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未商業化作品(短編)

「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

作者: 葵 すみれ

「無理をするなよ、クラリーヌ」


 その優しげな声を聞いたのは、クラリーヌが執務室の書類棚に手を伸ばしていたときだった。

 振り返れば、白金の髪をなびかせたティエリ・モンテクリュが、涼しげな水色の瞳でこちらを見下ろしている。


 クラリーヌはそっと微笑み、形ばかりの返事を返した。

 亜麻色の髪が肩に揺れ、薄紫色の瞳がほんの一瞬、疲れをにじませる。


「……ええ、心配ありがとう」


 言葉だけを取れば、優しさに満ちている。

 けれど、その言葉が発せられるのは、彼が仕事の山を彼女の机に置いた直後だ。


「きみに任せたほうが早いし、きちんとしてるから助かるよ。僕が手を出すと、どうせぐちゃぐちゃになってしまうからね」


 微笑を浮かべたまま、ティエリは自嘲気味に肩をすくめる。

 まるでそれが合理的な判断であるかのように。


 それが今日で何度目かは、もう数える気にもなれない。

 ──無理をするな、と言いながら、ティエリは一度たりとも自ら手を動かそうとはしなかった。


 「きみは有能だから」と持ち上げ、「僕は不器用だから」と下げる。

 その一連のやり取りで、彼は気遣いと信頼のつもりなのだ。


 元々、クラリーヌは地方の子爵家の令嬢だった。

 けれど、王都で開かれた舞踏会で、侯爵家の嫡男であるティエリに「きみの笑顔が美しい」と見初められ、婚約者として迎え入れられた。

 それは家にとって大きな誉れであり、本人の意思など関係なく、彼のもとへ送られたのだ。


 婚約者として、彼の邸で暮らし始めてからは毎日が戦いだった。

 押し寄せる仕事の波をこなすのは、すべてクラリーヌ。

 ティエリはその頑張りに「感謝しているよ」「きみがいて本当によかった」と微笑むだけで、手を貸すことはなかった。


 けれど彼は、自分を思いやりのある男だと信じて疑っていない。

 優しい言葉さえかけていれば、それだけで相手は救われると、本気で思っているのだ。

 そして、その過程で一番つらいのは、ティエリの母──モンテクリュ侯爵夫人からの、容赦のない言葉の刃だった。


「あなたって本当に図々しいわね。まさかあの子にまで仕事を押し付けているんじゃないでしょうね?」


 その場にいた誰が見ても、ティエリが仕事を押し付けているのは明白だった。

 報告書の整理、記録簿の再筆、地方領からの書状への草案作成。

 使用人の勤怠表や備品の申請書すら、すべてクラリーヌの机に回されている。

 本来は文官が担当する書類も、執務の実務も、ティエリは「きみのほうが丁寧だから」と言って一度も手をつけたことがなかった。


 それなのに──


「まったく、地方の子爵家なんてそんなものよね。貴族の嫡男に細々とした事務仕事をさせるなんて、教養も礼節も知らない証拠だわ」


 侯爵夫人にとっては、どれほど重要な実務であろうと、それを誰がやっているかがすべてだった。

 ティエリが怠けていようと、それを代わりに行うクラリーヌが「出過ぎた真似をしている」と断じられる。


「その髪の乱れ、顔色の悪さ……自覚してる? うちに恥をかかせるのはやめてちょうだい」


 何気ない一言に、心がじわりと染みてくる。

 けれど、クラリーヌは何も言い返すことなく、ただ黙々とペンを走らせた。

 これはティエリの仕事でも、侯爵家の体面でもない。

 ただ、クラリーヌが自分自身を保つための、唯一の矜持だった。


 王城への使いも、本来は家臣か若い文官が担うべき仕事である。

 けれど、あるとき急ぎの文書を届ける役が足りず、臨時でクラリーヌが派遣されたのが始まりだった。

 そのとき、ティエリは軽く言ったのだ。


『すまないけど、ちょっとだけ頼めるかな。きみのように礼儀をわきまえた人間なら、先方にも安心して任せられるしね』


 「ちょっとだけ」──その言葉は、ほんの数回のはずだった。

 だが、結果としてそれは定例となり、今では週に何度も彼女が王城を往復している。


 もちろん、それも夫人の中では浮ついた真似に過ぎなかった。


「外に出てばかりで浮ついてるんじゃないでしょうね。何を勘違いしてるのか知らないけれど、使いっぱしりをこなしたくらいで良い気にならないでちょうだい」


 息子が彼女に押しつけた仕事であるにもかかわらず、まるでクラリーヌが出しゃばっているかのように見下される。

 それでも、クラリーヌは黙って馬車に乗る。

 任された仕事は、最後までやり遂げたい。

 それが、ここにしか居場所のないクラリーヌにできる唯一のことだから。



*



 王城に足を踏み入れた瞬間、クラリーヌは微かに肩の力を抜いた。

 それは決して楽になるという意味ではない。ただ、モンテクリュ侯爵邸の重苦しい空気から、一時的にでも解放されるという、それだけのことだった。


 今日は、第三文書局への届け出と報告文の提出。

 元はティエリが担うべき書類だったが、「書き方がわからないから頼むよ」と笑いながら押しつけられたのが今朝のことだ。


 控えの間で順番を待つ間、クラリーヌは静かに書類を抱えて立っていた。

 周囲を行き交う廷臣たちは、彼女を誰かの侍女か女官とでも思っているのだろう。誰も声をかけてこないし、気に留める者もいない。


 けれど、一人だけ、立ち止まった人がいた。


「……それ、重くないですか?」


 ふと、低く落ち着いた声が耳に届いた。

 顔を上げると、黒髪に琥珀の瞳を持つ青年が、やわらかな表情でこちらを見ていた。

 騎士服をまとってはいるが、その所作は端正で、ただの騎士には見えない何かを纏っている。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 クラリーヌは自然に礼を返し、そっと視線を落とした。

