鞄
「明朝7時に駅で。解りました。宜しくお願いします」
携帯電話をベッド上に放り投げて1泊2日の旅支度を整える。スーツケースやトランク等の大きな旅行鞄等必要無い。宿泊先に浴衣・タオルその他アメニティグッズがある事も解っている。
替えの下着・靴下・ポロシャツ・ハンカチ・財布が鞄の中身だ。気候も歩けば少々汗ばむ程度の暑くも寒くもない時期。あとは、文庫本1冊が有れば、何処へでも行ける。
ふと、腕時計に視線をやる。時刻など先程の電話中に見ていたから、大体の時刻は了承済みだというのに。もう10年以上もこの腕時計と共に生きて来た。これに何度も視線を向けるのは、もう癖だ。
「おはようございます。今日は宜しくお願いします」
挨拶を交わす。相手の女性は二十歳そこそこのようだ。昨日の電話越しの声で若い女性だろう、と見当はついたが……ここまで若いとは。
「確か、温泉街の裏道を紹介すれば良いのでしたよね?」
女性に尋ねられて、頷く。その溌剌とした若さに、苦くも甘い思い出が去来する。友人の姪であり、高校卒業と同時に私の部下となり、成長を見守り、一夜の過ちを犯し――我が儘を言った娘。
「水野……」
ぽつりと呟く。女性には聞こえなかっただろう。
「日比野さん」
私を敬愛して慕ってくれた娘の声が耳に蘇る。10年以上も会っていないのに、鮮やかに色付いて。
「こちらへどうぞ」
私は、はっと我に返る。10年以上前に、とある出版社を辞めた私は、あちこちへ旅行をしていた。その際に、有名な観光スポットをちょっと外れるだけで、意外な発見をした。
これを元に本名を伏せて、小さなタウン誌に投稿したところ、面白い、と採用されてコーナーをもらった。発見記というタイトルは恥ずかしいが、旅をしながら裏道を歩いて、意外な発見をして文章を書く、この仕事が性に合っていた。
今回は、この女性に案内されながら、裏道を歩く。私が気儘に歩くのが基本だが、今回、題材にしたい観光地がなく、適当に選んだこの土地の役所に取材旅行という感じで案内人を頼んだ。
それが目の前の女性だ。歩きながら説明をする女性は、この土地を愛しているらしい。とても誇らしげに説明する。
1日、あちこちを案内してもらい、刺激を受けた。適当に選んだ、なんて失礼な事をしてしまった。十分魅力溢れる土地だ。チェックインを済ませて、部屋で手足を伸ばす。
思い出すのは、水野の事だ。腕時計を貰った夜。過ちを犯し、水野に顔向け出来ず、退職を決めた。退職祝いに。と、この腕時計を貰った。私があげたのは、小指に嵌める指輪。
薬指に嵌める指輪など、どうしてやれようか。
本当は過ちなんかじゃない。酔った勢いを借りなければ、とてもじゃないが、手を出せなかった。当たり前だ。常識だ。15歳以上も離れているのに。
責任を取る為じゃない。一緒にいたら溺れるだけだった。抜け出せなくなったら、水野の未来が無くなると思った。
それなのに。我が儘で指輪をやった。男も結婚も考えずに仕事に打ち込め、ともっともらしい事を口にして。水野は解っただろうか。その裏にある、私の欲望を。
あれから10年以上。一度も会っていない。連絡をしていない。その間に、他の男が水野を奪っているかもしれない。
けれど。もし、まだ水野が他の男のものじゃなかったら……?
