らくだの涙
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
気が付くと、歯を食いしばっている。いつのころからなのかはわからないが、癖なのだ。
「ああ、いいなあ」
森本の気の抜けたような声で、俺は食いしばっていた歯を緩め、ギターを弾いていた手を止める。
「どしたの、湯野ちゃん。続けてよ」
床に胡坐をかいて座った森本は、きれいな形の眉を片方だけきゅっと上げて、不満そうな声を漏らす。
「や、まだ全然。ここまでしか思いつかん」
俺が言うと、
「そっか」
森本は納得したように頷いた。そして、
「湯野ちゃんさあ、俺のこと嫌いだろ」
唐突に言った。
「なんで。いきなり」
俺は戸惑う。どうしてそう思ったのか、よくわからない。
「別に。なんとなく」
森本はそう言って微かに首を振り、それきり口を開かなかった。俺は、手持ち無沙汰にギターを鳴らす。
スタジオでの練習の後半は、森本とふたりで思いついたメロディーを即興で鳴らしながら、半分遊んでいたようなものだった。ドラムの安良とベースの和栗が後半、バイトで抜けなくてはならなかったのだ。今日がスタジオ練習の日だというのは前々からわかっていたことなのだから予定を空けておくのが普通ではあるのだが、そうは言っても、ふたりは時間に融通のきくバイトをしているわけではないし、時間に融通をきかせられるような立場でもない。無理に休みを取って、今バイトをクビになるわけにはいかない。俺たちは、当面の生活費にいつも少しだけ困っているような状態なのだ。無理は言えない。前半だけでも、よく出てきてくれたものだと思う。
スタジオに残されたのは、ボーカルの森本と、ギターの俺だけだ。安良や和栗と違い、俺たちふたりは深夜のバイトをしているため、睡眠さえ削れば、昼間は割と時間が自由になる。ふたりだけでも練習はできないことはないのだが、安良や和栗が帰ってしまってからは、なんとなくそんな気にはなれなかった。しかし、金を払ってせっかく借りたスタジオだ。早めに切り上げるのはもったいない。そういう感じで、俺たちは時間いっぱいスタジオで遊んでいた。
時間がきたのでスタジオの鍵を返し、あらかじめ決めておいた次の練習日の予約をする。外に出ると、雨が降っていた。
「あーあ、やだなあ」
森本が言う。傘を持ってきていないらしい。俺はニュースサイトで天気予報をちゃんと見ていたので、夕方から雨が降ることを知っていた。ビニール傘を開くと、森本が無言で傘の中に入ってきた。俺もなにも言わず、そのまま歩き出す。肩が密着して狭い。身長の変わらない男ふたりの相合傘は、とても窮屈だ。
「さっきさ」
森本が言った。
「湯野ちゃんは俺のこと嫌いだろって言ったじゃん」
「うん」
俺は頷く。
「なんとなくって言ったけどさ、本当はアラちゃんに聞いたんだ」
森本は言う。
「湯野ちゃんは高校のころ、森もっちゃんのことが嫌いだったんだって、アラちゃんが言ったんだ」
なんだ、安良に聞いたのか、と俺は納得していた。高校のころ、俺は確かに安良に言った。森本のことが嫌いだ、と。
本当? というふうに視線を向けられ、俺はそれを肯定する。
「うん、嫌いだった」
森本の喉が、ぐるっと鳴った。ビニール傘にあたる雨粒の音が、バラバラとやけにうるさい。思ったよりもショックを受けているのか、森本の表情はたぶん笑顔を作ろうとして強ばり、それがなんだか今にも泣き出しそうな顔に見えた。森本のきれいな顔が歪んでいるのを見て、胸が締めつけられるような心地になり、かわいそうだな、と傲慢にも俺は思う。かわいそうで、かわいい。森本に対してそんなことを思ってしまい、俺は罪悪感を覚える。
「過去形だ。今は別に嫌いじゃないよ。安良だって、『だった』って言ってたろ?」
俺の言葉に、森本はこくこくと頷いて、傘を持つ俺のシャツの右肘部分を、ぎゅっとつまんだ。森本のスキンシップは、少々過剰だ。高校生のころの俺は、森本がこんなやつだなんて、全く知らなかった。森本は俺に過剰に触れ、俺はいつの間にか歯を食いしばっている。お互いに、この癖は直らないのだろうか。バンドをやめて生活が安定したら、もしかしたら直るかもしれない、と思う。森本を見た。長めの前髪が少し濡れて、森本の額に貼り付いている。森本は、真っ直ぐに前を見て、「海は見れた。沖へは行けなかったけど」と、苦笑い気味に言った。
