プロローグ
「ご愁傷さまです」
耳に残る声、医師と思われる人物は、医療用ベッドに横たわっている人物に繋がっている心電図モニターを見てから、脈を図り無念そうに言った。
周りの人は泣いている。
この声は、母親だろうか。それとも父親だろうか……そんなことはもうどうだっていい。俺を見捨てて、ずっと見舞いにこなかった奴らだ。
今更来た所でこいつらの考えていることは分かりきっている。
どうせ俺が死んだ後の保険金狙いだろう。泣いているのは演技だ。医師には泣いている様に見せつけ、俺の顔の近くではようやく死んだとばかりに、いやらしい顔つきで笑みを浮かべている。
もう俺の目は開かず、口も開かない。ただ、耳だけはまだ聞こえる。人は死ぬ時に、耳は最後まで聞こえるというのは本当だったらしい。ああ、もっと自由に人生を生きてみたかった……。
俺の人生は25年で幕を閉じた。他の人からしたらまだ若いのに、という言葉が出てもおかしくはない年頃だ。
では、なぜ俺が死んだかを少しだけ話そうと思う。
俺は重度の心臓病を生まれつき持って生まれた。幼稚園では卒園するまでは病院の病室で園長先生や入園から卒園まで受け持ってくれた担任の先生が簡易的な卒園式をしてくれた。
小学校では入退院こそ繰り返していたもの月に数回程だけ学校に行ける様になり、保健室で授業を受けていた。けれど、学校に行くこともままならない身体で、通学することもとても難しかった。
そのため、毎回母親か、父親が送り迎えをしてくれていたのだが、それも次第にへっていった。
そのことがあってかどうかは知る由もないが、登校日の日は、毎回担任の教師が迎えに来てくれた。
中学になってから、週に一回だけ学校に通う許可が降りた。家から通院しつつも学校へ通い、友人もできた。だが中学での俺は、運動ができない分、勉強に明け暮れ、毎週病院に通っている為、せっかく出来た友人も数日もせず離れて行った。
それもそうだ。俺自身、病弱な体で、歩くにも杖が必要なほど筋力はついていなかった。つくはずなどないのだ。
寝たきりに近い状態、外に出るにも命懸け。けれども、病状は少しずつではあるが、良くなってきていた。よくなってきていたはずだった……。
束の間の病状改善だった。高校に入ってからは、しばらくは問題なく通学できたいたのだが、突然授業中に心臓発作で倒れた。原因は、狭心症だった。
それからの高校生活は、入退院を繰り返すでもなく、ずっと入院していた。
華の青春時代と言われる高校生活は終わったのだ。高校生活でも同じように入退院を繰り返すのかとも思ったのだが、退院することはなく俺の病状は悪化していった。
高校卒業時も登校こそできなかったが、成績は常に優秀だった。
こんな体だからこそ、やることは勉強しかなく、週一回来る教師たちから教えてもらいながらの勉強は少しだが楽しかった。
お見舞いと称して勉強を教えてくださった教師たちには感謝している。
週に一回だが人と楽しく話せたのだ。
ただ、教師からすれば、教え子である俺の身体がだんだんと弱っていく姿は辛かっただろう。
よくそんな弱っていく俺を見捨てずに授業をしてくれたものだ。
そんな中、両親は違った。優秀な弁護士である父親は仕事で忙しく、まともに見舞いに来たことがない人だった。
それでもたまに来たかと思えば、俺の前で、「早く死ね。お前なんて一家の恥だ」と、言いたい放題言われてきた。そして母親は父親よりも酷い人だった。
さすがに殺されかけたりなどはしなかったが、父親より来る頻度が少なく来たときは、「まだ死んでないのね、早く死ね。死んだら保険金がたんまりだわ。早く死んで」と、ずっと俺を金の道具として考えていないような人だった。
実の両親から俺は嫌われていた。ずっと入院した時は、しばらくは見舞いには来てくれていた。
しかし、次第に来なくなった。入退院を繰り返す俺には全く興味はなかったのだろう。
