君の笑顔が消えた日
「くそ、今日には成っていると思ったのに」
朝焼けした赤が薄れ始め、そこに青の絵の具が少しずつ溶けだしていく。鳥が囀り、風が囁き、世界が目を覚ます。この場に集う音たちが、ひとつの旋律を奏でているようだ。
春の訪れ。――いや、音連れを祝福しているのかもしれない。
僕はしゃがみこみ、まだ夜の冷たさを残す地面を睨みつけた。何度見つめても、動かない。何度見ても、変わらない。そのもどかしさと無力さに胸がかき乱される。
「……ふ」
それの存在意義とも言えるものを、いまだ作れていない。そんな自分に、またしても嫌気が差す。果てには「どうして成ってくれなかったんだ」と子供のワガママのような声が、喉の奥で燻る。
目の前の緑は喋らない。にもかかわらず僕はそんな相手に説教まで垂れようとする。
――なんて、情けないのだろう。
その日初めて空を見上げた。目の前に広がる光景は、心境とまるで正反対だ。嫌味なまでに綺麗な空を、なんだか見ていたくなくて、胸の靄を鼻から吐き出すように、視線をゆっくり地面へ落とす。
「地面と睨めっこしているの?」
――肩の力が抜けていく。
心の靄はいつの間にか姿を消し、胸の重さが嘘のように軽くなっている。たった一声、聞いただけで。姿だって、顔を下げている今では見ることもできないのに。
顔を上げると、暖かな陽光が桃金の髪を照らし、風がそれを柔らかく揺らしていた。春が人の姿かたちをとって現れたような、その女性を。
「私の見立てでは、シランが優勢ね」
「……それは嫌味?」
ふむふむと大げさに頷くルピシアに、僕は少し呆れながらも――本心を言えば、満更でもなかった。
彼女の視線の先には、自分で咲かせた花々が誇らしげに胸を張っていた。その片隅で、僕が咲かせようとしている蕾がまだ小さくしゃがみこんでいる。
春風は二人の間を通り抜け、花の香りとともに彼女の存在感をそっと運ぶ。
彼女は僕の吐く棘のある言葉を、いつものようにするりと躱し、心を抉るような笑顔を向ける。矢に打たれた経験はないが、きっと今の僕はそれに近い。
胸の奥で心臓が重く、鈍く脈打つ。笑顔ひとつでこうも心が乱されるのは――後にも先にも、彼女だけだった。
「し、シラン……?」
「!」
自分でも気付かぬうちに彼女の髪を撫でていたらしい。手に柔らかな心地を感じ、目の前のルピシアが頬を赤らめたことで、我に返った。
慌てて手を引っ込める。耳の奥で鼓動が跳ねた。
……うるさい。ああ、もう黙っていてくれ。
僕とルピシアは恋人同士ではあるが、出来たことと言えば手を繋ぐくらいで、それ以上には進めていなかった。理由は単純。僕が恥ずかしかったからだ。
だがルピシアはいつも頬を膨らませることも、唇を尖らせることもなく、ただ微笑んでいた。その微笑みが、あの日の言葉を思い出させる。
「行動にしなくてもちゃんと伝わっているよ」
その優しい笑顔が、今も心に残っている。
触れたい気持ちはある。だが、手を伸ばすたびに心臓が制御を離れて暴れ回るようで、どうしようもなく焦れったいんだ。
耐えられない。でも、どこか心地良い。そのもどかしさから逃げるように、僕は彼女に背を向けてしまう。 だが、今日は……そんな気は起きなかった。
――触れたい。
「ど、どうしたの? 珍しいね」
もう一度桃金の髪に触れようと伸ばされた手にルピシアが戸惑う。
「……まあ、今日くらいはと思って」
とってつけた言い訳。しかし、ルピシアの耳が「今日」という単語にぴくりと動いた。編み込まれたリボンが、ふわりと風に背中を押される。
「あ、もしかしてわたしの誕生日のこと?」
その笑顔に、春の陽射しが差し込むようだった。身に着けているものも、吹き抜ける風でさえも、彼女の喜びを代弁しているようだ。
……なのに、僕は彼女の喜びを素直に受け止めることが出来なかった。そんな耳元で言わなくてもわかる、とぶっきらぼうに言い放ってしまう。
すぐに後悔した。それは二つの意味で。
ひとつは、言葉。もうひとつは――、このあと渡すはずだったものに。
準備はしていた。何か月も前から、彼女の誕生日に贈るのは、これしかないとを決めていたものがあった。
しかし、それは無意味だったことが、たった今明らかになった。猶予はあったはずなのに、僕はそれを形にできなかった。――咲かせることが、できなかった。
今から代えの物を探す時間もない。ここはひとつ「誕生日プレゼントを忘れていた」とでも言ってしまおうか。