俺たちのバンドは、来月のライブを最後に、解散する。
俺と森本、安良の三人は同じ高校の同学年だ。和栗も同学年ではあるけれど、別の高校へ通っていた。
高校のころといえば、俺は安良とよくつるんでいた。安良は兄貴の影響でドラムをやっており、そんな安良の影響で俺はギターを始めたところだった。そうなると、自然とバンドを組みたいという気持ちになり、ベースを弾けるという、安良の友だちの友だちである和栗を紹介してもらった。これで、ギターとドラムとベースが揃った。そうなると、最終的に「ボーカルどうすんの?」という話になる。
「湯野ちゃんがやれば。ギターボーカル」
和栗に言われ、
「でも、俺まだ弾くだけでいっぱいいっぱい。弾きながら唄える段階じゃないんだけど」
俺はそう答える。平凡で薄い顔立ちの俺は、そもそもボーカル向きではない気がする。こんな誰の印象にも残らないようなやつがバンドのフロントを担うのは荷が重い。そんなことを考えていたら、
「死ぬほど練習して弾きながら唄えるようになれよ」
そんなことを安良が言い出した。志としてはもっともな話ではあるが、やはりボーカルは避けたい。なので、
「ドラムやベースがボーカルやってもいいと思うぞ。そういうバンドもある」
責任を押し付けようとすると、
「無理だって」
ふたりは声を合わせて同じ返事をした。
「俺だって無理だよ」
放課後、高校の近くのたこ焼きの店に三人で集まり、狭い飲食スペースでそんな話ばかりをしていた。
ある日、安良がたこ焼きの店に、森本を連れてきた。
「こいつ、森本光明くん」
安良が言った。知ってる、と俺は思ったが、和栗は初対面だ。
「どうした。美男子なんか連れてきて。眩しいだろうが」
和栗が目をパチパチとさせながら言う。
「ボーカルは、顔がいいほうがいいだろ」
安良は言った。
「あー、なるほど。確かに」
和栗も頷いている。そういうことか、と俺も納得しかけていたのだが、森本だけが、「え、なんの話?」と訝しげな表情をしていた。
「アラちゃん、なんて言って連れてきたんだよ」
見かねた和栗が尋ねると、安良は、
「たこ焼きおごるから、いっしょに来いって」
けろりとして言った。どうも、森本には一から説明しなければいけないようだった。
森本は、学年一の美男子だ。人見知りもせず、誰とでも仲良くなれるという、俺から見たら特異体質としか思えない森本は、だから男女問わずモテていた。俺がひっそりと好意を寄せていた谷山さんも森本のことが好きらしいという噂を聞いて以来、俺は森本のことが嫌いだった。
「でも、顔がいいだけじゃあれだろ。ちゃんと唄えないと」
森本にどうしても好感を持てない俺は、そう反論してみるのだが、
「いやいや、歌もうまいんだって、森もっちゃんは」
安良は、そう言って首を振る。
「湯野ちゃんもわぐりんも、朝礼の時の森もっちゃんの校歌聴いてみ。まじ感動もんだから」
「ふうん」
和栗が相槌を打つ。
「そんじゃ、これ食ったらカラオケへでも行ってみっか。俺は学校ちがうから校歌聴けねーし」
和栗の言葉に、
「ねえ、なんの話?」
森本は相変わらず訝しげな表情で、それでも安良に献上されたたこ焼きを頬張っている。俺は無言でたこ焼きを口に入れ、あまりの熱さにそのまま皿に吐き出した。
「きったねー」
安良と和栗が口々に言った。俺を見て一瞬きょとんとした表情をした森本は、そのあと弾けたみたいにケラケラと笑った。俺は笑われたことに少しの憤りを感じながら、たこ焼きが冷めるのを待っていた。
カラオケでの歌唱テストに合格し、森本は正式にボーカルとして俺たちのバンドに入ることになった。森本の歌は、想像以上に良かったものだから、俺も首を縦に振らざるを得なかった。天は森本に二物以上を与えたのだ。なんだか納得がいかない。「森本は、本当にいいのか」と確認すると、「うん、いいよ」と軽い言葉が返ってきた。そして次に、
「みんなのほうは、本当に俺がボーカルでいいの?」
という、控えめな問いを投げかけてきた。
「いいに決まってんじゃん」