 手元の書類がぐらりと傾いたその瞬間、青年が反射的に手を伸ばし、一部を支えてくれた。


「失礼……。書類の角が折れてしまいますよ」


「あっ……助かります」


 クラリーヌは小さく頭を下げ、書類を整え直す。

 それ以上、彼は何も言わず、ただ微笑んでその場を離れていった。

 けれど、その穏やかな気配は、なぜかしばらく消えずに残った。


 ──あの人は、誰だろう。


 名前も身分も知らないまま、けれどふとした仕草に、ティエリとはまるで違う本物の気遣いを見た気がして。

 クラリーヌはほんの少しだけ、心の重さが軽くなったような気がした。




「……これは、差し戻しです」


 冷たい声に、クラリーヌは一瞬だけまばたきをした。

 応対した第三文書局の局員──若く、やけに事務的な男が、手元の文書を無造作に突き返してきた。


「添付すべき帳票がひとつ抜けています。これでは受理できません。再提出は週明け以降、担当が変わりますから、お急ぎならば今すぐ修正していただく必要がありますが?」


「……そ、そんなはずは……」


 クラリーヌは手元の書類を急いでめくった。

 整えて出したはずの報告文。それが不備とされて返された。

 だが、添付漏れとされた資料は、元々ティエリが「これは要らない」と言って抜いたものだった。


『先方には関係ないから、そこは飛ばしていいよ。むしろ分かりづらくなるから』


 そう言って渡された指示書。

 信じた自分が愚かだったのか。今になって胸がざわつく。


 再提出、担当変更、遅延。

 どれもティエリの耳に入れば、責められるのは決まって自分だ。

 そして夫人に知られれば、また、あの責め苦が待っている。


「──その件でしたら、添付の意義について先方と協議中だったと記録にあります」


 背後から、穏やかな声が届いた。

 あまりにも自然に、まるでそこに最初からいたかのように。


 振り返ると、黒髪の青年がいた。

 騎士服に身を包み、背筋の伸びた佇まい。目元は穏やかで、琥珀色の瞳が静かにこちらを見ていた。

 控えの間で、書類を支えてくれた、あの青年だ。


「正式な照会があるまで一時保留扱いにしてはいかがですか? それとも、文書局の判断で、先方の確認を待たずに処理なさるおつもりで?」


 その声音はあくまで穏やかだったが、不思議と空気がぴたりと引き締まった。

 局員は一瞬たじろぎ、小さく咳払いをした。


「……では、一時保留として預かります。追って再照会いたしますので」


 言葉の調子がわずかに変わっていた。

 どこか、釘を刺された人間が渋々折れたときのような、ぎこちなさと曖昧さが滲んでいる。

 クラリーヌは、ほっと胸を撫で下ろした。


「……ありがとうございました。でも、どうして……」


 お礼と疑問が入り交じった声を、無意識のうちに口にしていた。

 自分が何もできなかったことが悔しくて、恥ずかしくて──。

 それでも、誰かが助けてくれたことに心が追いつかず、咄嗟に理由を求めてしまったのだ。


 青年は静かに視線を向けたまま、穏やかに答えた。


「あなたが、少し無理をしているように見えたものですから」


 それだけだった。

 理由を尋ねるでもなく、ただ彼の目はまっすぐこちらを見ている。

 その眼差しには、憐れみも、軽蔑も、慰めすらない。

 あるのはただ、事実を見つめた上で、それを否定しないという、静かな肯定だった。


 ──どうしてだろう。

 ほんの数語のはずなのに、胸の奥に、ひたりと染み入ってくる。


 無理をしていることなど、自分が一番わかっている。

 けれど、それを責めずに気づいてくれた人は、今まで一人もいなかった。

 こんなにも自然に、肩の荷を少しだけ下ろさせてくれる言葉を、自分はいつ以来聞いていなかったのだろう。


 ありがとう、と言いたかった。

 けれど、その言葉すら喉の奥で震えて、声にならなかった。



*



 王城に通う日は、以前よりも少しだけ気持ちが楽になった。

 変わらない仕事、変わらない重責、変わらない疲労。

 けれど、そこで交わす、ほんのひとことの挨拶があるだけで、気持ちは確かに違っていた。


「今日も風が冷たいですね。凍えないよう、お気をつけて」


「お疲れでしょう。よろしければ、文書局の奥に控室があります。鍵、借りてきましょうか?」


 名を知らずとも、その姿はすぐにわかった。

 黒髪に琥珀の瞳、控えめで誠実な眼差しの騎士。

 廊下で、控えの間で、階段の踊り場で。

 彼はいつも、少し離れた場所で、けれど確実に気づいていてくれた。


 名前を尋ねるほどの関係ではなかった──はずだった。


 けれどある日、文書局の手続き窓口で、ふと彼の姿を見かけたとき、受付の女官が書類を手渡しながら口にした。


「はい、こちらお返ししますね。ジュリアン殿」


 その名を聞いたとき、クラリーヌは心のどこかが、わずかに脈打つのを感じた。

 ジュリアン。

 それが、あの人の名前。


 ただそれだけのことなのに、妙に胸の奥に残った。


 その数日後、別の係官が小声で言うのを聞いた。


「……あの若い騎士、礼儀も気配りも申し分ないって評判ですよ。田舎の小領主の三男坊にしては、ね」


 クラリーヌはそっと視線を落とした。

 田舎の小領主の三男──つまり、世継ぎにもならず、出世も限られる立場。

 だからこそ、騎士団に入り、こうして王都で実績を積んでいるのだろう。


 けれど、その所作には貴族らしい傲りもなければ、功名心もない。

 誰かに見せるための振る舞いではなく、誰かを見て、思いやることのできる人。


 ある日、風に煽られて書類を落としたとき、彼──ジュリアンは何も言わず、それを拾い上げてくれた。

 指が触れそうになった瞬間、さりげなく手を引き、自分の持っていたハンカチを差し出す。


「紙の端で指を切りやすいので、どうぞ。角も折れやすいですしね」


 それはただの実務的な言葉だったかもしれない。

 けれど、その声に込められたさりげない気遣いに、クラリーヌはふと、胸が温かくなるのを感じた。


 この人は、私を見てくれている。


 そんな感覚を覚えたのは、いつぶりだっただろう。

 過剰に踏み込むことなく、ただそばを歩いてくれるような人。

 クラリーヌは、その名前を心の中で静かに繰り返した。


 ──ジュリアン。


 それは、恋とか憧れとか、まだそんなはっきりしたものではなかった。

 けれど……口先だけの「無理をするな」ではなく、本当に無理をさせないように気遣う人が、この場所にいる。

 言葉ではなく、行動で示してくれる優しさに、クラリーヌは、はじめて触れたような気がした。

 それだけのことが、今の彼女には、ひどく大きな支えだった。



*



 王城に通う日は、今や週に四度を超えていた。

 文書の提出だけでなく、使いの名目で資料の受け取りや調整役まで担うようになり、それもすべて、ティエリの「きみのほうが分かってるから」という一言で押しつけられたものだった。


