決断
30代も半ばに差し掛かると、肌の手入れは欠かせない。女性誌の編集長という立場なら、尚更。季節を問わず1年中、手にハンドクリームを塗って保湿を保っている。
仕事がら新製品を試してばかり。ハンドクリームならココと言うメーカーの定番商品や尿素配合クリーム。蜂蜜成分配合だったり香りがお菓子みたいだったり、アロマ系だったり……
新製品を試す意味合いも有って、気付けば時間が出来る度にハンドクリームを塗っている。基礎化粧品も同じだけれど、朝晩のみ、だからハンドクリーム程頻繁ではない。
ハンドクリームを塗りながら、ふとピンキーリングに目を向ける。あれから10年以上の月日が流れた。一度も外した事がないコレは、身体の一部と化していたのか。忘れていたのか。
意地になって着けていたとは思う。最初は日比野さんから貰った物だから、と純粋に嬉しかった。いつか、迎えに来てくれる。その約束だ、と勝手に思ってもいた。
だから寄ってくる男達を振って一途に待っていた。だけど。3年が過ぎ5年を経ても、迎えどころか連絡一つも無い日々。私の勝手な思い込みだったのか、と落ち込みもした。
待っている自分が馬鹿みたいに思えて仕事に打ち込んだ。打ち込む分、男っぽい言動も出てきた。それでも女である事は忘れられなかった。
ふとした瞬間に訪れる女としての寂しい思いに駆られて一夜の恋人を求めたくなる夜もあった。それを紛らわす為にお酒を呑むようになり、気付けばそれなりにお酒の味をしっかり味わえるくらいになっていた。
そしてつい先日。日比野さんが目の前に現れた。10年以上の月日も関係ない、衰えない容姿に驚いたけれど、それ以上に迎えに来てくれた、と思った。
「水野。いや、香里。今までずっと、俺は自分の気持ちから逃げていた。だがもう逃げない。共にこれからを生きて欲しい。このリングにかけて」
待ちに待った言葉。嬉しくて仕方がなかった。……でも、どうしてかそれを受け入れられない自分がいた。仕事があるせいかもしれない。
「日比野さん、私……直ぐに返事は出来ません」
ポツリとピンキーリングに触れながら答えた。
「仕事か? だったら辞める決断が出来るまで待つさ。辞めてから俺の所に来ればいい」
その言葉に私は、目を見開く。日比野さんは嬉しくて驚いた。と思ったのか「辞めても大丈夫だ」と言った。
だけど、違う。
私はむしろ、「仕事を辞めなくても良い」と言ってもらいたかった。日比野さんが言ったのだ。男も結婚も考えられない程仕事に打ち込め、と。その言葉通りに生きて来た私に、今さら仕事を辞めろ、なんて。
いつかは辞める時が来るとは思う。でもそれは、いくら長年待ち続けた日比野さんとはいえ……日比野さんだからこそ、言って欲しくなかった。日比野さんだから、辞める時ではない。と思ってた。
「……少し、考えさせて下さい」
それしか言えなかった。他の言葉が無かった。それから私は直ぐに帰宅して、日比野さんの連絡先をもらっても、連絡を取っていない。
仕事と日比野さんに揺らぐ私の心に、もう一つ揺らぐ原因が出来た。
10歳近く年下の部下、木谷。半月以上前に、生意気にも一人の男として告白された。坊っちゃん坊っちゃんした、まだまだ甘ちゃんだと思っていたのに、一人前の男の顔をしていた。
木谷はもう少しでニューヨークに3年間転勤する事が決まっている。あれでも、語学力は大したものだ。本人は解っていないようだが、語学力に度胸は買っている。
ニューヨークで修行させて、帰って来たら男性用のファッション誌のチーフに就任させたいが、誰かいるか?