安良のその言葉に、当然だが否を唱える者は誰もいなかった。
そのころ、俺は安良にこぼしたものだ。「俺、あいつ嫌いなんだよ」と。
「八方美人だろ。誰にでも言い顔してて気にくわない」
「誰にでも優しいってのは、実はいいことだぞ」
安良は言った。
「森もっちゃん、いいやつじゃんか」
俺は黙る。薄々は気付いていたのだ。森本が、ただのいいやつだということは。しかし、俺の淡い恋心が、谷山さんの思い人をどうしても受け入れられなかったのだ。
結局、谷山さんには思いを伝えられないまま高校を卒業し、俺と和栗は専門学校へと進み、森本と安良は就職した。バンドは、高校卒業と同時に実質解散となっていた。三人とは、たまに連絡を取り合うものの、実際に会うことは少なくなっていった。そのまま専門学校を卒業し、就職活動に失敗してしまい、高校の時には想像もしていなかったフリーターへの道を、俺は歩もうとしていた。
森本から電話があったのは、そんな時だった。夜中の着信音に叩き起こされ、俺は不機嫌な声で通話ボタンを押した。
「湯野ちゃん? 久しぶり。森本だけど」
「森本、てめーふざけんな。いま何時だと思ってんだ。時差でもあんのか馬鹿野郎。おまえアメリカにでもいるのかよ」
睡眠を妨害された怒りに任せてそう捲し立てると、「あ。うん、そっか。アメリカじゃないけど、いま仕事でカナダにいて」と返答があったものだから、俺の目はぱっちりと覚めてしまった。
「……まじで?」
そういえば、心なしか電話が遠い気もする。
「ごめん。時差があるの忘れてた」
森本は言い、「それでね」と続ける。
「バンド、もういっぺんやろうよ。四人でちゃんと。おれ明後日、日本帰るからさ、アラちゃんとわぐりんにも連絡取ってみてくれない?」
「なんで。いきなり」
「うん。俺的にはいきなりじゃなくて、ずっと思ってたことなんだけど。また、やりたいなって。あのまま解散すんの、もったいなかったじゃん。まだ学祭のステージでしか演ってないのにさ」
森本は言った。もったいなかった、というのは、俺も思っていた。俺たちは、高校生で、金も知識もなかった。だから、勝手にいろんなことを諦めていたのかもしれない。その気になれば、バイトでもなんでもして金を貯めて、ライブハウスを調べて出演させてもらうということもできたかもしれないのに。
「海を見たいんだ」
森本は言った。その言葉の意味はよくわからなかったけれど、俺は、「わかった」と頷いていた。
「ふたりにも連絡取ってみる」
夜が明けてから、安良と和栗に連絡を取ると、「今更なんで?」と言いながらも、誘いに応じてくれた。
数日後、帰国した森本を含め、たこ焼きの店に四人で集まった。
「まだあったんだな、ここ」
安良がしみじみと言った。
「俺、仕事辞めてきたから」
森本が、唐突に言った。
「だから、もう再結成するしかないんだよ。俺のためだと思って、お願い」
俺たちは、ぽかんと森本を見る。森本は、にこにこと笑っていた。
森本は、こんな大胆なことをするやつだっただろうか。高校のころの森本は、物怖じしないのと同時に、もっと控えめなやつだったような気がする。自分の意思を通すよりも、他人の意思を尊重するようなやつだった。
「わがままだ」
安良が言った。顔は笑っている。
「ああ、わがままだぞ、森もっちゃん」
和栗も笑いながら言う。
「じゃあ、どうする、再結成。俺はどうせフリーターだし全然やれる」
俺が言うと、森本はにっこりと笑い、安良と和栗は苦笑しながら頷いた。安良と和栗も、心のどこかで、もったいないと思っていたのかもしれない。
再結成して、初めて立ったステージは、地元の小さなライブハウスだった。何組かのバンドに混じって、前座みたいな形で演奏をさせてもらった。純粋に俺たちの曲を聴きにきてくれた観客は、友だちと友だちの友だちくらいしかいなかったが、それでも他のバンドのファンを含めると、ステージから見えるのは、そこそこの数の人の海だった。
時間的に、三曲が限界だ。横目で様子を窺うと、驚いたことに、その一曲目から、森本はなぜか泣いていた。俺はぎょっとしてギターを弾く手が止まりそうになる。なんとか持ち堪えたが、森本のほうが気になってしょうがない。しかし森本は、泣いているにも関わらず、声も震えていなかったし音程もしっかりと取っていた。泣いていることを除けば、練習以上だったと言ってもいい。俺はそれを見て、こいつ、なんかやってたな、と思った。腹筋とかボイトレとか、なんかそういう訓練みたいなことを森本はやっていたに違いない。本気で、バンドをやるために。
