの視察で最も具体的だった。定時の鐘を自領にも導入したいが、漁業と鉱業には固有の事情がある——。
漁村は潮に合わせて働くため、固定の定時制が当てはまらない。鉱山は季節を問わず掘り続ける必要があるが、坑内の長時間作業は危険だと。
漁村の問題は単純ではない。潮の満ち引きは毎日約半刻ずれる。昨日と今日では最適な出漁時間が違い、「何刻に出て何刻に帰る」とは決められないのだ。
さらに秋の回遊魚の季節には、夜通しの漁が必要になるという。二ヶ月の間に一年分の漁獲を確保しなければ、漁師の生計が成り立たない。
鉱山も同様だった。坑内の気温と酸素の問題で、長時間の連続作業は命に関わる。しかし採掘の途中で帰れば、翌日には坑道が変形するリスクがある。
「ええ。父が鉱山の落盤で命を落としました。安全管理を変えたいのですが、何をどう変えればいいのかが分からないのです」
彼の目は真剣だった。白々しい社交辞令ではない。本当に、答えを探している目だ。
二年前のことだという。領民を庇い、父は還らなかった。「人を大切にする」ことを、文字通り命で示した人だ。
ヴェルナー辺境伯がこの領地に通い続ける理由は、経営手法への関心だけではない。父を奪った鉱山の事故を、二度と起こしたくないのだ。
(変形労働時間制——この世界の言葉で言えば……)
前世の知識が、頭の中で組み上がっていく。
繁忙期と閑散期で労働時間を傾斜配分し、月間の総労働時間は固定する。前世では変形労働時間制と呼ばれた仕組みだ。
それを、この世界の言葉に翻訳する。前世ではただの苦痛だった知識が、ここでは人を救う道具になる。この翻訳作業が、実は嫌いではない。
「漁村は潮のシフト制にしましょう。繁忙期の超過分は、閑散期に休日で返す。年間で帳尻を合わせれば、漁師の体も保てます」
辺境伯が頷く。
「鉱山は坑内四刻、坑外二刻の交代制にして、一日の坑内時間に上限を設けます」
掘る前に坑道を点検する時間も、労働に含める。地上での通気確認や工具の手入れも、立派な仕事だ。
「掘る前に確認する」を制度にすれば、落盤のリスクは減らせる。彼の父を奪った事故を、二度と起こさないために。
「なるほど」
辺境伯が呟いた。口癖だ。でもその「なるほど」には、理解の確かさがある。
「つまり『いつ働くか』ではなく、『どれだけ休めるか』で設計するのですね」
——この人は、分かっている。
私が一時間かけて説明した概念を、一文で要約した。
彼は私の説明を遮らない。疑問があれば的確に問い、理解すれば自分の言葉で言い換える。
前世の上司にこういう人が一人でもいたなら、私は過労死していなかったかもしれない。
「お嬢様、辺境伯様にもお茶をお持ちしました。もうすぐ定時ですので」
マリアが盆を手に入ってきた。
湯気の立つカップを二つ、机の上に並べる。領地産の新しい茶葉の、柔らかな香り。
——そのとき、日の鐘六つが鳴った。
澄んだ音が、夕暮れの領地に広がっていく。
一年半前から領地を包み続けている音だ。最初は怯えの合図だった。今は——安心の合図。
窓の外で、領民たちが一斉に歩き出した。工房の扉が閉まり、市場の幌が畳まれ、石畳の道に帰宅の足音が満ちていく。
誰に急かされるでもなく、誰に許可を取るでもなく。鐘の音に導かれて、自然に帰っていく。
鉱山帰りの職人が、明日の段取りを話しながら通りを歩いている。肉屋のおかみさんが、近所の子供に残り物を分けていた。噴水の前では、老夫婦が並んで夕陽を眺めている。
誰もが帰る場所を持っている。帰る時間を、持っている。
辺境伯が、窓の外を見ていた。
マリアの笑顔と、鐘に応じて帰路につく領民たちを。
しばらく無言だった。
「……なぜ、ここまで人を大切にされるのですか」
鐘の余韻が消えた、静かな執務室で、辺境伯が言った。
定時を過ぎている。マリアはもう退室した。二人きりだった。
窓から差し込む夕焼けが、彼の横顔を照らしている。
答えに、少し詰まった。
前世の記憶が、喉元まで上がってくる。蛍光灯の白い光。冷たいデスク。押せなかった退勤ボタン。守れなかった部下たち。
「……大切にされなかった人を、知っていますので」
それ以上は言えなかった。言えば、この世界の言葉では説明できないものが溢れてしまう。
辺境伯は、深く頷いた。追及はしなかった。
その目が、ほんの一瞬だけ伏せられた。父を失った人の目だった。「大切にされなかった」痛みを、この人は別の形で知っている。
私の言葉の奥に何があるのか。全てはわからなくても。
——痛みの重さだけは、この人には伝わった気がした。
しばらく、二人とも黙ったまま紅茶を飲んでいた。紅茶の温度が、ちょうどよくなっていた。茶葉の柔らかな甘みが口に広がる。
鐘の余韻が薄れ、窓の外に宵の気配が忍び込んできた頃。
彼は穏やかに言った。
「次は、私の領地にもいらしてください。漁村の朝は早いので——前泊をお勧めします」
書状だけだった人が、毎月通うようになった。
花束を持って。
そして今——前泊を勧めている。
(……これは出張……? それとも……いや、定時後に考えよう)
——と思ってから、気づいた。
もう、定時を過ぎている。
窓の外で、鐘の余韻が消えていく。
夕焼けが、執務室を琥珀色に染めていた。
窓を閉めようとして、やめた。
この音をもう少しだけ聞いていたかった。隣の領にも、その先の領にも、いつかこの音が届く日が来ればいい。
この鐘の音が、もう少しだけ遠くまで届けばいい。
——定時後に、そう思った。
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定時の鐘がもう少し遠くまで届く話も、いつか書けたらと思っています。