 最近では彼の関心は、もっぱら屋敷に出入りする新しい令嬢に向けられている。

 エリサ・ランベール伯爵令嬢。名家の出身で、派手な装いと堂々とした態度が特徴の女性だ。

 気に入った男には積極的に声をかけ、誰よりも早くその隣を確保するのが常だった。

 彼女は、絢爛なドレスに身を包み、甘い香水を振りまきながら、誰の目もはばからずティエリに笑いかけていた。

 正式な婚約者であるクラリーヌのことなど、歯牙にもかけない。


「まあ、子爵家って几帳面なのね。……でも、あまり堅いばかりだと、男の人は息が詰まるものよ?」


 微笑みは優雅、声も穏やか。

 けれど、クラリーヌに向けられた悪意は明白だった。

 ティエリはその言葉に何の反応も示さず、ただ曖昧に笑っただけだった。


 そして、クラリーヌの負担はさらに増していく。

 実務に加えて、今ではモンテクリュ侯爵夫人から「侯爵家の未来の夫人として、相応の品格を備えるように」と、礼儀作法・舞踏・刺繍・音楽・会話術に至るまで、日々の稽古が課されていた。


「できて当然よ。うちの名を継ぐ人間に、田舎の粗野なやり方は通用しませんから」


 朝は書類、昼は稽古、夜は報告書の清書と答礼文の下書き。

 食事をとる時間すらろくに確保できず、それでも誰も、彼女をよくやっているとは認めなかった。


 そんなある日、王城の廊下でクラリーヌが控えの間から出てきたとき、エリサが偶然通りかかった。

 彼女はティエリの使いで簡単な手紙を届けたらしく、小さな封筒だけを手にしている。


「あら、あなたもまだお勤め中? まるで使用人ね。……ううん、使用人ならまだ休憩があるかしら」


 悪びれた様子もなくそう告げると、エリサは後ろから現れた黒髪の騎士にふと笑いかけた。


「お疲れさま、騎士さま。私、このあとお茶に行くところなの。ご一緒に──」


 「申し訳ありません」と、彼は一言だけ返し、ぴたりと一礼した。

 その声音はあくまで丁寧だったが、会話を続ける隙すら与えない、完璧な断絶だった。


 エリサのまつげがわずかに揺れる。自分がかわされることなど滅多にない――その事実に、わずかな動揺が走った。


 そのまま彼はクラリーヌのほうへと歩を進め、封筒を持ち直している彼女に静かに声をかける。


「重たくはありませんか?」


「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 クラリーヌはわずかに首を振り、礼を述べた。

 そのやり取りの間、エリサの視線がじりじりと刺さるように注がれているのを、クラリーヌは背中越しに感じ取る。


 笑いかけた相手が自分ではなく、彼女を気遣った。

 それだけのことが、エリサにとっては屈辱だったのだろう。


「……ふふ。騎士さまって、優しいのね。あなたにまで気を使ってくださるなんて」


 わざとらしい笑みとともに、エリサはゆっくりとクラリーヌに視線を向けた。


「でも……婚約者にああいう優しさを求められないのって、少し寂しいわね」


 声の調子はあくまで柔らかく、表情も微笑んでいた。

 だが、その一言には──「あなた、愛されていないのね」という、冷ややかな悪意が滲んでいた。


 クラリーヌは一瞬だけ手を止めたが、何も言わずに封筒を整え直した。

 応じるだけ、相手の思う壺だとわかっていたから。




 ティエリは今日も、エリサと笑い合いながら、軽い口調で言う。


「クラリーヌ、あの件、頼んだよ。……あ、でも無理はするなよ?」


 それが、どれほど意味をなさない言葉か、クラリーヌにはもうよくわかっていた。


 ──相変わらず、薄っぺらい。


 行動の伴わない気遣い。

 それを優しさと信じ込んでいるその顔を見るたび、少しずつ心がすり減っていく。


 冷え込みが増す日々、吐く息が白くなる朝に、重たい書類と共に屋敷を出る。

 肩は痛み、頭も鈍く重い。

 それでも、止まればすべてが崩れる気がして、立ち止まることができなかった。


 そして、その日は唐突に訪れた。


 王城の石畳を歩いていたはずが、ふいに視界が傾いた。

 足元が、ずるりと滑る感覚。書類の端が風に舞い、空へと浮かぶ。


 ──あ、と思った。けれど、声も出なかった。


 重たい空気が、肩に、背に、覆いかぶさるようにのしかかる。

 意識がふっと遠のくその瞬間、誰かの気配が駆け寄るのを感じた。


 冷たい石の感触は、どこにもなかった。

 代わりにあったのは、しっかりとした腕のぬくもりと、やわらかな布越しに伝わる、ひとつの鼓動だ。


 ぼんやりと開いた瞳がとらえたのは、黒髪と琥珀のようにやさしい光をたたえた瞳。

 その視線が、心の奥を静かに包み込むようだった。

 ああ、見つけてくれた、と、なぜかそんな言葉が浮かぶ。


 それを最後に、クラリーヌの意識は、ふわりと闇の中へと沈んでいった。



*



 目を覚ましたとき、天井が静かに揺れていた。

 石造りのはずの王城の天井ではない。どこか私室のような、あたたかみのある木目の天井だ。


 クラリーヌは、視線だけを動かしてゆっくり周囲を確かめた。