初ライブは、成功だった。森本の美しい容姿と涙は観客の女の子に受けたようだし、和栗の正確なベースと安良の豪快なドラムはステージ裏で他のバンドに好評だった。何事においても無難な俺は、取り残された気分だ。
「海がどういうもんか、見れた」
初ライブの打ち上げで、やはり泣きながら森本は言った。
「今度は、泳ぐ」
意味がよくわからないままに、俺たちは頷いた。
夢だけでは食べていけない。知ってはいたけれど、身をもって実感したのは上京してからだった。
地元でのライブやイベントなどの活動を三年ほど経験し、固定ファンが付いたところで、俺たちは上京した。家賃を浮かすために、俺たちはふたりずつで同居していた。俺と森本、安良と和栗。誰と誰でも良かったので、くじ引きで決めた。俺たちはいつも腹を空かせており、バンドの練習よりもなによりも、賄い付きのバイトを探すことに必死だった。
それぞれがバイトを始め、都会の暮らしにそこそこ慣れてきたころ、スタジオを借りての練習を始めた。時間と金を捻出するのが、こんなにも難しいのか、と思った。四人全員の予定を合わせるのがまず難しい。それでも、なんとか空いた時間を見つけては、俺たちは練習をした。
俺と森本の住んでいるボロアパートでは、さすがに歌は無理なので、俺だけがヘッドホンを付けてギターの練習をしていた。ヘッドホンをしている俺にはちゃんと音が聞こえているのだが、傍で聴いている森本の耳には、ピックで弦を引っ掻く音しか聞こえないらしく、心なしかつまらなそうな顔をしていた。
バイトや、森本とのふたり暮らしや、合間合間の練習、時々のライブをちゃんとこなし、オーディションやイベントに積極的に参加し、そういう日々が日常化してきたあたりで、森本のネジが飛んだ。俺の布団に潜り込んでくるようになったのだ。最初は驚いて、「どういうつもりだ」と拒否していたのだが、「わからない」もしくは、「こわい」と言いながら布団の中で俺にしがみついてくる森本を、俺は邪険には扱えなかった。森本の言う、「わからない」と「こわい」は、俺の中にも確かにあったからだ。深夜のバイトをしているため、眠るのはどうしても昼間になる。真っ昼間の明るい小さな部屋の真ん中、俺たちはひとつの布団の中で、びったりとくっついて、ふいに襲ってくる「わからない」と「こわい」に堪え忍んでいた。
上京してから常に感じていた、「わからない」と「こわい」が、もう無視できなくなっていた。わからないことだらけではあったけれど、わかったこともある。夢だけでは食っていけない。好きだけじゃ続けられない。そして、俺たちはプロにはなれない。
オーディションには落ちまくり、素人参加のテレビやラジオの番組で演奏することはできても、人気順位はいつも三位以下だった。ライブでも、固定ファンはいるものの、やはり俺たちだけでは集客にも限界があった。なにかが決定的に足りないのだ。
心のどこかで、既に諦めていたのかもしれない。それを認めるのがこわくて、わからないふりをしていたのだ。
「やめ時かもな」
ある日の練習で安良が言った。俺も森本も和栗も、無言で頷いた。誰ひとりとして、否を唱える者はいなかった。
「俺、ずっと楽しかったよ。ありがとう、森もっちゃん」
安良は言う。
「おまえのおかげだ」
森本はなにも言わず、微笑んだ。
「海も見れたし、一応は泳いだ」
和栗が言う。
「でも遠泳は、俺、ちょっと無理だった」
そう言って苦笑する和栗の顔は、心なしか晴れやかだった。潮時だったのかもしれない。俺を含めた全員の顔が、肩の荷を下ろしたみたいにすっきりとしていた。
アパートへ帰る道すがら、森本が俺の横にべったりとくっついて、シャツの裾をぎゅっと握った。
「まだ、こわいのか」
尋ねると、
「ううん」
森本は首を振った。
「寂しいんだ」
「そうか」
俺は頷く。