1日も水野を想わない夜など無かった。離婚した妻が忘れられなくて、結婚指輪を外せなかったはずなのに。退職した夜から、結婚指輪は外された。
旅行に出るのも、水野の事を考えない為だというのに、考えてしまう。今夜は特に、あの夜の水野を思い出すような、若い女性に会ったからだろう。
一体、いつまで、私は自分と水野から逃げ続けるのか。
年齢差を言い訳にして、常識を言い訳にして、逃げ続けている自分を自覚している。
しかし、今回、あの案内の女性に会った事は、決断の時なのかもしれない。
いつもは、自分で行きたい土地を選び、好きなように歩いて来た。だが、今回は適当に選んで、初めて案内を頼み、やって来た人が若い女性だった。
こういうのは巡り合わせ、と言う。
普段と違う事をするのも巡り合わせだ。何か自然の流れなのだろう。それならば、自然の流れに乗るべきだ。
長年、発行部数を落とさなかった自分の勘が告げていた。この流れに逆らうな、と。
明日の昼に帰るつもりだったが、朝、帰る事に決めた。会いに行く時なのだ、と思えた。
「急に発つ事になって申し訳ない。お世話になりました」
電話で昨日のお礼を兼ねて話す。お昼に帰ると話したら、昼休憩に見送りに来てくれるという話だったのだ。
女性は急用では仕方がない。また来て下さい。と言って電話を切った。
正直、10年以上も音信不通で、何を今さら、と言われる事も覚悟の上だ。それでも、今、水野と会う事が、私と水野にとって良い事なのだ。
もう、30代半ばになっている水野は、どんな女になっているのか。私に会って、罵倒するだろうか。それとも嬉し涙を流すだろうか。
どんな再会でも、私は会わねばならないのだ。
懐かしい会社。しかし、堂々と水野を待っているわけにも行かずに、私が勤めていた頃には無かったカフェに入店する。
この店の窓から会社は良く見えて、もちろん出入りする人物も見える。コーヒーを飲みながら、ジリジリと時間が過ぎ行くのを待つ。
……私は何をやっているのか。
自らに呆れた。まだ完全に仕事中の時間帯だ。いくら会わねばならない。と決めても、直ぐに会えるわけがない。
退職して10年以上も経つと、そんなことさえ忘れてしまうのか。情けなくなった私は、出直す事にした。知り合いに会わなくて良かった。と心から思う。
ただでさえ恥ずかしいのに尚恥ずかしく、羞恥に耐えられなかっただろう。
会計をしよう、と席を立ったところへ先にレジの前に立った若者を見た。彼が終わるまで待つ事にしよう。
携帯電話の音が聞こえて、若者が通話を始めた。
「はい、木谷。あ、水野編集長。……えっ? 誤植!? すみません、直ぐ行きます」
若者の口から出た名前に、私は自分でも驚く程、過剰に反応した。水野。では、彼は水野の部下か。慌てて釣り銭を貰い、飛び出て行く彼を追って、釣り銭無しの支払いを済ませた私は、その背に手を置いた。
「君、ちょっと話があるんだ」
私の呼び掛けに、急ぐ彼は困った顔をしたが、構わずに話し始めた。
先ずは、彼が水野の部下であることを確認する。認めた彼……先程の電話で名乗ったのは、木谷。その木谷君に、私は伝言を頼んだ。
「私は水野君の知人だ。彼女の叔父の友人と言えば、彼女は解る。今夜、会いたい、と伝えて欲しい。仕事中だろうから、電話もかけられない」
木谷君は、わかりました。と頷いた。私を知らないから素直に納得したようだ。
夜8時。最後に会ったバーの名前を教えて、私は木谷君と別れた。
30分遅れようと、2時間遅れようと、来るまで待つ覚悟だ。例え、今、水野に男がいても、結婚していても、水野は来る。そういう娘だ、と解っていた。
お題は「旅行」でした。
お題を出してくれる方が何人もいらっしゃるのに執筆が私のせいか、この水野・木谷・日比野のキャラの話が良く思い浮かんで執筆していました。
何故か最も人気が出たキャラ達で彼らが出ると当時はエブリスタにて伝言板というシステムがあり、その伝言板に作品内容について考察とか感想とかをもらっていたのですが、多いにこの連作作品内容で盛り上がった記憶があります。懐かしい。




