麝香豌豆
高校卒業と同時に、コネを使ってこの業界に足を踏み入れた。アルバイトとして雇ってもらいながら、仕事を覚えて正社員に昇格したのは、今年の春。
「おい。水野っ」
私を呼ぶのは、この出版社で知らない人はいない、名物編集長の呼び名が高い、日比野さん。私を拾ってくれた恩人だ。
「お呼びでしょうか」
「水野はお前以外にいたのか?」
いいえ、と答えると、お前に用だ。と日比野さんが言う。
「お前、麝香豌豆って知っているか?」
「ジャコウエンドウ、ですか?」
日比野さんの問いかけに首を傾げておうむ返しをする。
「知らないようだな。調べておけ」
編集長が用は済んだ、とばかりに手を振った。
「ジャコウエンドウ。エンドウって事は、えんどう豆の仲間かしら」
百科事典を広げてみるべきか。それとも野菜に詳しい事典か。悩んだ末に、ちょっと早めに仕事を終えて、夜9時まで開いている図書館に寄ってみた。
植物だろう、と見当をつけて野菜・樹木・花の事典を借りて帰宅した。手当たり次第ではあるけれど、本命の野菜事典を開いてみる。……どこにもそんな名前が無い。樹木かと思ってひっくり返してみても、見当たらない。
既に帰宅して5時間を超えて、日付もとっくに翌日だ。朝にシャワーを浴びる事にして、砂糖多めのインスタントコーヒーを淹れる。ブラックなんて飲めやしない。
徹夜覚悟で、気分転換に花の事典を開いてみた。
もう一度丹念に野菜と樹木の事典を見るつもりの、花の事典。薔薇・霞草・蒲公英・百合・向日葵・紫陽花・パンジー・クロッカス……様々な花をぱらぱらとなんとなく眺めていく。
そして、私は、えっ?と息を呑んだ。今、ジャコウエンドウの文字を見た気がする。どのページ? まさか、まさかの、だったから気合いも入れずに、ページを捲っていた為、数ページ行き過ぎた。
「……あったあ~」
確かにその花の和名に、麝香豌豆の文字が。花の名前はスイートピー。
昔、スイートピーがタイトルに付いた曲を、女性アイドルが歌った事を思い出した。その歌も口ずさめる。
その、スイートピー。一体、日比野さんは、何を言いたかったのだろう?
私は考えた。
花の和名を調べてこい。って事は、次の雑誌の記事に花に纏わる記事を入れるって事、だよね。でも花だけじゃあ女性雑誌でわざわざやる必要も無い。
私は視線をもう一度、事典に転じた。そこには花が咲く時期や、スイートピーについてのあれこれが書いてあった。有毒だとは知らなかったから驚いた。
そして、花言葉が。
「優しい思い出、かぁ……」
その花言葉に触発されて、日比野さんに出会った頃の私を思い出した。
元々日比野さんは、父方の叔父の学生時代の友人で、叔父の家に遊びに行った時に知り合った。父が進路を決めようとしていて、衝突を繰り返していた私が叔父の家で事の成り行きを話すと、たまたま来ていた日比野さんが、出版業界を紹介してくれた。そこから私は、始まった。
そんな甘い思い出に浸っている場合じゃない。日比野さんが何を求めているのか、考える必要があった。でも……花に関する何か、しか解らない。
「とりあえず、これを抜粋しよう。他の有名な花も……」
学名・和名・特性・花言葉……
ノートに抜粋しておく。それからやっと寝る事にした。睡眠不足になりがちな頭も更に働かない。少しでも休む方が良いに決まっている。
私がこの調べ物の意味を知るのは、出勤した直後の事。言われた通り、麝香豌豆……スイートピーを調べて、ついでに有名な花も調べておいた事に、日比野さんは機嫌を良くした。
「よし、上出来だ! お前に、コーナーを任せる!」
私は、今のセリフにボウッとした。
今、コーナーを任せる。って言ってもらった? ということは、雑誌の記事を書かせて貰えるって事?