 厚手の毛布とほんのりと香るハーブの匂い。窓から差し込む穏やかな午後の光。

 どうやら、王城内の医務室の奥──要人用の控え室に移されているようだった。


 すぐ傍に人の気配があった。

 静かな気配と落ち着いた呼吸。そして気づいたように椅子が軋む音。


「……ご気分は、いかがですか?」


 黒髪の青年──ジュリアンだった。

 彼は椅子に腰かけたまま、過度にのぞき込むこともなく、声も表情も、いつもと変わらぬ静けさを保っていた。


「……すみません。倒れて……しまって……」


 クラリーヌはかすれた声で、やっとの思いで謝罪の言葉を紡いだ。

 迷惑をかけたくない──その思いが、どうにか声になっただけだった。

 けれど彼は、それを否定するでも、慰めるでもなく、ただこう言った。


「疲れていただけです。誰でも、倒れるときは倒れます。無理をさせたのは、あなたの責任ではありません」


 その言葉が、驚くほど優しく胸に響いた。

 倒れた自分を咎めない言葉を、今までの人生で、何度耳にしただろう。


 何かを返そうと唇を動かしたとき、扉の向こうから、軽い足音が近づく気配がした。


「──まったく、勝手にいなくなるなんて。あの子、倒れるくらいなら最初からやるべきじゃないのよ」


 エリサの声だった。

 隣にはティエリの姿もあるのだろう。彼の、くぐもった低い声がそれに続く。


「……無理はするなと、あれほど言っておいたのに。どうして、言うことを聞かないんだ。……倒れて迷惑をかけるなんて、正直、失望したよ」


 その言葉に、クラリーヌの胸が凍りついた。

 まるで自分が、彼の忠告を裏切った加害者であるかのような口調だ。

 労わりも、謝罪もない。ただ、言うことを聞かなかったことへの苛立ちだけが、そこにはあった。


 ジュリアンはゆっくりと立ち上がると、無言で扉の前へと向かった。

 扉を開けることなく、落ち着いた声で告げる。


「療養中につき、ご面会は控えていただけますか。当人の静養を妨げる話題であれば、なおのこと」


「……なっ……きみ、どこの家の者だ?」


「ただの騎士です」


 その一言に、ティエリがあからさまに眉をひそめた。


「ふん、なるほどね。騎士風情が、貴族の婚約者に向かってずいぶんな口ぶりだな」


 クラリーヌの目には、ジュリアンの肩がわずかに動いたように見えた。

 けれど彼は、何も言い返さない。

 ただ静かに、扉の前から動かなかった。


 沈黙のなか、隣でエリサが鼻で笑う。


「仕方ないわよ、ティエリさま。田舎の三男坊って、だいたいそういう場違いな正義感だけは一丁前なんだから。きっと、自分を偉く見せたいのよ」


 その声には、明らかな嘲りと侮蔑が滲んでいた。

 ティエリも「まったく、騎士団も人材不足か」と冷笑を添えて返す。


 けれど、扉の前に立つ青年は、揺らぐことなく言った。


「療養中の方に、これ以上のご負担をおかけしませんように」


 丁寧な言葉に、返答はなかった。

 エリサが何か言いかけたようだったが、それをティエリが遮るように小さく舌打ちし、二人の足音はそのまま廊下の奥へと遠ざかっていく。


 静けさが戻ったあと、クラリーヌの胸には、冷たさと温かさが同時に残った。

 誰も彼も、自分の状態を迷惑としか受け取らないのだと、改めて思い知らされた。


 けれど──ひとりだけ、違う人がいる。



*



 快復した数日後、ティエリから話があると呼び出されたのは、モンテクリュ邸の応接間だった。

 広々とした空間の中、彼は椅子に浅く腰掛け、クラリーヌを一度も見ようとせず、紅茶の表面をぼんやりと眺めていた。


「体調、戻ったんだって? ……それならよかったよ」


 口調だけは相変わらず優しげだった。

 けれどその言葉に、心配や労りの色はどこにもなかった。


「きみにはずっと、無理はするなって言ってきたよね? なのに倒れるまで無理をして、周囲に迷惑をかけるなんて……正直、失望したよ」


 その言葉に、クラリーヌは手を強く握りしめた。

 無理をするように仕向けてきたのは、ティエリではないか。

 それも、彼のためだったはずなのに──初めから届いてなどいなかった。


「それにね、きみといると最近、どうも空気が重くてさ。僕としては、もっと笑顔のある生活がしたいというか……気を張らずに過ごせる人のほうが、向いてたのかもしれない」


 彼はようやくクラリーヌを見た。

 けれどその目は、かつて愛しさを向けた相手を見るものではない。

 まるで、使い古して役目を終えた品を、丁寧に片付けるかのような冷たさだった。


「最初はきみの真面目さがいいと思ったんだ。支えてくれる感じがしてさ。でも今思えば、それって重かったんだよね。きみ自身も、ずっと無理してただろ? つまり、最初から合わなかったってことだよ」


 彼の言葉は一見論理的で穏やかだったが、そのどれもが、自分は優しくあろうとしているという自己陶酔で彩られていた。


「それと……今、僕の隣には、もっと自然に笑ってくれる人がいるんだ。気も使わなくていいし、僕の考えてることを理解してくれる。……比べるつもりはなかったけど、どうしてもね」


