第1話
結婚前夜——
ひとつの動画が送られてきた。
「ごめんね……♡ あなたじゃもう、満足できないの……♡ 彼のこと、愛してるの♡♡♡」
それは俺にとって最愛のカノジョの——寝取られ報告ってやつで。
「だから…………サヨナラ♡」
瞬間、俺を取り巻く全てが粉々にぶっ壊れる音がした。
何年も思い描いてきた、幸せな結婚生活。
もうすぐ、現実になるはずだったのに。
ふたりで積み重ねてきたはずの、かけがえのない何もかもが、泡沫夢幻に消えてゆく。
世界が、先の見えない漆黒に染まった。
鼓膜の奥には、俺の知らないカノジョの媚びきった嬌声がベットリと血糊のように張り付いて、きっと、永遠に鳴り響いている。
◇◆◇
3年後。
『あんたに、会ってほしい子がいるのよ』
最初は、お見合いの話だと思った。
独身アラサーの結婚適齢期ともなれば、母からそういう話のひとつもあるだろう。
速攻断るはずだった。俺にはムリだから。
だけど、どうしてか俺は今、ここにいる。
たまの休日。
一人暮らしの家から車を走らせて、実家方面へ。適当な駐車場に車を停めて、懐かしい近所の街並みを歩いた。
やがて、とある家の前で立ち止まる。
ここ数分、ずっとその家を眺めていた。我ながら不審者すぎる。
「……………………」
3年前のあの後、結婚式は当たり前のように当日キャンセル。
俺は心の整理もつかないまま招待客や関係者各方にひたすら頭を下げて回った。
寝取られたなんて言えるはずもなく、別れることになったとだけ伝えた。
慰めてくれる者も中にはいたが、怪訝そうな表情を見せる者も多かった。俺に対する社会的な信用は地に落ちてしまったと言っていいだろう。
「あークソ、何してんだ、俺はぁ」
ボサボサの髪を乱暴に掻きむしる。
元・カノジョはあれから一度も、俺の前に姿を現さなかった。
俺も、べつに無理して探そうとは思わなかった。間男ともども見つけて慰謝料やら何やらふんだくりたい気持ちがまったくなかったわけではないが、それ以上にもう、関わりたくなかったのだ。はやく忘れたかった。忘れられるわけないけれど、忘れるべきだと理解していた。
心を絶対零度に固めて、働くだけの3年間。
結婚直前の彼女に捨てられた俺への信頼はやはり無に等しかったが、仕事で結果を残すことだけをした。そうしたら、居場所がなくても、後ろ指刺されても、存在を許された。
おかげで金はそれなりにある。
それ以外は、何もない。失って困るモノなんて何もない。
クソったれな人生。
お見合いとか、婚活とか、そんなモノには到底興味がないのだろう。
それでも、1つだけ、心に引っかかっていた。
「行くか」
緊張も、不安も、何もいらない。
俺には何もないのだから。
10数年ぶりに、その家のインターホンを押した。すぐに「はーい」と返事が聞こえて、初老の女性が姿を現す。
「あら。あらまぁ……! もしかして悠誠ゆうせいくん……!?」
「どうも、ご無沙汰してます」
「まぁまぁ、こんな立派になって……!」
女性は口元を押さえて、どうしてか感極まったように涙を浮かべた。
近所で有名な美人奥様だった彼女も、よる年並みには勝てないのか、それとも相応の苦労があったのか、小皺が目立つ顔をしている。それでも、充分すぎるほど美人だけれど。
「どうぞ入って」
「お邪魔します」
スリッパを履いて、家の中へ。
招かれるままにリビングのソファへ腰掛け、紅茶と、高級そうなお菓子を頂いた。
「ごめんなさいね、あなたも忙しいでしょうに」
「いえ、今日は休みですし。俺が来たくて来ただけです」
「ありがとう。ありがとうね……。あなたなら、もしかしたらって……藁にもすがる思いでね……」
「……それについては、保証できませんが」
「いいのよ。それでも嬉しいんだから」
それから何言か会話をしたのち、
「それじゃあ、お願いね」
2階のとある部屋の前へと通された。
開かずの扉とでも言おうか。目の前に立っているだけでも、重苦しさを感じた。
「よし」
ここまで来て怖気付く理由もない。おばさんと話して、少しやる気も出た。何とかしたい。
俺はその部屋の主をなるべく驚かせないようにゆっくりと、優しくノックした。
「……………………」
返事はない。構わず声をかけてみる。
「……あー、俺だ。姫宮悠誠ひめみやゆうせい。ひ、さしぶりだな。覚えてるか? 上京するまではよく一緒に遊んでた……」
すでに分かっていると思うが、これは決してお見合いでもなければ婚活なわけもない。
この部屋の主は、実家の近所に住んでいる10歳年下の女の子。
年は一回り離れていたが、同じ町内なこともあってそれなりに仲良くしていた。俺に懐いてくれていたんだと思う。