「ありがとうございます!」
「編集後記ページにちょっと載せるだけだが、やってみろ」
顔を真っ赤にしている私に、日比野さんも少しだけ口元を綻ばせた。期待されている嬉しさと……憧れの日比野さんのそんな表情に、私の心が揺れ動いたのは言うまでもない。
正直、正社員にしてもらっても記事なんて書かせて貰えるなんて思ってもいなかった。……それくらい、雑誌の売り上げは順調だし、編集部の皆さんも順調だったから。
でも、小さくても良い。例え読者さんがあまり目にしなくても。一生懸命務めよう、と心に決めた。
コーナーは毎月の花。と銘打って、様々な花を紹介するというもの。都道府県の花や季節の花などを、文章だけで伝える。もちろん、和名や花言葉も紹介文に添えた。
編集後記に付けられたこのコーナーの反響は、低かったものの悪くなかった。だから、私は精一杯やろう、と全力で花を調べた。
コアなファンというものか。それとも望んでいる人もいたのか。時が立つに連れて、徐々に楽しみにしてます。という反応が多くなった。
その矢先の事だった。
私は先輩社員の数人の女性から意地悪をされるようになった。
専用のマグカップが無くなり、愛用の鉛筆が消える。最初はそんな程度だったけれど、私が相手にしないものだから、とうとう、必須アイテムの花ノートが盗まれた。
カバンに入れておいて、休憩にトイレへ行った時を狙われたのか、記事に取りかかろうとカバンからノートを取り出そうとしたら、無かった。
見当はついたものの、先輩達とやり合っている暇は無い。ノート無しで取り組まないといけないのだから。勤務中、図書館に行くわけにもいかない。
悩んだ末に、日比野さんに最初に出された、麝香豌豆――スイートピーを手掛ける事にした。
日比野さんからゴーサインを貰ったその日の夜。私は珍しく、日比野さんから飲みに誘われた。
20歳の誕生日以来だから1年は経過している。
「お前、意地悪でもされているのか?」
単刀直入に訊かれて、日比野さんには誤魔化しが通じない事を知っている私は、小さく頷いた。
「そうか。……気にするな、と言っても気になるだろうが、お前が早くにコーナーを持って、続いているのが悔しいんだ。気にしないでくれ」
私はもう一度頷いた。それから、日比野さんは、「こっから先は上司と部下じゃなくて、日比野のおじさんで構わない」と言った。残念ながら、私の中で、とっくに、おじさんじゃなくなってる。
離婚した奥さんを未だ思っている日比野さんが、いつからか私は好きだった。好き過ぎて、他の男と付き合う事も出来ない程。
15歳以上も年上の日比野さんが、お酒に弱い事も知っていた。だから私は、あまり呑まずに、日比野さんを酔わせた。
「日比野さん、日比野さん」
「ん~」
半分以上意識が飛んでいる日比野さんに呼び掛ける。ここは、日比野さんの部屋。みず。なんて言ったから水を用意したのに、全然飲めそうにない。
仕方なくなんとか歩く日比野さんをベッドに連れて行く。離れようとして、手首を掴まれた。日比野さんを見ると、ゴニョゴニョ言いながら私をベッドに引き込む。
その夜、私は、日比野さんに初めてを捧げて、女になった。
半分以上は、私の思惑みたいなもので、自分のズルさにちょっと笑いながら、翌朝しっかりとした意識を持った日比野さんは、真っ青になってた。
「責任とか、要らない。私は初めての相手が日比野さんで良かったから」
それだけ告げて、部屋を出た私。その数時間後には、いつもと変わらない私と日比野さんで仕事をした。だけど、日比野さんは申し訳なく思っていたんだと思う。
それからしばらくして、引退する。と退職してしまった。
「男も結婚もするな。仕事に打ち込めよ」
私にピンキーリングをくれて。この指輪の意味は解らない。でも、ちょっと自惚れた。日比野さんが、いつか私を迎えに来るかもしれないって。
そう思った22歳の誕生日だった。
お題は「花言葉」でした。
事前に(1ヶ月とか前に)お題をもらってノートにお題を書き留めて執筆する日の朝にお題を見てから話を考えるというスタイルで執筆していたのですが、朝起きてお題を見て直ぐから話が浮かぶ事もあれば夕方になっても思い浮かばずに毎日1話が無理になるかもしれない……と思いながら書いていた事を思い出します。なんとか1ヶ月間毎日1話書き上げられましたけれど。