 名前を出すまでもなく、誰のことかは明らかだった。

 エリサ・ランベール伯爵令嬢。

 クラリーヌが倒れた日に、彼の傍らで笑っていた女。


 そしてそのときだった。

 応接間の奥から、衣擦れの音とともに、侯爵夫人が現れた。


「ようやく気づいたのね、ティエリ。やはり、うちにはもう少し華のある方がふさわしいわ。子爵家のお嬢さんでは限界があるもの。……品も育ちも、やはり出てしまうわね」


 上品な口調のまま、侯爵夫人は目を細めてクラリーヌを見た。

 まるで、片がついてよかったと言わんばかりの、心底からの解放感を滲ませながら。


「……きみも、わかってるよね?」


 ティエリが再び口を開く。


「きみ自身が、この家にふさわしくなかった。無理をして倒れるような人に、僕の婚約者は務まらないよ。だから、婚約は解消しよう。きみのためにも、そのほうがいいと思う」


 その声音は、まるで善意のつもりだった。

 追い出すくせに、助けてやっていると言わんばかりの、救済者のような口ぶりで。


 クラリーヌは、胸の奥にぽっかりと穴があくのを感じながら、それでも背筋を伸ばした。

 これ以上、何を言っても無駄だとわかっていた。


「承知しました。……今までお世話になりました」


 クラリーヌの声は震えていなかった。

 もはや哀しみも、怒りも、感情すら残っていなかったのだ。


 ティエリは満足げに頷くと、再び紅茶に口をつけた。

 その視線の先に、クラリーヌの姿はもうなかった。



*



 モンテクリュ家を出た翌日、クラリーヌはラシャンブル子爵家の屋敷へと戻った。

 けれど、そこで待っていたのは、労りの言葉でも、慰めでもなかった。


「なんてことをしてくれたの……っ!」


 出迎えるなり、母の声が怒鳴りつけるように響く。

 屋敷の玄関先、まだ使用人たちが控えている前で、それは容赦なく降ってきた。


「貴族の娘が、婚約者に見限られるなんて……どれだけ恥をかかせれば気が済むの!? あなたのせいで、家の評判がどうなると思ってるの!」


「子爵家の身で侯爵家に嫁げるなど、奇跡に近い縁談だったんだぞ」


 父もまた、冷え切った声で言った。


「倒れたから婚約破棄だ? なら倒れるな。体調管理もできないで、無理をするなという言葉を守れないのは、相手に失礼なんだよ」


 クラリーヌは、ただ黙って立っていた。

 何も言い返さなかった。

 きっと、何を言っても無意味だとわかっていたから。


 家族は、失敗した娘を完全に見限っていた。

 モンテクリュ侯爵家との婚約を破棄されたことは、彼らにとって家の面目を潰す大失態だった。

 クラリーヌは今や、汚点そのものでしかない。


 ある日、応接間の扉越しに聞こえた声は、静かながら残酷だった。


「……王都に残しておけば噂が広がるだけ」


「修道院に送るか、誰か事情を知らない年寄りの後妻にでも」


「とにかく、早く始末をつけないと恥が深くなるわ」


 「娘をどうするか」ではない。

 「どう処理するか」という会話だった。


 その夜のことだった。


「荷物をまとめなさい。明日の朝には出すから」


 母の言葉はあまりにあっさりとしていて、もはや何の感情も含まれていなかった。

 それがかえって、決定的だった。


 クラリーヌは静かに頷き、自室に戻ると、使い込んだ手提げ鞄に衣類をたたみながら詰めていく。

 命じられるまま、感情も抜け落ちた指先で、ただ、淡々と。


 もう、何も考えたくなかった。


 戸口の下で、冷たい風がわずかに入り込む。

 灯りの揺れるその静寂を破ったのは、屋敷の裏口を叩く、控えめな音だった。


「ご無沙汰しております」


 控えめな声と共に姿を見せたのは、ジュリアンだった。

 旅装のまま、あたたかな冬用の外套を纏っている。

 以前と変わらぬ穏やかな目で佇む彼に、クラリーヌは目を見開く。


「……なぜ、ここに……?」


 戸惑いながら問うクラリーヌに、彼は短く答えた。


「噂を耳にしました。だから、来ました」


 その声に、嘲りも同情もない。

 ただ、まっすぐな意志だけがあった。


「あなたが追われるようにして屋敷を離れ、誰にも必要とされないように扱われている──そう聞いて、居ても立っても居られずやって来ました」


 クラリーヌは何も言えなかった。

 否定も、肯定も、できなかった。

 ただ、胸の奥に、もう何も残っていないはずの心に、ほんのわずかな温もりが差し込むのを感じる。


 そんな彼女を見て、ジュリアンは一歩、踏み出した。


「……提案させてください。よろしければ、私の故郷に来ませんか。身分も、肩書きも、過去もすべて関係なく、ただあなた自身を必要とする場所が、そこにあります」


 声が震えそうになるのを、クラリーヌは懸命にこらえる。

 この人だけが、自分を責めなかった。

 利用するための価値ではなく、ひとりの人間として見てくれた。

 それが、どれほど救いになったか。


「……はい」


 小さく、けれどはっきりと、クラリーヌは答えた。

 涙は落ちない。

 それはきっと、希望の重さで胸がいっぱいになったから──。



*



 ベルモント大公家の領地に足を踏み入れたとき、クラリーヌの胸には、明確な決意があった。

 誰かに救われるためでも、庇護を求めるためでもない。

 ここで働き、自分の手で、もう一度立ち上がる──それだけを信じて、この地へ来たのだ。


「無理のない範囲で、手伝っていただけることがあればと。……ジュリアンさまからの伝言です」


 そう伝えたのは、大公家の女官長だった。

 過去の肩書きも事情も、詮索されなかった。ただ「働く意思」をきちんと受け止めてくれたことが、何より嬉しかった。


 最初に任されたのは、文書の整理と記録の書き写し。

 小さな机と控えめな席からの再出発だったが、クラリーヌは与えられた仕事に誠実に向き合った。


 やがて、屋敷内でささやかに名が広まっていった。


「記録が整って、確認が楽になった」

「彼女に通すと、文面の不備がなくなる」

「あの方の対応は丁寧で品がある」


 褒め言葉のために働いているわけではなかった。

 けれど、その言葉たちは、かつて誰からも求められなかった自分が──今はここにいてもいいと認められている証のように思えた。


 そんなある日のこと。


 夕方の回廊で報告書を抱えていたクラリーヌの前に、ふいに湯気の立つカップが差し出された。

 驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはジュリアンだった。


「冷える廊下で、長く立ち仕事をされていたでしょう。温かいものを。……ミントとシナモン、どちらもお好きでしたよね」


 彼の声はあくまで穏やかで、控えめだった。

 特別な言葉はなくとも、そのさりげない気遣いが胸に染みる。


 クラリーヌは静かに礼を述べてカップを受け取った。

 手のひらに広がるぬくもりが、身体の芯まで届くようだ。


 その日を境に、ジュリアンはときおり、何かの折にクラリーヌの前に現れた。

 過干渉ではなく、ただ必要なときに必要な分だけ寄り添う姿勢に、クラリーヌの心も少しずつ開かれていった。


 与えられた居場所ではなく、自分で築いた場所。

 その実感が、静かにクラリーヌの中に根づいていった。




 春の気配が色濃くなりはじめた頃、クラリーヌは南庭に呼び出された。

 咲き始めたばかりの白い花が風に揺れるその場所に、ジュリアンは立っていた。


「お疲れさまです。……少し、お時間をいただけますか」


 彼は変わらず穏やかな声でそう言い、クラリーヌが頷くのを見届けてから、一拍の静寂の後に続けた。


「そろそろ、名乗らせていただいてもよいでしょうか。私は、ベルモント大公家の第三公子──ジュリアン・ベルモントです。修行の一環で身分を伏せ、王城で騎士として勤めておりました」