しかし――。
「?」
彼女の美しい緑の瞳に一点でも黒いものが混ざってしまうのは嫌だった。それも自分が原因だなんていうのは……尚更だった。短い葛藤の末、僕は深いため息をつき、ルピシアに向き直った。
その瞳を真っ直ぐ見据える。
「渡したいもの、あるんだけど」
「えっ、えっ! 本当!?」
「けど君が満足してくれるかは……」
「する! するに決まってる!」
あんまり無邪気な返事をするものだから、思わず笑みがこぼれた。暖かさが胸を起点に、全身へとじんわり広がっていく。
そうだった。君はそう言ってくれる人だった。
きっと今も何かを貰えるということではなく、僕が自分のことを考えて何かを準備してくれたという事実に喜んでいるのだろう。
だから、そういう君だから――。
「……これを、君に」
花畑。だが、そこには何の花も咲いていなかった。殺風景な土の上に、芽がほんの少しだけ顔を出しているだけ。もはや花畑と呼べるかどうかも怪しい。
花は咲いていなければ、花とは言えない。
隣にあるルピシアが作った花畑は、色とりどりの花で満ちている。その色彩美に僕はこれまで何度も目を奪われてきた。
対して僕のは芽しか出ていない。こんなものを渡して、喜んでもらえるのだろうか。まだ芽しか咲かせられない僕を見て、彼女は呆れたりしないだろうか。
――不安だった。
その瞬間まで、渡すべきかどうか悩んでいた。いつもの虚勢は上手く出てきてくれなくて、僕は分かりやすく沈んでいた。
「本当は咲いている姿を見せたかったんだけど……」
君の綺麗な桃色の髪と同じ色の花を選んだんだ。君と並んだらきっと綺麗だろうなと思ったから。今の僕にはまだ無理だったみたいだけど――。
「うれしい」
けど、君は。
「嬉しい! 嬉しい! こんなに嬉しいことがあるなんてっ!」
こんな不完全なものでも喜んでくれる。君がこんなにも喜ぶから、この花畑も世界一素敵なものに思えてきてしまうんだ。
ああ、こういう君だから僕は。
「大げさだよ、ルピ」
「そんなことない。しかも芽を出しているなんて……! きっと素敵な姿を見せてくれるわ! とっても楽しみ!」
「いや、花は君にしか咲かせられな……」
「シランなら出来る! わたしが保証する!」
君の言葉はなんでこう、いつも僕の心を軽やかにしてしまうんだろう。長年抱えてきた確執やコンプレックス――どうでもよくなったとまでは流石に思わないけれど、君の笑顔を見ていると、それすら受け入れようと思ってしまうんだ。
君が僕の全てを否定しないでいてくれるから。僕はこんなにも心地よくいられる。
「わたしもね、今新しいお花を育ててるんだ」
「へぇ、今度はなんの花?」
「えへへ、秘密」
なんだよそれと目を細めて顔を睨むように見つめてみれば、楽しそうに彼女が笑う。『シラン、変な顔』なんて言われてしまって少しカチンきたけど――その笑顔を見ていると、ちょっとの怒りは自然に溶けて、僕は思わず肩を揺らして笑い声をあげてしまった。
「でもね、わたしのとっても好きな色で咲いてくれるお花、っていうのは伝えておこうかな」
「君の好きな色?」
「ふふっ、さて何色でしょう」
「別に何色でもいい」
「あ、またそんな意地悪言う」
僕らは図らずとも二人して土いじりを始めていた。隣に並び、綺麗な花が花となってくれるように、丁寧に彼ら、彼女らを扱う。僕は腰に下げたハサミを取り出し、成長の邪魔になるであろう根を丁寧に切っていた。
ルピシアは僕の手にキラキラとした視線を向けてくる。
「シランはハサミの扱いが本当に上手よね。いつも思ってたけどとっても器用」
「まあ、手先は器用かもしれないけど。僕からしたら君の方がすごいと思うよ」
「わたし?」
「どんな花だって元気に咲かせてしまうだろ。まるで母親のようだなって.....緑の手を持っているなっていつも感じていた」
そう言うと、ルピシアは突然クスクスと笑い始めた。
「わたしたちお互いのことをすごいって思ってるんだね。そんなわたしたちが一緒なら、これからもっとたくさんのお花を咲かせることができるかも」
「……そうしたら、君の花壇も賑やかになりそうだ」
「あはは。なんだかその言い方、家族みたいね」
家族、か。
「ねぇ、ルピシア」
「なあに、シラン」
ルピシアの笑顔に僕は見惚れた。何度見ても、何度だって惹かれてしまう。
春のような君。すぐに過ぎ去っていく儚さを感じさせながらも、心には暖かな気持ちを残してくれる。そんな君。