それが現在はこうして、引きこもりになってしまった。経緯とか何も知らないけれど、この現状が全てを物語っている。
そう、これは、一言で片付けるとしたら、ただの面倒事なのだ。
「あー、えっとぉ、その、だな……よかったら開けてくれないか? 顔見て話がしたい」
昔馴染みと言っても何年もずっと会ってない。何を話したらいいかなんて皆目検討がつかない。
彼女は今、19歳か。
俺の記憶の中にある姿とは、まったく異なるのだろう。成長しているはずだ。
「あ、あはは……すまん。こんなオジサンなんて部屋に入れたくないよな、うん。当然だ」
美しい女性になった彼女を想像して、自然と身が引けてしまった。
やっぱり、返事はない。
でも、人の気配は感じた。小さな息遣いと、布の擦れる音。間違いなく、この部屋には主がいる。息を潜めて、俺の言葉を聞いていた。
だから俺は、あらかじめ用意していたセリフを言うことにする。要するに、茶番は終わり。初めから俺はそれしか持ち合わせていない。それだけが、俺がここに来た理由だった。
大きすぎず小さすぎず、一言一句を丁寧に、はっきりとした声音で告げる。
「——結婚しよう」
これは俺にとって、2度目のプロポーズ。1度目のことはもう、思い出したくない。
これは俺と彼女の間に交わされる、2度目のプロポーズ。
1度目は、昔々のこと。
『好きです、お兄ちゃん』
『わたしを、お兄ちゃんのお嫁さんにしてください……!!』
俺が高校を卒業して、上京する直前。
彼女は涙ながらにそう訴えた。
幼気で、可愛らしい告白で、プロポーズ。
対する俺は、未だ何者でもない、子どもでも大人でもない存在だった。
たぶん、それに相応しい返事をして、お別れしたのだろう。
——責任、持てないから。
それが俺の記憶の中にある、彼女との最も大きな接点だった。
俺がここに来た意味が、意義が、役割があるとしたら、それだけだ。
他の言葉なら、俺じゃなくていいだろう。
だから俺はその言葉を紡ぐ。
俺は俺自身がどうでもいい。
どうでもいいから、こんなことができてしまうんだ……。
「……………………」
1分、2分、3分……待った。
返事は、なかった。
「…………今言ったことは忘れてくれ。じゃあ、帰るわ」
震える声を残して、扉に背を向ける。
まぁ、いいじゃないか。
俺にできることはやったはずだ。
いつか、これが、彼女にとって笑い話になればいい。
昔好きだった近所のおじさんがいきなり結婚しようとか言ってきてマジキモくてさーって、誰かに話せればいい。
そんな明るい未来が、きっとあると信じて。
「さようなら」
その場を去ろうと一歩踏み出す——その刹那、背後でガチャッと荒っぽい音が鳴る。
「——待って!」
暗闇から伸びてきた小さな手のひらが、俺の右手を掴んでいた。
「しずく……?」
扉の隙間からわずかに覗く、懐かしさのある顔。伸び切った髪は、ぺったりと傷んでいた。
「ま、ままま、待って! 行かないでください、お兄ちゃ————うっ…………」
ひどく狼狽した早口で捲し立てたかと思うと、すぐに口を閉ざしてしまう。苦しそうに嗚咽を漏らして、プルプルと震えている。
「も、もぉ、ムリ」
ついには掴んでいた俺の腕を弾かれるように放り出し、その手を自らの口に当てた。
「うぅっ……おえっ、おろろろろろろろろろろろ…………(ビチャビチャビチャビチャ)」
やーばい、虹色の物体(規制済み)が超出てる。止まらない。
「お、おい大丈夫か? おばさん呼ぶか?」
さしもの俺も慌てて声をかける。背中をさすったりした方が良いものだろうかセクハラだろうか。おじさん怖いんだ……。
「だ、だいじょーぶ、でず……嬉しゲロでずがら……」
何が大丈夫なのかさっぱりわからん。
「うぇ、えろろろろろろろろろろろ」
さらに第二弾。あぁ、俺の服にめっちゃ跳ねてる……。
「あ゛、あ゛の……(ビチャビチャ)!!」
垂れ流しながら、泣きながら、彼女はそれでも俺にすがった。
「じまず……結婚……。私を、あなたの、お嫁さんにじてぐだざい……(ビチャビチャビチャビチャ)」
「え……?」
「好き……ずっど、好きだがら゛……あなただげ、ずっとぉ……(ビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャ)」
「……………………」
「ダメ゛、です゛がぁ゛……?」
もう、吐瀉物などまったく気にならなかった。そんなモノは問題じゃない。
「…………わかった」
こんなことが、あるんだな。
このクソッタレな人生にも。
「するか、結婚」
俺はそのびちゃびちゃの手を引き寄せ、小さな身体をギュッと抱きしめる。
「……クッセェ」
3年間で表情筋は死んだと思っていたけれど、胃酸塗れのプロポーズはさすがに、笑えた。