 クラリーヌは、驚きに息を呑んだ。

 けれど、混乱や怒りはなかった。


 思い返せば、彼の立ち居振る舞いは常に落ち着いていて、誰よりも周囲に気を配り、過剰に何かを主張することがなかった。


 ──ああ、やっぱり。

 それが、クラリーヌの胸に浮かんだ正直な感想だった。


 ジュリアンは、咲き始めた白い花の向こうで、しばし迷うように目を伏せた。

 そして意を決したように、まっすぐクラリーヌを見つめる。


「……あなたの姿を見て、私は何度も心を打たれてきました」


 その声音は、静かで、けれどひとつひとつの言葉が深く胸に響いた。


「自分の立場を嘆くことなく、与えられた仕事に黙々と向き合い、誰かのために、見返りも求めず力を尽くすその姿を、私はずっと見てきました。あなたが誰よりも真摯で、誠実な人であることを……ずっと」


 ジュリアンは、少しだけ息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。


「私は、そんなあなたの人柄に、そして背筋を伸ばして歩こうとする強さに、心から惹かれました。地位でも立場でもなく、あなたという人そのものに──」


 彼は一歩、クラリーヌの前に進み出る。

 春の風が静かに吹き抜ける中、真っすぐに言葉を重ねた。


「──クラリーヌ・ラシャンブル嬢。どうか、これからの人生を、私と共に歩んでいただけませんか?」


 その言葉には、飾りも虚勢もなかった。

 ただ、彼女を一人の人間として大切にしたいという、誠意だけが宿っている。


 クラリーヌは、その言葉を胸にしっかりと受け止めた。

 過去に投げかけられた薄っぺらい気遣いとはまるで違う、本当に行動で示し、さりげなく寄り添ってくれた人の声だった。


「……あなたが、私のことをそう見ていてくれたなんて、驚きです。でも、嬉しい。……この地で、ようやく自分の価値を信じられるようになったのは、あなたのおかげです」


 胸の奥に積もっていた迷いや不安が、風に溶けていくようだった。


「あなたは、口先ではなく、行動で示してくれました。私の弱さも、努力も、ちゃんと見てくれた。……そんな人は、他に誰もいなかった」


 クラリーヌはそっと微笑み、真っすぐにジュリアンを見返す。


「はい。……私も、あなたとなら前を向いていけます。あなたとなら──心からそう思えるんです」


 ようやく見つけた、自分の足で立てる場所。

 誰にも否定されず、ただ在ることを認めてくれる人と、並んで歩ける未来。


 クラリーヌの瞳には、確かな光が宿っていた。

 それは、春の陽射しよりもあたたかく、迷いのない輝きだった。



*



 久方ぶりに王都の石畳を踏んだとき、クラリーヌは一瞬だけ足を止めた。

 かつて、ただ使いの令嬢として通っていたこの地に、今、自分は招かれて戻ってきたのだと──その事実を、改めて胸に刻む。


 傍らにはジュリアンがいる。

 彼の腕に添えられた手が、かつての自分とは違う誇りを証明していた。


「緊張されていますか?」


「……少しだけ。でも、大丈夫です」


 穏やかなやり取りを交わしながら、二人は王城の大広間へと足を踏み入れた。


 国王陛下への謁見と、ベルモント家公子とその婚約者としての正式な紹介。

 王家と大公家の信頼関係を確認する、格式ある場であった。


 すでに貴族たちは集まっていた。

 そしてその中に、クラリーヌは見知った顔をいくつも見つける。


 モンテクリュ侯爵家の嫡男、ティエリ。

 その傍に立つ、ランベール伯爵令嬢、エリサ。

 そして遠巻きに控えている──自分を追い出した、実家の父と母。


 クラリーヌが王城の大広間に足を踏み入れたとき、彼らの目が揃ってこちらに向けられた。

 その瞬間、空気がわずかにざわめいた。


 ティエリの眉がぴくりと動き、目を細めて彼女を凝視する。

 クラリーヌの装い──深い色合いの、上質な生地で仕立てられたドレスは、過度な装飾こそなかったが、纏う者の品格を際立たせていた。

 その静かな華やかさに、ティエリの視線が止まる。

 彼の隣でエリサが小さく囁いた何かに、ティエリが答えず、わずかに首を傾けるのが見えた。


 エリサは戸惑ったようにクラリーヌを見ていたが、すぐにその目をジュリアンへと移した。

 そして、明らかに顔色が変わった。

 見覚えのある顔──だが、思いもしなかった場で、思いもしなかった立場で目にしたことで、思考が追いつかないのだろう。


 クラリーヌは彼らを見なかった。

 ただ、隣に立つジュリアンと目を合わせ、ゆっくりと一歩を踏み出す。


 やがて、名乗りの時が訪れる。

 案内役が、恭しく告げる。


「ベルモント大公家第三公子、ジュリアン・ベルモント殿下。そして婚約者、クラリーヌ・ラシャンブル嬢」


 その名が高らかに響いた瞬間、広間の空気が一変した。

 ただの騎士──田舎貴族の三男坊──そう思い込まれていた男の名が、王家の前で「大公家の第三公子」として呼ばれたのだ。


 クラリーヌは視線を前に据えたまま、周囲の動揺をはっきりと感じ取っていた。

 ティエリが小さく息を呑む気配がした。

 その横で、エリサが口元を押さえるようにして視線をさまよわせる。

 両親もまた、想定外の展開に言葉を失っているのが、背中越しにも伝わってくる。


 かつて彼らが使い捨ての婚約者と見下していた令嬢と、ただの騎士と侮っていた男が、今こうして堂々とこの場に立ち、王家に名を通す立場で紹介されている。

 その現実を、まだ受け入れきれていないのだ。


 クラリーヌは動じなかった。

 ただ静かに、胸を張ってその場に立ち、かつて見下されていた自分とは、もう別の存在なのだと示していた。