そんな君だから、僕は――。
「僕と結婚してくれないか」
そばにいてほしいと思った。
その笑顔を、いつも隣で見せてほしいと思った。
そんな贅沢者になる権利なんて、僕にはないと思っていたけど――君はそんな僕すらも容易く受け止めてくれた。
だからこそ、そんな優しい君のそばにいたい。
どうか僕を、これからも受け止めてほしい。
そして、僕に君を受け止めさせて欲しい。
「君に、傍にいて欲しいんだ」
僕はポケットから小さな指輪を取り出した。特別な宝石が施されているわけでもない、特別な意匠があるわけでもない。ただの銀の輪。――それでも、僕の精一杯の愛だった。
柄にもなく手が震えていた。春の訪れを感じる季節で、冬の寒さはもう通りすぎているというのに――。
僕はルピシアの次の言葉を待っていた。
「わた、しも」
鈴のような声だと思った。
「わたしもシランと結婚したい……!」
世界一素敵な音を鳴らす鈴のような、可愛い声。その声で僕の名前を呼んでくれるだけでこんなにも嬉しいのに、僕のことを求めてくれる。
ああ、嬉しくてどうにかなりそうだ。
僕は格好つけて、あふれ出そうになる涙を抑えて小さく笑った。そして、準備していた銀色の指輪を――彼女の小さな左手の薬指にはめた。
指輪をはめた瞬間、今まで背中を押してくれていた風を、顔に感じた。少しの冷たさ。いつもなら違和感を感じていただろうが、僕は気づけない。
人生の最骨頂とも言える幸せに、直面していたのだから。
「……っ」
僕の人という証。
「シランも」
僕が君の人という証。
ああ、なんて。
なんて、素敵な日だと思った。
僕の目にはルピシアしか映っていなかった。ルピシアの目にも僕しか映っていなかった。だから、僕らは気付けなかった。朝焼けの美しい空に、子供が絵具を倒してしまった時のような真っ黒な歪が現れていたことに。
その時だった。
ふいに、風の音がやんだ。
囀っていた鳥も、いつの間にか遠くの方で鳴いている。この場に広がる不気味なまでの無の空気。僕は背筋が凍る心地があった。空気が重くのしかかってくる。
「シラン、今の、音……?」
ルピシアの肩を抱き寄せる。彼女は空を見上げていた。
その瞬間、僕も気がついた。青空の中に現れた、闇。昼の中に夜が姿を現したような、そんな矛盾が頭上にある。
その黒は、波紋を広げる。
「なんなんだよ……」
自然現象の明らかな異常に僕は戸惑うばかりだった。状況を整理することに精一杯で、一番守るべきものに目を向けられていなかった。
――思えば、これが最初の僕の過ちだったのだろう。
黒は息をするかのように、まるで生き物のように空を移動し、僕らの真上にまでやってきた。
僕は咄嗟に叫ぼうとした。しかし僕の言葉の遥か先で、その光は――いや、闇が、彼女を貫いた。
天地を揺らがすほどの轟音。そして。
「ああ”あああっっ!!」
彼女の悲鳴。
黒の歪は稲妻のように彼女の身体を貫いた。
黒の衝撃は凄まじかった。花畑は見る影もなく、一瞬にして無残な荒野へと変わる。そしてその衝撃を直に受けた彼女の痛みは、形容のしようもなかった。
肌が縮れ、美しい髪は変色していく。鈴を転がす可愛らしい声は、老婆のようにひしゃがれ、オーロラのような緑の瞳からは光が失われていった。
僕は苦しむ彼女の身体を抱きしめるしかなかった。
「ルピ! どうしたんだ!?」
「いたい、いたいいたいいたい!!」
ルピシアを襲ったのは尋常ではない苦痛だった。身体が燃えるように熱く、凍り付くように冷たく――そして、貫かれるような痛みが、容赦なく全身を駆け抜けた。
目に見えぬ痛みを退ける術もなく、ルピシアはただ、もがき苦しむことしかできなかった。
そして僕にも、ルピシアの中で一体何が起こっているのか、何もわからなかった。僕はただ無力だった。ただ、痛みに耐えかねる彼女の身体を抱きしめることしかできなかった。
しばらくして、ルピシアの様子が変わった。充電が切れたオルゴールのように、ぱたりと動きを止め、力なく首を上へと向ける。それが彼女の意志によって起こっているものではないのはすぐにわかった。
腕から伝わる脱力の重さ。ずしりとした、人間としての重み。そして、見たこともないほどに黒く染まっていく瞳と身体。――彼女の異変は、全て空から降ってきたあの闇によるものだと、僕は悟った。
「――聖女は役目を果たしたか」