最後のライブの前日、前夜祭と称して四人だけで細々と飲み、明日に影響が出ない程度に気持ちよく酔っ払って帰った。明日のライブ後は、お世話になった人たちにも集まってもらい、盛大に打ち上げをする予定だ。
アパートに帰り玄関を入ると、森本が俺の側面にぴったりとくっつき、シャツの背中の部分をぎゅっと握ってきた。身体の右側全体に森本の温度を感じ、俺はいつの間にか食いしばっていた歯を緩める。
「明日だな」
俺が言うと、森本は無言で頷いた。そして尋ねた。
「湯野ちゃん、なんで俺のこと嫌いだったの?」
「まだそれ気にしてんのか。今は嫌いじゃないって」
「今はそうだけど、でも嫌いだったんだろ」
しつこく食い下がってくる森本に、諦めて俺は答える。
「嫌いだったっていうか、気に入らなかったんだな。俺の好きな人が、おまえのことを好きだったから」
いざ口にしてみると、あまりにも青くさい理由に少し笑ってしまう。
「え、うそ。湯野ちゃん、好きな人いたの?」
驚いたように言う森本は、なぜかそっちに食いついた。
「いたよ、そりゃ」
「知らなかった」
森本は拗ねたように言う。
「全然、知らなかった」
「言ってないしな」
「知らないことが多いな」
森本は呟いて、俺のシャツを握る手の力を更に強くする。
「森本だって好きな人くらい、いたろ」
そう言うと、「うん、いるよ」と現在進行形の答えが返ってきた。
「知らなかった」
俺は言う。森本に、俺の知らない好きな人がいるということを少し寂しく感じてしまう。森本もそうなのだろうか。
「言ってないもん」
森本は笑った。玄関先で突っ立たままこうしていても仕方がないので、俺は森本の身体を邪険にならないようにそっと剥がす。
森本に触れられることに、もうなにも感じなくなってしまった。これが当たり前になってしまっているこの状況は、よく考えたらおかしいのかもしれない。森本のスキンシップが過剰だということを、安良や和栗はたぶん知らない。笑い話にして言ってしまってもよかったのだが、なぜだか俺はそうしなかった。家族の秘密を他所では話さないのと同じように、森本のことも俺は他所で話さなかった。つまり、俺の中で森本は、限りなく家族に近い存在になっていたのだろう。いつの間にか。いっしょに暮らしているうちに。
「湯野ちゃんはバンドやめたら、どうすんの?」
森本が今更のように言った。
「しばらくこっちにいるよ。ライブハウスとか楽器店とか、そういうところで働いてみたいんだ。でもまあ、いろいろやってみて無理だったら実家に帰るつもり」
とにかくやってみてからだ、と俺は思う。やってみなくちゃわからない、話はそれからだ。そのことを森本が教えてくれた。安良が言った「ありがとう」も、きっとそういう意味だった。やってみて、うまくいけばいちばんいいのだけど、それが駄目でも、その延長線上にまた、次のやりたいことが見つかるかもしれない。とにかく、やりたいことはやってみないと。そういう前向きな気持ちを、森本が教えてくれた。
俺の返事に、森本はさらに質問を重ねる。
「このまま、この部屋に住むの?」
「うん」
「引っ越すのかと思ってた」
「金ないだろ。俺は、とりあえず更新までいるつもりだったんだけど」
おまえは違ったのか、と尋ねる前に森本が言う。
「俺も、いていい?」
控えめな口調は、高校のころの森本を連想させる。
「あたりまえだろ。俺ひとりじゃ家賃がキツい」
それに、と俺は続ける。
「俺、今はおまえのこと好きだからさ。バンドやめても、いっしょにいられたらいいとは思うよ」
そう言い終ると同時に、森本の見開いた目から涙がこぼれたので、俺は驚く。森本は涙を拭おうともせずに、「そっかー」と言って笑った。
俺は、森本の腕を掴んで引き寄せ、そのまま抱きしめた。
「湯野ちゃん?」
戸惑ったような、くすぐったそうな森本の声に、なんだか我に返ってしまい、森本の身体を離す。
「明日は、しっかり楽しもう」
照れ隠しにそう言うと、
「うん」
森本はうれしそうに頷く。
その夜、森本が俺の布団に潜り込んできた。
「どうしたんだ。もう、わからなくもこわくもないだろう」
「興奮しちゃって眠れない」
森本の声は、心なしか明るい響きを帯びていて、俺は少し安心する。
「それはまあ、俺もだけど」
明日のライブが最後だと思うと、どうしても気持ちが昂ってしまう。
