墓標2
愛する人を失うとは、通常、手の中にあった固有の形が消滅することを意味する。我々はその空白を欠如と呼び、失ったものをどこかに探し、あるいは何とかして埋めようと足掻く。しかし、彼女を引き受けるという営みは、そのような克服や治療とは無縁の場所にある。それは、特定の形を失ったという絶望を、世界そのものが彼女であるという壮大な妄執へとすり替える、鮮やかなまでの欺瞞である。
彼女はもはや、私の腕の中に収まる特定の誰かであることをやめた。死という構造を通り抜けた彼女は、個体としての境界を失い、私が吸い込む空気、見上げる空の深み、踏みしめる土のざらついた感触といった、世界のテクスチャそのものへと変容したのである。もはや彼女はどこかにいるのではない。あらゆるすべての中に、彼女という不変の要素が溶け出しているのだ。これを失うことの先にある逆説的な獲得と呼ばずして何と呼ぼうか。
この再会は、この上なく孤独だ。なぜなら、その風景の中に彼女を見出し、その静寂の中に彼女の声を聴くことができるのは、世界中で自分ひとりしかいないからである。他人にとっての山はただの堆積物であり、石はただの鉱物に過ぎない。だが、自らの内側に喪失という名の穴を開け、それを塞がずに耐え忍ぶ者だけが、その穴を通じて世界のざらざらとした手触りを味わい、共有不可能な主観の中に死者を蘇らせることができる。この絶対的な孤独こそが、誰にも邪魔されることのない、死者との永遠の邂逅を可能にするのである。
ゆえに、人生のすべては、終わりのない日常という名の儀式へと変貌する。食事をし、道を歩き、時には退廃的な享楽に身を沈める。その一挙手一投足が、世界という名の彼女に触れるための触知的な祈りとなる。彼女という巨大な欠如を抱えたまま、歪んだ時間の広がり——過去と現在が等価に溶け合うタイムマシーン——の中を歩き続けること。その能動的な覚悟こそが、引き受けるという言葉の指し示す所である。
だが、ここで冷徹に断じねばならない。これは明確に間違いであり、完全な錯覚である。
山は死者の化身などではなく、空の深みに彼女の意志など宿ってはいない。この壮大な再会は、脳が耐え難い欠如を埋めるために捏造した物語であり、絶望から目を逸らすための高度な自己欺瞞に過ぎない。私は今、存在しない幽霊を世界に投射し、自ら作り上げた幻影に縋っているのだ。
しかし、その間違いを、間違いであると正しく認識しながら、あえてその狂気の中に踏みとどまること。この錯覚を事実として運用し続けること。それこそが、救いのない世界において人間がなし得る唯一の、泥に塗れた抵抗ではないだろうか。
矛盾していること、それ自体が、この愛が本物であるという唯一の証左に他ならない。正気であれば彼女を忘却し、狂気であれば彼女を幻視する。そのどちらにも安住せず、理性の冷たさと情念の熱さの間に身を置き続けること。この引き裂かれてある状態こそが、死者に対する最も誠実な態度であり、この不格好な回路を維持するための燃料となる。
狂気ではある。狂気ではあるが、それが、私が私として踏みとどまれる唯一の正気なのだ。
この再会の儀式は、救済ではない。それは、解けない呪いと、終わりのない祈りがひとつに溶け合った、錆び付いていて焦げ臭い回路である。そこにある傷を塞ぐのではない。その傷を極限まで広げ、そこに世界という名の彼女をまるごと流し込むのだ。そのとき、私の境界線は消滅する。「私」は「穴」であり、「穴」は「彼女」であり、「彼女」は「世界」である。
それは、もはや「死んでいる/生きている」という二元論的な区別すら無意味にするような、冷徹でいて、この上なく甘美な生の奪還である。我々は、彼女を失った世界を生きるのではない。彼女そのものとなった世界を、それが救いようのない錯覚であることを骨の髄まで承知しながら、私という穴を通じて受肉し続けるのだ。




