雨だれのおと
2月の割に暖かい日が続いていたが夜になると、しとしとと雨が降ってきた。
ジイ様の葬儀を済ませて3日ほど過ぎた夜だった。
相変わらずヒスイの引き取り手はなかったがヒロやミチ、トモの3兄弟に囲まれると一人くらい増えてもなんら違和感が無かった。その日はサトの夫の明人が出張から帰ってくるのともう休ませたくないヒロの幼稚園の為にサト親子は800メートル先の彼らの愛の巣へと帰っていった。
…しずかだ。
先ほどまで3兄弟が居たとは思えないほどの静寂な空間で私はヒスイと二人夕飯を食べていた。
ヒスイは器用に箸を使い、食べる。その姿は5歳ほどというのに凛として美しく風格すら感じる。
「おかわりはいるか?」
私の言葉を聞くとヒスイは急いで茶碗に残ったご飯を平らげてお椀を渡す。その様は子犬のようで非常にかわいらしい。
「慌てなくていい。おいしいか?」
ヒスイはもぐもぐイモの煮物を口に含みながら大きく頷いた。
サトに言わせると「茶色の食卓」と言われる私の作る料理(…老人が好みそうな和食の煮物ばかりという食事の事らしい)でもヒスイはもりもりよく食べた。もうジイ様も居ないのだからもう少しかわいらしい食事も作ってやった方がいいのだろうか。来たときからヒスイはよく食べる。しかも、初めて…という食べ物がほとんどだ。いったい今まで何を食べていたのか…。いかん、またしんみりしてしまった。
はじめは風呂嫌いなんだと思っていたヒスイだがどうも大人と一緒にはいるのが嫌だとわかった。脱衣所で待機し、服のまま入って体だけ洗ってやることにした。なにか彼なりにトラウマがあるかもしれないとサトと相談した結果だった。
「カオリ殿。文字を教えてもらいたいのだが…。」
「わしは24歳だ」と言い張るヒスイにサトが意地悪して文字を書かせて、(もちろんミミズの這うようなものだった)ヒロの方が上手いと言った。傷ついたのか意地になっているのかそれからヒスイは暇が有れば字の練習をしている。サトも大人げない。
「カオでいい。ヒロもそう呼ぶだろう?」
いやいや、ヒロは「おやかたさま」か。言ってから気づいたがヒスイが小さな声で「カオ」とつぶやいていたので良しとしよう。
「随分上達したな。」
ヒスイはめきめきと字が上手くなった。ヒロも負けじと争うように練習しているがまだ「さ」や「ら」が裏返ったり反対になったりしている。ヒスイは子供らしくない。強いて言えば食べているときくらいしか相応な感じがしない。なんだか急いで大人になろうとしているみたいにみえて見ていて切ない。夜もヒロやミチがサトの隣を争って寝ている(片方はトモの指定席なのだ)というのに「一人でねれる」と離れて寝ていた。
一通りひらがなを教えてやるともう8時になっていた。風呂にも入ったのでヒスイには歯磨きして寝るように言う。まだやると相当渋ったのだが、幼児には睡眠が必要だ。明日からは道場も再開するので書道と合気道を習わすと約束して布団に入らせた。
台所を片付けて早々に私も眠ることにした。
******
ふと気配がして身を起こした。
「カオ……。」
「ヒスイか。どうした?トイレか?」
隣の布団で寝ていたヒスイが起きたようだ。
この家のトイレは屋外にあるために夜中に行くとなると幼児には大変な冒険となるからな。
暗がりからヒスイが私の顔をのぞき込む。電気のスイッチの場所が分からなかったのだろうか…。
「あっちから変な音がする。」
「…ふむ。」
怖い夢でも見たのだろうか。取り敢えず安心させるためにも見てきてやろう。
そう思って廊下に出た。後ろからヒスイがついてくる。
カタッ…
誰か居る。
ダンッ!
音がするようにわざと空いていた戸を全開した。黒い覆面をした男がジイ様の祭壇辺りにいてこちらを見て驚いているようだった。すぐさま慌てた男はこちらに向かってきた。出口は私の背中側だからな。
左側から飛びかかってきた男をかわしながら手首を軽く引いてやった。
ドスン!
