03.
シオンは世界中に類を見ないほどの美しい景観を持っている国だ。四季という独特の季節感を持ち、一年という時の中で景色が巡る増しく変化する。住まう者は「なあにそんなことで」と笑い飛ばしてしまうが、他国にとってはそれこそが多大な価値を持っている。それこそ大金を出してでも手に入れたいと思うほどまでに。
彼らがなぜそこまで血眼になるのか。それはこの国が持つ『花』と呼ばれる植物の価値が世界中で見ても高かったからである。いや、そもそも植物という存在がこの世界では希少であった。
右を向けば冷ややかなアスファルト。左を向けば石を積み立てた建物。かつてこの世界にもあったとされる自然なるもの、主に緑の植物が根絶している。どの国もそれを当たり前としていたが、シオンの存在を知ると途端に目の色を変えた。
人間の本能はやはり自然を求めている。アスファルトの織り成す無機質な美しさよりも何倍も、世界そのものが生みだした美に惹かれるのだ。
他国から大きな注目を集めたシオンは言葉に迷った。下手を打てば無理やりこの土地を奪いに来るものが現れてもおかしくはない。他国からの侵略によって、大事な国を失われてはたまらない。そう考えた当時の国王は穏便に、かつ事実を織り交ぜて声明を出した。その声明は世界中で大きな混乱を招くこととなる。
声明とは花とそれを生み出す者、聖女に関わる情報だ。花は聖女の魔力を持ってしか咲かない。しかし聖女はどの時代にも存在の記録はない。だから花という存在はいわば絶滅危惧の存在。奪いに来たとしても意味はない。そう言った内容の声明である。
だが依然として謎は多い。
花は観察対象という以外に何か能力を持ちえるのか。
そして、何故かこの国ではその花が各所に散らばるように咲いている。それは一体何故なのか。
真実を知らない人々はそれを希少なものとして割れ物に触れるかのように愛でている。いつかこの手で花を咲かせられたら。そう考える者も少なくはなかった。
◇◇◇
「初耳だな」
「秘匿とされているので」
僕はルピシアを抱き上げ、彼女を村の中でも比較的落ち着けられる聖堂にまで連れて行った。僕は宗教とかそもそも国について詳しいわけではないが、宗教が聖女と密接な関係にあるということは小耳に挟んでいた。だから彼女を救う手立てが少しでも見つかればと足を運んだのだ。司祭はそれを快く受け入れてくれた。
「それを僕に伝えてもよかったの?」
「……これは私の独り言です」
ふっと小さく笑うが、その独り言にかなり助けられている僕は心からの礼を彼に尽くす。お陰で王子らから話されたことでは理解しきれなかった部分の補填が出来た。
僕はルピシアが聖女に選ばれた理由というものに最も首を傾げていたのだが、それが『花を咲かせる力を持つ者=聖女』という式が成り立つ故と考えれば納得だった。
「単刀直入に聞くけど、聖女を救う方法はないのか?」
「聖女様はいまだかつてこの地に存在したとされていません。それは彼女らは誰もが世界の膿の犠牲となっていたからです。例外は何1つありません」
僅かな期待が全て打ち砕かれた心地だった。噛んだ唇から鉄の味を感じる。意味の無い行動だとはわかっていても、僕はそうでもしないと今にも暴れてしまいたい衝動が抑えられそうになかったんだ。
例外は1つもない。言葉の重みが強く僕にのしかかっていた。
「しかし」
司祭の次の言葉を聞くまでは。
「しかし、聖書にはこのような記述がありました。聖女の力の回復には『花』に触れればよい、と」
「『花』に……?」
「私は正直、今までとても不思議だったんです。なぜ聖女となりえる女性の持つ能力が『花を咲かせる能力』であるのかと。花は確かに綺麗ではありますが、ただそれだけのもの。特別な力なんてあるはずない。そう思っていました」