上から問われた時、迷わず木谷を推した。柔軟な発想力もめげない精神も買っている。良い部下だと思ってた。だから、あんな告白を受けた時は本当に驚いて……嬉しかった。
胸の奥で甘酸っぱいモノが疼いた。
女として見られた事が嬉しかった。男として意識させられた事に驚いた。だが、私を気にかけて、他のチャンスを不意にさせたくなかった。
……結局、私は、日比野さんと木谷。どちらを思っているのだろう。それとも2人より仕事を選ぶのだろうか。それとも2人以外の男が現れる可能性を考えているのだろうか。
そんな答えの出ない疑問が延々と考えて、もう半月以上。早く答えを出さないと、日比野さんにも木谷にも悪い。焦って空回りするだけの日々。
そんなある日。今日は休日。ふと思い立って海を見に行った。目的なんてない。ただ無性に海が見たくなった。海を見て、ボーッとして散歩して、お茶をする。のんびりとした休日を過ごしたその夜。
私の心に、ふと彼が思い浮かんだ。
今日は木谷がアメリカへ旅立つ日。
編集部一同で見送りに来ていた。一人一人と挨拶を交わして、最後に私。思いきり切なそうな眸をして、こちらを見る。その目はまるで捨てられた子犬のようで、内心吹き出すのを堪えるのが辛かった。
「3年間、頑張って来い。待っていてやる。これが似合う男になって戻って来たら、な」
ふっ……と笑みが溢れてしまう。笑いながら私は、餞別を渡した。中身は一流ブランド品のタイピン。これが似合う男になって帰って来れば、男性誌のチーフも大丈夫だろう。そう思って。
だが、聞きたいのはそんな言葉じゃない。とばかりに、まだジッと見て来る。やれやれ。
私の言葉をきちんと聞いてなかったらしい。
3年間、待ってやる。と言ったのに。
仕方がないから、私はわざとピンキーリングが無い事を解らせるように、握手を求めた。自然に私の手に注目する木谷。
その表情は驚きに満ちていて、私はとうとう笑いだしてしまった。他の部下達は何がおかしいのか解らない、といった顔でこちらを見ている。
私はイタズラ心が疼いて、握手を求めているのに全くしないで固まっている木谷の胸ぐらを掴んだ。
「3年くらい、大したことじゃない。私は10年以上も待った事があるからな。但し、浮気は許さないから覚悟をしとけよ」
私に胸ぐらを掴まれて、目を白黒させる木谷のドアップに、にっこり微笑む。木谷は言われている内容が理解出来ないような顔をしているから、低い声で「鈍感だな、お前は」と脅すように言った。
「う、あ、え!?」
全く言葉として機能しない日本語を巻き散らす木谷に呆れつつ、私の唇で唇を奪ってやった。
「これは予約だ。3年経ったら、迎えに来い。来なかったら、迎えに行ってやってもいいが、男なら迎えに来いよ」
唇を奪われてようやく理解したらしい。木谷が満面の笑みで頷いた。
「必ず、水野編集長を奥さんにもらいます!」
部下達の面前だ。よもや忘れる事も無いだろう。ここまで恥を晒したわけだし。私はそう思うと、木谷が搭乗口へ消えるのを見送って、回れ右をした。
飛行機が飛び立つまで見送る気はない。
10年以上もしていたピンキーリングは、無くてもさしたる違和感は無い。ピンキーリングの行き先は、返してしまったから解らない。次に貰うリングは薬指のはずだ。
あの休日。ただボーッと海を眺めるだけでも、木谷と一緒に眺めていたい。と不意に思い浮かんだ。それで気付けた。私が想う相手に。
その夜、日比野さんに会った。迷いなく、私はピンキーリングを外して、日比野さんに言った。
「ずっとずっと待ってました。いつか迎えに来てくれるって。でも。……このピンキーリングを着けていたのは、意地を張っていただけみたいです。私、仕事を辞められません。日比野さんがコレをくれた時に言ったように、男も結婚も抜きにして、仕事をしてきました。寂しく思う時も有ったけれど仕事が楽しかった。だから辞められません。日比野さんとは、共に歩けません」
それに対する日比野さんの言葉は、ただ一言。「そうか」だった。カツン。リングは日比野さんの目の前で音を立てて響いた。
お題は「ハンドクリーム」でした。
結局水野・木谷・日比野の関係をこうして結末まで書いたのが今でも記憶に残ってます。こんなに愛されたキャラ達は居なかったんじゃないかな。