入院する日にだけ付き添いで一緒に来て、それ以降は退院するまで両親は見舞いには来なかった。病院の看護師や医師からは俺は見捨てられていると言われ、哀れな目で見ていた。
病気が治ると思って病院に入院させていると、世間ではそう聞こえのいい様に言っているようだ。
本性は残酷で非道な人たちである。有名弁護士として評価が高い父と、有名女優の母、二人は自分の子を使って悲劇のヒロインとして名を売っているようだ。
それで、毎日見舞いに来て、息子が今日は楽しい話をしたとか、息子が学年で一位を取って優秀だとか言っている。成績優秀なのは自分から見ても否定はしないが、毎日見舞いに来たことなんて一度もない。
俺がこんな家に生まれなければ、病気なんて持っていなければ、まだましな人生が送れたのだろうか? あの両親のことだ。もし病気をもっていなかったとしても、成績は常に優秀でも蔑んできただろう。さらに俺を金の道具として扱っていただろう。
生きていれば何とかなるはず、そう思って我夢中で必死に勉強や資格を取ってきたのだ。両親にいつか認めてもらえる、そう信じて疑わなかった。
だが、その信じていたものは打ち砕かれた。己の欲でしか動かない両親は、ただ、俺を見下し、蔑み、金の道具としてしか見ていなかったのだ。
やりたいことも出来ず、ただ勉強するしか無い、そんな人生だった。結局、病気を持っているというだけで、俺は常に孤独だった。
20歳を過ぎたころには、病院でリモートワークのようなことをしていた。こんな俺でも雇ってくれる会社はあったのだ。
けれど、いかんせん病気の為、活動時間が短い俺は、会社でも蔑まれていた。
会社での俺は、結果として評価は高かった。評価が高いゆえに、同僚や他の上司からとても疎まれていた。
ある日、俺は大きなプロジェクトを任される様になった。そんな時だった。
よくなる事がなかったが安定していた病状がさらに悪化し、ようやく入った会社も辞めざるを得なくなった。得意であった今の大きなプロジェクトは海外での事業を成功させるためのプロジェクトだったのだ。
それを病気を理由に他の社員に取られてしまった。それからは、何もやる気も起きず、ただただ、この空虚で退屈な人生を、早く終わらしたいと思うようになった。
どれだけ努力しても、どれだけ必死にしようとも、誰も認めてはくれなかった。
それから5年が過ぎ、25歳の誕生日。その日も空虚で退屈だった。
いつも通り、起き上がり朝食が運ばれてくる。弱っている俺の体でも唯一、スプーンで食べる事ができる柔らかい食事を口にいようとした瞬間だった。その最初の一口も入らずスプーンが手から滑り落ちた。
「うぐ……」
突然の強烈な抗えない胸の痛み、心臓発作だった。
医療機器が異常を示すアラームを鳴らす。異変に気づいた看護師が医師に知らせたのだろう。
駆けつけてきた医師の治療も虚しく俺は、目を覚ますことはなかった。死んだのだ。
死んだあと、耳は最期まで聞こえるというのは本当のようで、両親が来た頃にはわずかしか聞き取れなかったが僅かに聞き取る事ができた。
「あんたなんか……生まれてこなきゃよかったのよ……疫病神」
母親からの最後の言葉はやはり皮肉だった。最期は少しは慰めの言葉をかけられると期待していた自分が愚かだった。そうだよな。俺なんて生まれてこなければよかった。この世界は、俺たちみたいなモノに、酷く残酷なまでに理不尽だった。
病気なんてなければもっと幸せな人生を送れたのだろうか? 愛されていたのだろうか? そんなことを思っても、もうすでに自分の意識は遠くなっていく。残るのは、この世界への恨み。絶望。妬み。
そして、こんな体で生まれた自分への憎悪。それだけだった……。もし生まれ変わるとしたら、病気のない健康な体が欲しい。もっと自由に、幸せな家族が欲しい。それはもう手に入らない。
俺は自分に対する憎悪と、世界への怨みを強く抱きながら意識を手放した。