空中で一回転してから男が倒れた。腕をひねって関節技をかける。
カラン…。
音と共に果物ナイフが落ちた。昼間サトがしまい忘れていったのであろう。後で説教だな。
男が動けなくなったところで…。思い出した!後ろにヒスイが!
「…すまない。忘れていた。大丈夫か?ヒスイ。」
すっかり小さな同居人のことを忘れていた…。これじゃあサトに説教どころではない。冷や汗をかきながら後ろを向くと…。
尊敬の眼差しで見つめるヒスイがいた。
…取り敢えず警察を呼ぼう。
******
「お葬式後は狙われやすいんですよ。雨の日も…。でも、師範の家に入るとは泥棒も気の毒でしたね。」
中年の里山という恰幅のいい警察官が言う。出稽古の時に会ったと言われたが私は覚えていなかった。
泥棒は50歳くらいの男だった。隣町で窃盗を繰り返していたらしい。
…4時か。一通り見聞も終わり、ひと眠りできそうだ。
「ヒスイ、寝よう。」
「さきほどの技はなんだ?」
窃盗犯を捕まえた後、ヒスイが私にくっついて離れなかった。初めは怖かったのかと思ったのだが、どうも私のつかった技に興味を持ったようでキラキラした顔で見つめてくる。
…上気した頬がかわいいな、ヒスイ。しかし、私は眠いのだよ。夜が明けたら10時から主婦対象の健康と護身クラスがあるし、午後からは年少の部、夕方には門下生が集まってくる一般クラスがあるのだ。
今日はハードな一日なのだから、寝よう。お願いだから寝てくれ。
「ヒスイにもいずれ教えてやるから兎に角寝よう。」
そう、諭してヒスイの背中に手をやるとドンドンと戸を叩くものが居る。
「師範!如月です!大丈夫ですか!?」
……。うるさいのが来た…。
「大丈夫だからそのまま帰れ!」
「イヤです!師範の顔を見るまで帰りません!開けてください!」
……。
「開けてくれなきゃ、ここで愛を叫びます!」
……。
「僕は師範をあ…」
ガラ!
ドンッ!
ドシン!
うっとうしいので戸を開けてのどを突いて倒してやった。毎回毎回、近所迷惑なやつめ!
戸の外で伸びているやつを一瞥して戸を閉める。
ピシャ!
……。
振り向くとまたもや小さな同居人が私を見ている。教育上悪いではないか!あいつめ!
「…今の技は…」
「だ・か・ら。寝るのだ!」
ヒスイにぴしゃりと言いながら小さな手を引いて寝室までヒスイを連れて行った。
それからヒスイは黙って布団に入った。…が、眠れないようでパッチリ目が開いたままだった。
なんだか色々ありすぎて疲れているのに眠れん。
はあぁ。
「…ヒスイ。眠れないか?」
「…努力する。」
「絵本でも読んでやろうか?」
「……。」
ヒスイが体を起こしてこちらをみて頷いた。
確かこの辺に…。
ジイ様がヒロに買ってやっていた日本のおとぎ話を出してくる。ヒロのお気に入り「龍の子太郎」をよんでやろう。胡座を組んでヒスイを足の上に座らせる。少し抵抗する気配もあったが、案外すんなり座った。抱え込むように腕を伸ばしてヒスイの前に絵本を広げてやった。
母を知らずにばあさまと暮らしていた太郎が龍である母に会う為に旅をしながら母の元に行き、母と共に村を救う話しだ。結構大人でも感動する話で、ヒロに何回も繰り返して読んだためにそのページだけぼろぼろになっている。
「この世界にも龍はいるのか?」
読み終わるとヒスイが言った。「この世界には、」だろう?…ちょっと苦笑して答えてやる。
「見た人はいないけれど、いるかもしれないな。」
互いの体温で暖まったせいか眠くなって、そのまま私はヒスイを抱えて朝まで眠った。