僕は誰よりもルピシアの傍にいた自信がある。もちろん彼女が花を育てる過程だって隣で見てきた。種を植えるところから花が開くまで。だがその過程に何か特殊なものがあった訳ではなく、僕は未だに花をただ観察対象としか思っていなかった。
「その認識を改めるべきようですね。花には私たちの知らない何かが隠されている」
花を作るという能力を持つものが聖女と呼ばれる所以もきっとそこに。僕は協会の冷たい椅子に横になっているルピシアの顔を覗く。ピンク色と形容すべき血色の良かった頬は痩け、青白い状態が続いている。彼女の容態は徐々に悪化していた。だから、王子一行もこのように言ったのだろう。
「彼女を渡すわけにはいかない」
「諦めろ、今は生きていてもいずれ……」
「僕は彼女の命を諦めない」
王子の瞳がぴくりと揺れた。彼もまた、悔しそうに唇を噛んでいた。その感情の矛先がどちらへ向かっているのかは分からないが、彼らは嫌に素直に僕の言葉を受け入れた。
「かまわないが、骸は最後王城まで運ぶように」
王子はマントを翻した。王族らしい意匠の刻まれた布だ。今の僕らとは大違い。荒れ果てた花壇。見る影もないほどに窶れてしまったルピシア。奪われたものとそうでなかったもの。僕らはその対比にあるような気がして余計に悔しくなった。
誰かが苦しんで世界が成り立つなんて、そんなのあってたまるか。そんな世界なら、みんなが少しずつ苦しむ世界の方がよっぽどマシだ。
「僕が、取り戻す」
「シラン?」
「あ、ああ。花は特殊な能力を持っているなら、ルピシアが作った花を……」
と、そこまで言いかけた所で僕は彼女が育てた大事な花たちは世界の膿によって犠牲になってしまったことを思い出した。それは僕らから日常という名のつく全ての存在を奪っていった。
先程の出来事を想起するだけで僕は途方もない気持ちになる。ルピシアを取り戻したい。その思いは一貫して存在しているものの、「できるのか?僕に?」との考えが浮かんでしまうのも事実。
「……」
「シラン、よく聞きなさい。ここからしばらく進んだところに町があります。そこに花が発見されたとの報告が聖堂に先日伝わってきました。まずはそこに向かってはどうですか」
「……!」
「取り戻すと決めたのでしょう?」
僕はいつの間にか流していた涙を拭って顔を上げた。申し訳ないが、僕は物語の主人公のように真っ直ぐ目的へと突き進むことは出来ない。これからもきっと己の無力に絶望し、顔を下げることだろう。だが、それでも。
「ああ」
僕は彼女を取り戻すと決めたんだ。
「ありがとう……この恩は忘れない」
「その言葉は私の方こそ」
僕は首を傾げた。こちらからお礼を言うことはあっても、司祭の方に礼を言われるようなことは一切行っていない。心当たりが全くない僕は「なんのことだ?」と言葉を返す。すると彼は目を細め、身体の中の息を小さく吐く。
「聖女様を救うなんて今まで一度も考えたことはありませんでした。だって聖女様は私たちのことを救うものであって、救われるものではない。そう思っていましたから」
ああ、それはわかる。
醜い感情だとは思うが、ルピシアでなければよかったのにというのが率直な感想だった。彼女じゃなくて、僕の知らない誰かなら今頃幸せな日々を送っていただろうと彼女を抱き上げながら何度も考えた。
だがそれは現実から目を背けているにすぎないんだ。ルピシアが聖女でなければ別の者が聖女になっていたのだろう。別の誰かが犠牲に。この国は、いや……この世界はそういう方法で長らえてきたようだが、僕はそれを容認する気はない。
「僕もそう思っていた。だけど、ただ一人が犠牲になるのをもう僕は許せない」
「……ええ」
司祭のにこやかな笑みに僕の心は幾分か落ち着きを取り戻した。ルピシアのことを考えれば今にも元の荒ぶりようを見せてしまいそうになるがそれでも。僕の心は目の前の彼に少なからず救われたのだ。
「私たちはあなたたちの味方です。どうか聖女様に」
笑顔の花が取り戻されますように。