 玉座の上から、王はジュリアンとクラリーヌをゆっくりと見下ろす。


「ベルモント公子、そしてそのご婚約者、ラシャンブル嬢。……よく来られた」


 二人が恭しく頭を下げると、王は続けた。


「クラリーヌ・ラシャンブル嬢。実は、そなたの名は以前より城内で耳にしておったよ」


 大広間に再び微かなざわめきが走る。


「王城への使いとして幾度も訪れていた頃、貴女が取り扱った文書は、常に正確で、整い、そして何より、読む者の立場を思いやる構成だったと聞いている」


 クラリーヌの瞳がわずかに揺れる。

 誰にも気づかれずにこなしていた、あの無数の地味な仕事。

 それらが、今こうして正式に王の口から価値ある行いとして語られている。


「貴族である前に、人であること。名家の出か否かではなく、行いと信頼で評価される者こそ、王国の礎となるのだと、改めて思わせてくれた」


 ティエリの頬が引きつる。

 彼の中で便利な道具としか見ていなかった女が、今、国王自らにこうまで評価されているという現実。


「ジュリアン。良い伴侶を得たな。クラリーヌ嬢、その誠実な志が、これからの時代を照らす灯となることを願っている」


 王の言葉は、謁見の間にいた全ての者の胸に、否応なく刻まれていった。


 評価は塗り替えられたのではない。

 本来そこにあった光が、ようやく正当に照らし出された──ただ、それだけのことだった。



*



 謁見を終え、控えの間に戻った直後だった。

 赤絨毯の上に、慌ただしい足音が響いたかと思うと、クラリーヌの前に一人の男がすがるように立ちはだかった。


「クラリーヌ、頼む……戻ってきてくれ。きみがいないと、もう仕事が……」


 ティエリだった。


 その姿は、かつて侯爵家の嫡男として傲然と振る舞っていた男とは思えないほど、余裕を失っていた。

 周囲の貴族たちが一斉に視線を向けるなか、それすら気にも留めていない。


「きみがいたときは、何もかも回っていたんだ。書類も段取りも、母の機嫌取りさえ……。無理をするなって、ちゃんと気遣ってたつもりだ。なのに、どうして、そんなに冷たく……」


 その言葉に、クラリーヌの足が止まる。

 振り返ったその目には、怒りも憐れみもなかった。ただ、静かに真実を伝える視線だけがあった。


「……『無理をするな』。ええ、あなたは何度もそうおっしゃいましたね」


 ティエリは、ほっとしたような表情を浮かべる──が、それは次の瞬間、粉々に砕かれる。


「でも、どうすれば無理せずに済むかを、あなたが考えたことは一度でもありましたか?」


 沈黙が落ちる。

 クラリーヌは、穏やかな声のまま続けた。


「言ったから優しい、言ったから責任は果たした……。あなたの『無理をするな』は、誰かを気遣う言葉ではなく、責任から逃れるための呪文にすぎませんでした」


「……っ!」


「私は、無理をしないために、今は本当に行動で支えてくれる人と共にいます。あなたのように言うだけの人ではなく、黙って手を差し伸べてくれる人と」


 その言葉とともに、ジュリアンがそっとクラリーヌの隣に立つ。

 彼は何も言わない。ただその存在が、すべての答えだった。


 ティエリは、言葉を失ったまま立ち尽くす。

 自分が繰り返してきた「優しさ」は、ただの空疎な自己満足に過ぎない──そのことに、ようやく気づいてしまった男の顔だった。


 だが、その静寂を打ち破ったのは、冷たい女の声だった。


「情けないわね、ティエリさま」


 エリサだった。

 張りつめた表情でクラリーヌを睨みつけたあと、吐き捨てるように言葉を投げた。


「私がいるのに元婚約者にすがるなんて、どんな神経してるの? 最初から私なんてどうでもよかったんでしょう」


「お前じゃ務まらなかったんだよ! お飾りにはなれても、クラリーヌのように立ち回ることもできないくせに!」


「なによそれ!? 最初から自分でやるべきことを人に押しつけておいて、うまくいかなかったら使えない? 何様のつもりよ!」


 エリサは吐き捨てるように言った。


「婚約者だから? 気が利くから? そんなの言い訳にもならないわ! 本来あんたがやるべきことよ、自分でやりなさいよ! 丸投げして当然みたいな態度こそが、終わってるのよ!」


 ティエリの顔が歪む。


「……ふざけるな。お前だって知ってたくせに!」


「……は?」


「クラリーヌがどれだけの仕事を押しつけられていたか、最初から分かってたはずだろ。それでもお前は、ああいう子がいれば楽でいいですねなんて笑ってたじゃないか!」


「……っ!」


 エリサの表情が引きつる。


「自分は苦労せずにすむと思って、知らんふりをしてただけだ。今さら『あたしは被害者です』みたいな顔をするな!」


 エリサの表情が引きつったまま、沈黙が落ちた。

 だが次の瞬間、彼女はふいに視線を逸らし、まるでその場を仕切り直すかのように、ドレスの裾を軽く整えてから、そっと口元に笑みを浮かべる。


「……なるほど。そうやって私に責任を押しつけたいわけね。いいわ、ティエリさま。あなたには、最初からがっかりしていたの」


 その声音は一転して冷ややかだった。

 次に向けられた視線は、クラリーヌ──ではなく、その隣に立つ黒髪の青年、ジュリアンだった。


「ベルモントさま。……いえ、ジュリアン殿下とお呼びすべきかしら?」


 呼びかけの声に、ジュリアンの視線がわずかに動く。

 エリサはそこに、わずかな望みをかけるように微笑んだ。


「かつては失礼なことを申し上げたかもしれません。でも、あのときはまさか……こんなに立派なご身分の方だったとは知らずに。今なら、私、もっと……誠意を込めてお付き合いできると思いますわ」


