悲しみのチーズ
あたりがチーズ色に沈んだ。
彼は大きすぎるトマトをそのままにして流れる乳白色よりもさらにくすんだ黄色をしたチーズに潜り込ませた。あかい球体はなすすべもなくてその色に沈む。
チーズはその場合、楽しいものでなければならないはずであった。そうでなければあまりに悲しみが深い。様々な形象が鈍化されそれ自身の色は一時忘却されうる。しかし、そのチーズの性質がゆえにふつと切れたチーズのヴェールを突き破ってそのむき出しの色を最後に覗かせるものの果たしてもはやそのころにはそれ自体としての価値は失われ循環の渦に吸収される。しかしながらその静かな悲しみも楽しいチーズならば覆い隠せるだろう。陽気にふるまっていられるだろうが、この日のチーズはやけに悲しかった。
彼はフォークにそのもともと赤かった果実がしっかりとヴェールに包まれるのを見届けた後に満足そうに口に運んだ。肉厚その赤い球体ははじけるようにしてぽっかりと赤さの名残を心象に刻み付けた。
彼との話はまことに冷え切っていた。彼は今度インドに行くらしい。理由は不明瞭だが現実よりかははるかに乖離したところにあるのだろう。ユートピアは私たちに開かれない。が、ユートピアの形象もまた、なんだかとがっている気がする。悲しみから生まれるそれは、本当の楽しみを知らない。チーズが楽しければよかったのに、と思うが、それも深く乳白色を煮詰めたあれに沈む。
ろうそくがこんなとき灯っているならば、あらゆる話をロマンティックに語る自信を灯せたと思うのだが、そんな便利なものはこの世からは淘汰されつつあって、丸みの帯びた、そして全然非効率なそれらはそれ等自身ではなく、忘れられないようにしてしがみつく形で殻だけを残して、それを現実がかぶってみせる。そういったものをLEDが照らし、ネオンの外面だけが寂しがる。チーズもまたそうだ。古き良きチーズは家庭の鍋で煮詰まることはほぼない。どこかの貴族はろうそくをともしながら、現実なんてものを見ずに談笑する食卓に載るものになっているにちがいない。そんなチーズはたぶん楽しそうにふるまえる。
「で、これで最後になりそうだよ。」
「きっとそうですね。」
で、チーズはいよいよ濃くなってしまい、もはや、ヴェールにさえならぬ、やくたたずになってしまったというわけで。悲しみのチーズはもういらない。