「湯野ちゃんと、いちゃいちゃしたい」
森本は言った。その言葉の意味が理解できず、
「なに。いちゃいちゃ?」
オウム返しに問いかけると、
「俺、湯野ちゃんのこと好きなんだよ。気付いてなかったの?」
森本はそんなことを言った。
「あー、うん。気付かなかった」
不思議とあまり驚きはなかった。そうか、という納得したような感情だけがあって、俺の言葉はなんだか平らに響く。
「今日、湯野ちゃんも俺のこと好きって言った」
森本は言う。そういう意味で言った「好き」ではなかったのだが、森本が本当にうれしそうなので、俺はなにも言わない。ただ、「うん」と頷くだけにする。
「うれしくて、眠れない」
そっちか、と俺は思う。てっきり、森本も明日のライブのことを思って興奮しているのだと思っていた。
「眠れない」
森本はもう一度そう言って、洟をすする。
「あれ? 泣いてんの?」
慌てて森本の顔を見ようと首を動かすが、暗くてよくわからない。
「泣いてない。全然泣いてない」
ああそうか、と思う。うれしくて眠れないなどと言いつつ、森本はやはり明日のライブのことを考えていたのだ。
「眠れないなら、俺にくっついて目を閉じてたらいいよ」
俺がそう言うと、森本は「俺は湯野ちゃんのそういう面倒見がいいところ、すごく好き。俺がくっついても邪険にしないところとか」と言った。それを聞いて、俺は、ふっと息をもらすように笑ってしまう。直後、唇になにかが押し付けられた。
「やめろよ、俺も眠れなくなるだろ」
森本が、甘えるようにさらにぎゅっとしがみ付いてきた。
そして翌日。ライブハウスのステージの上で、案の定、森本は泣いた。泣きながら今まで以上に完璧に唄い、そして、こんなことを言った。
「俺は、砂漠を歩くラクダでした。そのことに不満を抱いたことはありません。でも、高校の時、目一杯背伸びをした時に、海の端っこがちらりと見えたのです。その時、俺は、自分の喉がカラカラに渇いていることに気が付きました。それでも、それを気のせいだと片付けて、砂漠をただひたすら歩いていました。だけど、喉の渇きはひどくなる一方で、だから、わがままを言って、友だちを誘って、海を見に行くことに決めました。海は見ることができたし、なんとか泳ぐこともできました。だけど、海の水はからくて飲めたもんじゃなかったし、水温も冷たくてうまく泳げなかった、俺たちは四人で寄り添って、寒さを凌ぎながら泳ぎ続けました。しかし、それにも限界がきました。俺たちには沖へ行く体力が決定的に足りなかったし、それだけじゃなく、きっともっといろいろなものが足りなかった。結局、深いところへ行く前に溺れてしまったのだけれど、後悔はしていません。ここまではやれる、ということがわかった。それだけでも、海へ出てよかったと思っています。俺たちがステージに立つのは、これが最後です。だけど、きっとまたどこかで会えると思います。会いたい気持ちさえあれば、それぞれ別の海で、別の形で、きっとどこかで会えると思います。みなさんが、俺たちの曲をこんなふうに聴いてくれて、いま俺の話をこんなふうに聴いてくれている。それだけの繋がりだけど、きっとこれ以上のことってないと思う。時々でいいので、俺たちがここにいたことを、思い出してくれるとうれしいです」
俺は滔々と話す森本の後ろ姿を見ながら、自分が泣いていることに気付く。安良を見ると、俺以上に号泣していたものだから、なんだか笑けてしまう。和栗も涙を流しながら、それでも楽しそうに笑っていた。森本の声は続く。
「これで、本当に最後の曲になります」
森本が静かにタイトルを口にした。ドラムの音が弾ける。続いて、ベースとギター。それに森本の声が乗り、四人の音が、ひとつになった。
楽しい。涙でずるずるの顔をぶるりと振って、俺は思う。
ああ、楽しい、楽しい、楽しいな。
これが最後だなんて、信じられない。だけど、きっとこれで最後だからこんなに楽しいんだ。
観客を巻き込み、俺と森本と安良と和栗、四人全員が泣き笑いというおかしな状態で、俺たちの最後のライブは幕を下ろす。最後の最後まで、俺は歯を食いしばっていた。
「海が見たいんだ」
あの日、遠い電話で聞いた森本の声を思い出す。
了
ありがとうございました。