 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その声音には明らかに媚びが交じっていた。


 クラリーヌはしばし黙り込む。

 そのあまりにも露骨な乗り換え発言に、何を言うべきか一瞬戸惑ったのだ。


 だが、ジュリアンは特に表情を変えることなく、短く答えた。


「それは光栄ですね──ただ、私にはもう、最初から誠意を持って接してくれた方が隣にいますので」


 エリサの笑みが引きつる。

 その目に、はじめて明確な敗北の色が滲んだ。


 その隣ではティエリが、苦々しい表情で拳を握りしめている。

 エリサをなじりながらも、今この場で自分が最も愚かだったと証明されてしまった事実から、どうしても目を背けられないでいた。


 二人の沈黙が痛々しいほど場に残るなか、クラリーヌは静かに一歩、前へ出る。

 その瞳には、怒りも嘲りもなかった。あるのは、ただ澄んだ静けさだけ。


「お二人とも、ご無理はなさらず」


 それはかつて、自分に向けて投げかけられてきた、あの空虚な言葉。

 けれど今、その一言がこんなにも重く、響きを持って返せる日が来るとは思ってもみなかった。


 そして何よりも──彼らはもう、クラリーヌにとって関わるべき相手ではなかった。


 クラリーヌはジュリアンの隣へと戻り、静かに歩を進める。

 その背にあるのは、過去ではなく、これから歩む未来だけだった。



*



 王都を離れる日の朝、王城の使者から正式な文書が届けられた。

 クラリーヌ・ラシャンブル嬢を、ベルモント大公家第三公子ジュリアン・ベルモントの婚約者として認可するとの布告書である。


 それは単なる形式ではなかった。

 過去に蔑まれた日々を知る者たちが、それでも彼女の名を正面から口にせざるを得ない、確かな証だった。


 馬車の窓から見える王都の街並みは、あの日と同じだった。

 けれど、心の在り方はまるで違う。


 義務として通った街。苦しみの記憶。

 でも今、それはただの通過点に過ぎなかった。


 クラリーヌはそっとジュリアンの肩にもたれかかる。


「やっと……帰れる気がします」


「ええ。おかえりなさい、クラリーヌ」


 その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかく満たされていく。




 ベルモントの地は、変わらぬ穏やかさに満ちていた。

 豊かな緑と、澄んだ空気と、誠実な人々。

 ここで過ごした時間が、確かにクラリーヌを癒してくれた。


 王都で倒れ、すべてを失ったと思ったあの日。

 手を差し伸べてくれたのは、王城で幾度となく顔を合わせていた黒髪の騎士──ジュリアンだった。

 彼に導かれ、この地に辿り着いたとき、クラリーヌはただ働く場所を得たのだと思っていた。

 けれど、日々を誠実に積み重ね、与えられた役目に真摯に向き合うなかで、周囲の人々は少しずつ、彼女を内側の存在として扱ってくれるようになっていったのだ。


 正式に婚約者として迎えられた日、ジュリアンの両親である当主夫妻は、二人の絆を家の誇りとして、惜しみなく認めてくれた。

 二人の兄もあたたかく迎えてくれ、屋敷に仕える使用人たちも、変わらぬ気配りと敬意で彼女を支えてくれたのだ。


 外から来た者ではなく、この家の一員として扱われること。

 過去には決して得られなかったその温もりが、今、ここにあった。


 そんなある日、邸に一通の私信が届く。

 王都からの手紙だった。そこには祝意とともに、かつての人々の『今』が綴られていた。


 


 ──モンテクリュ侯爵家の嫡男ティエリ。

 元婚約者に過剰な負担を押しつけた末に婚約を破棄し、その後、彼女が大公家の婚約者として迎えられたことで、社交界の評判は地に落ちた。

 「仕事のできない男」「口先だけの気遣い屋」として囁かれ、いまやどの名家からも縁談は打診されず、家督相続も保留のまま。

 社交の場からは、静かに姿を消している。


 そして、その母であるモンテクリュ侯爵夫人もまた責任を問われた。

 「子爵家の娘など、うちにはふさわしくない」と最初からクラリーヌを見下し、婚約者として迎え入れながらも、日々あからさまないびりを重ねていた。

 その高慢な振る舞いが縁談破談の一因と見なされ、今では「身分差別に狂った高慢な姑」と陰で囁かれ、社交界での立場を完全に失っている。

 屋敷に引きこもり、顔を出すこともなくなったという。


 


 ──ランベール伯爵令嬢エリサ。

 王城での騒動と、不遜な態度が尾を引き、社交界では「扱いにくい人物」として距離を置かれるようになっていた。

 さらに、田舎貴族の三男と見下していた相手が大公家の公子だと知るや、あからさまに態度を変えて言い寄る姿を目撃されたことで、「節操がない」「品格に欠ける」との声が急増。

 もともと男性に対して気安すぎる振る舞いが目立っていたこともあり、その名は今や見目麗しいだけの滑稽な令嬢として、陰口の格好の種となっている。




 ──ラシャンブル子爵家。

 かつて見限った娘が大公家の婚約者として迎えられたと知るや、手のひらを返したように「我が家の誇り」と称え、婚儀を通じて恩恵にあずかろうと奔走した。

 だが、大公家はその不誠実な態度を看過せず、申し出は一切受け入れられなかった。


 さらに、過去にクラリーヌの意思を無視してモンテクリュ侯爵家との縁談を強引に進めたこと、婚約破棄の直後には修道院送りや老齢の後妻として処分しようとした計画までもが、関係者の口から明るみに出ることとなる。


 「娘を家の道具としか見なかった無情な家」として、ラシャンブル家は社交界からの信用を完全に失った。

 援助を打ち切られ、縁談も絶え、いまやその名を語る者はほとんどいない。




 クラリーヌは手紙を閉じ、静かに息を吐いた。


「……『無理をするな』と言いながら、結局、誰よりも他人に無理をさせてきた人たち。 その結果が、今の彼らなんですね」


 その横で、ジュリアンは何も言わなかった。

 ただ、彼女のそばに在り続けることで、すべてを支えていた。


「でも、私はもう違います。無理をしなくていい場所で、私らしく生きていく。これからは、それだけです」




 そして春。

 二人は、静かに、しかし温かく見守られるかたちで婚礼を迎えた。


 大仰な披露は望まなかったが、館の人々は自然と花を飾り、菓子を用意し、庭を整えてくれた。

 それは、「あなたがこの家の一員であることが嬉しい」という、無言の祝福だ。


 白い花の庭で、ジュリアンがクラリーヌの手を取る。


「努力を当たり前にされるのではなく、その重みをきちんと見てもらえる場所……あなたに、ようやくそれが届いてよかった」


 クラリーヌは、そっと微笑んで答える。


「頑張ることしか選べなかったあの頃、『無理をするな』と言われても、誰も、無理をしなくていい環境なんてくれなかった。でも、あなたは──黙って支えてくれた。行動で、そっと」


 クラリーヌはまっすぐに、ジュリアンを見つめる。


「だから今度は、私が──無理をさせない人になります」


 ジュリアンはやわらかく目を細め、その手をしっかりと包み込んだ。


「それが、何よりの誓いです。……これからも、二人で」


 春の光が、二人の肩にそっと降り注いでいた。

 誰かに選ばれるためではなく、自分で選び取った未来。

 それが、クラリーヌの本当の幸せだった。

お読みいただきありがとうございました!

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主人公が待遇改善を訴えていたら完璧だったかも知れない。 ても社会人一年目じゃないけど家に入って間もなくだとどうすれば良いのか分からないのはリアルなのかもしれないですね。 定時で帰れよって言いながら、そ…
拝見致しました。 クラリーヌが本当の意味で激強!思えばジュリアンが惹かれたのはそこか。その人の言葉ではなく行動を見ているのが正しき人物観。ベルモントの地には本当に高貴な人間が集まっている模様。 ティ…
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